承元三年己巳(1209)五月大
承元三年(1209)五月大五日丁酉。出羽國羽黒山衆徒等群參。是所訴地頭大泉二郎氏平也。仍今日爲仲業奉行遂一决。當山先例非地頭進止。且可停止入部追捕之旨。故故(將)軍御書分明之間。山内令安堵之處。氏平或顛倒万八千枚福田料田。或於山内事致口入之條。無謂之由。衆徒申之。氏平無指陳謝之間。背先例張行無道事。不可然之趣。被仰下云々。 |
読下し でわのくに はぐろさん しゅと ら ぐんさん
これ
ぢとう おおいずみのじろううじひら うった ところなり
承元三年(1209)五月大五日丁酉。出羽國羽黒山@の衆徒等群參す。是、地頭
大泉二郎氏平Aを訴へる所也。
よっ きょう なかなりぶぎょう な
いっけつ と
仍て今日、仲業奉行と爲し一决を遂ぐ。
とうざん せんれい ぢとう
しんじ あらず かつう にゅうぶ ついぶ
ちょうじすべ のむね こしょうぐん おんしょ
ぶんめいのかん さんないあんどせし のところ
當山の先例は地頭の進止に非B、且は入部C追捕Dを停止可し之旨、故將軍の御書に分明之間、山内安堵令む之處、
ううじひらある
まんはっせんまい ふくでん りょうでん てんとう
ある さんない をい こと くにゅう いた のじょう いはれな のよし しゅと これ もう
氏平或ひは万八千枚の福田の料田を顛倒し、或ひは山内に於て事に口入を致す之條、謂無き之由、衆徒之を申す。
ううじひら さ ちんしゃな のかん せんれい そむ ぶどう ちょうぎょう こと しか べからずのおもむき おお くださる うんぬん
氏平指せる陳謝無き之間、先例に背き無道を張行する事、然る不可
之 趣、 仰せ下被ると云々。
参考@羽黒山は、関東御祈願所。
参考A大泉二郎氏平は、武藤少貳資頼の弟で出羽大泉庄の地頭から羽黒山の地頭になり大宝寺氏として栄える。大泉庄は、山形県鶴岡市大宝寺町周辺。
参考B地頭の進止に非は、地頭に任せては居ない。
参考C入部は、干渉権。
参考D追捕は、警察権。
現代語承元三年(1209)五月大五日丁酉。出羽国羽黒山の低階層の僧兵達が群れ集まりました。是は、地頭の大泉二郎氏平が訴へてきた事です。それなので今日、右京進仲業を担当として将軍の御前で対決をさせました。羽黒山は元から地頭の支配権はありません。それなので、干渉や武力行使を止めさせるように、故頼朝将軍の命令書に明らかなので、寺では皆安心して仕えていたところ、氏平が一万八千枚の寺の維持費用の田の年貢を横取りして、しかも寺内へ干渉してくる事は、妥当な事ではないと、僧兵は申し出ました。これに対し氏平はちゃんとした弁明が出来ないので、先例を破って勝手なふるまいをしたこと、それはいけないと命令して下さいましたとさ。
承元三年(1209)五月大十二日甲辰。和田左衛門尉義盛可被擧任上総國司之由。内々望申之。將軍家被申合尼御臺所御方之處。故 將軍御時。於侍受領者可停止之由。其沙汰訖。仍如此類不被聽。被始例之條。不足女性口入之旨。有御返事之間。不能左右云々。 |
読下し わださえもんのじょうよしもり かずさこくし きょにんせら べ のよし ないないこれ のぞ もう
承元三年(1209)五月大十二日甲辰。和田左衛門尉義盛、上総國司に擧任被る可き之由、内々之を望み申す。
しょうぐんけ あまみだいどころ おんかた
もう あ さる のところ こしょうぐんおんとき さむらい ずりょう をい
は ちょうじすべ のよし そ さたをはんぬ
將軍家、尼御臺所の御方に申し合は被る之處、故將軍御時、侍の受領に於て者停止可し之由、其の沙汰訖。
よつ かく ごと たぐい ゆるされず れい
はじ らる のじょう にょしょう くにゅう たらざるのむね ごへんじ あ のかん とこう あたはず うんぬん
仍て此の如き類は聽被不。例を始め被る之條、女性の口入に足不之旨、御返事有る之間、左右に不能と云々。
現代語承元三年(1209)五月大十二日甲辰。和田左衛門尉義盛は、上総の国司に推薦して欲しいと、内々に頼んでいました。将軍実朝様は、母の尼御台所政子様に相談してみたら、「故頼朝様の時代に、侍の国司への任命はしてはいけないとお決めになられておりました。それなので、このような事は許されませんよ。貴方が新たな礼を作ると云うのなら、女の私が口を出す事ではありません。」と返事をされてしまったので、どうにも出来なくなってしまいましたとさ。
承元三年(1209)五月大十五日丁未。御參神嵩并岩殿觀音堂。御還向之間。渡御女房駿河局比企谷家。山水納凉之地也云々。 |
読下し こうのだけ なら いわどのかんのんどう ぎょさん
承元三年(1209)五月大十五日丁未。神嵩@并びに岩殿觀音堂Aへ御參す。
ごかこうのかん にょぼう
するがのつぼね ひきがやつ いえ とぎょ さんすいのうりょうのちなり うんぬん
御還向之間、女房
駿河局 の比企谷Bの家へ渡御す。山水納凉之地也と云々。
参考@神嵩は、神奈川県逗子市沼間二丁目の神武寺。
参考A岩殿觀音堂は、神奈川県逗子市久木5丁目7の岩殿寺。
参考B比企谷は、神奈川県鎌倉市大町一丁目十五番妙本寺の地。
現代語承元三年(1209)五月大十五日丁未。逗子の神武寺と岩殿寺へお参りをしました。帰りがけに女官の駿河局の比企谷の家へ寄りました。山水が風光明媚で森が深く涼しいからなんだとさ。
承元三年(1209)五月大廿日壬子。於法華堂。爲故梶原平三景時并一類亡率等。被修佛事。導師眞智房法橋隆宣也。相州被參。是日來營中有恠異等。又有御夢想之告。仍且以修善。爲被宥彼怨靈。俄及此儀云々。 |
読下し ほけどう をい こかじわらのへいざかげときなら いちるいぼうそつら
ため ぶつじ
しゅうさる
承元三年(1209)五月大廿日壬子。法華堂に於て、故梶原平三景時并びに一類亡率等の爲、佛事を修被る。
どうし しんちぼうほっきょうりゅうせんなり そうしゅうまいらる
これ ひごろ
えいちう かいい ら あ また ごむそうのつげあ
導師は眞智房法橋隆宣也。相州參被る。是、日來營中に恠異等有り。又、御夢想之告有り。
よっ かつかつ しゅうぜん もっ か おんりょう なだ られ ため にはか かく ぎ およ うんぬん
仍て
且、修善を以て、彼の怨靈を宥め被ん爲、俄に此の儀に及ぶと云々。
現代語承元三年(1209)五月大二十日壬子。頼朝法華堂で、梶原平三景時とその一族の鎮魂のために法事を行いました。指導僧は、真智坊法橋隆宣です。相州義時も参りました。それは最近御所の中で不可思議な現象が起こるのと、夢のお告げがあったからです。それなので法事をやってその怨霊を鎮めるために、急にこの儀式を思い立ったからなんだとさ。
承元三年(1209)五月大廿三日乙夘。左衛門尉義盛上総國司所望事。以前者内々望也。今日已付款状於大官令。始載治承以後度々勳功事。後述懷所詮一生餘執只爲此一事之由云々。 |
読下し さえもんのじょうよしもり
かずさこくし しょもう
こと いぜんは ないない のぞ なり
承元三年(1209)五月大廿三日乙夘。左衛門尉義盛、上総國司を所望の事。以前者内々の望み也。
きょう
すで かじょうを だいかんれい ふ
今日已に款状於大官令に付す。
はじ じしょう
いご たびたび くんこう こと の のち しょせんいっしょう
よしつ ただ こ いちじたる のよし じゅっかい うんぬん
始めに治承以後の度々の勳功の事を載せ、後に所詮一生の餘執只此の一事爲之由を述懷すと云々。
現代語承元三年(1209)五月大二十三日乙卯。和田左衛門尉義盛が、上総の国司職(上総介)を欲しいと前から内々に希望していました。今日、とうとう嘆願書を大官令大江広元に出しました。その内容は、初めに治承四年の旗揚げ以降の数々の手柄を書き立て、後ろの方には、この生涯の内で心残りだなのはこの一つだけだとしみじみ述べてあるんだとさ。
承元三年(1209)五月大廿六日己未。霽。將軍家更令任右中將給。 |
読下し はれ しょうぐんけ さら うちうじょう にんぜし たま
承元三年(1209)五月大廿六日己未。霽。將軍家、更に右中將に任令め給ふ。
現代語承元三年(1209)五月大二十六日己未。晴れました。将軍実朝様は、先月の従三位付与に加え、さらに右中将に任命されました。
承元三年(1209)五月大廿八日辛酉。西濱〔号之飯嶋〕邊騒動。是梶原兵衛太郎家茂逍遥于小坪浦。歸去之處。土屋三郎宗遠兼依有宿意。相逢于和賀江邊。殺害家茂之故也。宗遠即馳參御所。付和田兵衛尉常盛。進太刀。仍被召預其身於義盛也。 |
読下し にしはま 〔これいいじま ごう 〕 へんそうどう
承元三年(1209)五月大廿八日辛酉。西濱@〔之飯嶋と号す〕邊騒動す。
これ かじわらのひょうえたろういえもち こつぼうらへんにしょうよう かえ さ のところ つちやのさぶろうむねとお かね すくいあ よっ
是、梶原兵衛太郎家茂、小坪浦于逍遥し、歸り去る之處、土屋三郎宗遠、兼て宿意有るに依て、
わがえじまへん に あいあ いえもち せつがい のゆえなり
和賀江邊于相逢い、家茂を殺害する之故也。
むねとおすなは ごしょ は さん わだのひょうえのじょうつねもり ふ たち しん よっ そ みを よしもり め あず らる なり
宗遠即ち御所へ馳せ參じ、和田兵衛尉常盛に付し、太刀を進ず。仍て其の身於義盛に召し預け被る也。
参考@西濱は、鎌倉市材木座六丁目と逗子市小坪を結ぶ国道134号線のトンネルに「飯島隧道」の名が残ることから、恐らく小坪漁村から見て西の浜の意であろうから、現光明寺前のあたりの材木座海岸を指すと思われる。
現代語承元三年(1209)五月大二十八日辛酉。西浜〔飯島とも云います〕のあたりで騒ぎがありました。それは、梶原兵衛太郎家茂が小坪の海へ散歩に出かけその帰り道で、土屋三郎宗遠が前から恨みを持っていたので、和賀江のあたりで待ち伏せてて、家茂を殺してしまったからです。土屋三郎宗遠は、すぐに御所へ走って来て、和田兵衛尉常盛を通して刀を差し出しました。そこで、その身柄を侍所長官の和田義盛に預けられることになりました。