吾妻鏡入門第廿一巻

建暦三年癸酉(1213)二月大

建暦三年(1213)二月大一日壬申。於幕府有和歌御會。題梅花契万春。武州。修理亮。伊賀次郎兵衛尉。和田新兵衛尉等參入。女房相接。披講之後。有御連歌云々。

読下し                    ばくふ  をい   わか   おんえ あ     だい  ばいか まんしゅん ちぎ
建暦三年(1213)二月大一日壬申。幕府に於て和歌の御會有り。題は梅花万春を契る。

ぶしゅう  しゅりのすけ いがにじろうひょうえのじょう わだしんひょうえのじょう ら さんにゅう   にょぼうあいまじ      ひこう ののち   ごれんが あ   うんぬん
武州、修理亮、伊賀次郎兵衛尉、和田新兵衛尉等 參入す。女房相接はり、披講@之後、御連歌有りと云々。

参考@披講は、詩歌などの会で、作品を読み上げる事。

現代語建暦三年(1213)二月大一日壬申。幕府で和歌を作り合う会がありました。和歌の題は「梅の花が満開で春を呼ぶ」です。武州時房・修理亮泰時・伊賀次郎兵衛尉光宗・和田新兵衛尉朝盛が参加しました。女官も交ざって、歌を読み上げた後、しりとり的に上の句と下の句を交互にうたう連歌がありましたとさ。

建暦三年(1213)二月大二日癸酉。昵近祗候人中。撰藝能之輩。被結番之〔号之學問所番〕。各當番日者。不去御學問所。令參候。面々隨時御要。又和漢古事可語申之由云々。武州被奉行之。
 一番 修理亮     伊賀左近藏人
    安達右衛門尉  嶋津左衛門尉
    江兵衛尉    松葉次郎
 二番 美作左近大夫  三條左近藏人
    後藤左衛門尉  和田新兵衛尉
    山城兵衛尉   中山四郎
 三番 安藝權守    結城左衛門尉
    伊賀次郎兵衛尉 波多野次郎
    内藤馬允    佐々木八郎

読下し                    じっこん   しこうにん   うち  げいのうのやから えら   これ  けちばんさる    〔 これ   がくもんじょばん   ごう    〕
建暦三年(1213)二月大二日癸酉。昵近の祗候人の中、藝能之輩を撰び、之を結番被る〔之を學問所番と号す〕。

おのおの とうばん  ひは   ごがくもんじょ   さ   ず   さんこうせし   めんめん  とき  ごよう   したが   また  わかん   こじ   かた  もう  べ   のよし  うんぬん
 各 當番の日者、御學問所を去ら不に參候令め、面々に時の御要に隨う。又、和漢の古事を語り申す可し之由と云々。

ぶしゅうこれ  ぶぎょうさる
武州之を奉行被る。

  いちばん  しゅりのすけ            いがのさこんくらんど
 一番 修理亮      伊賀左近藏人

         あだちのうえもんのじょう      しまづのさえもんのじょう
    安達右衛門尉   嶋津左衛門尉

         えのひょうえのじょう        まつばのじろう
    江兵衛尉     松葉次郎

   にばん  みまさかのさこんたいふ     さんじょうのさこんくらんど
 二番 美作左近大夫   三條左近藏人

         ごとうのさもんのじょう        わだのしんさひょうのじょう
    後藤左衛門尉   和田新兵衛尉

         やましろのひょうえのじょう     なかやまのしろう
    山城兵衛尉    中山四郎

  さんばん  あきのごんのかみ         ゆうきのさえもんもんのじょう
 三番 安藝權守     結城左衛門尉

         いがのじろうひょうえのじょう   はたののじろう
    伊賀次郎兵衛尉  波多野次郎

         ないとううまのじょう         ささきのはちろう
    内藤馬允     佐々木八郎

現代語建暦三年(1213)二月大二日癸酉。真面目に勤務している者の中から、芸事の達者な者を選び、当番を組ませました〔これを学問所番と名付けました〕。それぞれ、当番の日には、学問所から退出せずに詰めていて、顔のあった者がその時その時の用事を果たすように。又、日本や中国の昔語りを話すようにとの事です。武州時房さんが担当です。
 
一番が、修理亮泰時    伊賀左近蔵人仲能
     安達右衛門尉景盛 島津左衛門尉忠久
     大江兵衛尉    松葉次郎
 二番が、美作左近大夫   三条左近蔵人
     後藤左衛門尉基清 和田新兵衛尉朝盛
     山城兵衛尉    中山四郎重政
 三番は、安芸権守範高   結城左衛門尉朝光
     伊賀次郎兵衛尉  波多野次郎経朝
     内藤馬允盛時   佐々木八郎

建暦三年(1213)二月大八日己夘。鶴岡八幡宮神事。有流鏑馬竸馬。修理亮爲奉幣御使。

読下し                   つるがおかはちまんぐう  しんじ   やぶさめ くらべうま あ     しゅりのすけほうへい  おんし  な
建暦三年(1213)二月大八日己夘。 鶴岡八幡宮 の神事。流鏑馬 竸馬 有り。修理亮奉幣の御使と爲す。

現代語建暦三年(1213)二月大八日己卯。鶴岡八幡宮の神事です。流鏑馬や競馬もありました。修理亮泰時が幣を奉る代参です。

建暦三年(1213)二月大十五日丙戌。天霽。千葉介成胤生虜法師一人進相州。是叛逆之輩中使也〔信濃國住人栗七郎弟。阿靜房安念云々〕。爲望合力之奉。向彼司馬甘繩家處。依存忠直。召進之云々。相州即被上啓此子細。如前大膳大夫有評議。被渡山城判官行村之方。可糺問其實否之旨被仰出。仍被相副金窪兵衛尉行親云々。

読下し                      そらはれ ちばのすけなりたね ほっし ひとり   いけど  そうしゅう すす   これ ほんぎゃくのやから なかづか なり
建暦三年(1213)二月大十五日丙戌。天霽。千葉介成胤@、法師一人を生虜り相州に進む。是、叛逆之輩の中使いA也。

〔しなののくにじゅうにん あおぐりのしちろう おとうと あしょうぼうあんねん うんぬん〕
〔信濃國住人 栗七郎Bが弟、 阿靜房安念と云々〕。

ごうりきのうけたまは のぞ    ため  か    しば   あまなわ  いえ  むか ところ ちゅうちょく ぞん     よつ    これ  めしすす    うんぬん
合力之奉りを望まん爲、彼の司馬Cの甘繩の家へ向う處、忠直を存ずるに依て、之を召進むと云々。

そうしゅう すなは こ  しさい   じょうけいさる
相州、即ち此の子細を上啓被る。

さきのだいぜんだいぶごと   ひょうぎ あ       やましろのふがんゆきむらのかた わたされ  そ   じっぷ  ただ  と   べ   のむね  おお  いださる
前大膳大夫 如きに評議有りて、山城判官行村 之方へ渡被、其の實否を糺し問う可し之旨、仰せ出被る。

よつ  かなくぼのひょうえのじょうゆきちか  あいそ  らる  うんぬん
仍て、金窪兵衛尉行親Dを 相副へ被ると云々。

参考@千葉介成胤は、千葉介常胤の嫡子〔千葉太郎胤正〕の嫡子〔千葉小太郎成胤〕太郎の太郎なので小太郎、又太郎などと呼ばれる。
参考A中使いは、手先。
参考B
栗七郎は、不明。長野県長野市に青木島町青木島も栗田もあるが不明。
参考C司馬は、唐名で国司の次官を司馬という。千葉介は下総次官。
参考D
金窪兵衛尉行親は、埼玉県児玉郡上里町金久保。

現代語建暦三年(1213)二月大十五日丙戌。空は晴れました。千葉介成胤が坊主を一人生け捕りにして、相州(義時)に突き出しました。こいつは反逆の連中の使い走りです<信濃国青栗七郎の弟で阿静房安念だとさ>。協力を受けてもらおうと頼むために、その千葉介の甘縄の屋敷へ来ましたが、成胤は幕府に忠義を重んじているので、この坊主を捕らえて差し出したのです。相州は直ぐにこの内容を将軍実朝様に報告されました。将軍は前大膳大夫大江広元等と協議相談して、「山城判官二階堂行村に預け、その内容の事実を詰問するように」と仰せになられました。そこで義時は自分の部下の金窪兵衛尉行親を一緒に行かせましたとさ。

建暦三年(1213)二月大十六日丁亥。天リ。依安念法師白状。謀叛輩於所々被生虜之。所謂。一村小次郎近村〔信濃國住人。匠作被預之〕。籠山次郎〔同國住人。高山小三郎重親預之〕。 宿屋次郎〔山上四郎時元預之〕。上田原平三父子三人〔豊田太郎幹重預之〕。薗田七郎成朝〔上條三郎時綱預之〕。狩野小太郎〔結城左衛門尉朝光預之〕。 和田四郎左衛門尉義直〔伊東六郎祐長預之〕。和田六郎兵衛尉義重〔伊東八郎祐廣預之〕。澁河刑部六郎兼守〔安達右衛門尉景盛預之〕。和田平太胤長〔金窪兵衛尉行親。安東次郎忠家預之〕。礒野小三郎〔小山左衛門尉朝政預之〕。此外白状云。信濃國保科次郎。粟澤太郎父子。栗四郎。越後國木曾瀧口父子。下総國八田三郎。和田奥田太。同四郎。伊勢國金太郎。上総介八郎甥臼井十郎。狩野又太郎等云々。凡張本百三十余人。伴類及二百人云々。可召進其身之旨。被仰國々守護人等。朝政。行村。朝光。行親。忠家奉行之云々。此事被尋濫觴者。信濃國住人泉小次郎親平。去々年以後企謀逆。相語上件輩。以故左衛門督殿若君〔尾張中務丞養君〕。爲大將軍。欲奉度相州云々。

読下し                      そらはれ  あんねんほっし  はくじょう  よつ    むほん   やからしょしょ  をい  これ  いけどらる
建暦三年(1213)二月大十六日丁亥。天リ。安念法師の白状に依て、謀叛の輩所々に於て之を生虜被る。

いはゆる いちむらのこじろうきかむら〔しなののくにじゅうにん しょうさく  これ  あず  らる  〕 こみやまのじろう 〔どうこくじゅうにん たかやまのこさぶろうしげちか これ  あず  〕
所謂、一村小次郎近村@〔信濃國住人。 匠作、之を預か被る〕籠山次郎A〔同國住人。 高山小三郎重親B、之を預かる〕

やどやのじろう 〔やまかみのしろうときもと これ  あず    〕  うえだはらへいざ おやこさんにん 〔 とよたのたろうもとしげ これ  あず    〕
宿屋次郎C〔山上四郎時元D、之を預かる〕上田原E平三父子三人〔 豊田太郎幹重、之を預かる〕

そのだのしちろうなりとも 〔かみじょうのさぶろうときつな これ  あず    〕 かのうのこたろう   〔ゆうきのさえもんのじょうともみつ これ  あず   〕
薗田七郎成朝F〔 上條三郎時綱G、之を預かる〕狩野小太郎〔 結城左衛門尉朝光、之を預かる〕

わだのしろうさえもんのじょうよしなお 〔いとうのろくろうすけなが これ  あず    〕  わだのろくろうひょうえのじょうよししげ 〔いとうのはちろうすけひろ これ  あず    〕
和田四郎左衛門尉義直〔伊東六郎祐長、之を預かる〕 和田六郎兵衛尉義重 〔 伊東八郎祐廣、之を預かる〕

しぶかわのぎょうぶりょくろうかねもり 〔あだちのうえもんのじょうかげもり これ  あず 〕 わだのへいたたねなが 〔かなくぼひょうえのじょうゆきちか あんどうにじろうただいえ これ  あず    〕 
澁河刑部六郎兼守H 〔安達右衛門尉景盛、之を預かる〕和田平太胤長〔 金窪兵衛尉行親、 安東次郎忠家、之を預かる〕

 いそののこさぶろう 〔おやまのさえもんのじょうともまさ これ  あず 〕   こ   ほか  はくじょう   い
礒野小三郎I〔小山左衛門尉朝政、之を預る〕此の外に白状して云はく。

しなののくに ほしなのじろう あわさわのたろう おやこ あおぐりのしろう  えちごのくに きそたきぐち おやこ  しもふさのくに はったのさぶろう
信濃國保科次郎J、粟澤太郎K父子、栗四郎、越後國木曾瀧口父子、下総國八田三郎L

わだの   おくだた   おな    しろう   いせのくにきんたろう  かずさのすけはちろう  おい うすいのじうろう  かのうのまたたろう ら  うんぬん
和田、奥田太、同じき四郎、伊勢國金太郎、上総介八郎が甥の臼井十郎M、狩野又太郎等と云々。

およ  ちょうほんひゃくさんじうよにん ばんるいにひゃくにん およ   うんぬん  そ   み   め   しん  べ   のむね  くにぐに   しゅごにんら   おお  らる
凡そ張本百三十余人、 伴類二百人に及ぶと云々。其の身を召し進ず可し之旨、國々の守護人等に仰せ被る。

ともまさ  ゆきむら  ともみつ  ゆきちか  ただいえこれ  ぶぎょう    うんぬん
朝政、行村、朝光、行親、忠家之を奉行すと云々。

こ   こと  らんしょう  たず  られ  ば  しなののくにじうにん いずみのこじろうちかひら  ここねん いご ほんぎゃく くはだ
此の事、濫觴を尋ね被れ者、信濃國住人 泉小次郎親平N、去々年以後謀逆を企て、

くだん やから あいかた  うえ   こさえもんのかみどの わかぎみ 〔おわりなかつかさのじょう やしないぎみ〕  もつ だいしょうぐん な
件の輩に相語るの上、故左衛門督殿の若君O〔 尾張中務丞が  養君 〕を以て大將軍と爲し、

そうしゅう はか たてまつ    ほつ   うんぬん
相州を度り奉らんと欲すと云々。

参考@一村小次郎近村は、信州市村庄で名が親村(ちかむら)だが長野市川合新田の犀川に〔市村の渡し〕の地名が残る。川の南が青木島町青木島。
参考A篭山次郎は、長野県佐久市小宮山。
参考B
高山小三郎重親は、長野県上高井郡高山村?
参考C宿屋次郎は、不明。長野県南佐久郡佐久穂町宿岩かも知れない?
参考D山上四郎時元は、群馬県桐生市新里町山上(旧勢多郡新里村山上)。
参考E上田原平三は、長野県上田市上田原。
参考F
薗田七郎成朝は、不明。薗田御厨なら群馬県太田市の北東部から桐生市南部にかけてあった。
参考G上條三郎時綱は、長野県上水内郡信州新町上条?
参考H澁河刑部六郎兼守は、群馬県渋川市渋川。17巻建仁3年9月2日条の比企能員の舅で連座して誅された渋川刑部丞の六男であろう。
参考I礒野小三郎は、不明。長野県なら千曲市磯部(旧埴科郡戸倉町)。群馬県なら安中市磯部。
参考J保科次郎は、長野県長野市若穂保科。
参考K粟澤太郎は、昔の岡谷市鮎沢と聞いたが、長野県茅野市玉川に粟沢区公民館と粟沢観音がある。600m程東北に小泉区公民館もある。
参考L八田三郎は、建久六年(1195)八月十六日の流鏑馬の射手に選ばれている。次の出番がこれで、これっきり出ない。
参考M臼井十郎は、千葉県佐倉市臼井。
参考N泉小次郎親平は、後に出てくる小泉次郎親平ならば、長野県上田市小泉で多田満仲の弟満快の系統。ほかに神奈川県横浜市泉区和泉町には、この泉親平の伝説が小祠と寺にある。それならば、鎌倉御家人三点セット(着替所、生活所、食料供給所)の外鎌倉食糧供給所であろう。
参考O故左衛門督殿若君は、頼家と一品坊昌寛の娘との間に出来た千寿丸。出家して栄実。

現代語建暦三年(1213)二月大十六日丁亥。空は晴れています。安念法師の白状によって、謀反人の一味をあっちこっちで生け捕りになりました。そいつ等は、一村小次郎近村〔信濃国の人。匠作泰時が預かり囚人(めしうど)として預かられました〕。篭山次郎〔同じ信濃国の人。高山小三郎重親が預かりました〕。宿屋次郎〔山上四郎時元が預かりました〕。上田原平三父子三人〔豊田太郎幹重が預かりました〕。薗田七郎成朝〔上條三郎時綱が預かりました〕。狩野小太郎〔結城左衛門尉朝光が預かりました〕。和田四郎左衛門尉義直〔伊東六郎祐長が預かりました〕。和田六郎兵衛尉義重〔伊東八郎祐廣が預かりました〕。渋川刑部六郎兼守〔安達右衛門尉景盛が預かりました〕。和田平太胤長〔金窪兵衛尉行親(義時の家来)と安東次郎忠家(義時の家来)が預かりました〕。礒野小三郎〔小山左衛門尉朝政が預かりました〕。この外にも白状したのは、信濃國保科次郎、粟澤太郎父子、栗四郎、越後国の木曾瀧口父子、下総国の八田三郎、和田、奥田太、同じ奥田四郎。伊勢国の金太郎。上総介八郎。八郎の甥の臼井十郎。狩野又太郎等だそうです。凡そ主体となったのが百三十四人以上、またその家来や知り合いが二百人にも達したんだとさ。その身柄を捕らえて差し出すように、各国の守護人達に命じられました。小山左衛門尉朝政、二階堂行村、結城左衛門尉朝光、金窪兵衛尉行親、安東次郎忠家が担当をしましたとさ。この事件の発端を調べると、信濃国の家人の泉小次郎親平が一昨年から謀反を画策して、この連中に話しかけ、亡き頼家様の若君の千寿丸(栄実十三歳)<尾張中務丞の養子>を大将軍にして、相州義時を倒してしまおうと望んだのだとさ。

建暦三年(1213)二月大十八日己丑。囚人之中。薗田七郎成朝遁出預人之家逐電。今夜先向于祈祷師僧〔号敬音〕。坊。談日來子細。坊主勸云。今度叛逆衆。皆不可破四張之網。只今一旦雖遁出。始終定難成安堵之思歟。須遂出家者。成朝答云。与力事者勿論。但依時儀令逃亡者。上古有名譽之將師等所爲也。而無左右遂素懷者。頗似無所存。就中年來有受領所望之志。不達其前途者。不可及除髪云々。僧甚笑之。無再言云々。其後聊盃酒。臨半夜退出。不知行方云々。

読下し                       めしうどのうち  そのだのしちろうなりとも あずかりにんのうえ のが  い   ちくてん
建暦三年(1213)二月大十八日己丑。囚人之中、薗田七郎成朝 預人之家@を 遁れ出で逐電す。

こんや   ま    きとうしそう  〔 けいのん ごう  〕 ぼうに むか    ひごろ   しさい   だん    ぼう  あるじすす   い
今夜、先ず祈祷師僧〔敬音と号す〕坊于向い、日來の子細を談ず。坊の主勸めて云はく。

このたび ほんぎゃく しゅう みな しちょうのあみ やぶ べからず  ただいまいったん のが  いで   いへど   しじゅう さだ    あんどの おもい  な   がた  か
今度の叛逆の衆、 皆四張之網を破る不可。 只今一旦は遁れ出ると雖も、始終定めて安堵之思を成し難き歟。

すべから しゅっけ と   てへれば  なりとも こた     い       よりき   ことは もちろん
須く 出家を遂げん者、成朝答へて云はく。与力の事者勿論なり。

ただ   じぎ   よつ  とうぼうせし  は   じょうこゆうめい ほまれのしょうしら   しわざなり
但し時儀に依て逃亡令む者、上古有名の譽之將師等が所爲也。

しか     そう  な   そかい  と     ば  すこぶ しょぞん な    に
而るに左右無く素懷を遂げれ者、頗る所存無きに似たり。

なかんづく  ねんらいずりょう しょもうのころこざし あ    そ   ぜんと  たっせざれば  かみ のぞ    およ  べからず  うんぬん
就中に、年來受領A所望之 志 有り。其の前途を達不者、髪を除くに及ぶ不可と云々。

そうはなは これ  わら   ふたた ことば な  うんぬん   そ   のちいささ はいしゅ   はんや  のぞ  たいしゅつ  ゆくえ   しらず   うんぬん
僧甚だ之を笑い、再び言無しと云々。其の後聊か盃酒す。半夜に臨み退出し、行方を知不と云々。

参考@預人之家をは、預かり囚人として預けられていた上條三郎時綱の家(16日条)。
参考A受領は、一般に国司の事だが、国によって守が遥任の場合、現地での事実上の管理者を指す。例えば、上総は親王任国なので介も京都の公卿で遥任。よって現地での事実上の支配は、上総權介廣常のように權介もある。

現代語建暦三年(1213)二月大十八日己丑。囚人として預けられていた薗田七郎成朝が預けられていた上條三郎時綱の家から逃げ出て逃亡しました。今夜、まず日頃から祈祷を頼んでいる坊さん<敬音と云う>の宿舎に行って、ことの成り行きを話しました。坊さんは、云って聞かせました。今度の謀反の人達は、皆預けられている所から逃げ出すべきではない。一時逃げ出したとしても、年がら年中安心をして暮らすことなんか出来やしないのだから、いっそ出家をしたほうが良いと云ったらば、薗田七郎成朝は答えて云いました。謀反へ加担したのは勿論本当だ。しかし、今逃げ出したのは、昔から名の有る立派な将軍は同様に不利な時は一端引き上げるものなのだ。それなのに、出家をしてしまえば、何も考えが無いようではないか。特に、普段から一度国司に任ぜられたいとの希望がある。その希望を達しない限りは、髪を下ろして出家をするつもりは無い。坊さんは、この話を聞いて、その剛勇ぶりに笑って二の句を告げませんでした。その後酒を勧めて、夜中になったので引き下がり、行方知れずとなりましたとさ。

建暦三年(1213)二月大廿日辛夘。成朝逐電之間。縡露顯。被召出件僧。被尋問之處。成朝申状之趣。悉以言上。將軍家聞食之。受領所望之志事。還有御感。早尋出之。可有恩赦之由云々。

読下し                    なりともちくてんのかん  こと ろけん
建暦三年(1213)二月大廿日辛夘。成朝逐電之間、縡露顯す。

くだん そう め  い   さる    たず  とはる  のところ  なりとも  もうしじょうのおもむき ことごと もつ ごんじょう
件の僧召し出だ被れ、尋ね問被る之處、成朝が申状之趣、 悉く以て言上す。

しょうぐんけこれ  き     め     ずりょうしょもうのこころざし こと  かへつ ぎょかんあ    はや  これ  たず  いだ    おんしゃ あ   べ    のよし  うんぬん
將軍家之を聞こし食し、受領所望之 志 の事、還て御感有り。早く之を尋ね出し、恩赦有る可し之由と云々。

現代語建暦三年(1213)二月大二十日辛卯。薗田七郎成朝が逃亡したことがばれました。前日に会った例の坊さんを呼び出し、質問したところ、薗田七郎成朝が話したことを全て申し上げました。将軍実朝様はこの話を聞いて、国司を希望していたことに、かえって頼もしく感じました。早く彼を探し出して、特別に許可をするようにとの事でした。

建暦三年(1213)二月大廿五日丙申。囚人澁河刑部六郎兼守事。明曉可誅之旨。被仰景盛訖。兼守傳聞之。不堪其愁緒。進十首詠歌於荏柄聖廟云々。

読下し                      めしうど しぶかわのぎょうぶろくろうかねもり こと みょうぎょう ちう  べ   のむね  かげもり  おお  られをはんぬ
建暦三年(1213)二月大廿五日丙申。囚人 澁河刑部六郎兼守が 事、明曉 誅す可し之旨、景盛に仰せ被訖。

かねもり これ つた  き     そ   しょうしょ たまらず  じっしゅ  えいか を えがらしょうびょう しん    うんぬん
兼守之を傳へ聞き、其の愁緒に堪不、十首の詠歌於荏柄聖廟に進ずと云々。

現代語建暦三年(1213)二月大二十五日丙申。囚人の河刑部六郎兼守の処分は、明日の明け方に処刑するように、安達景盛に命じられました。渋河兼守はその事を聞いて、悲しみに絶えず、十首の和歌を荏柄天神の社に捧げるようにしましたとさ。

建暦三年(1213)二月大廿六日丁酉。リ。工藤々三祐高。去夜參籠荏柄社。今朝退出之刻。取昨日兼守所奉之十首哥。持參御所。將軍家依賞翫此道給。御感之餘。則被宥其過矣。兼守愁虚名奉篇什。已預天神之利生。亦蒙將軍之恩化。凡感鬼神。只在和哥者歟。

読下し                      はれ  くどうのとうざすけたか  さぬ  よ   えがらしゃ  まい  こも
建暦三年(1213)二月大廿六日丁酉。リ。工藤々三祐高、去る夜、荏柄社に參り籠る。

 けさ たいしゅつのとき  きのう   かねもり たてまつ ところのじっしゅ うた  と     ごしょ   も  まい
今朝退出之刻、昨日の兼守が奉る所之十首の哥を取り、御所に持ち參る。

しょうぐんけ こ  みち  しょうがん たま    よつ    ぎょかんにあま   すなは そ   とが  ゆるさる
將軍家此の道を賞翫し給ふに依て、御感之餘り、則ち其の過を宥被る矣。

かねもり あざな  うれ  へんじう たてまつ  すで  てんじんのりしょう  あずか   また  しょうぐんのおんげ  こうむ
兼守虚名を愁へ篇什@を奉り、已に天神之利生に預る。亦、將軍之恩化を蒙る。

およ  きじん   かん            ただ わか   あ   ものか
凡ぞ鬼神を感ぜさせるは、只和哥に在る者歟。

参考@篇什は、詩を集めた者。歌編。『「詩経」の「雅」と「頌」とが十篇で1巻としたところから』

現代語建暦三年(1213)二月大二十六日丁酉。晴れです。工藤藤三郎祐高は、昨夜荏柄天神社に夜通し祈るお籠りをしました。今朝になって引き上げる時に、昨日渋河刑部六郎兼守が捧げた十種の和歌を取って、御所へ持ち帰りました。将軍実朝様は和歌を愛する人ですので、その出来栄えに感激して、すぐに罪を許されました。兼守は無実の罪を嘆いて詩を集めて奉納し、天神様の御利益に預ったのだ。又将軍の恩を受けました。凡そ鬼神を感動させるのには、和歌に限りますね。

建暦三年(1213)二月大廿七日戊戌。霽。謀叛之輩。多以被遣配所云々。

読下し                      はれ  むほんの やから おお  もつ  はいしょ  つか  さる    うんぬん
建暦三年(1213)二月大廿七日戊戌。霽。謀叛之輩、多く以て配所へ遣は被ると云々。

現代語建暦三年(1213)二月大二十七日戊戌。晴れました。謀反人の連中は、皆流罪先へ送られましたとさ。

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吾妻鏡入門第廿一巻

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