吾妻鏡入門第十九巻

承元二年戊辰(1208)八月

承元二年(1208)八月大十五日壬午。鶴岳放生會如例。但將軍家無御出。

読下し                     つるがおか ほうじょうえ  れい  ごと    ただ  しょうぐんけ  ぎょしゅつな
承元二年(1208)八月大十五日壬午。鶴岳の放生會、例の如し。但し將軍家、御出無し。

現代語承元二年(1208)八月大十五日壬午。鶴岡八幡宮で生き物を放つ儀式放生会は、何時もの年の通りです。但し、将軍実朝様のお出ましはありませんでした。

承元二年(1208)八月大十六日癸未。將軍家入御馬塲棧敷。於其所有御送拝之儀。美作藏人朝親。橘判官代隆邦等爲御使捧御幣。參宮寺。神馬二疋被奉之。入夜。尼御臺所又御奉幣。

読下し                     しょうぐんけ   ばば   さじき  にゅうぎょ    そ  ところ  をい  ごそうはいの ぎ あ
承元二年(1208)八月大十六日癸未。將軍家、馬塲の棧敷@へ入御す。其の所に於て御送拝之儀有り。

みまさかくらんどともちか たちばなほうがんだいたかくにら おんし  な   ごへい   ささ     ぐうじ   まい     しんめ にひき これ たてまつらる
 美作藏人朝親、 橘判官代隆邦等、 御使と爲し御幣を捧げ、宮寺へ參り。神馬二疋之を奉被る。

よ   い    あまみだいどころまた ごほうへい
夜に入り、尼御臺所又、御奉幣。

参考@馬塲の棧敷は、八幡宮の中間にある左右に鳥居の建つ道が流鏑馬道で、その西の鳥居の外に流鏑馬道に向かって桟敷を設けた。

現代語承元二年(1208)八月大十六日癸未。将軍実朝様は、流鏑馬馬場の仮設見学席へお入りになられました。その場所で、御幣を捧げる者を送りながら遠くからお参りをしました。美作蔵人朝親と橘判官代隆邦が、使いとして御幣を捧げ持って鶴岡八幡宮寺へお参りし、馬を二頭寄付してきました。夜になって尼御台所政子様も同様に御幣を捧げました。

承元二年(1208)八月大廿日丁亥。故大夫判官義成嫡男左兵衛尉時成參上。讓得亡父遺跡也。於朝恩無異儀。關東御恩地同可蒙其旨之由申之。

読下し                   こたいふほうがんよしなり  ちゃくなん  さひょうえのじょうときなりさんじょう   ぼうふ  ゆいせき  ゆず  え   なり
承元二年(1208)八月大廿日丁亥。故大夫判官義成が嫡男、 左兵衛尉時成 參上す。亡父の遺跡を讓り得る@也。

ちょうおん をい  いぎ な     かんとうごおん  ち   おな    そ   むね  こうむ べ   のよし  これ  もう
朝恩Aに於て異儀無し。關東御恩の地B、同じく其の旨を蒙る可し之由、之を申す。

参考@遺跡を讓り得るは、相続をする。
参考A朝恩は、京都朝廷から与えられた官職など。
参考B關東御恩の地は、鎌倉幕府から認められている本貫地と地頭職とその領地。

現代語承元二年(1208)八月大二十日丁亥。故大夫判官小野義成の跡継ぎの左兵衛尉小野時成がやって参りました。亡き父の職の権限相続を許可されたからです。朝廷から与えられた官職に文句はありませんが、鎌倉幕府から認められてきた本領地とその地頭職を同様に相続させてほしいと申しあげました。

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