建永二年丁卯(1207)三月大
十月廿五日改元承元々年
建永二年(1207)三月大一日丙子。櫻梅等樹多被植北御壷。自永福寺所被引移也。 |
読下し さくら うめなど
き おお きたのおんつぼ うえられ
ようふくじ よ ひきうつされ ところなり
建永二年(1207)三月大一日丙子。櫻、梅等の樹多く北御壷@へ植被る。永福寺A自り引移被る所也。
参考@壷は、坪庭のことで、三方又は四方を建物で囲まれた内庭。
参考A永福寺は、鎌倉市二階堂216にあった頼朝建立三大寺のひとつで、奥州平泉の中尊寺、毛越寺を見習った寺院。廃寺。
現代語建永二年(1207)三月大一日丙子。桜や梅などの木を沢山坪庭に植えました。永福寺から移植させたのです。
建永二年(1207)三月大三日戊寅。於北御壷。有鷄鬪會。時房朝臣 親廣 朝光 義盛 遠元 景盛 常秀 常盛 義村 宗政等爲其衆云々。 |
読下し きたのおんつぼ をい けいとう え あ
建永二年(1207)三月大三日戊寅。北御壷に於て、鷄鬪の會有り。
ときふさあそん ちかひろ
ともみつ よしもり とおもと かげもり つねひで
つねもり よしむら むねまさら そ
しゅうたり うんぬん
時房朝臣、親廣、朝光、義盛、遠元、景盛、常秀、常盛、義村、宗政等其の衆爲と云々。
現代語建永二年(1207)三月大三日戊寅。北の坪庭で、軍鶏を戦わせる闘鶏の会がありました。武蔵守北条五郎時房・右近将監源親広・結城七郎朝光・和田左衛門尉義盛・足立左衛門尉遠元・安達藤九郎右衛門尉景盛・境兵衛尉常秀・和田兵衛尉常盛・三浦平六兵衛尉義村・長沼五郎宗政達がそれを行いましたとさ。
建永二年(1207)三月大十日乙酉。長沼五郎宗政可奉行伯樂事之旨。被仰付云々。 |
読下し ながぬまのごろうむねまさ はくらく
こと ぶぎょうすべ のむね おお
つ らる うんぬん
建永二年(1207)三月大十日乙酉。長沼五郎宗政@、伯樂Aの事を奉行可き之旨、仰せ付け被ると云々。
参考@長沼五郎宗政は、小山政光の五男。小山四郎朝政の弟。栃木県芳賀郡二宮町大字長沼。
参考A伯樂は、馬の良否を良く見分ける人。また、馬や牛の病気を治す人。
現代語建永二年(1207)三月大十日乙酉。長沼五郎宗政は、馬の見分けや病気について、指導担当するように命じられましたとさ。
建永二年(1207)三月大廿日壬辰。武藏國荒野等可令開發之由。可相觸地頭等之趣。被仰武州云々。廣元朝臣奉行之云々。 |
読下し むさしのくに
こうやなど
かいはつせし べ のよし ぢとう ら あいふる べ
のおもむき ぶしゅう おお らる うんぬん
建永二年(1207)三月大廿日壬辰。武藏國の荒野等開發令む可し之由、地頭等に相觸る可き之趣、武州に仰せ被ると云々。
ひろもとあそんこれ
ぶぎょう うんぬん
廣元朝臣之を奉行すと云々。
現代語建永二年(1207)三月大二十日壬辰。武蔵の国の原野などを開発するように地頭達に命令しなさいと武蔵守時房に仰せになられましたとさ。