吾妻鏡入門第十八巻

元久三年丙寅(1206)三月大

〔四月廿七日爲建永元年(1206)〕

元久三年(1206)三月大二日癸未。去月廿二日除目聞書到着。將軍家令敍從四位下給。前大膳大夫持參之。

読下し                    さんぬ つきにじうににち じもく  ききがき とうちゃく    しょうぐんけ じゅしいのげ  じょせし  たま
元久三年(1206)三月大二日癸未。去る月廿二日、除目@の聞書A到着す。將軍家從四位下に敍令め給ふ。

さきのだいぜんだいぶ これ じさん
前大膳大夫、之を持參す。

参考@除目は、朝廷の人事異動。
参考A聞書
は、京都御所での人事異動の決定を右筆的な人が会議場の廊下で聞きながら書く。位階は質問箱を。

現代語元久三年(1206)三月大二日癸未。先月二十二日の人事異動の文書が届きました。将軍実朝様は従四位下に任命されました。大江広元が持って来て見せました。

元久三年(1206)三月大三日甲申。於鶴岳宮。被行一切經會。將軍家御參廻廊。御家人等着廟庭座。加藤判官光員候樓門之砌。

読下し                    つるがおかぐう をい   いっさいきょうえ おこ  はる    しょうぐんけ かいろう  ぎょさん
元久三年(1206)三月大三日甲申。鶴岳宮に於て、一切經會を行な被る。將軍家廻廊に御參す。

ごけにんら びょうてい  ざ   つ     かとうほうがんみつかず  ろうもんのみぎり  そうら
御家人等廟庭の座に着く。加藤判官光員、樓門之砌に候う。

現代語元久三年(1206)三月大三日甲申。鶴岡八幡宮で、上巳の節句の一切経(大蔵経)を上げる儀式です。将軍実朝様は回廊で参拝。御家人等は本殿前の庭に座りました。加藤太判官光員は、楼門の脇にかしこまっております。

元久三年(1206)三月大四日乙酉。將軍家於鶴岳宮令奉幣給。

読下し                    しょうぐんけ  つるがおかぐう をい  ほうへいせし たま
元久三年(1206)三月大四日乙酉。將軍家、鶴岳宮に於て奉幣令め給ふ。

現代語元久三年(1206)三月大四日乙酉。将軍実朝様は、鶴岡八幡宮で幣を奉納されました。

元久三年(1206)三月大十二日癸巳。櫻井五郎〔信濃國住人〕殊鷹飼也。而今日。於將軍家御前。飼鷹口傳故實等申之。頗及自讃。加之。以鵙如鷹兮。可令取鳥云々。可覽其證之由。直雖被仰。於當座難治。可爲後日之由辞申之。

読下し                     さくらいのごろう   〔しなののくにじうにん 〕 こと    たかがいなり
元久三年(1206)三月大十二日癸巳。櫻井五郎@〔信濃國住人A殊なる鷹飼也。

しか    きょう   しょうぐんけ  ごぜん  をい    たか  か   くでん こじつ ら これ  もう
而して今日、將軍家の御前に於て、鷹を飼う口傳B故實C等之を申す。

すこぶ じさん  およ    これ  くは    もず  もっ  たか  ごと  して  とり  と   せし  べ     うんぬん
頗る自讃Dに及び、之に加へ、鵙を以て鷹の如く兮、鳥を取ら令む可きと云々。

そ   あかし み   べ   のよし  じき  おお  らる   いへど   とうざ   をい  おさ  がた    ごじつたるべ   のよし これ  じ   もう
其の證を覽る可き之由、直に仰せ被ると雖も、當座に於て治め難し。後日爲可き之由之を辞し申す。

参考@櫻井五郎は、桜井齋頼で長野県佐久市桜井。佐久党は、代表を持たない集団としての御家人なので、個人は住人になる。
参考A住人は、御家人身分にはなっていない武士。
参考B口傳は、家代々に直接、口頭で話して教え伝えられること。
参考C故實は、儀式・法制・作法・服飾などの古い規定や習慣。
参考D
自讃は、自らを褒め称える事。

現代語元久三年(1206)三月大十二日癸巳。桜井五郎齋頼〔信濃国(長野県)代表のない集団の御家人〕は、特に鷹を飼う名人です。それなので今日、将軍実朝様の前で鷹を飼う先祖から伝えられる秘訣や昔話などを話しました。とてもその飼育を自慢をするばかりか、百舌鳥でさえ鷹の様に狩をさせることが出来ると云いました。だったらその証拠を見せてほしいと将軍直接のおぼしめしですが、この場では無理なので、後日お目にかけましょうと辞退しました。

元久三年(1206)三月大十三日甲午。相州依召參御前給。數尅及御雜談。將軍家仰云。有櫻井五郎者。以鵙可令取鳥之由申之。慥欲見其實。是似嬰兒之戯。無詮事歟云々。相州被申云。齋頼專此術云々。於末代者希有事也。縡若爲虚誕者。爲彼不便。猶以内々可被尋仰者。此御詞未訖。櫻井五郎參入。着紺直垂。付餌袋於右腰。居鵙一羽於左手。相州自簾中見之。頗入興。此上者早可有御覽云々。仍被上御簾。及此時。大官令。問注所入道。已上群參。櫻井候庭上。黄雀在草中。合鵙〔三寄〕取三翼。上下感嘆甚。櫻井申云。小鳥者尋常事也。雖雉更不可有相違云々。即被召御前簀子。賜御劔。相州傳之給云々。

読下し                      そうしゅう  めし  よっ  ごぜん  さん  たま    すうこく  およ  ごぞうだん    しょうぐんけおお    い
元久三年(1206)三月大十三日甲午。相州、召に依て御前に參じ給ふ。數尅に及び御雜談す。將軍家仰せて云はく。

さくらいのごろう      ものあ     もず  もっ  とり  と   せし  べ   のよしこれ  もう    たしか  そ   じつ  み    ほっ
櫻井五郎という者有り。鵙を以て鳥を取ら令む可き之由之を申す。慥に其の實を見んと欲す。

これ  えいじのたわむれ に    せんな   ことか  うんぬん
是、嬰兒之戯に似て、詮無き事歟と云々。

そうしゅうもうされ  い       まさより  こ  わざ  もっぱ       うんぬん  まつだい をい  は けう   ことなり
相州申被て云はく。齋頼@此の術を專らにすと云々。末代に於て者希有の事也。

こと も  きょたんたらば   か   ふびん  ため  なおもっ  ないない たず  おお  らる  べ   てへ    こ   おことばいま  をは        さくらいごろうさんにゅう
縡若し虚誕爲者、彼の不便の爲、猶以て内々に尋ね仰せ被る可き者り。此の御詞未だ訖らずに、櫻井五郎參入す。

こん  ひたたれ  つ    えぶくろを みぎ  こし  つ      もずいちはを ひだりて  す      そうしゅうれんちうよ  これ  み     すこぶ きょう い
紺の直垂を着け、餌袋於右の腰に付け、鵙一羽於左手に据える。相州簾中自り之を見て、頗る興に入る。

こ   うえは はや  ごらんあ   べ    うんぬん  よっ  おんみす  あ   られ    こ   とき  およ   だいかんれい もんちうじょにゅうどう いじょうぐんさん
此の上者早く御覽有る可しと云々。仍て御簾を上げ被る。此の時に及び、大官令、問注所入道、已上群參す。

さくらいていじょう そうら  こうじゃくそうちゅう あ     もず  あわ     〔 みより 〕  さんよく  と     じょうげ  かんたんはなは    さくらいもう    い
櫻井庭上に候う。黄雀草中に在り。鵙を合せて〔三寄〕三翼を取る。上下の感嘆甚だし。櫻井申して云はく。

ことりは じんじょう  ことなり  きじ いへど  さら  そうい あ   べからず うんぬん
小鳥者尋常の事也。雉と雖も更に相違有る不可と云々。

すなは ごぜん  すのこ  めされ   ぎょけん  たま    そうしゅうこれ  つた  たま    うんぬん
即ち御前の簀子に召被、御劔を賜はる。相州之を傳へ給ふと云々。

参考@齋頼は、源齋頼で清和源氏満政流。優れた鷹飼と知られ、朝鮮から渡来した鷹匠から継承し「呉竹流」とも「政頼流」と呼ばれ、その後「諏訪流」に伝承された。

現代語元久三年(1206)三月大十三日甲午。相模守義時さんは、呼ばれて将軍の前へ参りました。数時間も雑談をしました。将軍実朝様が言うには「桜井五郎と云うのが居て、百舌鳥で鳥を取らせると云うんだ。ぜひとも見てみたいのだ。でも、それは子供の遊びのようで、意味がないことなのかなあ。」義時さんが答えて「源齋頼は、この技術の専門家だったそうです。子孫まで伝わってれば、それは奇特なことですよ。もし、云っていることが、根拠のない大げさなことならば、かわいそうな事になるので、内緒で聞いてみましょうね。」と云いました。

その言葉が終わらないうちに、桜井五郎はやってきました。

紺色の普段着の直垂を着て、餌袋を右の腰に下げ、百舌鳥(モズ)一羽を左腕に乗せています。義時さんは将軍のそばで御簾の中からみて、これは面白うそうだと興味を持ち、「折角だから、すぐにお見せしなさい。」と云いました。それで御簾を上げました。それを知って大江広元や問注所入道三善善信達が集まってきました。

桜井は庭に出ました。雀(スズメ)が草の中に居ます。百舌鳥(モズ)を行かせて〔三度〕三羽を捕えました。見ていた人々の感動は大変なものでした。桜井が言うのには「小鳥を取るのは普通ですよ。雉でさえも間違いなく取りますからね。」すぐに簀子にお呼びになり、褒美に刀を与えました。義時さんがこれを手渡しましたとさ。

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