吾妻鏡入門第十九巻

承元二年戊辰(1208)七月

承元二年(1208)七月大五日壬寅。天顏快霽。神宮寺上棟。相州。武州。前大膳大夫等監臨之。又惣奉行善信。朝光。同以參向。匠等給祿。大工馬二疋〔一疋置鞍〕。被物一重。裹物〔各納白布五段〕。小工馬一疋〔裸〕。空衣一領。裹物二〔各納奥布三段〕。行光〔信乃〕奉行之。

読下し                   てんがんかいせい じんぐうじじょうとう  そうしゅう ぶしゅう  さきのだいぜんだいぶら これ  かんりん
承元二年(1208)七月大五日壬寅。天顏快霽。神宮寺上棟。相州、武州、前大膳大夫等、之を監臨す。

また  そうぶぎょう  ぜんしん  ともみつ  おな    もっ  さんこう    たくみらろく  たま
又、惣奉行は善信、朝光、同じく以て參向し、匠等祿を給はる。

だいく   うま にひき  〔いっぴき  くら  お  〕     かづけものひとえ つつみもの〔おのおのしらふごたん   おさ  〕
大工は馬二疋〔一疋は鞍を置く〕。被物一重。裹物〔 各 白布五段を納む〕

しょうく うまいっぴき 〔はだか〕   うつほもいちりょう つつみものに 〔おのおのおくふさんたん   おさ  〕    ゆきみつ〔しなの〕  これ  ぶぎょう
小工は馬一疋〔裸〕。空衣一領。裹物二〔 各 奥布三段を納む〕。行光〔信乃〕之を奉行す。

現代語承元二年(1208)七月大五日壬寅。空は機嫌よく快晴です。神社を守る寺の神宮寺の上棟式です。相州義時・武州時房・前大膳大夫大江広元達が、立ち会いました。又、総監督担当の三善善信・結城朝光も同様にやってきて、技師たちに褒美を与えました。
大工の棟梁には、馬を二頭〔一頭には鞍を乗せてます〕・被り物一枚・風呂敷包み〔それぞれ白い布五反が入ってます〕です。
実務者の小工と呼ばれる大工さんには、馬一頭〔鞍はなし〕・法衣一着・風呂敷包み二つ〔それぞれ東北産の布三反が入ってます〕です。二階堂民部大夫行光〔信濃〕が担当しました。

注意裹物風呂敷包みと訳したが、この時代風呂敷の単語は無い。

承元二年(1208)七月大十五日壬子。武藏國威光寺院主僧圓海參訴云。狛江入道増西去月廿六日率五十余人悪黨。乱入寺領。及苅田狼藉云々。増西折節參候之間。被召决之處。圓海之所申無相違。仍可停止濫妨之由。被仰出之上。令勤仕永福寺宿直百箇日。可贖其過云々。圖書允C定奉行之云々。

読下し                     むさしのくに いこうじ いんずそうえんかいさん  うった   い
承元二年(1208)七月大十五日壬子。武藏國威光寺@院主僧圓海參じ訴へて云はく。

こまえにゅうどうぞうさい さんぬ つきにじうろくにち  ごじうよにん  あくとう  ひき    じりょう  らんにゅう   かったろうぜき  およ    うんぬん
狛江入道増西、去る月廿六日、五十余人の悪黨を率い、寺領に乱入し、苅田狼藉に及ぶと云々。

ぞうさい おりふし さんこうのかん  めしけっせら のところ  えんかいのもう ところそういな
増西 折節 參候之間、召决被る之處、圓海之申す所相違無し。

よっ  らんぼう  ちょうじすべ  のよし  おお  い   さる  のうえ   ようふくじ   とのい  ひゃっかにちきんじせし    そ   とが  あがな べ     うんぬん
仍て濫妨を停止可き之由、仰せ出だ被る之上、永福寺Aの宿直を百箇日勤仕令め、其の過を贖う可きと云々。

づしょのじょうきよさだ これ  ぶぎょう    うんぬん
圖書允C定、之を奉行すと云々。

参考@威光寺は、川崎市多摩区長尾三丁目の妙楽寺がかつての源氏祈願寺の長尾山威光寺跡と云われる。長尾寺とも。
参考A永福寺は、頼朝が平泉中尊寺毛越寺を模倣し神奈川県鎌倉市二階堂216に建立した寺院。廃寺。その見かけが二階建てに見えたので「二階堂」と呼ばれ、それが地名となり、その地に住んだ藤原行政の子孫が「二階堂氏」となった。

現代語承元二年(1208)七月大十五日壬子。武蔵国の威光寺の代表の坊さん円海がやってきて、訴え出ました。「狛江入道増西が、先月二十六日に五十数人の無法者達を伴って、寺の領地に入り込んで稲を刈ってってしまうと云う乱暴をしました。」とのことです。増西がたまたま挨拶にやって来ていたので、将軍御前で対決させたところ、円海の申し分には間違いがありません。そこで、そういう無法は止めるように仰せになられたうえ、永福寺の宿直を百日間勤めて、その罪滅ぼしをするようにとの命令でした。図書允清原清定が担当するんだそうな。

承元二年(1208)七月大十九日丙辰。於永福寺阿弥陀堂。被行二十五三昧。仍爲御聽聞。尼御臺所。并將軍家。同御臺所等。有御參堂。御留守之間。鎌倉中騒動。是葛西十郎爲僕從依被殺害。一族等馳集之故也。然而和田左衛門尉義盛尋問子細。相鎭云々。

読下し                      ようふくじ  あみだどう   をい    にじうご さんまい  おこ  はる
承元二年(1208)七月大十九日丙辰。永福寺阿弥陀堂に於て、二十五三昧@を行な被る。

よっ  ごちょうもん  ため  あまみだいどころなら  しょうぐんけ  おな   みだいどころら   ごさんどう あ     おんるすの かん  かまくらちうそうどう
仍て御聽聞の爲、尼御臺所并びに將軍家、同じき御臺所等、御參堂有り。御留守之間、鎌倉中騒動すA

これ  かさいのじうろうぼくじう  ためせつがいされ   よっ    いちぞくら は   あつ   のゆえなり
是、葛西十郎僕從の爲殺害被るに依て、一族等馳せ集まる之故也。

しかしながら わだのさえもんのじょうよしもり しさい  じんもん    あいしず    うんぬん
然而、和田左衛門尉義盛、子細を尋問し、相鎭むと云々。

参考@二十五三昧は、二十五三昧会で、寛和二年(986)比叡山横川にあった首楞厳院で25人の僧が結集して結成された極楽往生を求める念仏結社。
参考A鎌倉中騒動すとあるのは、留守の間と云ってるので、御所の近辺を指しているのであろう。

現代語承元二年(1208)七月大十九日丙辰。永福寺阿弥陀堂で、極楽往生を求めて念仏を上げる二十五三昧が行われました。そこで、参列するために尼御台所政子様と将軍実朝様、それと将軍の奥さん坊門姫がお堂へ参りました。その御所を留守の間に、鎌倉内で騒ぎがありました。それはね、葛西十郎が下男に殺されて、一族が走り集まったからです。それでも、侍所別当の和田左衛門尉義盛が事情を調べて、鎮めたんだそうな。

承元二年(1208)七月大廿日丁巳。午尅地震。

読下し                    うまのこくじしん
承元二年(1208)七月大廿日丁巳。午尅地震。

現代語承元二年(1208)七月大二十日丁巳。午の刻(昼ごろ)に地震がありました。

承元二年(1208)七月大廿二日己未。リ。南風擧塵。晩鐘之程。藤内左衛門尉季康自京都歸參。去月日。上皇南山臨幸。新宮三ケ日。本宮七日御逗留也。今月五日還御。而御奉幣之後。院入御々所。不經幾程。坊門殿宿所失火。御先達僧正之坊爲灰燼。黒煙又覆寳殿。上皇臨幸。以人勢打銷之間。無爲云々。

読下し                     はれ  なんぷうちり  あ     ばんしょうのほど  とうないさえもんのじょうすえやす きょうとよ   きさん
承元二年(1208)七月大廿二日己未。リ。南風塵を擧ぐ。晩鐘之程、 藤内左衛門尉季康@、 京都自り歸參す。

さんぬ つきひ  じょうこう なんざんりんこう  しんぐう  みっかび  ほんぐう  なぬか ごとうりゅうなり  こんげついつかかんご
去る月日、上皇 南山A臨幸。新宮に三ケ日、本宮に七日御逗留也。今月五日還御す。

しか    ごほうへいののち  いんごしょ  にゅうぎょ    いくほど   へず   ぼうもんどの しゅくしょしっか   ごせんだつそうじょうのぼうかいじん  な
而して御奉幣之後、院々所へ入御し、幾程を經不。坊門殿Bが宿所失火す。御先達僧正C之坊灰燼と爲す。

こくえんまた  ほうでん おお    じょうこうりんこう    ひと  せい  もっ  うちけ   のかん   むい   うんぬん
黒煙又、寳殿を覆う。上皇臨幸す。人の勢を以て打銷す之間、無爲と云々。

参考@藤内左衛門尉秀康は、坊門姫のお供で鎌倉に来たが、後鳥羽上皇の熊野詣に坊門忠清が馬が欲しいとの要求に届けに5月26に上洛した。
参考A南山は、熊野権現。いわゆる熊野詣。
参考B
坊門殿は、坊門信C。実朝室の兄。
参考C
御先達僧正は、長厳で信Cの仏教の師。

現代語承元二年(1208)七月大二十二日己未。晴れです。南風は噴いて土ぼこりを舞い上げていました。夕暮れの鐘が鳴るころになって、藤内左衛門尉季康が京都から帰ってきました。先月に後鳥羽上皇は熊野詣に出かけ、新宮に三日間・本宮に七日間泊まってきました。今月の五日に京都へ戻りました。しかし、後鳥羽院が熊野権現にお参りして、院の旅の宿所に戻られてすぐに、坊門さんの旅の宿所で失火しました。水先案内の先達の僧正の宿舎が灰となりました。黒煙が本殿までかぶったので、後鳥羽上皇も心配して出てきましたが、大勢の人ではたき消したので、無事だったんだとさ。

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