建暦元年辛未(1211)十二月大
建暦元年(1211)十二月大一日己酉(卯)。宗掃部允孝尚勘發事。今日免許。是中泉庄内有隱田之由事。可令尋問之旨。雖被仰付。懈緩之間及此儀。仍改仰仲業。有沙汰之處。無隱田之實。此事者。自雖非孝尚之罪科。只被咎仰不法一事訖。但有隱田之實者。猶可處重過之由。兼而所被思食儲也。本所虚訴。併爲孝尚幸運歟。向後於事可令謹愼之趣。以廣元朝臣被仰含云々。 |
読下し そうかもんのじょうたかなお
かんぱつ こと きょう めんきょ
建暦元年(1211)十二月大一日己卯。宗掃部允孝尚@勘發の事、今日免許す。
これ なかいずのしょうない おんでんあ のよし こと じんもんせし べ のむね おお
つ らる
いへど けかんのかん こ ぎ およ
是、
中泉庄内に
隱田有る之由の事、尋問令む可し之旨、仰せ付け被ると雖も、懈緩之間此の儀に及ぶ。
よっ なかなり
あらた
おお さた あ のところ おんでんの
じつ な
仍て仲業に改めて仰せて、沙汰有る之處、隱田之實
無し。
こ ことは おのづか たかなおのざいか
あらず いへど ただふほう いちじ とが おお
られをはんぬ
此の事者、自ら孝尚之罪科に非と雖も、只不法の一事を咎め仰せ被訖。
ただ
おんでんの じつ あ ば なおちょうか
しょ べ のよし かねて
おぼ め もう らる ところなり
但し隱田之實有ら者、猶重過に處す可し之由、兼而思し食し儲け被る所也。
ほんじょ きょそ しかしなが
たかなお こううんたるか
本所の虚訴。
併ら
孝尚が幸運爲歟。
きょうご こと をい
きんしんせし べ
のおもむき ひろもとあそん もっ おお
ふく らる うんぬん
向後、事に於て謹愼令む可し之趣、廣元朝臣を以て仰せ含め被ると云々。
現代語建暦元年(1211)十二月大一日己卯。宗掃部允孝尚の罰を今日許されました。これは下野国中泉庄に隠し田を持っていると上級荘園権利者の本所から訴えられたので、調査してきちんと整理しなさいと命令されていたのに、怠けていたから処分されたのです。そこで右京進仲業に言いつけて調べさせたところ、隠田の事実はありませんでした。こういうわけで、孝尚の罪ではありませんでしたが、整理しろと云った命令を聴かなかった事を指摘し云い聞かせました。但し、もしも隠田が事実ならば、もっと重罪にしてやろうと思っていたのです。本所の嘘の訴訟だ。それにしても筑前三郎孝尚は幸運に恵まれたのでしょうかね。今後、何事にも慎み深くするように大江広元を通じて云って聞かせましたとさ。
説明@宗掃部允孝尚は、建暦元年七月十一日条で隠田の整理を怠けて勘発され時房に預けられた。
建暦元年(1211)十二月大十日戊午(子)。和漢之間。有武將名譽之分。就有御尋。仲章朝臣注出之令獻覽。今日。善信。廣元等於御前讀申。又被尋仰御不審。再三御問答之後。頗及御感云々。 |
読下し
わかんのかん ぶしょう めいよ あ のぶん おたず
あ つ なかあきらあそんこれ ちう いだ けんらんせし
建暦元年(1211)十二月大十日戊子。和漢之間に、武將の名譽有る之分、御尋ね有るに就き、仲章朝臣之を注し出し獻覽令む。
きょう
ぜんしん ひろもとら ごぜん をい よ もう
また ごふしん たず おお らる さいさんごもんどうの
のち すこぶ ぎょかん およ うんぬん
今日、善信、廣元等御前に於て讀み申す。又、御不審を尋ね仰せ被る。再三御問答之後、頗る御感に及ぶと云々。
現代語建暦元年(1211)十二月大十日戊子。将軍実朝様は、日本や中国の武将で名誉を残している人をお聞きになったので、源仲章さんが、これを書き出してお見せすることにしました。今日、三善善信・大江広元が御前で読み上げました。疑問があるたびに質問され、何度もお聞きになった後、とても感激されておりましたとさ。
建暦元年(1211)十二月大十三日辛酉(卯)。將軍家御參法華堂。有恒例御佛事云々。 |
読下し
しょうぐんけ ほけどう ぎょさん こうれい おんぶつじ
あ うんぬん
建暦元年(1211)十二月大十三日辛卯。將軍家、法華堂へ御參す。恒例の御佛事有ると云々。
現代語建暦元年(1211)十二月大十三日辛卯。将軍実朝様は、頼朝法華堂へお参りです。毎月恒例の法事がありますとさ。
建暦元年(1211)十二月大十七日乙丑(未)。相州知行之神社佛寺及興行沙汰。且有被申入之旨。日向介奉行之云々。 |
読下し
そうしゅうちぎょうのじんじゃぶつじ こうぎょう さた およ かつう もうしいれられ のむねあ
建暦元年(1211)十二月大十七日乙未。相州知行之神社佛寺
興行の沙汰に及ぶ。且は申入被る之旨有り。
ひゅうがのすけ
これ ぶぎょう うんぬん
日向介
之を奉行すと云々。
現代語建暦元年(1211)十二月大十七日乙未。相州義時様の管轄内の神社やお寺の繁栄を検討しました。将軍実朝様に申し入れることがあるので、日向介が担当だそうです。
建暦元年(1211)十二月大十八日丙寅(申)。於御持佛堂。被始行觀音講。隆宣法橋讀式。有管絃等。 |
読下し おんじぶつどう をい
かんのんこう しぎょうさる りゅうせんほっきょう しき よ かんげんら あ
建暦元年(1211)十二月大十八日丙申。御持佛堂に於て、觀音講を始行被る。
隆宣法橋、 式を讀む。管絃等有り。
現代語建暦元年(1211)十二月大十八日丙申。将軍実朝様の守り本尊の持仏堂で観音経の講義がありました。隆宣法橋が読経の式次第を読み、音楽の奉納もありました。
建暦元年(1211)十二月大廿日戊辰(戌)。和田左衛門尉義盛上総國司擧任所望事。已断餘執訖。可返給彼款状之由。以子息四郎兵衛尉相觸廣元朝臣。先日進置御前之上。不能左右之趣。乍令返答。即以披露之。太不叶御意趣。暫可相待之旨。被仰含之處。今及此訴。偏是奉輕上計之所致也云々。 |
読下し わだのさえもんのじょうよしもり かずさこくし
きょにんしょもう こと すで よしつ た をはんぬ
建暦元年(1211)十二月大廿日戊戌。和田左衛門尉義盛、上総國司に擧任所望の事、已に餘執を断ち訖。
か
かじょう かえ たま べ のよし しそくしろうひょうえのじょう もっ ひろもとあそん あいふる
彼の款状@を返し給はる可し之由、子息四郎兵衛尉を以て廣元朝臣に相觸る。
せんじつ
ごぜん しん お のうえ
そう たまはずのおもむき へんとうせし なが
すなは もっ これ ひろう はなは ごいしゅ
かなはず
先日御前に進じ置く之上、左右に不能之
趣、
返答令め乍ら、即ち以て之を披露す。太だ御意趣に叶不。
しばら あいまた べ のむね おお
ふく らる のところ いま こ うった
およ ひとへ これ じょうけい かる たてまつ の いた ところなり うんぬん
暫く相待る可き之旨、仰せ含め被る之處、今此の訴へに及ぶ。偏に是、上計を輕んじ奉る之致す所也と云々。
参考@彼の款状は、承元3年(1209)5月23日提出。
現代語建暦元年(1211)十二月大二十日戊戌。和田左衛門尉義盛が、上総国の国主の職への推薦を希望してた事については、すでにあきらめきってしまいました。それで、その嘆願書をお返し下さるようにと、息子の和田四郎左衛門尉義直から大江広元さんに伝えました。「先日将軍実朝様の前に進めておいたんだから、これは難しい事になりますよー。」と返答をしながらも、将軍に取り次ぎました。やはり将軍は気に入りませんでした。「なんだよー。しばらく待ってるように言っておいたのに、今このような取り下げを申し出てくるのかよ。これは、お上の計らいを軽んじていることになるよなー。」だってさ。
建暦元年(1211)十二月大廿二日庚午(子)。將軍家御參勝長壽院永福寺等。是歳末之恒規也云々。 |
読下し
しょうぐんけ しょうちょうじゅいん ようふくじら ぎょさん これ
さいまつの こうきなり うんぬん
建暦元年(1211)十二月大廿二日庚子。將軍家、勝長壽院、永福寺等に御參す。是、歳末之恒規也と云々。
現代語建暦元年(1211)十二月大二十二日庚子。将軍実朝様は、勝長寿院・永福寺にお参りです。これは年末お決まりの恒例行事です。
建暦元年(1211)十二月大廿五日癸酉(卯)。於御持佛堂。有例文殊供養。導師葉上房律師榮西也。廣元朝臣取布施云々。 |
読下し
おんじぶつどう をい れい もんじゅ
くよう
あ どうし ようじょうぼうりっしようさいなり
建暦元年(1211)十二月大廿五日癸卯。御持佛堂に於て、例の文殊供養有り。導師は葉上房律師榮西也。
ひろもとあそん ふせ と うんぬん
廣元朝臣布施を取ると云々。
現代語建暦元年(1211)十二月大二十五日癸卯。将軍実朝様の守り本尊の持仏堂で、例の五字文殊の法事を行いました。指導僧は、葉上坊律師栄西です。大江広元さんがお布施を用意しました。
建暦元年(1211)十二月大廿七日乙亥(巳)。明春。駿河武藏越後等國々。可作整大田文之由。被仰行光。C定云々。 |
読下し
みょうしゅん するが むさし えちごら
くにぐに おおたぶみ つく
ととの べ のよし
建暦元年(1211)十二月大廿七日乙巳。明春、駿河、武藏、越後等の國々、大田文を作り整う可し之由、
ゆきみつ きよさだ おお
らる うんぬん
行光、C定に仰せ被ると云々。
現代語建暦元年(1211)十二月大二十七日乙巳。来春に、駿河・武蔵・越後などの国々の、年貢取立て用の土地台帳(徴税台帳)の大田文を整理するように、二階堂行光・清原清定に仰せらえましたとさ。
建暦元年(1211)十二月大廿八日丙子(午)。將軍家明年依相當太一定分御厄。今日被行御祈等。葉上房律師榮西。定豪法橋。隆宣法橋等奉仕之。又親職。泰貞勤天曹地府祭。武州沙汰之給。 |
読下し
しょうぐんけ みょうねん
たいつじょうぶん おんやく あいあた よっ きょう
おいのりら おこな らる
建暦元年(1211)十二月大廿八日丙午。將軍家、明年
太一定分@の御厄に相當るに依て、今日御祈等を行は被る。
ようじょうぼうりっしようさい
ていごうほっきょう りゅうせんほっきょうら
これ ほうし
葉上房律師榮西、定豪法橋、
隆宣法橋等 之を奉仕す。
また ちかもと やすさだ
てんそうちふさい つと ぶしゅうこれ
さた たま
又、親職A、泰貞、天曹地府祭Bを勤む。武州之を沙汰し給ふ。
参考@太一定分は、厄で将軍実朝様は来年数えで二十一歳なのでこれに当たる。太一星のことで、北斗中の一星であり、天帝神として兵乱・禍災・生死などを司るとされる。
参考A親職は、安陪親職(?-1240)陰陽師。陰陽大允をへて陰陽権助に。
参考B天曹地府祭は、寿命延長息災平安の為の祭祀。
現代語建暦元年(1211)十二月大二十八日丙午。将軍実朝様は来年太一定分の厄年に当たられるので、今日そのお祓いのお祈りを行われました。葉上坊律師栄西・定豪法橋・隆宣法橋等がこれを勤めました。又、安陪親職・泰貞は天曹地府祭を勤めました。武州時房が指揮担当しました。