吾妻鏡入門第十九巻

建暦元年辛未(1211)六月

建暦元年(1211)六月小二日壬午。陰。申尅。將軍家俄御不例。頗有御火急之氣。仍戌尅。於御所南庭。被行属星祭。泰貞奉仕之。武州帶御撫物并御衣。令向其所給。

読下し                    くも    さるのこく しょうぐんけにはか ごふれい  すこぶ  ごかきゅうの け あ
建暦元年(1211)六月小二日壬午。陰り。申尅。將軍家俄に御不例。頗る御火急之氣有り。

よっ  いぬのこく  ごしょ  なんてい  をい  ぞくしょうさい おこなは    やすさだこれ ほうし
仍て戌尅。御所の南庭に於て、属星祭を行被る。泰貞之を奉仕す。

ぶしゅう  おんなでもの なら    おんぞ   お     そ  ところ  むか  せし  たま
武州、御撫物@并びに御衣Aを帶び、其の所へ向は令め給ふ。

参考@御撫物は、形代。紙人形で体を撫で悪気を形代に移らせる。
参考A御衣は、「おんぞ」で偉い人が着てた着物。「ごい」と読み「五衣」とも書いたりする。病の気の付いた形代も着物も燃やすのだろう。

現代語建暦元年(1211)六月小二日壬午。曇りです。申の刻(午後四時頃)将軍実朝様が突然具合が悪くなり、差し迫った状態になりました。それなので戌の刻(午後八時頃)、御所の南の庭で星祭をしました。安陪泰貞が勤めました。武州時房が、将軍をぬぐって病の気を移した形代と将軍の着ていた着物を持って、その祭場所へ向かわれました。

建暦元年(1211)六月小三日癸未。リ。寅尅御不例。御夢相之告嚴重云々。是偏去夜祭驗之由。御信仰之間。以宮内兵衛尉公氏爲御使。被遣御馬一疋於泰貞也。

読下し                    はれ とらのこく ごふれい  ごむそうの つげ  げんじゅう  うんぬん
建暦元年(1211)六月小三日癸未。リ。寅尅御不例の御夢相之告、嚴重と云々。

これひと    さんぬ よ  まつり  しるしのゆえ  ごしんこうの かん  くないひょうえのじょうきんうじ  もっ  おんし   な     おんうまいっぴきを やすさだ  つか  さる  なり
是偏へに去る夜の祭の驗之由、御信仰之間、 宮内兵衛尉公氏 を以て御使と爲し、御馬一疋於泰貞に遣は被る也。

現代語建暦元年(1211)六月小三日癸未。晴れです。寅の刻(午前四時頃)ご病気について確かな夢のお告げがあったんだそうです。これは夕べのお祭りをした効験が出たのだろうと信じられて、宮内兵衛尉公氏を使者として馬を一頭安陪泰貞に届けさせました。

建暦元年(1211)六月小七日丁亥。越後國三味庄領家雜掌依訴訟參向。令寄宿大倉邊民屋之處。今曉爲盜人被殺害。曙之後。左衛門尉義盛尋沙汰之。稱敵人。召取件庄地頭代。仍其親類等属縁者女房。内々訴申尼御臺所御方。而義盛沙汰不相違之由被仰出之。申次駿河局及突鼻云々。

読下し                    えちごのくにざみのしょう りょうけ  ざっしょう  そしょう  よっ  さんこう
建暦元年(1211)六月小七日丁亥。越後國三味庄の領家の雜掌、訴訟に依て參向す。

おおくらへん みんおく きしゅくせし のところ  こんぎょう ぬすっと ため  せつがいされ    あ  ののち さえもんじょうじょうよしもり これ  たず   さた
大倉邊の民屋に寄宿令む之處、今曉、盜人の爲に殺害被る。曙け之後、左衛門尉義盛、之を尋ね沙汰す。

かたうど  しょう   くだん しょう  ぢとうだい  めしと     よっ  そ   しんるいら えんじゃ  にょぼう  ぞく    ないない あまみだいどころ おんかた うった もう
敵人@と稱し、件の庄の地頭代Aを召取る。仍て其の親類等縁者の女房に属し、内々に尼御臺所の御方に訴へ申す。

しか    よしもり   さた たがはざるの よし  これ  おお  いでらる   もうしつぎ するがのつぼね とっぴ  およ    うんぬん
而るに義盛が沙汰相違不之由、之を仰せ出被る。申次の駿河局、突鼻Bに及ぶと云々。

参考@敵人は、訴訟相手。
参考A
地頭代は、地頭の代官。
参考B
突鼻に及ぶは、叱られる。(鼻の頭を凸ピンされた様に似てる)

現代語建暦元年(1211)六月小七日丁亥。越後国の三味庄の上級荘園領主の領家の役人が、訴訟のため鎌倉へ来ました。大倉当たりの民家に泊まっていた所、今朝夜明け前に強盗が入り、殺されてしまいました。夜明け後に、侍所長官の和田左衛門尉義盛が捜査し、処理をしました。訴訟相手だからとその荘園の地頭の代官を捕えました。それなのでその代官の親類達は縁者の女官に頼んで、内密に尼御台所政子様へ訴えてきました。しかし調べてみたら和田義盛の処置に間違いは無かったとおっしゃられて、取り次いだ女官の駿河局は叱られましたとさ。

建暦元年(1211)六月小十四日甲午。將軍家御參壽福寺。

読下し                      しょうぐんけ  じゅふくじ   ぎょさん
建暦元年(1211)六月小十四日甲午。將軍家、壽福寺へ御參す。

現代語建暦元年(1211)六月小十四日甲午。将軍実朝様が、寿福寺へお参りです。

建暦元年(1211)六月小十八日戊戌。於御持佛堂。被供養御臺所御本尊〔如意輪觀音〕。導師荘厳房行勇云々。

読下し                     おんじぶつどう  をい    みだいどころ  ごほんぞん 〔にょいりんかんのん〕    くよう さる     どうし  しょうごんぼうぎょうゆう  うんぬん
建暦元年(1211)六月小十八日戊戌。御持佛堂に於て、御臺所の御本尊〔如意輪觀音〕を供養被る。導師は荘厳房行勇と云々。

現代語建暦元年(1211)六月小十八日戊戌。将軍の守り本尊を祀る持仏堂で、奥さん坊門姫の守り本尊〔如意輪観音〕の法事をしました。指導僧は、荘厳坊退耕行勇だそうな。

建暦元年(1211)六月小廿一日辛丑。三味庄雜掌殺害之男露顯。被召禁之。故野三刑部丞成綱所從也。主人他界之後。横行所々云々。仍地頭代令安堵本宅云々。

読下し                      さみのしょう ざっしょう せつがいのおとこ  ろけん    これ  め   きん  られ    このさのぎょうぶじょうなりつな  しょじゅうなり
建暦元年(1211)六月小廿一日辛丑。三味庄の雜掌 殺害之男、露顯す。之を召し禁ぜ被る。故野三刑部丞成綱@の所從也。

しゅじんたかいの のち  しょしょ  おうこう    うんぬん  よっ  ぢとうだい  ほんたく  あんどせし    うんぬん
主人他界之後、所々を横行すと云々。仍て地頭代は本宅を安堵令むと云々。

参考@野三刑部丞成綱は、野三は小野の三男。16巻正治2年(1200)6月29日条で娘が梶原景高妻が政子の官女として本領安堵されてる記事の名が最期。

現代語建暦元年(1211)六月小二十一日辛丑。三味庄の役人の殺人犯の男が判明しました。捕まえて牢屋へ入れました。故野三刑部丞成綱の家来です。主人が亡くなった後、あちこちを渡り歩いていたようです。それなので、地頭の代官は無実の罪を許されて元の職へ戻されましたとさ。

建暦元年(1211)六月小廿六日丙午。海道可建立新宿事。度々雖有其沙汰。未令遂行之由。依有其聞。今日重被仰守護地頭等云々。

読下し                      かいどう  しんしゅく こんりゅうすべ こと  たびたびそ  さた あ    いへど   いま  すいこいせしま  のよし
建暦元年(1211)六月小廿六日丙午。海道@に新宿を建立可き事、度々其の沙汰有ると雖も、未だ遂行令ず之由、

そ   きこ  あ     よっ    きょう かさ      しゅごぢとうら   おお  らる    うんぬん
其の聞へ有るに依て、今日重ねて守護地頭等に仰せ被ると云々。

参考@海道は、東海道。

現代語建暦元年(1211)六月小二十六日丙午。東海道に新しい宿場を造る事について、何度も決裁されているのに、未だに実行されていないとお耳に入ったので、今日、東海道の守護地頭に命じられましたとさ。

七月へ

吾妻鏡入門第十九巻

inserted by FC2 system