承元三年己巳(1209)十一月大
承元三年(1209)十一月大一日辛夘。鶴岳宮神樂也。將軍家無御出。遠江守源親廣爲奉幣御使參宮寺。 |
読下し つるがおかぐう かぐらなり しょうぐんけぎょしゅつな とおとうみのかみみなもとのちかひろ ほうへい おんし な ぐうじ まい
承元三年(1209)十一月大一日辛夘。鶴岳宮の神樂也。將軍家御出無し。 遠江守源親廣 、奉幣の御使と爲し宮寺へ參る。
現代語承元三年(1209)十一月大一日辛卯。鶴岡八幡宮のお神楽の奉納です。将軍実朝様のお参りはありません。遠江守源親広が幣を捧げる代参に鶴岡八幡宮寺へ行きました。
承元三年(1209)十一月大四日甲午。於小御所東面小庭。和田新左衛門尉常盛以下壯士等射切的。是弓馬事不可被思食弃之由。相州依諌申。所被興行也。故可有勝負云々。 |
読下し
こごしょ ひがしつら こにわ をい わだしんさえもんのじょうつねもり いか そうしら きりまと い
承元三年(1209)十一月大四日甲午。小御所の東面の小庭に於て、和田新左衛門尉常盛以下の壯士等切的@を射る。
これ きゅうば
ことおぼ め すてらる べからざるのよし そうしゅうかん もう よっ こうぎょうさる ところなり ことさら しょうぶあ べ うんぬん
是、弓馬の事思し食し弃被る不可之由、相州諌じ申すに依て、興行被る所也。
故に勝負有る可しと云々。
参考@切的は、的の一種で鉋をかけた二寸(6cm)四方の板を串にさして、地面から一尺(30cm)の高さに設定した。
現代語承元三年(1209)十一月大四日甲午。小御所の東側の小さな庭で、和田新左衛門尉常盛を始めとする若者たちが弓矢で板の切的を射ました。関東武士は、馬と弓矢の芸を忘れてはいけませんと、相州義時が諫言したので、実施したわけなのです。そういうことで士気を上げるためわざわざ勝ち負けを設けたんだそうな。
承元三年(1209)十一月大五日乙未。相摸國大庭御厨内。有大日堂。本尊殊靈佛也。故將軍御歸依不等閑。而近年破壞之由。就被聞食及。召損色。可加修造之旨。今日被仰相州云々。 |
読下し さがみのくにおおばのみくりやない だいにちどう あ
ほんぞんこと れいぶつなり
承元三年(1209)十一月大五日乙未。相摸國
大庭御厨内に、大日堂@有り。本尊殊なる靈佛也。
こしょうぐん ごきえ よっ なおざり せず
故將軍、御歸衣に依て等閑に不。
しか きんねん
はかいのよし き めされおよ つ そんじき
め しゅうぞう くは べ のむね きょう
そうしゅう おお らる うんぬん
而るに近年破壞之由、聞こし食被及ぶに就き、損色を召し、修造を加へる可き之旨、今日相州に仰せ被ると云々。
参考@大日堂は、神奈川県藤沢市西俣野の御嶽神社。
現代語承元三年(1209)十一月大五日乙未。相模国の大庭の御厨の内に大日如来を祀るお堂があります。本尊は特に霊験あらたかです。亡き頼朝様は信仰してたので放ってはおかず大切にしていました。しかし、最近壊れて来たとお聞きになられ、不快に思い修理をするように、今日相州義時に命令されたそうな。
承元三年(1209)十一月大七日丁酉。去四日弓勝負事。負方衆獻所課物。仍營中及御酒宴乱舞。公私催逸興。以其次。武藝爲事。令警衛 朝庭給者。可爲關東長久基之由。相州大官令等被盡諷詞云々。 |
読下し さんぬ よっか ゆみ
しょうぶ こと まけかた しゅう
しょかぶつ けん
承元三年(1209)十一月大七日丁酉。去る四日の弓の勝負の事、負方の衆所課物を獻ず。
よっ えいちう ごしゅえんらんぶ およ こうし えっきょう もよお
仍て營中で御酒宴乱舞に及ぶ。公私逸興を催す。
そ
ついで もっ ぶげい こと な ちょうてい けいえいせし たま
ば かんとうちょうきゅう もといたるべ のよし
其の次を以て、武藝を事と爲し、朝庭を警衛令め給は者、關東
長久の基爲可き之由、
そうしゅう だいかんれいら
ふうし つくさる うんぬん
相州、大官令等諷詞を盡被ると云々。
現代語承元三年(1209)十一月大七日丁酉。先日の四日の弓矢の勝負について、負けた方が賭けの品物を提出しました。それで御所で呑んだり踊ったりの大宴会になりました。将軍も部下も共に大喜びでした。そのついでに、武力の技を持って朝廷を警護すれば関東の安泰の基になると、相州義時・大官令大江広元が遠まわしに云って聞かせましたとさ。
承元三年(1209)十一月大八日戊戌。鶴岳神宮寺可奉常燈之由。被仰下。以駿河國益頭庄乃貢。可爲彼燈油之由。被仰相州云々。 |
読下し つるがおか
じんぐうじ じょうとう たてまつ べ のよし おお くださる
承元三年(1209)十一月大八日戊戌。
鶴岳 神宮寺に常燈@を奉る可し之由、仰せ下被る。
するがのくに ましづのしょう のうぐ もっ か とうゆたるべ のよし そうしゅう おお らる うんぬん
駿河國
益頭庄Aの乃貢を以て、彼の燈油爲可しB之由、相州に仰せ被ると云々。
参考@常燈は、常灯で神仏の前に常にともしておくあかり。油代。
参考A益頭庄は、静岡県藤枝市益津。元池頼盛の領地で関東御領。北條時政に与えたので、この時点では義時が地頭。領家は将軍。
参考B燈油為可しは、油代とその維持費に年貢をあてる。
現代語承元三年(1209)十一月大八日戊戌。鶴岡八幡宮の神社を守る寺の神宮寺に神仏の前で常に灯しておく灯りの油代を寄付するように命じられました。そこで駿河国益津庄の年貢をその油代にするようにと、相州義時に命じられましたそうな。
承元三年(1209)十一月大十四日甲辰。相州年來郎從〔皆伊豆國住民也。号之主達〕之中。以有功之者。可准侍之旨。可被仰下之由。被望申之。内々有其沙汰。無御許容。於被聽其事者。如然之輩。及子孫之時。定忘以往由緒。誤企幕府參昇歟。可招後難之因縁也。永不可有御免之趣。嚴密被仰出云々。 |
読下し
そうしゅう ねんらい ろうじゅう 〔みな いずのくに じゅうみんなり これ おもだち ごう 〕 のなか こうあ のもの もっ
承元三年(1209)十一月大十四日甲辰。相州が年來の郎從@〔皆伊豆國の住民也。之を主達と号す〕之中、功有る之者を以て、
さむらい じゅん
べ のむね おお くださる べ のよし これ
のぞ もうされ ないない そ さた あ
ごきょよう な
侍
に准ずる可き之旨、仰せ下被る可き之由、之を望み申被る。内々に其の沙汰有り。御許容無し。
そ
こと ゆるさる をい は しか ごと のやから しそんのとき およ さだ いおう ゆいしょ わす あやま ばくふさんしょう くはだ か
其の事を聽被るに於て者、然る如き之輩、子孫之時に及び、定めて以往の由緒を忘れ、誤りて幕府參昇を企てん歟。
こうなん まね べ のいんねんなり なが
ごめん あ べからずのおもむき げんみつ おお い らる うんぬん
後難を招く可き之因縁也。永く御免有る不可之
趣、 嚴密に仰せ出だ被ると云々。
参考@相州が年來の郎從は、義時に仕える武士。またもの。陪臣。これが貞時の専制政治時代から、実朝の心配の通り取次ぎが力を持ってきてのさばる。
現代語承元三年(1209)十一月大十四日甲辰。相州義時は、自分に長く仕えてきた部下達〔皆伊豆国の土豪たちです。主達(おもだち)と呼んでます〕の中で、特に手柄のある者を御家人に準じた扱いにして欲しいと希望しました。内々に裁断を伺いましたが許可されませんでした。
もし、それを許してしまえば、そのような連中の子孫の時代になると、初めのいきさつを忘れて、間違って直参として政治への参加をしようとするだろう。そういう後の問題を招く原因となるであろう。絶対に未来においても許すべきではないと厳しくおっしゃられましたそうな。
承元三年(1209)十一月大廿日庚戌。諸國守護人緩怠之間。群盜動令蜂起。爲庄保煩之由。國衙之訴出來。依之條々被凝群儀。於爲一身定役者。還誇故實。可有懈緩之儀。結番人數各相替。差年限。可令奉行歟。不然者。被尋聞食國々子細。可被改不忠輩歟之由。雖有其沙汰。未被一决。以此次。彼職補任本御下文等。可進覽之旨。先被仰近國。是自然恩澤与勳功賞。事可有差別之故也。義盛。仲業。C定等奉行之。 |
読下し しょこく しゅごにん
けたいの かん ぐんとうやや ほうきせし
しょうほう わずら な のよし
承元三年(1209)十一月大廿日庚戌。諸國の守護人緩怠之間、群盜動もすれば蜂起令め、庄保の煩ひを爲す之由、
こくがのうったへ しゅつらい これ
よっ じょうじょう ぐんぎ こ さる
國衙之訴へ出來す。之に依て條々の群儀を凝ら被る。
いっしん
じょうやく な をい は かへつ こじつ ほこ けたい
あ べ のぎ
一身の定役を爲すに於て者、還て故實に誇り、懈緩有る可し之儀、
けちばん にんずう おのおの
あいかは ねんげん さ ぶぎょうせし べ か
結番の人數 各 相替り、年限を差し、奉行令む可き歟。
しからずんば くにぐに
しさい たず きこ めされ ふちゅう やから あらた らる べ か
のよし そ さた あ いへど いま いっけつされ
不然者、國々の子細を尋ね聞し食被、不忠の輩を改め被る可き歟之由、其の沙汰有りと雖も、未だ一决被ず。
かく ついで もつ
か しき ぶにん もと おんくだしぶみら しんらんすべ のむね ま
きんごく おお らる
此の次を以て、彼の職補任の本の御下文等を、進覽可し之旨、先づ近國へ仰せ被る。
これ じねん おんたくと
くんこう しょう ことさべつ あ べ のゆえなり よしもり なかなり きよさだら
これ ぶぎょう
是、自然の恩澤与勳功の賞と、事差別有る可し之故也。義盛、仲業、C定等之を奉行す。
現代語承元三年(1209)十一月大二十日庚戌。諸国の守護人が警戒を怠けているので、盗人の群れがどうかすれば集団蜂起して年貢を横取りするので、荘園や国衙領の保で年貢を徴収できないと、国衙の役人が訴えてきました。それなので、色々と会議で検討をしました。
(実朝将軍は)ずうっと同じ家代々の役職となっているので、先祖の手柄ばかりに自惚れて、怠けているんじゃないのかね。順番に班を組んで交代で、年限を決めて職務に当たらせたらどうか。でなければ、国毎に細かいいきさつを述べさせてみて、きちんと出来ていない人を変えてみたらどうかと、その話は出ているのですが、未だに決定はされていません。
(実朝将軍は)むしろこの機会に、その職を命じられたときの元の命令書を提出させるように、まづ鎌倉に近い関東へ命令をされました。これは、先祖伝来の職(本領安堵)と、何か手柄を立てて新しく賞として任命された新恩とを、分けて考えるべきだとの考えからです。和田義盛、右京進仲業、図書允清定が処理担当をしました。
説明守護職の権限は、@軍勢催促(大番催促)、A謀反人の検断(犯罪者浪人の追捕)、B殺害人の検断。@いざ鎌倉の時に国中の御家人は守護の軍勢催促に従って出撃しなければならない。A謀反人を捕まえなくてはいけない。B殺害人を逮捕裁判する。しかし、この場合は単に守護職だけでなく、各地頭職も含んでいる。各地頭も己の領地内の悪党等は捕まえて幕府へ差し出さなくてはならない。
承元三年(1209)十一月大廿七日丁巳。和田左衛門尉義盛上総國司所望事。内々有御計事。暫可奉待左右之由蒙仰。殊抃悦云々。 |
読下し わださえもんのじょうよしもり かずさこくし しょもう こと ないない おんはから こと
あ
承元三年(1209)十一月大廿七日丁巳。和田左衛門尉義盛、上総國司所望の事、内々に御計ひの事有り。
しばら とこう ま たてまつ べ のよし おお こうむ こと べんえつ うんぬん
暫く左右を待ち奉る可し之由、仰せを蒙る。殊に抃悦と云々。
現代語承元三年(1209)十一月大二十七日丁巳。和田左衛門尉義盛が上総の国司職(親王立国なので上総介)を望んでいるのですが、しばらく判断を待つようにと云われましたので、大喜びだそうな。