吾妻鏡入門第十八巻

元久二年乙丑(1205)九月大

元久二年(1205)九月大二日乙酉。内藤兵衛尉朝親自京都下着。持參新古今和歌集。是通具。有家。定家。家隆。雅經等朝臣奉勅定。於和歌所。去三月十六日撰進之。同四月奏覽。未被行竟宴。又無披露之儀。而將軍家令好和語(歌)給之上。故右大將軍御詠被撰入之由就聞食。頻雖有御覽之志。態不及被尋申。而朝親適屬定家朝臣嗜當道。即列此集作者〔讀人不知〕之間。廻計略可書進之由。被仰含之處。依朝雅。重忠等事。都鄙不靜之故。于今遲引云々。

読下し                   ないとうひょうえのじょうともちか  きょうとよ    げちゃく    しんこきんわかしゅう   じさん
元久二年(1205)九月大二日乙酉。 内藤兵衛尉朝親 、京都自り下着し、新古今和歌集を持參す。

これ  みちとも   ありいえ  さだいえ いえたか  まさつねらのあそん ちょくじょう たてまつ  わかどころ  をい
是、通具@、有家、定家、家隆、雅經等朝臣、勅定を奉り、和歌所に於て、

さんぬ さんがつじうろくにち これ  えら  しん   おな    しがつそうらん
去る 三月十六日 之を撰び進じ、同じき四月奏覽す。

いま  きょうえん おこなはれ  また  ひろう の ぎ な
未だ竟宴Aを行被ず。又、披露之儀無し。

しか    しょうぐんけ やまとことば  この  せし  たま  のうえ  こうだいしょうぐん  ごえい えら   いれらる  のよし きこ  め     つ
而るに將軍家、和語Bを好ま令め給ふ之上、故右大將軍の御詠撰び入被る之由聞し食すに就き、

しきり ごらんのこころざしあ  いへど  わざわざ たず  もうさる   およばず
頻に御覽之志有りと雖も、態、尋ね申被るに及不。

しか    ともちか たまた さだいえあそん  ぞく    とうどう  たしな   すなは こ   しゅう さくしゃ 〔よみびとしらず〕    れっ    のかん
而るに朝親、適ま定家朝臣に屬して當道を嗜む。即ち此の集の作者〔讀人不知〕に列する之間、

けいりゃく めぐ    か   しん  べ   のよし  おお  ふく  らる  のところ  ともまさ  しげただら  こと  よっ     とひ しずかならざるのゆえ いまに ちいん    うんぬん
計略を廻らし書き進ず可き之由、仰せ含め被る之處、朝雅、重忠等の事に依て、都鄙靜不之故、今于遲引すと云々。

参考@通具は、堀川家初代で古賀、源、道元の異母兄でもある。
参考A竟宴は、平安時代、宮中で進講や勅撰集の撰進が終わったあとで催される酒宴。諸臣に詩歌を詠ませたり禄を賜ったりした。 2 祭りのあとで催される宴会。直会(なおらい)。Goo電子辞書から
参考竟宴は、書物の講義、編纂などの終わった後で開く酒宴。
参考B
和語は、漢語・外来語に対して、日本固有のものと考えられる単語。やま(山)かわ(川)そら(空)の類。やまとことば。

現代語元久二年(1205)九月大二日乙酉。内藤兵衛尉朝親が、京都から下って来て、新古今和歌集を持ってまいりました。堀川通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経などの公卿が、後鳥羽上皇の命令によって、朝廷の和歌の編纂用の臨時役所で、去る三月十六日に選び出して、四月に上皇にお見せしましたが、未だに褒美の宴会もなく、発表もされておりません。それでも、将軍実朝様が和歌を好んでおられるし、故右大将軍頼朝様の歌も選ばれてはいっていると聞きましたので、とても拝見したいとお思いなのに、わざわざ探すようにとは申されませんでした。それだけど、朝親はたまたま定家さんの弟子になって歌の道を習っていました。すぐに、この新古今和歌集の作者〔名は出ないで詠み人知らずになってます〕に入っていたので、工夫をして書き写してよこすように言っておきましたが、平賀武藏守朝雅・畠山次郎重忠の事件のために、世間が危なっかしかったので、今まで遅れていましたとさ。

元久二年(1205)九月大十九日壬寅。以伯耆國宇多河庄地頭職。被施入大原來迎院云々。廣元朝臣奉行之。

読下し                     ほうきのくに うだがわのしょう ぢとうしき   もっ  おおはららいごういん せにゅうさる   うんぬん
元久二年(1205)九月大十九日壬寅。伯耆國 宇多河庄@地頭職を以て、大原來迎院Aに施入被ると云々。

ひろもとあそんこれ  ぶぎょう
廣元朝臣之を奉行す。

参考@宇多河庄は、鳥取県米子市淀江町中西尾に宇田川神社、西尾原に宇田川あり。淀江町稲吉一帯。
参考A大原來迎院は、京都府京都市左京区大原來迎院町537魚山大原寺来迎院

現代語元久二年(1205)九月大十九日壬寅。伯耆国宇田川庄(米子市淀江町)の地頭職を、京都大原の魚山大原寺来迎院へ寄付をしましたとさ。大江広元が担当しました。

元久二年(1205)九月大廿日癸卯。リ。首藤刑部丞經俊捧款状。是去春比伊勢平氏蜂起之時。依無勢。爲聚軍士。暫遁其國之處。差遣朝雅。被誅平氏之間。以經俊所帶伊賀伊勢守護職。被宛朝雅之賞。而於時進退。兵之故實也。強難被處不可歟。就中對治朝雅之謀叛事。諸人雖有勳功之号。正加誅罸。獨在愚息持壽丸之兵略也。件兩國守護職。適日來朝雅之所帶也。且經俊本職也。任理運。依忠節。可返給之趣載之云々。但無御許容歟。随而此所。先之被補帶刀長惟信者也。

読下し                    はれ  すどうぎょうぶのじょうつねとし かんじょう ささ
元久二年(1205)九月大廿日癸卯。リ。 首藤刑部丞經俊@款状Aを捧ぐ。

これ  さんぬ はる  ころ  いせへいし ほうきの とき   むぜい  よっ    ぐんし  あつ    ため  しばら そ   くに  のが  のところ  ともまさ  さ   つか
是、去る春の比、伊勢平氏蜂起之時、無勢に依て、軍士を聚めん爲、暫く其の國へ遁る之處、朝雅を差し遣はし、

へいし  ちうさる   のかん  つねとし  しょたい いが、いせ しゅごしき  もっ    ともまさのしょう  あてらる
平氏を誅被る之間、經俊の所帶伊賀伊勢守護職を以て、朝雅之賞に宛被る。

しか    とき  をい    しんたい   いくさのこじつなり  あなが    ふか   しょされがた  か
而るに時に於ての進退は、兵之故實也。強ちに不可に處被難き歟。

なかんづく  ともまさの むほん  たいじ   こと   しょにんくんこうのごうあ   いへど    まさ  ちうばつ  くは      ひと  ぐそく じじゅまるのへいりゃく  あ   なる
就中に、朝雅之謀叛を對治の事、諸人勳功之号有りと雖も、正に誅罸を加うは、獨り愚息持壽丸之兵略に在る也。

くだん りょうごくしゅごしき  たまた ひごろともまさのしょたいなり  かつう つねとし  ほんしきなり
件の兩國守護職、適ま日來朝雅之所帶也。且は經俊の本職也。

りうん  まか    ちうせつ  よっ    かえ  たま  べ  のおもむき これ  の       うんぬん
理運に任せ、忠節に依て、返し給ふ可き之趣、之を載せると云々。

ただ  ごきょうよう な      か  したがって  こ  ところ   こ    さき たてわきおさこれのぶ ぶ   らる  ものなり
但し御許容無からん歟。随而、此の所は、之の先、帶刀長惟信Bを補せ被る者也。

参考@首藤刑部丞經俊は、山内首藤瀧口三郎經俊。土佐山内氏の先祖。
参考A款状は、官位を望む旨や、訴訟の趣を記した嘆願書。一般に手柄を箇条書きにして褒美を請求する手紙。
参考B
帶刀長惟信は、大内惟信。大内相模守惟義の子。初出演。平賀朝雅兄。

現代語元久二年(1205)九月大二十日癸卯。晴れです。首藤刑部丞経俊(山内瀧口三郎)が、嘆願書を提出しました。

「それは、去年の春に伊勢で平氏が反乱した時に、軍勢が無いので、兵隊たちを集めようとしばらくよその国へ逃げたので、平賀武藏守朝雅を派遣したら平氏を滅ぼしたので、山内経俊の持っている伊賀と伊勢の守護職を、平賀朝雅の褒美に与えました。しかしながら、時によっての進軍撤退は、兵法の故実になります。安易にだめだとは決められないでしょう。ましてや、平賀朝雅を叛逆の者としてやっつけた事は、皆手柄を立てたと云うけれど、実際に殺したのはたった一人で、私の息子の持寿丸の戦の腕じゃないですか。その両国の守護職は、この処は平賀朝雅の職になっていますが、元々は山内経俊の職なのです。理屈に合わせて、又手柄を認め、返していただきたい。」と書かれていましたとさ。

しかし、お許しにはならないようです。それなのでこの伊勢は今後、帯刀長大内惟信を任命したのでした。

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