吾妻鏡入門第十九巻

承元四年庚午(1210)三月小

承元四年(1210)三月小十日戊戌。駿河前司季時使者自京都參着。申云。去月晦日未尅。高陽院殿馬塲御所燒失云々。

読下し                   するがのぜんじすえとき  ししゃ きょうとよ   さんちゃく   もう    い
承元四年(1210)三月小十日戊戌。駿河前司季時が使者京都自り參着し、申して云はく。

さんぬ つき みそか ひつじのこく かやのいんでん  ばばごしょ しょうしつ   うんぬん
去る 月 晦日 未尅。高陽院殿@の馬塲御所燒失すと云々。

参考@高陽院殿は、桓武天皇の皇子賀陽(かや)親王の邸宅。平安京左京中御門の南、大炊(おおい)御門の北、西洞院(にしのとういん)の西、堀川の東にあった。後冷泉・後三条天皇の内裏ともなる。のち藤原摂関家の邸宅。GOO電子辞書から。現在の上京区京都府庁あたりのようである。

現代語承元四年(1210)三月小十日戊戌。駿河前司中原季時の使が京都から到着して報告しました。先月の三十日の未の刻(午後二時頃)に摂関家の邸宅高陽院殿の馬場御所が火事で燃えましたとさ。

承元四年(1210)三月小十三日辛丑。去月所被遣明王院之御使歸參。申云。去二日。六條殿長講堂被遂供養。公胤爲御導師云々。

読下し                     さんぬ つき みょうおういん つか  さる  ところのおんし きさん     もう    い
承元四年(1210)三月小十三日辛丑。去る月、明王院
@へ遣は被る所之御使歸參し、申して云はく。

さんぬ ふつか ろくじょうでんちょうこうどう くよう  と   らる    こういん ごどうし   な     うんぬん
去る二日、六條殿長講堂A供養を遂げ被る。公胤御導師と爲すと云々。

参考@明王院は、公胤で、1145-1216、天台宗の僧、歌人。村上源治出身。明王院公胤。ウィキペディアから
参考A長講堂は、京都市下京区にある西山浄土宗の寺。もと後白河法皇の仙洞六条御所内の持仏堂として建立。Goo電子辞書から

現代語承元四年(1210)三月小十三日辛丑。先月、明王院僧正公胤に稚児舞の着物などをお送った使いが帰ってきて報告しました。先日の二日に、六条長講堂の法事をなされました。公胤が指導僧をしましたとさ。

承元四年(1210)三月小十四日壬寅。被造武藏國田文。國務條々更定之。當州者。右大將家御代初。爲一圓朝恩。所令國務給也。仍建久七年雖被遂國檢。未及目録沙汰云々。

読下し                     むさしのくに  たぶみ   つくらる    こくむ  じょうじょうさら  これ  さだ
承元四年(1210)三月小十四日壬寅。武藏國の田文
@を造被る。國務の條々更に之を定める。

とうしゅうは  うだいしょうけ   みよ はじ        いちえん ちょうおんたり  こくむせし  たま ところなり
當州者、右大將家の御代初めから、一圓の朝恩爲。國務令め給ふ所也。

よっ  けんきゅうしちねんこっけん と  らる   いへど    いま  もくろく   さた   およ     うんぬん
仍て建久七年國檢を遂げ被ると雖も、未だ目録の沙汰に及ばずと云々。

参考@田文は、中世、田地の面積や地籍を詳細に記した帳簿(田のみょうを書き込む)。大田文・図田帳・水帳など。Goo電子辞書から

現代語承元四年(1210)三月小十四日壬寅。武蔵国の田地を書き出した台帳の田文を作りました。国務を箇条書きにしてこれを決めました。この国は、頼朝様の代の始めから、国全体の管理を朝廷から認められ、治めてきました。ですから、建久七年に国内の検地はしましたが、まだ帳簿つくりまでしていなかっただそうです。

承元四年(1210)三月小廿二日庚戌。相州室依可有熊野詣。路次雜事等被充地頭等云々。仲業奉行之。

読下し                     そうしゅうしつ  くまのもうであ  べ     よっ     ろじ   ぞうじ ら    ぢとう ら    あ   らる   うんぬん
承元四年(1210)三月小廿二日庚戌。相州室
@、熊野詣有る可きに依て、路次の雜事等を地頭等に充て被ると云々。

なかなりこれ  ぶぎょう
仲業之を奉行す。

参考@相州室は、義時の妻で伊賀朝光の娘、伊賀局。

現代語承元四年(1210)三月小二十二日庚戌。相州義時様の奥さん伊賀局が、熊野詣をするとの事なので、旅の途中の雑多な用事を沿線の地頭に割り当てたんだとさ。右京進仲業が担当しました。

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