吾妻鏡入門第二十巻

建暦二年壬申(1212)五月小

建暦二年(1212)五月小七日辛酉(壬子)。相摸次郎朝時主依女事蒙御氣色。嚴閤又義絶之間。下向駿河國富士郡。彼傾公。去年自京都下向佐渡守親康女也。爲御臺所官女。而朝時耽好色。雖通艶書。依不許容。去夜及深更。潜到彼局。誘出之故也云々。

読下し                    さがみのじろうともとき ぬし  おんな こと  よっ  みけしき  こうむ
建暦二年(1212)五月小七日壬子。相摸次郎朝時@主、女の事に依て御氣色を蒙る。

げんこう また ぎぜつ    のかん  するがのくに ふじぐん  げこう
嚴閤A又義絶するB之間、駿河國富士郡へ下向せる。

 か  けいこう  きょねんきょうとよ   げこう  さどのかみちかやす おんななり  みだいどころ  かんにょ  な
彼の傾公、去年京都自り下向の佐渡守親康が女也。 御臺所の官女と爲す。

しか    ともときこうしょく しず    つやがき  かよ     いへど   きょようせざ    よっ
而して朝時好色に耽み、艶書を通はすと雖も、許容不るに依て、

さんぬ よ しんこう  およ    ひそか  か つぼね いた    さそ  いだ  のゆえなり  うんぬん
去る夜深更に及び、潜に彼の局へ到り、誘い出す之故也と云々。

参考@朝時は、義時の次男だが、時政の名越邸を次ぐので、子供達は自分等が本家と思っていたようだ。。
参考A
嚴閤は、偉い人を指すが、この場合義時。
参考B
義絶するは、勘当した。

現代語建暦二年(1212)五月小七日壬子。相模北条次郎朝時さんは、女性問題で将軍のお怒りを受けました。義時さんもまた、勘当したので駿河国富士郡へ謹慎しました。その傾城の美女は、去年京都から下ってきた佐渡守親康の娘ですが、将軍の奥さん坊門姫の官女をしています。それを見た朝時は夢中になって恋文を渡しましたが、承知してくれないので、先達ての深夜に彼女の局へ忍びこんで、誘い出したからなんだそうな。

建暦二年(1212)五月小廿七日辛巳。雨降。凡此間洪水。河瀉邊人家爲水底云々。

読下し                      あめふ     およ  こ  かんこうずい  かしゃへん  じんか みなぞこ な    うんぬん
建暦二年(1212)五月小廿七日辛巳。雨降る。凡そ此の間洪水。河瀉邊の人家水底と爲すと云々。

現代語建暦二年(1212)五月小二十七日辛巳。雨降りです。大雨で洪水が起こり、川沿いや河口の潟湖辺の民家が水没したんだそうな。

説明河瀉は、本来は懸河瀉水で傾斜して烈しく流れている川。又は滝の事であるが、河口の潟湖とした。滑川が発掘浜の鳥居あたりで蛇行して潟湖になっていたと思う。

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