吾妻鏡入門第十九巻

承元四年庚午(1210)五月

承元四年(1210)五月小六日癸巳。將軍家渡御廣元朝臣家。相州。武州等被參。及和歌以下御興宴云々。亭主以三代集爲贈物云々。

読下し                    しょうぐんけ  ひろもとあそん  いえ  とぎょ    そうしゅう ぶしゅうら まいられ   わか いか   ごきょうえん  およ    うんぬん
承元四年(1210)五月小六日癸巳。將軍家、廣元朝臣の家
@へ渡御す。相州、武州等參被、和歌以下の御興宴に及ぶと云々。

てい あるじ さんだいしゅう もっ おくりもの  な     うんぬん
亭の主、三代集Aを以て贈物と爲すと云々。

現代語承元四年(1210)五月小六日癸巳。将軍実朝様は、大江広元さんの屋敷を訪問しました。相州義時・武州時房等も参加して、和歌を始めとするお遊びに嵩じましたとさ。館の主は古今和歌集・後選和歌集・拾遺和歌集の三代集を贈り物にしましたとさ。

参考@廣元朝臣の家は、大江広元の家は筋替橋際、元開化亭東の着替所(上屋敷)。又は、十二所920番附近の生活所(下屋敷)。たぶん前者。
参考A三代集は、三代和歌集で、古今和歌集、後選和歌集、拾遺和歌集。

承元四年(1210)五月小十一日戊戌。御家人中可參候本所瀧口之由。被仰下之間。早任 勅宣。可搆參之旨。今日被下御書。小山。千葉。三浦。秩父。伊東。宇佐美。後藤。葛西以下家々十三流奉之云々。皆是有譜第之寄云々。

読下し                     ごけにんちう ほんじょ たきぐち  さんこうすべ  のよし  おお  くださる  のかん
承元四年(1210)五月小十一日戊戌。御家人中本所
@瀧口Aへ參候可き之由、仰せ下被る之間、

はや ちょくせん まか    かま  まい  べ   のむね  きょうおんしょ  くださる
早く勅宣に任せ、搆へ參る可き之旨、今日御書を下被る。

おやま    ちば   みうら   ちちぶ   いとう    うさみ    ごとう   かさい いか  いえいえじうさんりゅうこれ たてまつ うんぬん  みなこれ ふだいの よせあ   うんぬん
小山、千葉、三浦、秩父、伊東、宇佐美、後藤、葛西以下の家々十三流之を奉ると云々。皆是、譜第之寄有りと云々。

現代語承元四年(1210)五月小十一日戊戌。御家人のうちで、上級荘園領主の本所や、京都御所の警備瀧口へ勤務しに行くようにと京都から命じて来たので、朝廷の命令に従って準備をして勤めてくるように、今日命令書を発行しました。小山・千葉・三浦・秩父・伊東・宇佐美・後藤・葛西をはじめとする十三の一族が勤めるそうです。この豪族たちは皆、代々その役に付く縁があるんだとさ。

参考@本所は、京都の朝廷や寺社または公卿の荘園領主。
参考A
瀧口は、白河法皇が設けた私兵で、御所の北の鑓水の取水口(瀧口・北面)に詰めていたのでそう呼ばれ、この経験を名誉として「瀧口」と云う。

承元四年(1210)五月小十四日辛丑。故畠山二郎重忠後家所領等。日來有子細。内々雖及改易御沙汰。不可有殊事之由。今日被仰出云々。

読下し                     こはたけやまのじろうしげただ ごけ   しょりょうら   ひごろ しさい あ
承元四年(1210)五月小十四日辛丑。故畠山二郎重忠が後家の所領等、日來子細有り。

ないない かいえき   ごさた   およ   いへど    こと    ことあ   べからずのよし  きょう おお  い   さる    うんぬん
内々に改易の御沙汰に及ぶと雖も、殊なる事有る不可之由、今日仰せ出だ被ると云々。

現代語承元四年(1210)五月小十四日辛丑。故畠山次郎重忠の未亡人の領地について、色々と検討があり、内緒で取り上げてしまうように上申しましたが、特別な変更をしてはいけないと、今日将軍実朝様がお命じになりましたそうな。

承元四年(1210)五月小廿一日戊申。將軍家渡御三浦三崎。於船中有管絃等。毎事催興。又覽小笠懸。常盛。胤長。幸氏以下爲其射手云々。

読下し                     しょうぐんけ   みうらみさき    とぎょ     せんちう  をい  かんげんら あ    まいじきょう もよお
承元四年(1210)五月小廿一日戊申。將軍家、三浦三崎へ渡御す。船中に於て管絃等有り。毎事興を催す。

また  こがさがけ  み     つねもり  たねなが  ゆきうじ いか そ    いて たり  うんぬん
又、小笠懸を覽る。常盛、胤長、幸氏以下其の射手爲と云々。

現代語承元四年(1210)五月小二十一日戊申。将軍実朝様は三浦三崎へお出かけになられました。船上音楽会などがあり、どれも興味深いものでした。また、小笠懸を見物されました。和田兵衛尉常盛・和田平太胤長・海野小太郎幸氏などがその射手をしましたとさ。

承元四年(1210)五月小廿五日壬子。陸奥國平泉保伽藍等興隆事。故右幕下御時。任本願基衡等之例。可致沙汰之旨。被殘御置文之處。寺塔追年破壞。供物燈明以下事。已断絶之由。寺僧各愁申。仍爲廣元奉行。如故不可有懈緩儀之趣。今日被仰寺領地頭之中云々。

読下し                     むつのくに ひらいずみのほう  がらんら   こうりゅう こと   こうばっか   おんとき
承元四年(1210)五月小廿五日壬子。陸奥國 平泉保 の伽藍等の興隆の事、故右幕下の御時、

ほんがんもとひらら の れい まか     さた いた  べ   のむね  おんおきぶみ のこさる  のところ  じとう とし  おっ  はかい
本願基衡等之例に任せ、沙汰致す可し之旨、御置文を殘被る之處、寺塔年を追て破壞す。

くもつ  とうみょう いか  こと  すで  だんぜつのよし   じそう おのおの うれ  もう
供物、燈明以下の事、已に断絶之由、寺僧 各 愁ひ申す。

よっ  ひろもとぶぎょう  な     もと  ごと   けかん  ぎ あ  べからずのおもむき  きょう じりょう  ぢとう の なか  おお  らる    うんぬん
仍て廣元奉行と爲し、故の如く懈緩の儀有る不可之趣、 今日寺領の地頭之中へ仰せ被ると云々。

現代語承元四年(1210)五月小二十五日壬子。陸奥国平泉の寺々を立派に維持することについて、頼朝様の時に元々の建立者藤原基衡などの例のとおりに処理するよう、命令書を残しておかれたのですが、寺も塔も年月をへて壊れてきております。捧げものやお灯明等の代金となる年貢も途絶えていると坊主どもが嘆き訴えてきております。それで、大江広元が担当して、元のように年貢を送り、滞らせてはいけないと、今日寺の領地の地頭に命令を出されましたとさ。

承元四年(1210)五月小廿九日丙辰。伊賀守朝光自京都下着。上皇去十七日南山御幸。御精進屋七條殿云々。

読下し                     いがのかみともみつ  きょうとよ   げちゃく   じょうこうさんぬ じうしちにちなんざんみゆき    ごしょうじんや  しちじょうでん  うんぬん
承元四年(1210)五月小廿九日丙辰。伊賀守朝光、京都自り下着す。上皇去る 十七日 南山御幸す。御精進屋は七條殿と云々。

現代語承元四年(1210)五月小二十九日丙辰。伊賀守朝光が京都から帰ってきました。後鳥羽上皇は、先日の十七日に熊野詣に行きました。出発のお清め用の宿泊所は七条殿の屋敷だそうです。

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