吾妻鏡入門第十九巻

承元四年庚午(1210)十二月

承元四年(1210)十二月大一日乙夘。陰。辰尅。日蝕不見。法橋隆宣勤御祈。

読下し                     くも    たつのこく にっしょくみえず ほっきょうりゅうせん おいのり つと
承元四年(1210)十二月大一日乙夘。陰り。辰尅。日蝕見不
@。 法橋隆宣 御祈を勤む。

参考@日蝕見不は、曇ってて見えなかったのか、予告が外れたのか分からない。いずれにせよ不吉なのでお祈りをする。

現代語承元四年(1210)十二月大一日乙卯。曇りです。辰の刻(午前八時頃)日食は見えませんでした。法橋隆宣が日食をお祓いする祈りを捧げました。

承元四年(1210)十二月大五日己未。リ。京都使者到着。去月廿五日俄御讓位之由申之。是後朱雀院例云々。

読下し                     はれ  きょうと  ししゃとうちゃく
承元四年(1210)十二月大五日己未。リ。京都の使者到着す。

さんぬ つきにじうごにち にはか ごじょうい の よしこれ  もう    これ  ごすざくいん  れい  うんぬん
去る月廿五日、俄に御讓位@之由之を申す。是、後朱雀院の例Aと云々。

参考@俄に御讓位は、83代土御門が84代順徳へ譲位。但しこれは、後鳥羽上皇の意思による。
参考A
後朱雀院の例は、兄が弟に譲った。

現代語承元四年(1210)十二月大五日己未。晴れです。京都からの使いが来ました。先月の二十五日に急に天皇の交代があったと告げました。これは、後朱雀院の時と同じで兄から弟に譲りました。

承元四年(1210)十二月大十五日己巳。陰。戌亥兩時。月蝕正見。御祈摩尼房也。

読下し                       くも    いのい  りょうとき  げっしょくせいげん   おいのり  まあぼうなり
承元四年(1210)十二月大十五日己巳。陰り。戌亥の兩時、月蝕正見
@す。御祈は摩尼房也。

参考@正見は、正現で見えるではなく現れる。不吉なのでお祈りをする。

現代語承元四年(1210)十二月大十五日己巳。曇りです。戌(午後八時頃)亥(午後十時頃)の間に月食が現れました。お祓いするお祈りは摩尼坊印尊です。

承元四年(1210)十二月大廿一日乙亥。曉以後雪降。積尺餘。今日爲伊賀二郎宗光(光宗)之奉。中民部大夫仲業可相兼問註所寄人之由。被仰含云々。是前掃部頭親能入道家人也。依右筆藝被召仕之。

読下し                     あかつきいご ゆきふ    しゃくよ つ
承元四年(1210)十二月大廿一日乙亥。曉以後雪降る。尺餘積もる。

きょう いがのじろうみつむね の うけたまはり な    なかみんぶたいふなかなり  もんちうじょよりうど  あいかね  べ   のよし   おお  ふく  らる    うんぬん
今日伊賀二郎光宗之 奉りと爲し、中民部大夫仲業、問註所寄人を相兼る可し之由、仰せ含め被ると云々。

これ  さきのかもんのかみちかよしにゅうどう  けにんなり   ゆうひつ  げい  よっ  これ  めしつか  らる
是、 前掃部頭親能入道 が家人也。右筆の藝に依て之を召仕は被る。

現代語承元四年(1210)十二月大二十一日乙亥。明け方から雪が降り、一尺(30cm)ちょっと積もりました。今日、伊賀二郎光宗が将軍実朝様から代理として中原民部大夫仲業に裁判所員を兼務するように命じましたそうな。この人は、掃部頭中原親能入道の家来です。事務が上手なので彼を使うのです。

承元五年(建暦元年)正月へ

吾妻鏡入門第十九巻

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