吾妻鏡入門第十九巻

承元二年戊辰(1208)九月

承元二年(1208)九月小三日庚子。陰。熊谷小次郎直家上洛。是父入道來十四日於東山麓可執終之由。示下之間。爲見訪之云々。進發之後。此事披露于御所中。珍事之由。有其沙汰。而廣元朝臣云。兼知死期。非權化者。雖似有疑。彼入道遁世塵之後。欣求浄土。所願堅固。積念佛修行薫修。仰而可信歟云々。

読下し                    くも    くまがいのこじろうなおいえ じょうらく
承元二年(1208)九月小三日庚子。陰り。熊谷小次郎直家@上洛す。

これ  ちちにゅうどう  きた  じうよっか  ひがしやま ふもと をい  と   おえ  べ   のよし  しめ  くだ  のかん  これ  みとぶら    ため  うんぬん
是、父入道A、來る十四日、東山の麓に於て執り終る可き之由、示し下す之間、之を見訪はん爲と云々。

しんぱつののち  かく  こと  ごしょちうに ひろう     ちんじの よし   そ    さた あ     しか    ひろもとあそん い
進發之後、此の事、御所中于披露す。珍事之由、其の沙汰有り。而るに廣元朝臣云はく。

かね  し   ご   し     ごんげ  あらず ば   うたが あ    に      いへど    か  にゅうどうせじん  のが  ののち  じょうど  ごんぐ
兼て死の期を知る。權化に非ん者、疑い有るに似たりと雖も、彼の入道世塵を遁る之後、浄土を欣求しB

きがん けんご    ねんぶつ  つ  くんじゅう しゅぎょう   あお  て しん    べ   か   うんぬん
所願堅固に、念佛を積み薫修を修行すC。仰ぎ而信ずる可き歟と云々。

参考@熊谷小次郎直家は、謡曲敦盛で有名な熊谷次郎直實の嫡子。次郎の次郎なので小次郎。
参考A父入道は、熊谷次郎直實、出家して蓮生坊。
参考B欣求浄土は、阿弥陀仏の清浄な極楽浄土の世界への往生を切望する。徳川家康は、馬印に「厭離穢土欣求浄土」の文字を書いた幟旗を用いた。
参考C薫修を修行すは、仏教の修行を積んだ。師は法然。

現代語承元二年(1208)九月小三日庚子。曇りです。熊谷小次郎直家が京都へ向かいました。これは、父の入道蓮生坊熊谷次郎直実が今度の十四日に東山の麓で人生を終えると云ってきたので、これを看取るためなんだそうな。出発後に御所へ事情を伝えさせました。これは珍しいことだと云われました。
しかし、大江広元が言うのには「あらかじめ死期を知るなんてことは、神様じゃあるまいし怪しいもんだと思われますが、あの入道蓮生坊は、世間から出家遁世した後は、ひたすら浄土への往生を切望し、願をしっかり立てて、念仏の修業を積んでおります。尊敬して信じるべきものでしょう。」だとさ。

承元二年(1208)九月小九日丙午。鶴岳宮祭。將軍家無御參。美作藏人朝親爲奉幣御使。

読下し                   つるがおか  まつり しょうぐんえぎょさんな    みまさかのくらんどともちか ほうへい  おんしたり
承元二年(1208)九月小九日丙午。鶴岳宮の祭。將軍家御參無し。 美作藏人朝親 奉幣の御使爲。

現代語承元二年(1208)九月小丙午。鶴岡八幡宮の重陽の節句です。将軍実朝様は参拝せず、美作蔵人朝親が、御幣を捧げる代役です。

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