建永二年丁卯(1207)八月大
十月廿五日改元承元々年
建永二年(1207)八月大十五日戊午。小雨。鶴岳宮放生會。將軍家既欲有御參宮之處。随兵已下臨期有申障之輩。被召別人之程。數尅被扣御出。尤爲神事違乱。是則御出等事。無奉行人之故也。仍召民部大夫行光。向後供奉人散状已下。御所中可然事。於時無闕如之樣。可計沙汰之旨。被仰含之云々。及申尅。御出之間。舞樂等入夜。取松明有其儀。未事終還御。 |
読下し こさめ つるがおかぐう ほうじょうえ
建永二年(1207)八月大十五日戊午。小雨。鶴岳宮の放生會。
しょうぐんけすで おさんぐう
あ ほっ のところ ずいへい いげ
ご のぞ さわ もう のやからあ
將軍家既に御參宮有らんと欲する之處、随兵已下期に臨み障り申す之輩有り。
べつ
ひと めさる
のほど すうこくぎょしゅつ ひかえらる
もっと しんじ いらんたり
これすなは ぎょしゅつら こと ぶぎょうにんな のゆえなり
別な人を召被る之程、數尅御出を扣被る。尤も神事に違乱爲。是
則ち御出等の事、奉行人無き之故也。
よっ みんぶのたいふゆきみつ
め きょうご ぐぶにん さんじょう
いか ごしょちう しか べ こと とき をい けっきょな のよう
仍て民部大夫行光を召し、向後供奉人の散状已下、御所中の然る可き事、時に於て闕如無き之樣、
はか
さた すべ のむね これ おお
ふく らる うんぬん
計り沙汰可き之旨、之を仰せ含め被ると云々。
さるのこく およ
ぎょしゅつのかん ぶがくら よ い たいまつ と そ ぎ あ
いま ことおわ かんご
申尅に及び、御出之間、舞樂等夜に入る。松明を取り其の儀有り。未だ事終らずに還御す。
現代語建永二年(1207)八月大十五日戊午。小雨です。鶴岡八幡宮の生き物を放って懺悔する放生会です。将軍実朝様はお参りに行こうとしましたが、お供の武士たちが出発間際になって具合が悪いと言い出したものがおります。別な人を替えに呼んだので、出発時間を遅らせました。神様の儀式へ行くのにとんでもない出来事です。これは、出発を指示担当する奉行人を決めていないからです。そこで、二階堂民部大夫行光をお呼びになり、今後はお供の回覧など、御所内の事について、行事の時に間違いの無いように、思考して処理するようにと、云って聞かせましたとさ。申の刻(午後四時頃)になって、お出かけになったので、舞楽の奉納は夜になってしまい、松明をかざして行いました。遅くなったので終わらないうちに帰ってしまいました。
建永二年(1207)八月大十六日己未。將軍家御參宮。流鏑馬已下如例。昨今路次御劔。朝光役之。 |
読下し しょうぐんけ
ごさんぐう
やぶさめ いか れい ごと さくいま ろじ
ぎょけん ともみつこれ えき
建永二年(1207)八月大十六日己未。將軍家御參宮。流鏑馬已下例の如し。昨今路次の御劔、朝光之を役す。
現代語建永二年(1207)八月大十六日己未。将軍実朝様のお参りです。流鏑馬などの奉納は何時もの通りです。昨日今日、道中の刀持ちは、結城左衛門尉朝光がこの役をしました。
建永二年(1207)八月大十七日庚申。リ。放生會御出之時申障之輩事。相州。武州。廣元朝臣。善信。行光等參會。有其沙汰之處。或輕服。或病痾云々。而随兵之中。吾妻四郎助光無其故不參之間。以行光被仰云。助光雖非指大名。常爲累家之勇士。被召加之訖。不存面目乎。臨其期不參。所存如何者。助光謝申云。依爲リ儀。所用意之鎧。爲鼠被損之間。失度申障云々。重仰云。依リ儀稱用意者。若新造鎧歟。太不可然。随兵者非可餝行粧。只爲警衛也。因茲。右大將軍御時。譜代武士可必候此役之由。所被定也。武勇之輩。兼爭不帶鎧一領焉。世上狼唳者不圖而出來。何閣重代兵具。可用輕色新物哉。且累祖之鎧等似無相傳之詮。就中恒例神事也。毎度於令新造者。背儉約儀者歟。向後諸人可守此儀者。助光者所被止出仕也。 |
読下し はれ ほうじょうえ
ぎょしゅつのとき さわ
もう のやから こと
建永二年(1207)八月大十七日庚申。リ。放生會
御出之時、障り申す之輩の事、
そうしゅう ぶしゅう ひろもとあそん
ぜんしん ゆきみつら さんかい そ さた あ
のところ ある
けいぶく ある びょうあ うんぬん
相州、武州、廣元朝臣、善信、行光等參會し、其の沙汰有る之處、或ひは輕服、或ひは病痾と云々。
しか ずいへいのうち あがつまのしろうすけみつ
そ ゆえな
ふさんのあいだ ゆきみつ もっ おお られ い
而るに随兵之中、 吾妻四郎助光 其の故無く不參之間、行光を以て仰せ被て云はく。
すけみつさ だいみょう あらず いへど つね るいけの ゆうし な これ
めしくは られをはんぬ めんもく ぞんぜずや
助光指せる大名に非と雖も、常に累家之勇士と爲し、之を召加へ
被 訖。 面目を存不乎。
そ ご のぞ ふさん いか しょぞん
てへ すけみつ あやま もう い
其の期に臨んでの不參。如何なる所存か者れば、助光
謝り申して云はく。
はれ
ぎ たる
よっ ようい ところのよろい ねずみ ため
はそんのかん ど うしな さわり もう
うんぬん
リの儀爲に依て、用意する所之鎧、鼠の爲被損之間、度を失い障を申すと云々。
かさ おお い
はれ ぎ よっ
ようい しょう は も しんぞう よろいか
重ねて仰せて云はく。リの儀に依て用意すると稱す者、若しや新造の鎧歟。
はなは しか べからず ずいへいは
ぎょうしょう かざ べ あらず ただ けいえい ためなり
太だ然る不可。随兵者
行粧を餝る可きに非。只、警衛の爲也。
これ よっ うだいしょうぐん おんとき ふだい ぶし かなら こ やく そうら べ のよし さだ らる ところなり
茲に因て、右大將軍の御時、譜代の武士必ず此の役に候う可き之由、定め被る所也。
ぶゆうのやから かね いかで よろいいちりょう おびざら や せじょう ろうるいは はからず て いできた
武勇之輩、兼て爭か鎧一領を帶不ん焉。世上の狼唳者圖不し而出來る。
なん じゅうだい ひょうぐ さしお けいしょく しんぶつ もち べ や かつう るいそのよろいら そうでんのせんな に
何ぞ重代の兵具を閣き、輕色の新物を用う可き哉。且は累祖之鎧等、相傳之詮無きに似る。
なかんづく こうれい しんじなり まいど
しんぞうせし をい は けんやく ぎ そむ ものか
就中に恒例の神事也。毎度新造令むに於て者、儉約の儀に背く者歟。
きょうご しょにん こ ぎ まも べ てへ すけみつはしゅっし と られ ところなり
向後、諸人此の儀を守る可き者れば、助光者出仕を止め被る所也。
現代語建永二年(1207)八月大十七日庚申。晴れです。一昨日の放生会に将軍がおいでの時、具合が悪くなったと言い出した連中について、相州義時・武州時房・大江広元・三善善信・二階堂行光達が集まって検討した所、ある者は喪に服しているとか、ある者は病気だとか云いました。それなのにお供の兵の内吾妻四郎助光は、何の理由もないのに出てこなかったので、二階堂行光を通しておっしゃられたのは、「助光は、さほどの大名ではないけれども、常に昔からの武勇の家来として、わざわざ命じて加えられてきました。それなのに名誉を感じていないのか。その場になって出てこないとは、どういうつもりでいるのだ。」と云ったので、助光は謝りながら云うのには「晴れの儀式なのでと用意していた鎧がネズミにかじられ壊れてしまったので、慌てふためいて具合が悪いと云ってしまいました。」とのことです。それに対し続けておっしゃられるには「晴れの儀式に用意したとは、もしかして新調した鎧なのか。とんでもない事である。お供の兵たちは井出達を飾るべきではない。ただ、警護のためである。そういうこともあるであろうと、右大将頼朝様の時代に、代々仕えてきた武士は必ず、この役を務めるように決めてこられたのです。武勇の者は必ず鎧一両は持っていないわけがない。世間からの非難は思わぬところから出てくる物なのに、なんで先祖伝来の鎧を使わず、流行の新しい者を使うのだ。まるで先祖代々の鎧が伝わっていないようじゃないか。ましてや年中やっている恒例の神事じゃないか。そのたびに新しく作っていたのでは、武士は倹約質素の信念に背いているじゃないか。今後は、皆この趣旨を守るように。」とおっしゃって、助光は幕府への出仕を止められる事になりました。