建暦元年辛未(1211)十月大
建暦元年(1211)十月大十三日辛夘。鴨社氏人菊大夫長明入道〔法名蓮胤〕依雅經朝臣之擧。此間下向。奉謁 將軍家。及度々云々。而今日當于幕下 將軍御忌日。參彼法花堂。念誦讀經之間。懷舊之涙頻相催。註一首和歌於堂柱。 |
読下し
かもしゃ うじびと
きくだゆうながあきらにゅうどう 〔ほうみょう れんいん〕 まさつねあそんのきょ よっ
建暦元年(1211)十月大十三日辛夘。鴨社の氏人
菊大夫長明@入道〔法名は蓮胤〕雅經朝臣A之擧に依て、
こ かん
げこう しょうぐんけ えっ たてまつ たびたび およ うんぬん
此の間下向し、將軍家に謁し奉り、度々に及ぶと云々。
しか きょう
ばっかしょうぐん おんいみびに あた か ほけどう まい
どっきょう ねんしょうのかん かいきゅうのなみだ
しき あいもよお
而るに今日幕下將軍御忌日于當り、彼の法花堂へ參り、讀經を念誦之間、
懷舊之涙 頻りに相催し、
いっしゅ わか を どう はしら ちう
一首の和歌於堂の柱に註す。
くさも きも なびきしあきの しもけして むなしきこけを はらうやまかぜ
草モ木モ
靡シ秋ノ
霜消テ
空キ苔ヲ
拂ウ山風
参考@長明は、鴨長明。方丈記の作者。新古今和歌集に関与している。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。」
参考A雅經朝臣は、大江広元の婿。
現代語建暦元年(1211)十月大十三日辛卯。鴨神社に縁の連なる人で、菊大夫長明入道〔出家名は蓮胤〕は、雅経さんの推薦で鎌倉へ来て、将軍実朝様への面会が何度も許されましたとさ。しかし、今日は頼朝様の月違い命日なので、頼朝法華堂へ行ってお経を唱えていましたが、故人を思って涙がこぼれてきましたので、一種の和歌をお堂の柱に書き残しました。
草も木もなびきし秋の霜消えて 空しき苔をはらう山風
(草木もなびくほどの権勢も秋の霜のように融けてしまい、残った苔をむなしく風が吹き抜けていく)
建暦元年(1211)十月大十九日丁酉。リ。午尅。於永福寺被供養宋本一切經五千餘巻。曼陀羅供。大阿闍梨葉上坊律師榮西。讃衆三十口。題名僧百口也。 將軍家〔御車〕御出。行村奉行之。 |
読下し
はれ うまのこく ようふくじ をい そうほんいっさいきょう
ごせんよかん くようさる
建暦元年(1211)十月大十九日丁酉。リ。午尅、永福寺に於て宋本一切經@五千餘巻を供養被る。
まんだらぐ だいあじゃりようじょうぼうりっしようさい さんしゅうさんじっく だいめいそうひゃっくなり しょうぐんけ 〔おくるま〕 おんいで ゆきむらこれ ぶぎょう
曼陀羅供、大阿闍梨葉上坊律師榮西。讃衆三十口。題名僧百口也。將軍家〔御車〕御出。行村之を奉行す。
参考@一切経は、「いっせつ」と読んだ時期があったらしい。大蔵経とも云い三蔵及びその注釈書の総称。経蔵・律蔵・論倉。
現代語建暦元年(1211)十月大十九日丁酉。晴れです。午の刻(昼頃)永福寺で宋の国から伝わってきた一切経五千巻を読経奉納しました。両界曼荼羅を大阿闍梨葉上坊律師栄西が供養しました。お供の僧は三十人。称名の題目を読む題名僧は百人です。将軍実朝様〔牛車〕がお出でです。山城判官二階堂行村が担当しました。
建暦元年(1211)十月大廿日戊戌。盛時自京都歸參。坊門黄門事已 勅許。去月八日徐目。雖爲 勅勘之身。被任左衛門督云々。又今月五日申尅。非暴風。非地震。内裏瀧口本所屋顛倒。所置之箭皆打損。雜仕女一人在其内。聞搖動之聲奔出。僅雖全命。打損右手。依此事。貫首召陰陽家令卜。 |
読下し もりとき きょうとよ きさん ぼうもんこうもん ことすで ちょっきょ さんぬ つきようか じもく
建暦元年(1211)十月大廿日戊戌。盛時@京都自り歸參す。坊門黄門の事已に勅許す。去る月八日徐目。
ちょっかんのみたり いへど さえもんのかみ にん らる うんぬん
勅勘之身爲と雖も、左衛門督に任じ被ると云々。
また こんげついつかさるのこく ぼうふう あらず ぢしん あらず だいりたきぐち ほんじょやてんとう お ところの や みなうちそん
又、今月
五日
申尅。暴風に非、地震に非に、内裏瀧口の本所屋顛倒す。置く所之箭皆打損ず。
ぞうしめ ひとり そ うち あ どうようの こえ き はし
いで わづか いのち まっと いへど みぎて うちそん
雜仕女一人其の内に在り。搖動之聲を聞き奔り出る。僅に命を全うすと雖も、右手を打損ず。
こ こと よっ かんじゅ おんみょうけ め
うらな せし
此の事に依て、貫首A陰陽家を召し卜は令む。
参考@盛時は、九月十二日京都へ出発。
参考A貫首は、蔵人頭(くろうどのとう)。
現代語建暦元年(1211)十月大二十日戊戌。内藤右馬允盛時が京都から帰ってきました。坊門中納言忠信さんの事件は既に許可されていました。先月に八日に人事異動があり、怒られている立場でありながらも、左衛門督に任命されましたとさ。又、今月の五日の申の刻(午後四時頃)に、暴風でもなく、地震でもないのに、京都御所の北面の侍の詰所の本館が倒れました。置いてあった矢が全て壊れました。雑用係の下級官女が一人建物内部にいましたが、傾く音を聞いて外へ走り出たので命拾いをしましたが、右手を討たれて損傷しました。このことで、蔵人頭が占い師を読んで占わせたそうです。
建暦元年(1211)十月大廿二日庚子。リ。伊賀守朝光。永福寺之傍。建立一梵宇。今日遂供養。導師葉上坊律師。讃衆八人。相州并室家。匠作等渡御。 |
読下し
はれ いがのかみともみつ ようふくじのかたわら いちぼんう こんりゅう きょう くよう と
建暦元年(1211)十月大廿二日庚子。リ。伊賀守朝光。永福寺之傍に、一梵宇を建立す。今日供養を遂ぐ。
どうし ようじょうぼうりっし さんしゅうはちにん そうしゅうなら しつけ しょうさくら
わた たま
導師は葉上坊律師。讃衆八人。相州并びに室家、匠作@等渡り御う。
参考@匠作は、修理亮職で泰時。今迄は相模太郎で出演。
現代語建暦元年(1211)十月大二十二日庚子。晴れです。伊賀守朝光が、永福寺のそばにお堂を一棟建てました。今日は開眼供養です。指導僧は葉上坊律師栄西、お供の坊さんは八人。相州義時とその奥さんや匠作泰時が参加しました。
説明修理職は、818年(弘仁9)7月に新置された令外官(りようげのかん)。宮内,京内の諸施設を造営・修理することをつかさどり,長官(大夫)以下四等官8人,史生8人が配されている。また《延喜式》によれば木工,瓦工,檜皮(ひわだ)工,石灰工もおり,別に木工関係として長上10人,将領22人,工部60人,飛驒工63人が配され,仕丁も227人を数える大組織である。