吾妻鏡入門第十八巻

元久二年乙丑(1205)閏七月小

参考* 閏月は、陰暦では「大の月」が三十日、「小の月」が二十九日でそれぞれ六月だと計三五四日で十一日足りないので、適度な時期に閏月を入れる。但し閏月は十五日が満月の日になるようにする。

元久二年(1205)閏七月小十九日甲辰。リ。牧御方廻奸謀。以朝雅爲關東將軍。可奉謀當將軍家〔于時御坐遠州亭〕之由有其聞。仍尼御臺所遣長沼五郎宗政。結城七郎朝光。三浦兵衛尉義村。同九郎胤義。天野六郎政景等。被奉迎羽林。即入御相州亭之間。遠州所被召聚之勇士。悉以參入彼所。奉守護將軍家。同日丑尅。遠州俄以令落餝給〔年六十八〕。同時出家之輩不可勝計。

読下し                      はれ  まきのおんかた かんぼう  めぐ      ともまさ  もっ  かんとう  しょうぐん  な
元久二年(1205)閏七月小十九日甲辰。リ。牧御方が、奸謀を廻らせ、朝雅を以て關東の將軍と爲し、

とうしょうぐんけ  〔ときに えんしゅうてい  おは  〕    はか たてまつ べ   のよし   そ   きこ  あ
當將軍家〔時于遠州亭に御坐す〕を謀り奉る可し之由、其の聞へ有り。

よっ  あまみだいどころ ながぬまのごろうむねまさ  ゆうきのしちろうともみつ みうらのひょうえのじょうよしむら  おな   くろうたねよし  あまののろくろうまさかげら  つか
仍て尼御臺所、 長沼五郎宗政、 結城七郎朝光、 三浦兵衛尉義村、 同じき九郎胤義、天野六郎政景等を遣はし、

うりん  むか  たてまつらる
羽林を迎へ奉被る。

すなは  そうしゅう てい  にゅうぎょ   のかん  えんしゅう めしあつ  らる ところのゆうし ことごと もっ  か  ところ  さんにゅう   しょうぐんけ  しゅご たてまつ
即ち、相州の亭に入御する之間、遠州が召聚め被る所之勇士、悉く以て彼の所へ參入し、將軍家を守護し奉る。

おな  ひ うしのこく えんしゅう にはか もっ  らくしょくせし たま   〔としろくじうはち〕   どうじ  しゅっけのやからあげ  かぞ  べからず
同じ日丑尅、遠州、俄に以て落餝令め給ふ〔年六十八〕。同時に出家之輩勝て計う不可。

現代語元久二年(1205)閏七月小十九日甲辰。晴です。牧の方が、陰謀を企んで、娘婿の平賀雅朝を関東の将軍にして、今の将軍実朝様〔今は遠州時政の家に居ます〕を亡き者にしてしまおうとしていると噂があります。それなので、尼御台所政子様は、長沼五郎宗政・結城七郎朝光・三浦平六兵衛尉義村・同じ三浦九郎胤義・天野六郎正景達を行かして、羽林実朝様を迎えに行かせました。すぐに相州義時の屋敷に入られている間に、遠州時政が呼び集めた勇敢な兵士が、全てその義時さんの所へ来て、将軍を警備しました。
同じ日に遠州時政は、急に思い立って出家しました〔年は68才です〕。後を追って出家した人は数えきれませんでした。

元久二年(1205)閏七月小廿日乙巳。リ。辰尅。遠州禪室下向伊豆北條郡給。今日相州令奉執権事給云々。今日大膳大夫屬入道。藤九郎右衛門尉等參會相州御亭。被經評議。被發使者於京都。是可誅右衛門權佐朝雅之由。依被仰在京御家人等也。

読下し                     はれ  たつのこく えんしゅうぜんしつ  いず  ほうじょうぐん  げこう  たま
元久二年(1205)閏七月小廿日乙巳。リ。辰尅。遠州禪室、伊豆の北條郡へ下向し給ふ。」

きょう  そうしゅうしっけん こと たてまつ せし  たま    うんぬん
今日、相州執権の事を奉り令め給ふと云々。

きょう  だいぜんだいぶさかんにゅうどう とうくろううえもんのじょうら そうしゅう おんてい  さんかい    ひょうぎ  へられ  きょうと  ししゃを はっ  らる
今日、大膳大夫屬入道、藤九郎右衛門尉等相州の御亭に參會し、評議を經被、京都へ使者於發せ被る。

これ  うえもんのごんのすけともまさ ちう  べ   のよし  ざいきょうごけにんら  おお  らる    よっ  なり
是、右衛門權佐朝雅を誅す可し之由、在京御家人等に仰せ被るに依て也。

現代語元久二年(1205)閏七月小二十日乙巳。晴れです。午前八時ごろ出家した北條四郎時政殿は伊豆の國の北條郷へ下向しました。」
今日、義時様が執権をすることになったんだとさ。
今日、大夫属入道三善善信や安達藤九郎安達右衛門尉景盛たちが義時の屋敷に集まって、会議をして、京都へ使いを行かせることにしました。これは平賀朝雅を討ち取るように京都在住の御家人に命令するためです。

元久二年(1205)閏七月小廿五日庚戌。リ。去廿日進發東使。今日入夜入洛。即相觸事由於在京健士云々。

読下し                      はれ  さんぬ はつか とうし しんぱつ    きょう よ  い   じゅらく
元久二年(1205)閏七月小廿五日庚戌。リ。去る廿日東使進發し、今日夜に入り入洛す。

すなは こと  よしを ざいきょう けんし  あいふれ   うんぬん
即ち事の由於在京の健士に相觸ると云々。

現代語元久二年(1205)閏七月小二十五日庚戌。晴れです。先だっての二十日に鎌倉の使いが出発して、今日の夜に京都市街へ入りました。すぐに鎌倉でのいきさつを京都駐在の御家人達に伝えましたとさ。

元久二年(1205)閏七月小廿六日辛亥。リ。右衛門權佐朝雅候仙洞。未退出之間。有圍碁會之處。小舎人童走來招金吾。告追討使事。金吾更不驚動。歸參本所。令目算之後。自關東被差上誅罸專使。無據于遁迯。早可給身暇之旨奏訖。退出于六角東洞院宿廬之後。軍兵五條判官有範。後藤左衛門尉基C。源三左衛門尉親長。佐々木左衛門尉廣綱。同弥太郎高重已下襲到。暫雖相戰。朝雅失度逃亡。遁松阪邊。金持六郎廣親。佐々木三郎兵衛尉盛綱等追彼後之處。山内持壽丸〔後号六郎通基。刑部大夫經俊六男〕射留右金吾云々。

読下し                      はれ  うえもんのごんのすけともまさ せんとう  こう    いま  たいしゅつ   のかん   いごえ  あ   のところ
元久二年(1205)閏七月小廿六日辛亥。リ。右衛門權佐朝雅、仙洞に候じ、未だ退出せず之間、圍碁會有る之處、

ことねりわらわ はし  きた   きんご   まね     ついとうし  こと  つ
小舎人童走り來りて金吾を招き、追討使の事を告げる。

きんご さら おどろ どうぜず  もと  ところ きさん     もくさんせし    ののち  かんとう よ   ちうばつ  せんし  さしのぼされ とんとうによんどこ な
金吾更に驚き動不、本の所へ歸參し、目算令むる之後、關東自り誅罸の專使を差上被、遁迯于據ろ無し。

はや  み   いとま たま  べ   のむねそう をはんぬ
早く身の暇を給はる可き之旨奏し訖。

ろっかくひがしのとういん すくろに たいしゅつののち  ぐんぴょう ごじょうほうがんありのり  ごとうのさえもんのじょうもときよ  げんざさえもんのじょうちかなが
 六角東洞院 の宿廬于退出之後、 軍兵は五條判官有範、後藤左衛門尉基C、 源三左衛門尉親長、

ささきのさえもんのじょうひろつなおな   いやたろうたかしげ いか おそ  いた
佐々木左衛門尉廣綱、同じき弥太郎高重已下襲い到る。

しばら あいたたか  いへど   ともまさ ど  うしな とうぼう     まっさかへん のが
暫く相戰うと雖も、朝雅度を失い逃亡し、松阪邊に遁る。

かねもちろくろうひろちか  ささきのさぶろうひょうえのじょうもりつな ら か   あと  お   のところ
 金持六郎廣親、 佐々木三郎兵衛尉盛綱 等彼の後を追う之處、

やまのうちのじじゅまる 〔のち  ろくろうみちもと  ごう    ぎょうぶたいふつねとし  ろくなん〕   うきんご    いと     うんぬん
山内持壽丸〔後に六郎通基と号す、刑部大夫經俊が六男〕右金吾を射留むと云々。

現代語元久二年(1205)閏七月小二十六日辛亥。晴れです。平賀右衛門権佐朝雅は、後鳥羽上皇の住まいの仙洞にいっていて、引き下がる前に囲碁をしていました。そこへ召使の少年が走って来て、平賀朝雅を呼んで、討手が来ていることを伝えました。平賀朝雅はたじろぎもせずに、元の座へ戻って目数を数えた後で、「関東から私を討つための侍を差し向けられました。逃げるにも頼りになるところがありません。早く退出をお許しください。」と上皇にお願いしました。

六角東洞院にある宿舎に戻った後に、討手の軍勢は、五条判官平有範・後藤左衛門尉基C・源三左衛門尉親長・佐々木左衛門尉広綱・佐々木弥太郎高重を始めとして襲ってきました。しばらくは防戦をしましたが、平賀朝雅は防ぎきれずに逃げて、松坂(山科区日ノ岡)あたりへ行きました。金持六郎広親・佐々木三郎兵衛尉盛綱等が彼の後を追いかけて行ったところ、山内持寿丸〔後に六郎通基と名乗ります。山内首藤瀧口三郎経俊の六男です〕が、平賀朝雅を弓で射とめましたとさ。

元久二年(1205)閏七月小廿九日甲寅。河野四郎通信依勳功異他。伊豫國御家人卅二人止守護沙汰。爲通信沙汰。可令勤仕御家人役之由。被下御書。〔載將軍御判〕件卅二人名字。所被載御書之端也。善信奉行之。
 頼季〔淺海太郎同舎弟等〕公久〔橘六〕      光達〔新三郎〕
 高茂〔浮穴社大夫〕   高房〔田窪太郎同舎弟〕 家員〔白石三郎〕
 兼恒〔高野小大夫同舎弟〕C員〔垣生太郎同舎弟〕 實蓮〔眞膳房〕
 重仲〔井門太郎〕    山前權守〔同弟〕    信家〔大内三郎同弟〕
 高久〔十郎大夫〕    余戸源三入道〔俊恒〕  高盛〔久万太郎大夫同弟〕
 永助〔久万太郎〕    安任〔江四郎大夫〕   家平〔吉木三郎〕
 高兼〔日吉四郎同舎弟〕 長員〔別宮大夫〕    頼高〔別當新大夫同舎弟〕
 吉盛〔別宮七郎大夫〕  安時〔三島大祝〕    頼重〔弥熊三郎〕
 遠安〔藤三大夫同舎弟〕 信任〔江二郎大夫〕   紀六太郎
 信忠〔寺町五郎大夫〕  時永〔寺町小大夫〕   助忠〔主藤三〕
 忠貞〔寺町十郎〕    頼恒〔太郎〕
   已上三十二人云々。

読下し                       こうののしろうみちのぶ  くんこうことな   よっ  なり
元久二年(1205)閏七月小廿九日甲寅。河野四郎通信、勳功異るに依て他。

いよのくに ごけにん さんじうににん  しゅご   さた   と     みちのぶ   さた   な     ごけにんやく  ごんじせし   べ    のよし
伊豫國御家人 卅二人 守護の沙汰を止め、通信の沙汰と爲し、御家人役を勤仕令む可し之由、

おんしょ  〔しょうぐん ごはん  のせ〕     くださる
御書〔將軍御判を載る〕を下被る。

くだん さんじうににん みょうじ おんしょのはじ  の   らる ところなり  ぜんしんこれ ぶぎょう
件の卅二人の名字、御書之端に載せ被る所也。善信之を奉行す。

  よりすえ 〔あさみのたろう   おな    しゃていら 〕        きんひさ 〔きつろく〕                      みつとも 〔しんざぶろう〕
 頼季〔淺海太郎、同じき舎弟等〕   公久〔橘六〕           光達〔新三郎〕

  たかもち 〔うけなしゃたいふ〕                   たかふさ 〔たくぼのたろう  おな    しゃてい〕        いえかず 〔しらいしさぶろう〕
 高茂〔浮穴社大夫〕         高房〔田窪太郎、同じき舎弟〕    家員〔白石三郎〕
       参考浮穴社は、愛媛県松山市南高井町1260の正友神社。

  かねつね 〔たかののこだゆう  おな    しゃてい〕        きよかず 〔 はぶのたろう  おな    しゃてい〕         じつれん 〔しんぜんぼう〕
 兼恒〔高野小大夫、同じき舎弟〕   C員〔垣生太郎、同じき舎弟〕   實蓮〔眞膳房〕
       参考高野は、松山市高野町。       参考垣生は、松山市西垣生町。

  しげなか 〔いもんのたろう〕                     やまさきごんのかみ 〔おな   おとうと〕           のぶいえ 〔おおうちさぶろうおな おとうと〕
 重仲〔井門太郎〕          山前權守〔同じき弟〕       信家〔大内三郎同じき弟〕
       参考井門は、松山市西井門町。

  たかひさ 〔じうろうたいふ〕                   ようごげんざにゅうどう 〔としつね〕              たかもり 〔 くま たろうたいふ  おな  おとうと〕
 高久〔十郎大夫〕         余戸源三入道〔俊恒〕      高盛〔久万太郎大夫、同じき弟〕
                             参考余戸は、松山市余戸町。         参考久万は、松山市久万ノ台。

  えいすけ 〔 くま たろう〕                    やすとお 〔えしろうたいふ〕                  いえひら 〔よしきさぶろう〕
 永助〔久万太郎〕         安任〔江四郎大夫〕        家平〔吉木三郎〕
                                                             参考吉木は、松山市吉木。

  たかかね 〔ひえのしろうおな   しゃてい〕            ながかず 〔べつぐうたいふ〕                 よりたか 〔べっとうしんたいふおな  しゃてい〕
 高兼〔日吉四郎同じき舎弟〕    長員〔別宮大夫〕         頼高〔別當新大夫同じき舎弟〕
       参考日吉は、松山市南斎院町の日吉神社。

  よしもり 〔べつぐうしちろうたいふ〕                やすとき 〔みしまおおはふり〕                 よりしげ 〔いやくまさぶろう〕
 吉盛〔別宮七郎大夫〕       安時〔三島大祝〕         頼重〔弥熊三郎〕
                                  参考三島は、松山市本谷の三島大明神。

  とおやす 〔とうざたいふおな  しゃてい〕            のぶとお 〔えのじろうたいふ〕                 きのろくたろう
 遠安〔藤三大夫同じき舎弟〕    信任〔江二郎大夫〕        紀六太郎

  のぶただ 〔てらまちごろうたいふ〕                ときなが 〔てらまちこだゆう〕                  すけただ 〔ぬしとうざ〕
 信忠〔寺町五郎大夫〕       時永〔寺町小大夫〕        助忠〔主藤三〕

  たださだ 〔てらまちじうろう〕                   よりつね 〔たろう〕
 忠貞〔寺町十郎〕         頼恒〔太郎〕

       いじょうさんじうににん  うんぬん
   已上三十二人と云々。

現代語元久二年(1205)閏七月小二十九日甲寅。河野四郎通信は、手柄が抜群なので、伊予国の御家人三十二人は、国の守護(佐々木盛綱)の管理を止め、河野通信の管理下として、御家人役を務めるように、命令書〔将軍の花押を乗せました〕を与えられました。その三十二人の名前を、命令書に書き加えられています。大夫属入道三善善信が担当です。

頼季〔浅見太郎とその弟達〕 公久〔橘六〕     光達〔新三郎〕。
高茂〔浮穴社大夫(神官)〕  高房〔田窪太郎と弟〕 家員〔白石三郎〕
兼恒〔高野小大夫と弟〕   清員〔垣生太郎〕   実蓮〔真膳房〕
重仲〔井門太郎〕      山前權守〔同じき弟〕 信家〔大内三郎同じき弟〕
高久〔十郎大夫〕      余戸源三入道〔俊恒〕 高盛〔久万太郎大夫、同じき弟〕
永助〔久万太郎〕      安任〔江四郎大夫〕  家平〔吉木三郎〕
高兼〔日吉四郎同じき舎弟〕 長員〔別宮大夫〕   頼高〔別當新大夫同じき舎弟〕
吉盛〔別宮七郎大夫〕    安時〔三島大祝〕   頼重〔弥熊三郎〕
遠安〔藤三大夫同じき舎弟〕 信任〔江二郎大夫〕  紀六太郎
信忠〔寺町五郎大夫〕    時永〔寺町小大夫〕  助忠〔主藤三〕
忠貞〔寺町十郎〕      頼恒〔太郎〕
  以上の三十二人だそうです。

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