吾妻鏡入門第十九巻

承元三年己巳(1209)六月小

承元三年(1209)六月小十三日乙亥。土屋三郎宗遠捧款状。是右大將軍御時以來竭勤厚也。家茂者謀叛人景時孫子也。 奉公与不忠。難被對揚之間。雖進兵具。爭被召禁之乎。失眉目之由載之。義盛執申之。將軍家直覽之。仰云。状之趣無其理。當時雖不可有沙汰。當于先考御月忌有此愁。併奉優彼照鑒。被厚免之云々。

読下し                     つちやのさぶろうむねとお かじょう  ささ    
承元三年(1209)六月小十三日乙亥。 土屋三郎宗遠 、款状を捧ぐ。

これ  うだいしょうぐん  おんときいらい きんあつ つく  なり  いえもちは むほんにんかげとき  まご なり  
是、右大將軍の御時以來勤厚を竭す也。家茂者謀叛人景時の孫子也。

ほうこう と ふちう   たいよう されがた  のかん  ひょうぐ  しん   いへど    いかで これ  め   いまし られ  や   びもく   うしな  のよしこれ  の
奉公与不忠、對揚@被難き之間、兵具を進ずと雖も、爭か之を召し禁め被ん乎。眉目を失う之由之を載せる。

よしもりこれ  と   もう     しょうぐんけこれ  じか  み     おお    い
義盛之を執り申す。將軍家之を直に覽て、仰せて云はく。

じょうのおもむき そ ことわりな   とうじ さた あ   べからず  いへど   せんこう  おんつきいみ に あた  こ   うれ  あ
状之趣、其の理無し。當時沙汰有る不可と雖も、先考の 御月忌A于當り此の愁ひ有り。

しかしなが か  しょうかん  ゆう たてまつ   これ こうめんさる    うんぬん
 併ら 彼の照鑒Bに優じ奉り、之を厚免被ると云々。

参考@對揚は、比較する。
参考A月忌は、月違いの命日。頼朝は一月十三日。
参考B照鑒は、神などが照らし見る(現代語にし難い)。

現代語承元三年(1209)六月小十三日乙亥。土屋三郎宗遠が、嘆願書を提出しました。それは、「頼朝様の時代からずうーっと真面目に奉公をしてきました。梶原家茂は、幕府に謀反した梶原平三景時の孫です。奉公しているものと裏切ったものと比較しようがありませんが、武器を提出したからと云って、なんで囚われるのでしょう。面目を失いました。」と書いてあります。預っている和田義盛が、これを取り次ぎました。
将軍実朝様は、じかにこれを見ておっしゃるのには「嘆願書の内容は筋が通っていない。だから今、安易に決断すべきではないけれど、頼朝様の月違いの命日に、このような問題が出ているのは、天国の頼朝様もお読みになられた事であろうから、これに免じて許してあげよう。」とのことだとさ。

承元三年(1209)六月小十九日辛巳。源近利被加鶴岳職掌。圖書允C定爲奉行沙汰之。

読下し                     みなもとのちかとし つるがおか しきしょう くは  らる    ずしょのじょうきよさだ ぶぎょう  な   これ   さた
承元三年(1209)六月小十九日辛巳。 源近利 、鶴岳の職掌@に加へ被る。圖書允C定、奉行と爲し之を沙汰す。

参考@職掌は、雅楽を奏でる人。

現代語承元三年(1209)六月小十九日辛巳。源近利を鶴岡八幡宮の雅楽の楽人に加えました。図書允清定が担当して処理しました。

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