吾妻鏡入門第十九巻

承元四年庚午(1210)二月小

承元四年(1210)二月小一日庚申。町口民屋燒亡。餘炎出若宮大路。中條右衛門尉家以下災云々。

読下し                   まちぐち  みんおくしょうぼう   よえん わかみやおおじ  い    ちうじょううえもんのじょう いえ いか わざわい  うんぬん
承元四年(1210)二月小一日庚申。町口
@の民屋燒亡す。餘炎若宮大路へ出で、中條右衛門尉の家以下災すと云々。

参考@町口は、若宮大路からの大町への入口の意味で下馬橋から大町へ入った辺りで、現在の延命寺附近であろう。

現代語承元四年(1210)二月小一日庚申。大町入口の民家が火事です。炎は若宮大路まで達し、中条右衛門尉家長の家などが燃えてしまいましたそうな。

承元四年(1210)二月小五日甲子。越後國菅谷寺者。護念上人薫修遺跡也。右幕下御時。雖有興行御志。空御事出來之後。渉年序訖。背先考御本懷歟之由。今更及御沙汰。彼寺邊尋出便宜闕所。可奉寄之由。今日被仰相州云々。

読下し                   えちごのくに かんこくじ は  ごねんしょうにん くんじゅう ゆいせきなり
承元四年(1210)二月小五日甲子。越後國菅谷寺
@者、護念上人A薫修の遺跡也。

うばっか   おんとき  こうぎょう おんころろざしあ    いへど    くうぎょ  こと いできた  ののち  ねんじょ  わた をはんぬ
右幕下の御時、興行の 御志 有ると雖も、空御の事B出來る之後、年序を渉り訖。

せんこう  ごほんかい  そむ  か の よし   いまさら   ごさた    およ    か   てらへん  びんぎ  けっしょ  たず  い        よ たてまつ べ   のよし
先考の御本懷に背く歟之由、今更に御沙汰に及び、彼の寺邊に便宜の闕所Cを尋ね出だし、寄せ奉る可し之由、

きょう そうしゅう  おお  らる    うんぬん
今日相州に仰せ被ると云々。

参考@菅谷寺は、新潟県新発田市菅谷860の菅谷寺(かんこくじ)の菅谷不動。
参考A護念上人は、頼朝の叔父に当たり建久六年十月十一日に新潟から鎌倉へ来て会っている。
参考B空御の事は、虚しい事で頼朝の死。
参考C
闕所は、領主の居ないと土地。

現代語承元四年(1210)二月小五日甲子。越後国(新潟県新発田市)の菅谷寺は、将軍実朝様の大叔父護念上人がいらっしゃった由緒あるお寺なのです。右幕下頼朝様の時代には、寺を繁栄させようとするお気持ちはありましたが、お亡くなりになった後年月を経てしまいました。先代のお気持ちに反しているのではないかと、遅ればせながら検討をされ、その寺の近くでちょうどよい無主の没収地を探し出して寄付するようにと、今日相州義時に命じられましたとさ。

承元四年(1210)二月小十日己巳。紀伊國阿弖川庄地頭職者。故右大將軍御時。爲高野大塔造營奉行賞。賜高雄文學房訖。御素意被限彼一身之處。此間。湯淺兵衛尉宗光稱得上人讓状。望申安堵御下文。被經御沙汰。以件地頭職。不申子細。無左右難讓補。輙不可被許容之由雖被仰之。宗光爲御家人有其功之上。准新恩可宛給之旨。頻依愁申。今日被成政所御下文云々。

読下し                   きいのくに あてがわのしょう  ぢとうしきは   こうだいしょうぐん  おんとき  こうや  だいとうぞうえい たてまつ ぎょうしょう ため
承元四年(1210)二月小十日己巳。紀伊國阿弖川庄
@の地頭職者、故右大將軍の御時、高野の大塔造營 奉る行賞の爲、

たかおもんがくぼう  たま   をはんぬ
高雄文學房に賜はり訖。

 ごそい   か   いっしん  かぎらる  のところ  こ  あいだ  ゆあさひょうえのじょうむねみつ  しょうにん ゆずりじょう え    しょう    あんど おんくだしぶみ のぞ  もう
御素意は彼の一身を限被る之處、此の間、 湯淺兵衛尉宗光A、 上人の讓状を得ると稱し、安堵の御下文を望み申す。

 ごさた    へられ  くだん  ぢとうしき  もっ     しさい   もうさず   そう な   じょうぶ  がた
御沙汰を經被、件の地頭職を以て、子細を申不、左右無く讓補し難し。

たやす きょうさる  べからずのよしこれ  おお  らる   いへど   むねみつ ごけにん  な   そ   こう あ    のうえ  しんおん なぞら あてたま   べ   のむね
輙く許容被る不可之由之を仰せ被ると雖も、宗光御家人と爲し其の功B有る之上、新恩に准ひ宛給はる可き之旨、

しきり うれ  もう     よっ    きょう まんどころ おんくだしぶみ なされ    うんぬん
頻に愁ひ申すに依て、今日 政所 御下文を成被ると云々。

参考@阿弖川庄は、和歌山県有田郡清水町。ミミヲキリハナヲソギ(底辺身分への刑罰)のカタカナ言上書で地頭湯浅氏を訴えたので有名。
参考A湯浅兵衛尉宗光は、栂ノ尾明恵上人の叔父。
参考B
其の功は、屋島、壇ノ浦での手柄。

現代語承元四年(1210)二月小十日己巳。紀伊国阿弖川庄(和歌山県清水町)の地頭職は、頼朝様の時代に高野山の大塔建立する褒美として高雄の門覚上人に与えられました。お気持ちでは、門覚上人一代だけのはずでしたが、いつの間にか湯淺兵衛尉宗光が、門覚上人から譲られた文書があると云って、幕府から認められた命令書を欲しいと云って来ました。ご検討をされたところ、その領地の地頭職を詳しい事情の説明もないのに、安易に譲渡を認められない。簡単に許可するべきではないと仰せになられましたが、湯浅兵衛尉宗光は鎌倉幕府の御家人として手柄があるので、仕方がないので新しい褒美として与えるようにと、盛んに愁訴するので、今日政務事務所の政所発行の命令書を作成させましたとさ。

承元四年(1210)二月小廿一日庚辰。リ陰。爲廣元朝臣奉行。發御使於京都。是明王院僧正公胤依可爲長講堂供養御導師。被遣上童等於裝束也。

読下し                     はれくもり ひろもとあそんぶぎょう  な     おんしを きょうと   はっ
承元四年(1210)二月小廿一日庚辰。リ陰。廣元朝臣奉行と爲し、御使於京都へ發す。

これ みょうおういんそうじょうこういん  ちょうこうどう くよう  ごどうし たるべ     よっ    わらわら  しょうぞくを つか  あ   らる  なり
是、 明王院僧正公胤、 長講堂@供養の御導師爲可きに依て、童等の裝束於遣い上げ被る也。

参考@長講堂は、京都市下京区にある西山浄土宗の寺。もと後白河法皇の仙洞六条御所内の持仏堂として建立。

現代語承元四年(1210)二月小二十一日庚辰。晴れたり曇ったりでした。大江広元が担当して、使いを京都へ行かせました。それは、明王院僧正公胤が、後白河法皇の持仏堂の長講堂の法事の指導僧をすることになっているので、稚児舞の着物などをお送りするためです。

承元四年(1210)二月小廿九日戊子。朝雨降。和田左衛門尉宅以南燒亡。南風烈。片時人屋數十宇災。

読下し                      あさあめふ    わださえもんのじょう   たく いなんしょうぼう   なんぷうはげ   へんし   じんおくすうじううわざわい
承元四年(1210)二月小廿九日戊子。朝雨降る。和田左衛門尉の宅以南燒亡す。南風烈し。片時に人屋數十宇災す。

現代語承元四年(1210)二月小二十九日戊子。朝のうち雨が降りました。和田左衛門尉義盛の屋敷から南が火事になりました。南風が激しいので、あっという間に民家数十が災難にあいました。

参考片時は、片時の間、一瞬の間。「へんじ」とも読むが古くは「へんし」。
参考
和田左衛門尉の宅は、若宮大路西側三の鳥居から二軒目に推定されている。

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