吾妻鏡入門第廿一巻

建暦三年癸酉(1213)四月小

建暦三年(1213)四月小一日壬申。尚友調進更衣御裝束。自京都到着。廣元朝臣進覽御前。日來依有遲引御疑。尚友可被行其科之旨。雖及御沙汰。毎物美麗之間。還有御感。剩可賜一村云々。

読下し                    なおとも  ちょうしん    こうい   ごしょうぞく    きょうと よ   とうちゃく   ひろもとあそん ごぜん  しんらん
建暦三年(1213)四月小一日壬申。尚友が調進した更衣@の御裝束が、京都自り到着す。廣元朝臣御前に進覽す。

ひごろ ちいん  おうたが  あ     よっ    なおとも そ  とが  おこなはる  べ   のむね   ごさた   およ   いへど    ものごと  びれいのあいだ  かえっ ぎょかんあ
日來遲引の御疑い有るに依て、尚友其の科に行被る可き之旨、御沙汰に及ぶと雖も、物毎に美麗之間、還て御感有り。

あまつさ いっそん たま   べ     うんぬん
 剩へ一村を賜はる可しと云々。

参考@更衣は、女御の次ぐ女官。元来は天子が衣を更える便殿の称。転じて、この便殿に奉仕して衣替のことを司った女官。のち、天皇の御寝に奉仕する女官の称となった。広辞林から

現代語建暦三年(1213)四月小一日壬申。惟宗尚友が調えて送ってきた天皇の着替えを手伝う女官更衣の衣類が京都から到着しました。大江広元が将軍実朝様の前へ持ってきました。実はこれが遅れていたので、尚友にその罰を与えるように決めていましたが、品物がそれぞれ美しく出来上がっているので、かえってお褒めになられました。そればかりか一村の地頭職を与えるようにとの事でした。

説明実朝の京への憧れが出ている。嫁へのプレゼントか?

建暦三年(1213)四月小二日癸酉。相州被拝領胤長荏柄前屋地。則分給于行親。忠家之間。追出前給人。和田左衛門尉義盛代官久野谷弥次郎各所卜居也。義盛雖含欝陶。論勝劣。已如虎鼠。仍再不能申子細云々。先日相率一類。參訴胤長事之時。敢無恩許沙汰。剩面縛其身。渡一族之眼前。被下判官。稱失列參之眉目。自彼日悉止出仕畢。其後。義盛給件屋地。聊欲慰怨念之處。不事問被替。逆心弥不止而起云々。

読下し                    そうしゅう  たねなが  えがらまえ   やち   はいりょうさる
建暦三年(1213)四月小二日癸酉。相州、胤長が荏柄前@の屋地を拝領被る。

すなは ゆきちか ただいえに わか  たま  のかん  さき  きゅうじん おいだ
則ち行親、忠家于分ち給ふ之間、前の給人を追出す。

わだのさえもんのじょうよしもり  だいかん くのやのいやじろう おのおの ぼっきょ  ところなり
和田左衛門尉義盛が代官久野谷弥次郎A、各 卜居する所也。

よしもり うっとう  ふく    いへど   しょうれつ ろん        すで  こきゅう  ごと    よつ  ふたた しさい  もう    あたはず  うんぬん
義盛欝陶を含むと雖も、勝劣を論ずれば、已に虎鼠の如し。仍て再び子細を申すに不能と云々。

せんじつ  いちるい  あいひき   たねなが こと  さんその とき  あえ  おんきょ   さた  な
先日、一類を相率い、胤長が事を參訴之時、敢て恩許の沙汰無し。

あまりさ そ  み   めんばく    いちぞくの めのまえ  わた    ほうがん  くださる
剩へ其の身を面縛し、一族之眼前を渡し、判官Bに下被る。

れっさんの びもく  うしな   しょう    か   ひ よ ことごと しゅっし  や  をはんぬ
列參之眉目を失うと稱し、彼の日自り悉く出仕を止め畢。

そ   ご   よしもり くだん やち   たま     いささ  おんねん なぐさめ  ほつ   のところ  こと と  ず かえられ
其の後、義盛件の屋地を給はり、聊か怨念を慰んと欲する之處、事問は不替被る。

ぎゃくしんいよいよ とめられず て お     うんぬん
逆心 弥、 止不し而起きると云々。

参考@荏柄前は、荏柄天神社の前。
参考A
久野谷弥次郎は、逗子市久木。
参考B
判官は、檢非違使の唐名で二階堂行村。

現代語建暦三年(1213)四月小二日癸酉。相州義時は、和田平太胤長の荏柄天神社前の屋敷地を貰いました。すぐに金窪兵衛尉行親・安東次郎忠家に分けて与えたので、前に貰っている人を追い出しました。和田左衛門尉義盛の代官の久野谷弥次郎、彼等が住んでいたのです。和田義盛は頭へ来ちゃいましたけど、勝ち負けを争っても、将軍の命令なので寅とネズミの争いの様です。それなので文句を言うわけには行きませんでしたとさ。先日一族を連れて、和田平太胤長の事を訴えましたけど、全く許可されませんでした。のみならず胤長を後ろ手に縛りあげて、一族の面前を引き連れて検非違使の二階堂行村に引き渡しました。これでは、せっかく並んで訴えた面目を失ってしまったと、その日から全く御所へ出仕しませんでした。その後、胤長の屋敷地を与えられ、多少メンツが立ったとほっとしていたのに、理由もなく取りかえられてしまいました。叛逆の心はますますあおられたのでしたとさ。

建暦三年(1213)四月小三日甲戌。鶴岡神事如例。武藏守爲御使被奉幣云々。

読下し                    つるがおか しんじ れい  ごと   むさしのかみおんし  な   ほうへいさる    うんぬん
建暦三年(1213)四月小三日甲戌。鶴岡の神事例の如し。武藏守御使と爲し奉幣被ると云々。

現代語建暦三年(1213)四月小三日甲戌。鶴岡八幡宮の神事は何時もの通りです。武蔵守時房が幣を捧げる代参をしました。

建暦三年(1213)四月小四日乙亥。陸奥平泉寺塔破壞之事。可勵修復儀之旨。今日以相州奉書。被仰彼郡内地頭等。是甲冑法師一人入于尼御臺所去夜御夢中。平泉寺陵癈殊遺恨。且爲御子孫運令申之由云々。令覺御後及此儀云々。三日者秀衡法師歸泉日也。若彼靈魂歟。着甲冑之條。有不審之由。人々談之云々。

読下し                    むつ へいせんじ  とう はかいの こと  しゅうふく ぎ   はげ  べ   のむね
建暦三年(1213)四月小四日乙亥。陸奥平泉寺@の塔破壞之事、修復の儀を勵む可し之旨、

きょう そうしゅうほうしょ  もっ    か   ぐんない  ぢとうら   おお  らる
今日相州奉書Aを以て、彼の郡内の地頭等に仰せ被る。

これ  かっちう  ほうし ひとり  あまみだいどころ さんぬ よ   ごむちう に い    へいせんじりょうはいこと  いこん
是、甲冑の法師一人、尼御臺所の去る夜の御夢中于入り、平泉寺陵癈殊に遺恨なり。

かつう  ごしそん   うん  ため  もうせし  のよし  うんぬん  さめたま    のちかく  ぎ  およ  せし    うんぬん
且は御子孫の運の爲に申令む之由と云々。覺御うの後此の儀に及ば令むと云々。

みっかは ひでひらほっし きせん  ひ なり  も     か  れいこんか   かっちう  き   のじょう  ふしんあ  のよし  ひとびどこれ  だん    うんぬん
三日者秀衡法師歸泉の日B也。若しや彼の靈魂歟。甲冑を着る之條、不審有る之由、人々之を談ずと云々。

現代語建暦三年(1213)四月小四日乙亥。陸奥の国平泉の毛越寺の塔の破損について、修理の工事に励むように、今日相州義時が将軍の命の公文書で、その郡内の地頭等に命令しました。それは、鎧兜に身を固めた出家武士が、尼御台所政子様の夕べの夢の中にあらわれ、「毛越寺の荒れているのはとても残念である。あなたの子孫の運のためにも云っておきます。」との事でした。夢が覚めた後、直すようにさせようと決めたんだそうな。「三日は藤原秀衡さんの死んだ日ですよ。これってもしかしたらその霊かも知れませんね。でも鎧兜を着ているのは変ですよね。」っと皆話し合っていましたとさ。

参考@陸奥平泉寺は、毛越寺で15巻建久6年9月3日条でも修理を命じている。
参考A奉書は、将軍の命を奉じて書く。
参考B三日者秀衡法師歸泉の日は、実は藤原秀衡は7巻文治3年(1187)10月29日に卒去との記事がある。何故三日なのだろう?四日後なので葬儀の日か?

建暦三年(1213)四月小七日戊寅。於幕府聚女房等。有御酒宴。于時山内左衛門尉。筑後四郎兵衛尉等徘徊屏中門之砌。將軍家自簾中御覽。召兩人於御前之縁。給盃酒之間。被仰曰。二人共殞命在近歟。一人者可爲御敵。一人者候御所者也云々。各有怖畏之氣。懷中鍾早出云々。

読下し                    ばくふ   をい  にょぼうら  あつ    ごしゅえんあ
建暦三年(1213)四月小七日戊寅。幕府に於て女房等を聚め、御酒宴有り。

ときに やまのうちのさえもんのじょう ちくごのしろうひょうえのじょうら へい ちうもんのみぎり  はいかい
時于 山内左衛門尉、 筑後四郎兵衛尉等屏の中門之砌を徘徊す。

しょうぐんけれんちうよ   ごらん    りょうにんを ごぜんの えん  め    はいしゅ  たま    のかん  おお  られ  い
將軍家簾中自り御覽し、兩人於御前之縁に召し、盃酒を給はる之間、仰せ被て曰はく。

ふたり とも  いのち おと      ちか    あ     か   ひとりは おんてき  な   べ     ひとりは ごしょ  そうら ものなり  うんぬん
二人共に命を殞すこと近きに在らん歟。一人者御敵と爲す可し。一人者御所に候う者也と云々。

おのおの ふい の け あ    さかづき かいちう  そうそう  い       うんぬん
 各、怖畏之氣有り。鍾を懷中し早々と出づると云々。

現代語建暦三年(1213)四月小七日戊寅。幕府御所で女官達を集めて、宴会をしました。その時に、山内左衛門尉政宣と筑後四郎兵衛尉が中門の向こう側で巡回していました。将軍実朝様は、御簾の中からそれを見て、二人を目の前の縁側に呼んで、盃を与えながら云いました。「二人とも近いうちに討死するような事があるかもしれないよ。一人は敵側に回るね。一人は味方になるだろう。」とさ。二人とも恐くて気持ち悪く思いました。盃を懐にしまってさっさと出て行ってしまいましたとさ。

建暦三年(1213)四月小八日己夘。於御持佛堂。被行佛生會。莊嚴房被參。又將軍家參壽福寺。拝潅佛給云々。

読下し                    おんじぶつどう  をい    ぶっしょうえ  おこな らる  しょうごんぼうまいらる
建暦三年(1213)四月小八日己夘。御持佛堂に於て、佛生會を行は被る。莊嚴房參被る。

また しょうぐんけ じゅふくじ  まい    かんぶつ はい  たま    うんぬん
又、將軍家壽福寺へ參り、潅佛@を拝し給ふと云々。

参考@潅佛は、仏像に香水を潅ぎかけること。又はその仏像。釈迦の降誕祭で、幼児仏に甘茶(五種の香水)をかける風習が残った。広辞林から

現代語建暦三年(1213)四月小八日己卯。守り本尊の持仏堂で、お釈迦様の生誕祭を行いました。荘厳坊退耕行勇が来てやりました。又、将軍実朝様は、寿福寺へ行って誕生仏に甘茶を懸けてお祈りをしましたとさ。

建暦三年(1213)四月小十五日丙戌。和田新兵衛尉朝盛者。爲將軍家御寵愛。等倫敢不諍之。而近日父祖一黨含恨忘拝趨。朝盛同抛夙夜長番令蟄居。以其暇之隙。逢淨遍僧都。學出離生死之要道。讀經念佛之勤修未有怠。漸催發心。今夕已欲遂素懷。存年來餘波參御所。于時將軍家對朗月。於南面有和哥御會。女房數輩候其砌。朝盛參進。献秀逸之間。御感及再往。又陳日來不事子細。公私互散蒙霧。快然之餘。縮載數ケ所地頭職於一紙。直給御下文。月及午。朝盛退出。不能歸宅。到淨蓮房草庵。忽除髪。号實阿弥陀佛。即差京都進發。郎等二人。小舎人童一人。共以出家云々。

読下し                     わだのしんひょうえのじょうとももりは しょうぐんけ ごちょうあい  な     とうりん あえ  これ  あらそ ず
建暦三年(1213)四月小十五日丙戌。和田新兵衛尉朝盛者、將軍家が御寵愛を爲す。等倫敢て之を諍は不@

しか    きんじつ  ふそ いっとう うらみ ふく  はいすう  わす    とももり おな   すくよ   おさばん なげう ちっきょせし
而るに近日、父祖一黨恨を含み拝趨Aを忘れ、朝盛同じく夙夜Bの長番を抛ち蟄居令む。

そ  いとまのすき  もつ    じょうへんそうづ  あ     しゅつりせいしのようどう  まな    どっきょうねんぶつのごんじゅ いま おこた あ
其の暇之隙を以て、淨遍僧都に逢い、出離生死之要道を學び、 讀經念佛之勤修 未だ怠り有らず。

ようやく ほっしん もよお  こにゅうすで  そかい   と       ほつ    としごろ  なごり   ぞん  ごしょ   まい
漸に發心を催し、今夕已に素懷を遂げんCと欲す。年來の餘波を存じ御所へ參る。

ときに しょうぐんけ  ろうげつ  たい   なんめん  をい   わか  おんかいあ
時于將軍家、朗月Dに對し、南面に於てE和哥の御會有り。

にょぼうすうやから そ みぎり そうら    とももりさんしん   しゅうえつ けん    のかん  ぎょかんさいおう  およ
女房數輩、其の砌に候う。朝盛參進し、秀逸を献ずるF之間、御感再往に及ぶ。

また  ひごろ    ふじ    しさい  ちん    こうしたがい  もうむ   さん    かいぜんの あま   すうかしょ   じとうしき を いっし  ちぢみの    じき  おんくだしぶみ  たま
又、日來の不事の子細を陳じ、公私互に蒙霧を散じ、快然之餘り、數ケ所の地頭職於一紙に縮載せ、直に御下文を 給ふ。

つきうま  およ    とももりたいしゅつ  きたく   あたはず じょうれんぼう そうあん  いた   たちま かみ  おろ
月午に及び、朝盛退出す。歸宅に不能、淨蓮房の草庵に到り、忽ち髪を除す。

じつあみだぶつ    ごう    すなは きょうと  さ   しんぱつ   ろうとうふたり    ことねりわらわひとり    とも  もつ  しゅっけ    うんぬん
實阿弥陀佛と号し、即ち京都を差し進發す。郎等二人、小舎人童一人、共に以て出家すと云々。

参考@等倫敢て之を諍は不は、友は寵愛を争わない。
参考A拝趨は、参上。出向くことをへりくだって云う。
参考B夙夜は、朝早くから夜遅くまで。明け暮れに。一日中。
参考C
素懷を遂げんは、出家する。
参考D朗月は、朗らかな月で名月と同じ。
参考E南面に於ては、オフィシャルに。
参考F
秀逸を献ずは、和歌を献上する。

現代語建暦三年(1213)四月小十五日丙戌。和田三郎新兵衛尉朝盛は、将軍実朝様に可愛がられております。友は寵愛を争いません。なのに近いうちに祖父一族が恨みを持ってしまい、参上を忘れている。和田新兵衛尉朝盛も同様に一日中おそばに仕える長の勤務を放り出して、謹慎してしまいました。その休んでいる合間に浄遍僧都に会って、解脱の境地や生死の出家の道を教わって、お経を読んだり念仏を唱えたりの修行を未だに怠けてはおりません。ようやく出家の決心がついて、今日の夕方に出家しようと思って、今までの名残を忘れず御所へ参りました。丁度その時、将軍実朝様は、明るく澄みきった月を見て、南の公邸で和歌の会を催していました。女官が数人同席していました。和田朝盛は、前へ進み出て、和歌を献上したので、とても出来のよさに何度も感心されていました。又、普段の御無沙汰を釈明しましたので、互いに疑念が融けたので、お喜びのあまり、数か所の地頭職を一枚の紙に書かせて、直接命令書を与えられました。月が真上まで上がったので朝盛は御所を立ち退きました。そのまま自宅へ帰らずに、浄蓮坊の庵を訪ね髪を降ろしました。実阿弥陀仏と名乗り京都へ向けて出発しました。子分が二人、世話係の少年が一人、一緒に出家したそうです。

建暦三年(1213)四月小十六日丁亥。朝盛出家事。郎從等走歸本所。告父祖等。此時乍驚。自閨中求出一通書状。披覽之處。書載云。叛逆之企。於今者定難被默止歟。雖然。順一族不可奉射主君。又候御方不可敵于父祖。不如入無爲。免自他苦患云々。義盛聞此事。太忿怒。已雖爲法躰。可追返之由。示付四郎左衛門尉義直。是朝盛者殊精兵也。依時軍勢之棟梁。義盛強惜之云々。仍義直揚鞭云々。

読下し                     とももり  しゅっけ  こと  ろうじゅうら ほんじょ  はし  かえ     ふそ ら    つ
建暦三年(1213)四月小十六日丁亥。朝盛が出家の事、郎從等本所へ走り歸り、父祖等に告ぐ。

こ   ときおどろ なが    けいちゅうよ  いっつう  しょじょう もと  いだ    ひら  み   のところ  か   の     い
此の時驚き乍ら、閨中自り一通の書状を求め出し、披き覽る之處、書き載せて云はく。

ほんぎゃくのくはだ   いま  をい  は さだ    もくし されがた  か
叛逆之 企て、今に於て者定めて默止被難き歟。

しか    いへど   いちぞく したが しゅくん  いたてまつ べからず  また みかた  そうら  ふそ に てき    べからず
然りと雖も、一族に順へ主君を射奉る 不可。 又、御方に候ひ父祖于敵する不可。

しかじ  ぶい  い       じた   くげん  まぬか     うんぬん
不如無爲に入り、自他の苦患を免れんと云々。

よしもり こ  こと  き     はなは ふんぬ    すで  ほったい な    いへど   お    かえ  べ  のよし  しろうさえもんのじょうよしなお  しめ  つ
義盛此の事を聞き、太だ忿怒す。已に法躰を爲すと雖も、追って返す可し之由、四郎左衛門尉義直に示し付ける。

これ  とももりは こと    せいへいなり  とき  ぐんぜいのとうりょう      よつ    よしもり あながち これ  おし    うんぬん  よつ  よしなおむち  あ    うんぬん
是、朝盛者殊なる精兵也。時の軍勢之棟梁たるに依て、義盛 強に 之を惜むと云々。仍て義直鞭を揚ぐと云々。

現代語建暦三年(1213)四月小十六日丁亥。和田朝盛が出家したことを、家来は本家へ走って帰って、父常盛や祖父義盛に伝えました。この時驚いていながら、寝間に一通の手紙があることを見つけ、すぐに出させて開いてみると、書いてありました。「将軍実朝様への反逆の計画は私としては見逃すわけにはまいりません。だからと云って、一族に従えば将軍様に弓を向ける事はできません。又、父や祖父に敵対する気もありません。そこで何もしない事で自分の苦しい境地から逃げたいのです。」との事でした。

和田義盛は、このことを聞いてとても怒り出しました。「既に出家した坊さんの格好でも、追いかけて行って連れ戻してこい。」と和田四郎左衛門尉義直に指摘しました。それは、朝盛が優れた兵員だからです。いざと云う時の軍隊を率いる統率者になれる奴なので、義盛は無理強いにでも欲しいのです。それで義直は馬を走らせましたとさ。

建暦三年(1213)四月小十七日戊子。於御所被供養八万四千基塔婆。莊嚴房爲導師云々。」朝盛遁世事。今日達上聞。御戀慕無他。令刑部丞忠季訪父祖別涙給云々。

読下し                     ごしょ   をい  はちまんよんせんき とうば   くようせら     しょうごんぼう どうし  な    うんぬん
建暦三年(1213)四月小十七日戊子。御所に於て八万四千基@の塔婆を供養被る。莊嚴房導師を爲すと云々。」

とももり  とんせい  こと  きょう じょうぶん たつ   ごれんぼ   ほか な    ぎょうぶのじょうただすえ し  ふそ   べつるい とぶら たま    うんぬん

朝盛が遁世の事、今日上聞に達す。御戀慕の他無し。刑部丞忠季を令て父祖の別涙を訪ひ給ふと云々。

参考@八萬四千は、釈尊のお説きになった教え「経」の数と謂われる。

現代語建暦三年(1213)四月小十七日戊子。御所で、八万四千基の泥の卒塔婆を作らして捧げる法事をしました。荘厳房退耕行勇が指導僧をしました。」

和田新兵衛尉朝盛が、出家遁世したことが将軍実朝様の耳に入りました。とても恋しがりました。行部丞忠季を使者として祖父和義盛の特別な悲しみを見舞いましたとさ。

建暦三年(1213)四月小十八日己丑。義直相具朝盛入道。自駿河國手越驛馳歸。仍義盛遂對面。暫散欝憤云々。又乍着黒衣。參幕府。依有恩喚也。

読下し                     よしなお  とももりにゅうどう あいぐ    するがのくにたごしのうまやよ は   かえ
建暦三年(1213)四月小十八日己丑。義直、朝盛入道を相具し、駿河國手越驛自り馳せ歸る。

よつ  よしもりたいめん  と   ようら  うっぷん  ちら    うんぬん  また  こくい   きなが     ばくふ   まい    おんかん あ   よつ  なり
仍て義盛對面を遂げ、暫く欝憤を散すと云々。又、黒衣を着乍ら、幕府へ參る。恩喚有るに依て也。

現代語建暦三年(1213)四月小十八日己丑。和田四郎左衛門尉義直が朝盛をつれて、駿河国手越宿から走って帰ってきました。そこで和田義盛は顔を見て気が晴れました。又、墨染の坊主の格好で幕府へ来ました。それは将軍実朝様がお呼びになられたからです。

建暦三年(1213)四月小廿日辛卯。於南京十五大寺。供養衆僧。可有非人施行之由。將軍家年來御素願也。今日被仰京畿内御家人等云々。廣元朝臣奉行之。

読下し                   なんきょう  じうごだいじ   をい    くよう   しゅうそう  ひにんせぎょうあ   べ   のよし  しょうぐんけねんらい  ごそがんなり
建暦三年(1213)四月小廿日辛卯。南京の十五大寺に於て、供養の衆僧@、非人施行A有る可き之由、將軍家年來の御素願也。

きょう けいきない   ごけにんら  おお  らる    うんぬん  ひろもとあそんこれ  ぶぎょう
今日京畿内の御家人等に仰せ被ると云々。廣元朝臣之を奉行す。

参考@衆僧は、僧侶の団体で五師大衆は執行部・学生・行人・堂衆・下働きの半僧半俗以上併せて大衆。なお、僧兵の言葉は江戸時代に出来た。当時は房人と云って、房の下働き兼ガードマン兼徴税用武装兵を兼ねていた。それが暴動などの行動を起こす時は、五条袈裟を顔に巻いて覆面にした。法然上人絵伝参照。
参考A非人施行は、光明皇后以来の被差別民への施し。

現代語建暦三年(1213)四月小二十日辛卯。奈良の十五の大きな寺で、供養として僧侶達や被差別民に施しをするように、将軍実朝様の前からの願いがありました。今日、関西の御家人達に命じられました。大江広元が担当です。

建暦三年(1213)四月小廿四日乙未。和田左衛門尉義盛追放年來歸依僧〔伊勢國者。号尊道房〕。人成恠之處。外成追出之儀。内爲祈祷令參太神宮之由。有再三流言。仍世上弥物忩云々。

読下し                     わだのさえもんのじょうよしもり  としごろ   きえそう  〔 いせのくに  もの   そんどうぼう   ごう   〕     お   はな
建暦三年(1213)四月小廿四日乙未。和田左衛門尉義盛、年來の歸依僧〔伊勢國の者。尊道房と号す。〕を追い放つ。

ひとあやし な  のところ  そと  おいだしのぎ  な     うち  きとう   ため  だいじんぐう  まい  せし  のよし  さいさん るげん あ
人恠み成す之處、外に追出之儀を成し、内に祈祷の爲、太神宮へ參ら令む之由、再三流言有り。

よつ  せじょう いよいよ ものさわが   うんぬん
仍て世上 弥 物忩しと云々。

現代語建暦三年(1213)四月小二十四日乙未。和田左衛門尉義盛が、祈祷の担当として養っていた坊主〔伊勢国の人で尊道房と云います〕を追い出しました。人々が不思議に思っていると、外見は追いだしたように見せかけ、その実は祈祷をさせるため伊勢神宮へ行かせたらしいと、何度も噂が飛びました。それなので世間ではいよいよあわただしくなりましたとさ。

建暦三年(1213)四月小廿七日戊寅(戌)。霽。宮内兵衛尉公氏爲將軍家御使。向和田左衛門尉宅。是義盛有用意事之由依聞食。被尋仰其實否之故也。而公氏入彼家之侍令案内。小時。義盛爲相逢御使。自寢殿來侍。飛越造合〔無橋〕。其際烏帽子抜落于公氏之前。彼躰似斬人首。公氏以爲。此人若彰叛逆之志者。可伏誅戮之表示也。然後。公氏述將命之趣。義盛申云。右大將家御時。勵随分微功。然者抽賞頗軼涯分。而薨御之後。未歴二十年。頻懷陸沈之恨。條々愁訴。泣雖出微音。鶴望不達鷁。退耻運計也。更無謀叛企之云々。詞訖。保忠。義秀以下勇士等列座。調置兵具。仍令歸參。啓事由之間。相州參給。被召在鎌倉御家人等於御所。是義盛日來有謀叛之疑。事已决定歟。但未及着甲冑云々。晩景。又以刑部丞忠季爲御使。被遣義盛之許。可奉度世之由有其聞。殊所驚思食也。先止蜂起。退可奉待恩義裁也云々。義盛報申云。於上全不存恨。相州所爲。傍若無人之間。爲尋承子細。可發向之由。近日若輩等潜以令群議歟。義盛度々雖諌之。一切不拘。已成同心訖。此上事力不及云々。

読下し                      はれ くないひょうえのじょうきんうじ しょうぐんけ  おんし  な      わださえもんのじょう   たく  むか
建暦三年(1213)四月小廿七日戊戌。霽。宮内兵衛尉公氏、將軍家の御使と爲し、和田左衛門尉が宅へ向う。

これ  よしもり ようい  こと あ   のよし き      め     よつ    そ   じっぷ   たず  おお  らる  のゆえなり
是、義盛用意の事有る之由聞こし食すに依て、其の實否を尋ね仰せ被る之故也。

しか    きんうじ か   いえのさむいらい はい あないせし
而して公氏彼の家之 侍へ 入り案内令む。

しばらく      よしもり おんし  あいあ    ため  しんでん よ  さむらい きた    つくりあわ  〔はしな   〕     とびこえ
小時して、義盛御使に相逢はん爲、寢殿自り 侍へ 來り、造合せ〔橋無し〕を飛越る。

そ  さい    えぼし  きんうじのまえに ぬ  おち
其の際、烏帽子公氏之前于抜け落る。

か  てい ざんにん  くび  に       きんうじもつ  な     かく  ひと も  ほんぎゃくのこころざし あらは ば  ちうりく  ふく  べ   の ひょうじなり
彼の躰斬人の首に似たり。公氏以て爲す。此の人若し叛逆之 志を 彰さ者、誅戮に伏す可し之表示也。

しか  のち  きんうじ しょうめいのおもむき の      よしもり もう     い        うだいしょうけ  おんとき  ずいぶん  びこう   はげ
然る後、公氏 將命之 趣を 述べる。義盛申して云はく、右大將家の御時、随分と微功を勵ます。

しからば  ちうしょうすこぶ がいぶん  す   しか    こうご ののち   いま  にじうねん   へ    しきり  りくちんのうらみ いだ
然者、抽賞 頗る涯分に軼ぐ。而るに薨御之後、未だ二十年を歴ず、頻に陸沈之恨を懷く。

じょうじょう しゅうそ  な     びおん  いだ    いへど   かくもうげき  たっせず   の    うん   はじ  はか  なり  さら ほんぎゃく くはだて  これな    うんぬん
條々の愁訴、泣きて微音を出すと雖も、鶴望鷁に達不。退きて運を耻ず計り也。更に謀叛の企、之無しと云々。

ことばをは     やすただ よしひで いげ   ゆうしら ざ  れつ    ひょうぐ  ととの  お
詞訖りて、保忠、義秀以下の勇士等座に列し、兵具を調へ置く。

よつ   きさんせし    こと  よし  けい   のかん  そうしゅうさん たま     ざいかまくらごけにんら  を ごしょ   めされ
仍て歸參令め、事の由を啓す之間、相州參じ給ひ、在鎌倉御家人等於御所へ召被る。

これ  よしもり ひごろ むほんのうたがいあ   ことすで  けってい    か   ただ  いま  かちゅう  き     およ      うんぬん
是、義盛日來謀叛之疑有り。事已に决定する歟。但し未だ甲冑を着るに及ばずと云々。

ばんけい またもつ  ぎょうぶのじょうただすえ おんし な  よしもりのもと  つか  さる
晩景、又以て 刑部丞忠季 御使と爲し、義盛之許へ遣は被る。

よ  はか たてまつ べ   のよし   そ  きこ  あ     こと  おどろ おぼ  め  ところなり
世を度り奉る可し之由、其の聞へ有り。殊に驚き思し食す所也。

ま   ほうき   や     の     おんぎ   さい  ま  たてまつ べ  なり  うんぬん
先ず蜂起を止め、退きて恩義の裁を待ち奉る可き也と云々。

よしもり ほう もう    い       かみ  をい    まった うらみ ぞんぜず
義盛報じ申して云はく、上に於ては全く恨を存不。

そうしゅう  しわざ  ぼうじゃくぶじんのかん  しさい  たず うけたま     ため  はっこうすべ   のよし  きんじつじゃくはいらひそか もつ ぐんぎせし   か
相州が所爲、傍若無人之間、子細を尋ね承はらん爲、發向可し之由、近日若輩等潜に以て群議令めん歟。

よしもり たびたび これ いさめ いへど  いっさいかかは ず   すで  どうしん  な をはんぬ  かく うえ  こと  ちから  およばず  うんぬん
義盛 度々 之を諌ると雖も、一切拘ら不。已に同心を成し訖。 此の上は事、力に及不と云々。

現代語建暦三年(1213)四月小二十七日戊戌。晴れました。宮内兵衛尉公氏が、将軍実朝様の使いとして、和田左衛門尉義盛の屋敷へ向かいました。それは、和田左衛門尉義盛が謀反の用意があると聞いているので、その事実を調べるためなのです。

と云うわけで、公氏は彼の家へ入って案内されました。しばらくして、義盛が使者に会うために寝殿から侍詰所(供侍)へ来るのに、建物同士が向かい合っている渡り場〔橋が架かってない〕を飛び越えました。その時に、烏帽子が公氏の前へ抜け落ちました。まるで首が落ちたみたいです。公氏は考えました。この人がもしも反逆者となったなら、きっと殺されてしまうに違いない予兆を表しているのだ、と。

それから公氏は将軍実朝様の趣旨を話しました。和田義盛が云うのには、「頼朝様の時代には随分と手柄を立てたものです。それだから褒美は分を越えています。それなのにお亡くなりになった後、未だ二十年も過ぎないのに、全く影響力が無くなった事を恨んでおります。色々と嘆きごとがあります。泣声をたてていても、鶴の声は天上界の鳥鷁(げき)には届きません。希望を取り下げた運の悪さを恥ずかしがるだけです。まるっきり反逆の気持ちなんてありません。
話を終えて、古郡左衛門尉保忠や朝夷名三郎義秀を始めとする勇敢な武士たちが並び座り、武器を揃えていました。

それなので、帰ってきて様子を報告していたら、相州義時がやってきて、鎌倉在留の御家人を御所へ呼び集めました。
「報告によると、和田左衛門尉義盛がこのところ謀反の疑いがありましたが、どうも決定的なのです。しかし、まだ鎧兜に身を固める必要はありません。」だとさ。

夜になって、またもや行部丞忠季が使者として、義盛のところへ行かせました。反乱しようとしているとの噂があります。特に驚いているところです。まずは氾濫を興すのを止めて、おとなしくして将軍のお裁きを待つように。」とのことでした。
和田左衛門尉義盛は答えて云うのには「将軍様へは何の恨みもございません。相州義時のやり方が傍若無人なので、詳しい理由を問いただすために武装して行こうと、現在若者達が話し合っているみたいです。私義盛が何度も諫めているのですが、相手にされません。既に皆心を一致させております。こうなってしまったら、私の力の及ぶところではありません。」なんだとさ。

建暦三年(1213)四月小廿八日己卯。雨降。入夜。相州參御所給。召廣元朝臣等有被仰合事。又爲御祈祷。於鶴岳可轉讀大般若經之由。被仰供僧等。此外。勝長壽院別當法橋定豪大威徳法。小河法印忠快不動法。淨遍僧都金剛童子法。天地災變祭親職。天曹地府祭泰貞。属星祭宣賢等奉之。則以廣元朝臣奉書。被觸仰之。山城判官次郎基行。橘三藏人惟廣。宮内兵衛尉公氏等爲御使云々。

読下し                     あめふる  よ   い    そうしゅう ごしょ まい  たま    ひろもとあそんら    め   おお  あわせられ ことあ
建暦三年(1213)四月小廿八日己卯。雨降。夜に入り、相州御所へ參り給ふ。廣元朝臣等を召し仰せ合被る事有り。

また   ごきとう   ため つるがおか をい  だいはんやきょう てんどくすべ  のよし  ぐそうら  おお  らる
又、御祈祷の爲、鶴岳に於て大般若經を轉讀可し之由、供僧等に仰せ被る。

こ   ほか  しょうちょうじゅいんべっとうほっきょうていごう だいいとくほう おがわのほういんちうかい ふどうほう  じょうへんそうづ こんごうどうじほう
此の外、勝長壽院別當 法橋定豪は 大威徳法。 小河法印忠快は不動法。淨遍僧都は金剛童子A法。

てんちさいへんさい ちかもと  てんそうちふさい  やすさだ ぞくしょうさい のりかたら これ たてまつ  すなは ひろもとあそん もつ  しょ たてまつ   これ  ふれおお  らる
天地災變祭Bは親職。天曹地府祭は泰貞。属星祭は宣賢等之を奉る。則ち廣元朝臣を以て書を奉り、之を觸仰せ被る。

やましろのほうがんじろうもとゆき きつざくらんどこれひろ くないひょうえのじょうきんうじら おんし  な     うんぬん
山城判官次郎基行C、 橘三藏人惟廣、宮内兵衛尉公氏等 御使を爲すと云々。

参考@小河法印忠快は、台密小川流の祖。平教盛の子、丹波小河庄(現京都府亀岡市千代川町小川)。この不動法によって和田の乱を鎮圧する事になった。
参考A金剛童子は、無量寿仏あるいは金剛薩捶の化身とされ、調伏や息災を祈る密教の修法。
参考B
天地災変祭は、宿曜道に九種152例あり、星宿信仰に関しての天変地異の祈願。
参考C山城判官次郎二階堂基行は、二階堂行村の子。行政ー行村ー基行

現代語建暦三年(1213)四月小二十八日己卯。雨降りです。夜になって相州義時さんは、御所へ参りました。大江広元を呼んで話し合いたいことがあるからです。又、戦勝祈願の御祈祷のために鶴岡八幡宮で、大般若経を摺り読みするように、坊さん達へ命じられました。この他にも、勝長寿院筆頭の法橋定豪には大威徳法。小川法印忠快には不動法。浄遍僧都は金剛童子法。天地災変祭は安陪親職。天曹地府祭は安陪泰貞。属星祭は安陪宣賢が祈りました。すぐに大江広元に書かせた文書で通知するようにおっしゃられました。山城判官次郎二階堂基行・橘三蔵人惟広・宮内兵衛尉公氏が使者となりましたとさ。

建暦三年(1213)四月小廿九日庚辰。霽。相摸次郎朝時主自駿河國參上。將軍家御氣色。并嚴閤義絶。籠居彼國之處。御用心之間。以飛脚被召之云々。

読下し                      はれ  さがみのじろうともときぬし  するがのくによ   さんじょう
建暦三年(1213)四月小廿九日庚辰。霽。相摸次郎朝時主、駿河國自り參上す。

しょうぐんけ  みけしき  なら    げんこう  ぎぜつ    か   くに  ろうきょのところ  ごようじんの かん   ひきゃく  もつ  これ    めさる    うんぬん
將軍家の御氣色并びに嚴閤が義絶し、彼の國に籠居之處、御用心之間、飛脚を以て之を召被ると云々。

現代語建暦三年(1213)四月小二十九日庚辰。晴れました。相模次郎朝時さんが、駿河国から参りました。将軍実朝様の勘気を蒙り、義時さんから義絶されてその国に謹慎していましたが、風雲急を告げるので、伝令をやって呼び出しましたとさ。

五月へ

吾妻鏡入門第廿一巻  

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