元久二年乙丑(1205)十二月大
元久二年(1205)十二月大二日甲寅。故左金吾將軍若公〔号善哉公〕依尼御臺所御計。鶴岳別當宰相阿闍梨尊曉門弟也。酉尅。渡御彼本坊。侍五人扈從。 |
読下し こさきんごしょうぐんわかぎみ 〔ぜんざいぎみ ごう 〕 あまみだいどころ おんはか よっ
元久二年(1205)十二月大二日甲寅。故左金吾將軍若公〔善哉公@と号す〕、尼御臺所の御計りに依て、
つるがおかべっとう
さいしょうあじゃり そんぎょう もんてい なる とりのこく か
ほんぼう とぎょ さむらい ごにん こしょう
鶴岳別當
宰相阿闍梨 尊曉の門弟と也。酉尅、彼の本坊に渡御す。侍
五人扈從す。
参考@善哉公は、後の公暁。
現代語元久二年(1205)十二月大二日甲寅。故左衛門督頼家様の若君〔善哉君と云います〕は、尼御台所政子様の判断で、鶴岡八幡宮の長官宰相阿闍梨尊暁に弟子になりました。酉の刻(午後六時頃)に尊暁の宿舎へ参りました。侍が五人お供をしました。
元久二年(1205)十二月大十日壬戌。伊勢平氏跡新補地頭事今日被定卒(率)法。悉被施行之。C定爲奉行云々。 |
読下し いせへいし あと しんぽぢとう こと きょう りっぽう さだ らる ことごと これ せぎょうさる きよさだぶぎょうたり うんぬん元久二年(1205)十二月大十日壬戌。伊勢平氏の跡の新補地頭の事、今日率法を定め被る。悉く之を施行被る。C定奉行爲と云々。
現代語元久二年(1205)十二月大十日壬戌。伊勢平氏が所有していた土地への新しい地頭について、今日規則を決め、全てこれを実施しました図書允清定が担当だそうです。
参考新補地頭の単語は、承久の乱以後の言葉ではないのか?
元久二年(1205)十二月大十八日庚午。御臺所御參鶴岳宮。被用御車〔八葉〕。女房出車二兩連軒。 |
読下し みだいどころ つるがおかぐう ぎょさん おくるま 〔はちよう〕 もち らる にょぼう いだしぐるま
にりょうのき つら
元久二年(1205)十二月大十八日庚午。御臺所、鶴岳宮へ御參す。御車〔八葉〕@を用い被る。女房の出車
二兩軒を連ぬ。
現代語元久二年(1205)十二月大十八日庚午。将軍実朝様の奥さん坊門姫が鶴岡八幡宮へお参りです。牛車〔八つの星丸模様の八葉〕を使いました。お供の女官の絹出し車が二両続きました。
参考@八葉車は、九曜星と同じ形で真ん中に丸星と周りに八つの丸星が取り囲む。真ん中の丸が大きいのは大八と云って三位以上が乗れる。
元久二年(1205)十二月大廿四日丙子。黒柄次郎入道。去十日於上総國致追捕狼藉之由。依有公文名主之訴。及其沙汰。光行。行村爲奉行。行村今日爲上総國奉行云々。 |
読下し くろえのじろうにゅうどう さんぬ とおか かすさのくに をい かどわかし いた
ろうぜきのよし
元久二年(1205)十二月大廿四日丙子。黒柄次郎入道、去る十日、上総國に於て追捕を致す狼藉之由、
くもん みょうしゅのうった
あ よっ そ さた およ
公文@、名主之訴へ有るに依て、其の沙汰に及ぶ。
みつゆき ゆきむらぶぎょうたり
ゆきむら きょう
かずさのくにぶぎょう な うんぬん
光行、行村奉行爲。行村、今日上総國奉行と爲すと云々。
参考@公文は、荘園の下級荘官の一つ。荘園の管理事務をつかさどった。
現代語元久二年(1205)十二月大二十四日丙子。黒柄次郎入道は、先日の十日に上総国で年貢類を奪い取る無法な行いをしたと、荘園の事務役人と現地管理人からの訴えがあったので、その処分をすることにしました。南部三郎光行と二階堂行村が担当です。二階堂行村を今日、上総国の取扱い当番に決めましたとさ。