吾妻鏡入門第十九巻

承元二年戊辰(1208)五月大

承元二年(1208)五月大十七日乙夘。將軍家御不例之時。依有御祈願。於鶴岳宮。被供養法華經。美作藏人朝親爲奉行。

読下し                     しょうぐんけ ごふれいの とき   ごきがん あ     よっ   つるがおかぐう をい    ほけきょう   くよう さる
承元二年(1208)五月大十七日乙夘。將軍家御不例之時、御祈願有るに依て、鶴岳宮に於て、法華經を供養被る。

みまさかのくらんどともちか ぶぎょうたり
美作藏人朝親、奉行爲。

現代語承元二年(1208)五月大十七日乙卯。将軍実朝様が病気だった時に、回復を願う祈りをしたので、お礼に鶴岡八幡宮で法華経を上げさせました。美作蔵人朝親が担当です。

承元二年(1208)五月大廿六日丙寅。藤内左衛門尉季康〔御臺所侍〕上洛。是上皇可有南山臨幸。坊門殿〔忠信〕可被供奉之間。爲彼扈從被差進之。又被獻龍蹄并旅調度等也。

読下し                    とうないさえもんのじょうすえやす 〔みだいどころ さむらい〕 じょうらく    これ  じょうこう なんざん  りんこうあ   べ
承元二年(1208)五月大廿六日丙寅。藤内左衛門尉季康 〔御臺所の侍〕 上洛す。是、上皇@南山Aに臨幸有る可し。

ぼうもんどの 〔ただのぶ〕  ぐぶ さる  べ   のかん  か   こしょう  ためこれ  さ   しん  らる    また りゅうていなら    たび  ちょうどら   けん  らる  なり
坊門殿〔忠信〕B供奉被る可き之間、彼の扈從の爲之を差し進じ被る。又、龍蹄C并びに旅の調度等を獻じ被る也。

参考@上皇は、後鳥羽上皇。
参考A
南山は、熊野権現。所謂熊野詣。
参考B
防門忠信は、実朝室の兄。歌人でもあり、『忠信卿百首和歌』が残る。
参考C龍蹄は、立派な馬の事で、背高が四尺以下を駒と云い、四尺以上を龍蹄という。

現代語承元二年(1208)五月大二十六日丙寅。藤内左衛門尉秀康〔坊門姫のお供〕が京都へ上りました。これは、後鳥羽上皇が熊野詣出をするので、坊門忠清様がお供をするため、その家来として派遣するからです。又、馬と旅行用品を差し上げるためでもあります。

承元二年(1208)五月大廿九日丁夘。陰。兵衛尉C綱〔御臺所侍〕昨日自京都下着。今日參御所。是随分有職也。仍將軍家有御對面。C綱稱相傳物。令進古今和歌集一部。左金吾基俊令書之由申之。先達筆跡也。已可謂末代重寳。殊有御感。又令尋問當時洛中事御。去九日新日吉小五月會上皇御幸流鏑馬已下事。故以被刷。射手等多西面之輩子息垂髪也。各爲月卿雲客。被出立之。即C綱息童從其役。又号峯王童〔院御寵童。候西面〕箭不中的之間逐電。忽以出家云々。射手等記。可有御覽之由。被仰之間。自懷中取出之。被置御前。是子息列射手之間。爲申出。兼用意云々。
    競馬
一番〔左 景頼〕 追勝 ■(有偏于龍)(読者口取)二 祿三
  〔右 種文〕
二番〔左 重連〕 儲勝 ■(有偏于龍)(読者口取)一 祿二
  〔右 頼員〕
三番〔左 助重〕 及未聊取
  〔右 敦久〕 追勝 ■(有偏于龍)(読者口取)一 祿三
四番〔左 信季〕 儲勝 ■(有偏于龍)(読者口取)二 祿三
  〔右 行弘〕
五番〔左 高遠〕 被取落
  〔右 國文〕 追勝 ■(有偏于龍)(読者口取)二 祿三
六番〔左 助C〕 及未聊取
  〔右 武澄〕 追勝 ■(有偏于龍)(読者口取)一 祿二
七番〔左 信継〕
  〔右 種武〕 儲勝 ■(有偏于龍)(読者口取)一 祿二
 鼓  親定朝臣
 鉦鼓 長季
   流鏑馬
 〔中將範茂朝臣出立之〕 〔右大臣〕    〔別當〕  〔有雅朝臣〕
 源三翔         熊谷平三直宗   鶴丸    峯王丸
 〔秀康〕        〔前中納言〕   〔大貳〕
 松王丸〔C綱子〕    金王丸      藤二郎信村
   的
 散位中原章C      左衛門少尉行房  橘範邦   藤助直
 大江惟弘        右衛門少尉源資家 源康重

読下し                     くも   ひょうえのじょうきよつな 〔みだいどころ さむらい〕 さくじつきょうとよ   げちゃく    きょう ごしょ  まい
承元二年(1208)五月大廿九日丁夘。陰り。兵衛尉C綱 〔御臺所の侍〕、昨日京都自り下着し、今日御所へ參る。

これ  ずいぶん  ゆうしきなり  よっ  しょうぐんけ  ごたいめんあ
是、随分の有職@也。仍て將軍家、御對面有り。

きよつなそうでん もの  しょう    こきんわかしゅういちぶ   しん  せし     さきんご もととし  か  せし  のよしこれ  もう
C綱相傳の物と稱し、古今和歌集一部を進ぜ令め、左金吾基俊A書か令む之由之を申す。

せんだつ ひっせきなり すで  まつだい ちょうほう い     べ     こと  ぎょかんあ     また  とうじ   らくちう  こと  じんもんせし  たま
先達の筆跡也。已に末代の重寳と謂ひつ可し。殊に御感有り。又、當時の洛中の事を尋問令め御う。

さんぬ ここのか いまひえ  こさつきえ じょうこうぎょうこう  やぶさめ いか   こと ことさら もっ  さっ  らる     いてら おお  せいめんのやから しそく  すいはつなり
去る九日新日吉Bの小五月會C上皇御幸。流鏑馬已下の事、故に以て刷せ被る。射手等多く西面之輩が子息、垂髪也。

おのおの げっけいうんきゃく ため これ い   た   さる    すなは きよつな  そくどう そ  やく  したが
 各、 月卿雲客の爲、之を出で立た被る。即ちC綱が息童其の役に從う。

また  みねおう  ごう  わらわ 〔いん  ごちょうどう  さいめん そうら  〕 や まと  あたらずのかんちくてん   たちま もっ  しゅけ    うんぬん
又、峯王と号す童〔院の御寵童。西面Dに候う〕箭的に中不之間逐電し、忽ち以て出家すと云々。

 いてら    き   ごらん あ   べ   のよし  おお  らる  のかん  かいちうよ  これ  とりいだ    ごぜん  おかれ
射手等の記、御覽有る可き之由、仰せ被る之間、懷中自り之を取出し、御前に置被る。

これ  しそく  いて   れっ    のかん  もう  いで  ため  かね  ようい    うんぬん
是、子息射手に列する之間、申し出ん爲、兼て用意すと云々。

参考@有職は、有識者。知識のある人。
参考A
基俊は、藤原基俊(1060-1142)。歌人。父は右大臣俊家。出家して覚舜。ウィキペディアから
参考B新日吉は、京都市東山区の妙法院前側町の新日吉神社。国立博物館東。
参考C小五月会は、近江坂本の日吉大社や奈良の春日大社で陰暦五月九日に行われた祭礼。
参考D西面は、白河法皇が置いた院直属の軍隊北面に加え、西面は後鳥羽上皇が置いた。

         くらべうま
    競馬

いちばん 〔ひだり かげより〕   おいがち  くちと   に   ろくさん
一番〔左E 景頼〕 追勝F 口取り二G 祿三H 

      〔みぎ  たねふみ〕                                    
  〔右 種文〕              

参考Eが神殿から見て左の神殿側らしい。
参考F
追勝は、追っかけて行った馬の方が勝ち。
参考G口取りは馬の轡を取って引くこと。一馬身としてみた。現代語ではスタート時の位置の差としてみた。
参考H祿は、勝者に与えられる白い布らしい。賀茂社記では絹としている。(馬の博物館発行「日本の古式競馬」から)

 にばん 〔ひだり しげつら〕  もうけがち  くちと   いち  ろくに
二番〔左 重連〕 儲勝I 口取り一 祿二 

      〔みぎ  よりかず〕
  〔右 頼員〕

参考I儲勝は、逃げ切りのようだ。

さんばん 〔ひだり すけしげ〕    すえ  およ いささ  と
三番〔左 助重〕 未に及び聊か取る

     〔みぎ  あつひさ〕    おいがち  くちと   いち  ろくさん
  〔右 敦久〕 追勝 口取り一 祿三

よんばん 〔ひだり のぶすえ〕  もうけがち  くちと   に   ろくさん
四番〔左 信季〕 儲勝 口取り二 祿三

      〔みぎ  ゆきひろ〕
  〔右 行弘〕

 ごばん 〔ひだり たかとお〕    とりおとされ
五番〔左 高遠〕 取落被る

     〔みぎ  くにふみ〕    おいがち  くちと   に   ろくさん
  〔右 國文〕 追勝 口取り二 祿三

ろくばん 〔ひだり すけきよ〕    すえ  およ いささ  と
六番〔左 助C〕 未に及び聊か取る

     〔みぎ  たけすみ〕    おいがち  くちと   いち  ろくに
  〔右 武澄〕 追勝 口取り一 祿二

しちばん 〔ひだり のぶつぐ〕
七番〔左 信継〕

     〔みぎ  たねたけ〕   もおけがち  くちと   いち   ろくに
  〔右 種武〕 儲勝 口取り一 祿二

参考この記事の様子から先と後で同時に走り、追いかけていって、捕まえるようだ。

  つづみ   ちかさだあそん
 鼓  親定朝臣

  しょうこ   ながすえ
 鉦鼓 長季

       やぶさめ
   流鏑馬

    〔ちうじょうのりもちあそんこれ    いでた  〕 げんざかける      〔うだいじん〕 くまがいのへいざなおむね     〔べっとう〕  つるまる        〔ありまさあそん〕  みねおうまる
 〔中將範茂朝臣之を出立つ〕源三翔   〔右大臣〕熊谷平三直宗   〔別當〕鶴丸   〔有雅朝臣〕峯王丸

   〔ひでやす〕 まつおうまる 〔きよつな  こ 〕              〔さきのちうなごん〕  こんのうまる           〔だいに〕  とうじろうのぶむら
 〔秀康〕松王丸〔C綱の子〕      〔前中納言〕金王丸     〔大貳〕藤二郎信村

       まと
   的

  さんになかはらあききよ            さえもんのしょうじょうゆきふさ  たちばなのりくに   とうのすけなお
 散位中原章C      左衛門少尉行房  橘範邦   藤助直

  おおえのまさひろ               うえもんのしょうじょうみなもとすけいえ          みなもとやすしげ
 大江惟弘        右衛門少尉源資家       源康重

参考熊谷平三直宗は、熊谷次郎直實の孫で後の陸奥熊谷氏の祖ではないか。直実ー直家ー直宗(直家の三男)

現代語承元二年(1208)五月大二十九日丁卯。曇りです。兵衛尉清綱〔将軍の奥方坊姫に仕える侍です〕が、昨日京都から到着し、今日御所へやって来ました。この人はとても学識のある方です。それなので、将軍実朝様はお会いになりました。清綱が代々伝わる物ですと云って、古今和歌集一冊を差し出し、左兵衛金吾が書きましたと告げました。先祖の人の筆跡です。これは、子孫にとって十分に宝物と云えるでしょう。特にお褒めがありました。又、最近の京都の情勢を質問なされました。

先日の九日に新日吉神社の小五月会への後鳥羽上皇のお出ましや、その際の流鏑馬の奉納以下をあえて詳しく書き出してあります。「射手の多くは後鳥羽上皇の私兵西面の武士たちの倅で元服前の垂髪でした。それぞれ、公卿や殿上人からの要請でこの者達に立たせました。すぐに清綱の息子もこの役をしました。中に峰王と云う少年〔後鳥羽院が可愛がっている稚児で西面に出仕してます〕は、矢がまとに当たらなかったので逃げ出して、出家してしまったのです。」だとさ。射手の結果の書き出しがありますが、これを見たいとおっしゃったので、懐から出して御前に置きました。それは、息子が射手に出演している事を、話すためにあらかじめ用意をしていましたとさ。

競馬について

一番は、左が景頼で、追いついて勝ち。スタートは二馬身差。懸賞の禄は三反。
    敗者は右の種文。

二番は、左が重連で、逃げ切って勝ち。スタートは一馬身差。懸賞の禄は二反。
    敗者は右の頼員。

三番は、左が助重で、終いになって多少逃げるが、
    右の敦久が追いついて勝ち。スタートは一馬身差。懸賞の禄は三反。

四番は、左の信季が、逃げ切って勝ち。スタートは二馬身差。懸賞の禄は三反。
    敗者の右は行弘。

五番は、左の高遠が、つかまって落とされる。
    勝者は右の国文で、追いついて勝ち。スタートは二馬身差。懸賞の禄は三反。

六番は、左が助清で、終いになって多少逃げるが、
    右の武澄が追いついて勝ち。スタートは一馬身差。懸賞の禄は二反。

七番は、左が信継で、
    右の種武が逃げ切って勝ち。スタートは一馬身差。懸賞の禄は二反。

合図の鼓は、親定さんが担当し、鉦は、長季が担当しました。

流鏑馬は、〔中将範茂さんの要請が〕源三翔。〔右大臣の要請が〕熊谷平三直宗。〔検非違使の長の要請が〕鶴丸。〔源有雅さんの要請が〕峰王丸。
     〔秀康の要請が〕松王丸〔清綱の息子〕。〔前中納言の要請が〕金王丸。〔第二殿の要請が〕藤二郎信村。

的たて役は、散位中原章清。左衛門少尉行房。橘範邦。藤助直。
      大江雅弘。右衛門少尉源資家。源康重。

六月へ

吾妻鏡入門第十九巻

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