吾妻鏡入門第十八巻

建永二年丁卯(1207)九月小

十月廿五日改元承元々年

建永二年(1207)九月小廿四日丁酉。霽。掃部頭入道寂忍。自京都參着。具參近江國住人盤五家次。是伴四郎嫌仗祐兼後胤也。去元久元年所被追討之伊勢平氏冨田三郎基度聟也。募武威企謀叛。又於諸處道路。煩往反鄙民云々。去建仁三年叡山堂衆令蜂起事。起自家次之謀計。仍彼時雖擬召禁之。逃亡不知行方之處。五日於白河邊生虜之云々。

読下し                     はれ かもんのかみにゅうどうじゃくにん きょうとよ   さんちゃく   おうみのくに じうにん ばんごいえつぐ  ぐ   まい
建永二年(1207)九月小廿四日丁酉。霽。 掃部頭入道寂忍@、京都自り參着す。近江國 住人 盤五家次Aを具し參る。

これ  とものしろうけんじょうすけかね こういんなり  さんぬ げんきゅうがんねん ついとうされ ところのいせへいし とみだのさぶろうもとのり  むこなり
是、 伴四郎嫌仗B祐兼 が後胤也。去る 元久元年 追討被る所之伊勢平氏 冨田三郎基度Cが聟也。

 ぶい   つの  むほん  くはだ   また  しょしょ  どうろ   をい    おうはん  ひみん  わずらは  うんぬん
武威を募り謀叛を企つ。又、諸處の道路に於て、往反の鄙民を煩すと云々。

さんぬ けんにんさんねんえいざん どうしゅほうきせし  こと  いえつぐのぼうけいよ  おこ
去る 建仁三年 叡山の堂衆蜂起令む事、家次之謀計自り起る。

よっ  か   とき  これ  めしきん      ぎ    いへど   とうぼう  ゆくえしれずのところ  いつかしらかわへん  をい  これ  いけど    うんぬん
仍て彼の時、之を召禁ぜんと擬すと雖も、逃亡し行方知不之處、五日白河邊に於て之を生虜ると云々。

参考@掃部頭入道寂忍は、中原親能。
参考A盤五家次は、柏木五郎家次。柏木御厨で滋賀県甲賀市水口町。東海道鈴鹿越えの休憩所。
参考Bは、兼仗で、三位以上の公卿に朝廷から付けられた護衛兵で、六位以下の軍人。
参考C冨田三郎基度は、元久元年四月二十一日に攻められている。三重県四日市市富田。

現代語建永二年(1207)九月小廿四日丁酉。晴れました。掃部頭入道寂忍中原親能が、京都から到着しました。近江国の郷士の盤五柏木五郎家次を連行してきました。この人は大伴四郎謙仗祐兼の子孫です。去る元久元年(1204)に征伐された伊勢平氏の冨田三郎基度の婿になります。武力に物を言わせ幕府に叛逆しました。又、あちこちの道路で、行きかう田舎人を困らせたそうです。去る建仁三年(1203)に比叡山の僧兵どもが騒ぎを起こしたのも、家次の悪だくみから起こったのです。そこで、その時に捕まえようとしましたが、逃げられてしまい行方不明だったのですが、この五日に白川あたりで捕虜にしましたそうな。

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