吾妻鏡入門第十九巻

承元四年庚午(1210)十月

承元四年(1210)十月小三日戊午。曉地震。

読下し                   あかつき ぢしん
承元四年(1210)十月小三日戊午。曉、地震。

現代語承元四年(1210)十月小三日戊午。明け方に地震です。

承元四年(1210)十月小十二日丁夘。京都飛脚參着。去卅日異星爲彗星之由。主計頭資元朝臣進勘文。依變公家被行内外御祈等之上。可有改元云々。

読下し                     きょうと  ひきゃくさんちゃく    さんぬ みそか  いせい  すいせいたるの よし  かぞえのかみすけもとあそん かんぶん  すす
承元四年(1210)十月小十二日丁夘。京都の飛脚參着す。去る卅日の異星は彗星爲之由、 主計頭資元朝臣、勘文を進む。

へん  よっ  こうけ   ないがい おいのりら  おこなはれ のうえ  かいげんあ   べ     うんぬん
變に依て公家、内外の御祈等を行被る之上、改元有る可きと云々。

現代語承元四年(1210)十月小十二日丁卯。京都からの伝令が着きました。先日の三十日の異常な星は彗星ではないかと主計頭安陪資元さんが上申書を出しました。この変異を心配して朝廷では、仏教やそれ以外の宗教に祈祷を行ったうえで、改元をすべきだとの内容です。

承元四年(1210)十月小十三日戊辰。諸國御牧事可令興行之由。可相觸守護地頭等之旨。今日被仰出。武州奉行也。行光書下之。

読下し                      しょこく  みまき  こと  こうぎょうせし  べ   のよし   しゅご ぢとう ら   あいふ  べ   のむね  きょうおお  いださる
承元四年(1210)十月小十三日戊辰。諸國の御牧の事、興行令む可し之由、守護地頭等に相觸る可し之旨、今日仰せ出被る。

ぶしゅうぶぎょうなり  ゆきみつこれ かきくだ
武州奉行也。行光之を書下す。

現代語承元四年(1210)十月小十三日戊辰。諸国にある放牧場について、盛んにするように守護地頭などに命じるようにと将軍実朝様が云いだしました。武州時房の担当します。二階堂行光が文書を書いて発行しました。

承元四年(1210)十月小十五日庚午。聖徳太子十七箇條憲法。并守屋逆臣跡収公田員數在所。及所被納置于天王寺法隆寺之重寳等記。 將軍家日來有御尋。廣元朝臣相尋之。今日進覽云々。

読下し                     しょうとくたいし  じうしちかじょうのけんぽうなら   もりやぎゃくしん  あと  しゅうこうでん いんずう  ざいしょ
承元四年(1210)十月小十五日庚午。聖徳太子の十七箇條憲法并びに守屋逆臣の跡、収公田の員數、在所

およ  てんのうじ   ほうりゅうじに おさ  おかれ  ところのちょうほうら   き   しょうぐんけ ひごろ おたずねあ
及び天王寺、法隆寺于納め置被る所之重寳等の記、將軍家、日來御尋有り。

ひろもとあそんこれ  あいたず   きょう しんらん   うんぬん
廣元朝臣之を相尋ね、今日進覽すと云々。

現代語承元四年(1210)十月小十五日庚午。聖徳太子が作った十七条の憲法と反逆者の物部守屋の旧跡や、押収された田んぼの数や場所など、それと天王寺や法隆寺に納められている宝物などの記録を、将軍実朝様が知りたがっていました。大江広元さんがこれらの記録を探し求めて、今日見せたそうです。

承元四年(1210)十月小十六日辛未。快リ。及晩。御所被行變異御祈。大夫泰貞奉仕属星祭。C圖書允C定奉行。御使源兵衛尉季氏也。

読下し                     かいせい  ばん  およ    ごしょ  へんい  おいのり おこなはれ   たいふやすさだぞくしょうさい ほうし
承元四年(1210)十月小十六日辛未。快リ。晩に及び、御所で變異の御祈を行被る。大夫泰貞属星祭を奉仕す。

せいずしょのじょうきよさだぶぎょう  おんし  みなもとのひょうえのじょうすえうじ なり
C圖書允C定奉行す。御使は 源兵衛尉季氏 也。

現代語承元四年(1210)十月小十六日辛未。快晴です。夜になって、御所で先日の異常な星へのお祈りを行いました。大夫安陪泰貞が星祭を勤めました。図書允清定が指揮担当です。将軍の代参は源兵衛尉季氏です。

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