吾妻鏡入門第廿一巻

建暦三年癸酉(1213)八月小

建暦三年(1213)八月小一日己巳。天霽。將軍家。御所作事之間。有御方違。渡御東殿〔尼御臺所御第〕依爲御本所也。相州。大官令等被參云々。

読下し                   そらはれ  しょうぐんけ  ごしょ さくじのあいだ  おんかたがえあ  ひがしどの 〔あまみだいどころ  おんだい〕  わた  たま
建暦三年(1213)八月小一日己巳。天霽。將軍家、御所作事之間、御方違有り。東殿〔尼御臺所の御第〕へ渡り御う。

ごほんじょたる  よっ  なり  そうしゅう だいかんれいら まいられ   うんぬん
御本所爲に依て也。相州、大官令等參被ると云々。

現代語建暦三年(1213)八月小一日己巳。空は晴れました。将軍実朝様は、御所新築のための縁起の悪い方角への出を避けるために別の場所へ移る方角変えの「御方違い」です。東殿〔尼御台所政子様の居所〕へ移られました。そちらの方角が縁起が良いからです。相州義時・大江広元さんが参りましたとさ。

建暦三年(1213)八月小三日辛未。天リ風靜。今日申尅。御所上棟也。相州以下諸人群參。其時尅。無由緒而俄有騒動。御家人等競走。相州仰行親。忠家等。被鎭之間。無程各靜謐云々。

読下し                   そらはれかぜしずか きょうさるのこく  ごしょ  じょうとうなり  そうしゅう いげ  しょにんぐんさん
建暦三年(1213)八月小三日辛未。 天リ風靜。 今日申尅、御所の上棟也。相州以下の諸人群參す。

そ    じこく  ゆいしょな   て にはか そうどうあ     ごけにんら きそ  はし
其の時尅に由緒無く而俄に騒動有り。御家人等競い走る。

そうしゅう ゆきちか  ただいえら  おお      しず  られ のあいだ  ほどな  おのおの せいひつ   うんぬん
相州、行親、忠家等に仰せて、鎭め被る之間、程無く 各 靜謐すと云々。

現代語建暦三年(1213)八月小三日辛未。空は晴れて風も穏やかです(天の気が良い)。今日、申の刻(午後四時頃)新築御所の棟上げ式です。義時さんを始め皆集まりました。その時刻になって急に騒ぎがありました。御家人どもが先を争って走ります。義時さんは、金窪行親・安東忠家に命じて、静まらせましたので、間もなくそれぞれ静かになりましたとさ。

建暦三年(1213)八月小六日甲戌。新造御所御障子晝圖風情事。先々繪不相叶御意。被仰含職者。又有御尋旨等。仍今日被遣其事書等於佐々木太郎左衛門尉廣綱之許。御使紀伊刑部次郎上洛云々。

読下し                   しんぞうごしょ   おんしょうじ   がず   ふぜい  こと  さきざき  え   ぎょい  あいかなはず
建暦三年(1213)八月小六日甲戌。新造御所の御障子の晝圖の風情の事、先々の繪は御意に相叶不。

しきしゃ  おお  ふく  らる    また  おたずね むねらあ
職者に仰せ含め被る。又、御尋の旨等有り。

よっ  きょう そ   ことがきら を ささきのたろうさえもんのじょうひろつなの もと  つか  され    おんし   きいのぎょうぶじろう   じょうらく    うんぬん
仍て今日其の事書等於佐々木太郎左衛門尉廣綱之許へ遣は被る。御使は紀伊刑部次郎、上洛すと云々。

現代語建暦三年(1213)八月小六日甲戌。新築御所の障子(今の襖)の絵の題材について、今までの絵は気に入りませんでした。有識者にそう告げたり、意見を聞いたりしました。そこで京都で書かせるために、その手紙を佐々木左衛門尉広綱へ出しました。使者は紀伊刑部次郎、京都へ向けて出発しましたとさ。

建暦三年(1213)八月小十四日壬午。天リ。京都飛脚參着。申云。去月廿五日。C水寺法師建立一堂。其地在C閑寺領之由。彼寺憤欝。相論之間。C閑寺爲台嶺之末寺。山又咎之。C水寺依爲南都末寺。奈良殊怒之。而今月三日。C水寺搆城。山僧集會于長樂寺。自公家先遣檢非違使有範。惟信。基C等。破却C水之城。制止武備。急着法衣。可在佛前之旨被仰含。寺僧承伏之。相次遣廳官長季於長樂寺。被禁制之處。所司法師等僅相違。更無承伏之詞。廳官猶逢衆徒。可傳綸言之由示含之間。惡僧等出來。妄吐奇恠之詞。曾不可惜身命。不及承綸言由呵叱。殆及放言。廳官爲遁當時耻。退去之間。飛礫打門扉。馳歸奏聞之間。忽被仰北面之輩并在京健士近臣家人等。圍彼寺四至。不殘一人。可生虜之由 宣下。依之壯士等進先登。近江守頼茂。將伏兵遮嶺東之險阻。生虜山上者。是悪徒等多赴險阻。仍先令家人廻其所。指上旗於嶺上之間。更還奔。登嶺者不幾。于時不及狼藉。剩(剥)甲冑相具之令參。殊預叡感。凡生虜二十人。被誅者十余人也。同六日。山門衆徒悉離山。打付中堂。三昧堂。滅常燈。截落七社以下御簾神鏡。銷門々。追放祠官云々。天台佛法及魔滅之期歟云々。

読下し                     そらはれ  きょうと  ひきゃくさんちゃく   もう    い
建暦三年(1213)八月小十四日壬午。天リ。京都の飛脚參着し、申して云はく。

さんぬ つきにじうごにち きよみずでらほっしいちどう  こんりゅう
去る月廿五日、C水寺法師一堂を建立す。

そ   ち   せいかんじりょう  あ   のよし  か   てらふんうつ   そうろんのあいだ  せいかんじ  たいれいのまつじたり  やままたこれ  とが
其の地、C閑寺@領に在る之由、彼の寺憤欝し、相論之間、C閑寺は台嶺之末寺爲。山又之を咎む。

きよみずでら なんと   まつじ たる  よっ     なら こと  これ  おこ
C水寺は南都の末寺爲に依て、奈良殊に之を怒る。

しか    こんげつみっか きよみずでらしろ  かま   やまそうちょうらくじに つど  あ
而して今月三日、C水寺城を搆へ、山僧長樂寺A于集い會う。

こうけ よ   ま    けびいし   ありのり  これのぶ  もときよら   つか      きよみずの しろ  はきゃく    ぶび   せいし
公家自り先ず檢非違使有範、惟信、基C等を遣はし、C水之城を破却し、武備を制止し、

いそ  ほうえ   つ    ぶつぜん  あ  べ   のむねおお  ふく  られ    じそう これ  しょうふく
急ぎ法衣を着け、佛前に在る可し之旨仰せ含め被る。寺僧之を承伏す。

あいつい ちょう かん ながすえを ちょうらくじ  つか     きんせいされ のところ  しょし ほっし ら わず    そうい     さら しょうふくのことばな
相次で廳の官 長季於長樂寺へ遣はし、禁制被る之處、所司法師等僅かに相違し、更に承伏之詞無し。

ちょう かん なおしゅと  あ     りんげん  つた    べ   のよし しめ  ふく    のあいだ  あくそうら いできた    みだ   きっかいのことば は
廳の官 猶衆徒に逢い、綸言を傳へる可し之由示し含める之間、惡僧等出來り、妄りに奇恠之詞を吐き、

あえ  しんめい おし  べからず  りんげん うけたまは およばざるよし かしつ    ほと    ほうげん  およ
曾て身命を惜む不可。綸言を承るに及不 由 呵叱し、殆んど放言に及ぶ。

ちょう かん とうじ  はじ  のが   ため  たいしょのあいだ つぶて  もんぴ  う       は  かえ  そうもんのあいだ  たちま ほくめんのやから なら
廳の官當時の耻を遁れん爲、退去之間、飛礫を門扉に打つ。馳せ歸り奏聞之間、 忽ち北面之輩 

ざいきょう けんし   きんしん  けにんら   おお  られ  か   てら  しいし   かこ    ひとりのらず   いけど  べ   のよし   せんげ
并びに在京の健士、近臣の家人等に仰せ被、彼の寺の四至を圍み、一人殘不、生虜る可し之由、宣下す。

これ  よっ   そうしら  せんと   すす   おうみのかみよりしげ  まさ  へい  ふ  りょうとうの けんそ  さへぎ   さんじょう もの  いけど
之に依て壯士等先登に進む。近江守頼茂B、將に兵を伏せ嶺東之險阻を遮り、山上の者を生虜らんとす。

これ  あくとら おお  けんそ  おもむ
是、悪徒等多く險阻に赴く。

よっ  ま   けにん   し    そ  ところ  めぐ     はたを みねうえ  さ   あ     のあいだ  さら  かえ  はし   みね  のぼ  ものいくばくならず
仍て先ず家人を令て其の所へ廻らせ、旗於嶺上に指し上げる之間、更に還り奔り、嶺へ登る者幾不。 

ときに ろうぜき  およばず  かっちゅう は   これ  あいぐ せし  さん    こと  えいかん あずか   およ  いけどりにじうにん  ちうされ  ものじうよにんなり
時于狼藉に及不。甲冑を剥ぎ之を相具令め參じ、殊に叡感に預る。凡そ生虜二十人。誅被る者十余人也。

おな    むいか  さんもん  しゅと  ことごと やま  はな   ちうどう  ざんまいどう  う   つ     じょうとう  めっ    しちしゃ いげ  おんみすしんきょう きりおと
同じく六日、山門の衆徒 悉く山を離れ、中堂、三昧堂を打ち付け、常燈を滅し、七社以下の御簾神鏡を截落し、

かどかど  とざ    しかん  ついほう   うんぬん  てんだいぶっぽうまめつの ご  およ  か   うんぬん
門々を銷し、祠官を追放すと云々。天台佛法魔滅之期に及ぶ歟と云々。

参考@清閑寺は、八坂神社・知恩院のそば。
参考A長楽寺は、浄土宗系で比叡山末寺。
参考B近江守頼茂は、頼光系大内。

現代語建暦三年(1213)八月小十四日壬午。空は晴れです。京都からの伝令が到着して申しあげるのには、
「先月の二十五日に清水寺の坊さんがお堂を一つ建てました。その土地は、清閑寺の領地なので、清閑寺の坊主が怒って裁判沙汰にしました。そしたら清閑寺は比叡山の末寺なので、延暦寺の武者僧どもも責め立てました。
清水寺は、興福寺の末寺なので、奈良の武者僧共もこの事を怒りだしました。
そういうわけで、清水寺はバリケードを敷いて、比叡山の武者僧どもは長楽寺に集合しました。
朝廷では、まず警察権の検非違使平有範・大内惟信・後藤基清を派遣して、(興福寺側の)清水寺のバリケードを壊し、武器を捨て、坊さんの衣装を着て、仏前で神妙に仏事を行いなさいと、云い聞かせたところ、坊さんは承知して云うことを聞きました。
続いて、院の職員を(比叡山側の)長楽寺へ派遣して、同様に禁じたところ、次席の坊主が多少反発して承知したと云いませんでした。
院の職員は、その上はと武者僧に合って、天皇家からの仰せを伝えましょうと話しているのに、戦闘的な武者僧達が出てきて、けしからんとやじを飛ばし、「俺たちゃ命なんて惜しか無い。天皇家の云う事なんか聞かない。」と大声で怒鳴って、やじが飛んでいました。
検非違使の職員は、やっつけられる恥をかかないために早々に退去する間にも、つぶてが門や扉に飛んできました。
走って帰って上皇に報告すると、すぐに上皇の親衛隊北面の武士や在京御家人や身近な家来に言いつけて、長楽寺の四辺を囲み、一人残らず逮捕するように宣言しました。この命令によって、勇敢な武士たちが先頭に立ちました。近江守(頼光系)大内頼茂は、こっそり兵隊を隠して峰の東山の険しい処をさえぎって、捕虜にしようと用意しました。予想通り、無謀な武者僧共は大勢が険しい場所へ向かいました。そこでまず家来を使ってその場所を占拠させ、軍旗を峰のてっぺんに立てたので、武者僧は走って戻ったので、峰へ上る者はいくらも居ませんでした。そういうわけで特に戦いもしないで、捕虜にして武装を解き、連れてきましたので、上皇はお褒めになりました。捕虜は二十人、殺されたものは十数人でした。
同じ六日に、比叡山の武者僧はみな比叡山から降りて、根本中堂・常行三昧堂の扉を釘で打ち付けて、消さないはずの常明灯を消し、日吉大社の御簾や神鏡を切って落とし、門を閉めさせ、神官たちを追い出しましたとさ。天台宗の仏法もおしまいでしょうかね。」との事でした。

参考この記事は明月記からの抜粋らしい。

建暦三年(1213)八月小十七日乙酉。京極侍從三位〔定家〕付二條中將雅經朝臣。献和歌文書等於將軍家。蓋是先日被尋仰之故也。件双紙等。今日到着于廣元朝臣宿所。即持參御所之處。御入興之外無他云々。

読下し                     きょうごくじじゅうさんみ 〔ていか〕 にじょうちうじょうまさつねあそん  ふ      わか   もんじょら を しょうぐんけ  けん
建暦三年(1213)八月小十七日乙酉。京極侍從三位〔定家〕二條中將雅經朝臣に付し、和歌の文書等於將軍家に献ず。

けだ  これ  せんじつたず おお  られ  のゆえなり  くだん そうしら   きょう ひろもとあそん  しゅくしょに とうちゃく
蓋し是、先日尋ね仰せ被る之故也。件の双紙等、今日廣元朝臣の宿所于到着す。

すなは ごしょ   じさんのところ  ごじゅきょう の ほか な    うんぬん
即ち御所へ持參之處、御入興之外他無しと云々。

現代語建暦三年(1213)八月小十七日乙酉。京極侍従三位〔定家〕は、二条中将飛鳥井雅経さんに託して、和歌の書物を将軍実朝様様に献上しました。実はこれは、先日探していると云い送ったからです。その書物などが、今日大江広元さんの生活屋敷に着きました。さっそく御所へ持って行ったところ、大喜びになりましたとさ。

参考宿所は、石井進氏の説く御家人の屋敷地三点セット『@は幕府へ出仕する際に正装するための「着替用上屋敷」(鎌倉中心部)。A鎌倉での寝泊りや普段の暮らしの為の「生活用中屋敷」(鎌倉内周辺部)と思われる。Bは鎌倉での生活のための食糧生産の「供給用外屋敷」(鎌倉郊外)。但し名称は塾長命名』のうち@の「着替用上屋敷」と思われる。幕府正面の筋替橋東側一軒目。

建暦三年(1213)八月小十八日丙戌。霽。子尅。將軍家出御南面。于時灯消人定。悄然無音。只月色蛬思傷心計也。御哥數首。有御獨吟。及丑尅。如夢而女一人。奔融前庭。頻雖令問之給。遂以不名謁。而漸至門外之程。俄有光物。頗如松明光。以宿直者。召陰陽少允親職。々々倒衣奔參。直被仰事次第。仍勘申云。非殊變云々。然而於南庭被行招魂祭。今夜所着給之御衣賜親職。

読下し                     はれ  ねのこく  しょうぐんけなんめん いでたま   ときに ともしびき  ひとしず     しょうぜん おとな
建暦三年(1213)八月小十八日丙戌。霽。子尅。將軍家南面に出御う。時于 灯消え人定まり、悄然と音無し。

たた げっしょく きょうし こころ いた ばか  なり  おんうたすうしゅ ごどくぎんあ
只、月色 蛬思@心を傷む計り也。御哥數首御獨吟有り。

うしのこく  およ    ゆめ  ごと    て あおめひとり   まえにわ  はし  とお    しきり  これ  と   せし  たま   いへど    つい  もっ  なのらず
丑尅に及び、夢の如くし而女一人、前庭を奔り融る。頻に之を問は令め給ふと雖も、遂に以て名謁不。

しか    ようや もんがい  いた  のほど  にはか ひかりものあ  すこぶ たいまつ ひかり ごと
而るに漸く門外に至る之程、俄に光物有り。頗る松明の光の如し。

とのい   もの  もっ   おんみょうしょうじょうちかもと め   ちかもところも さかさ    はし  まい    じき  こと  しだい   おお  らる
宿直の者を以て、陰陽少允親職を召す。々々衣を倒にして奔り參る。直に事の次第を仰せ被る。

よっ  かん  もう    い       こと  へん  あらず うんぬん
仍て勘じ申して云はく。殊に變に非と云々。

しかれども なんてい をい しょうこんさい おこ  られ   こんや きたま  ところの ごい  ちかもと  たま
然而、南庭に於て招魂祭を行は被る。今夜着給ふ所之御衣を親職に賜はる。

参考@蛬思は、白居易の「李十一の東亭に題す」の詩に出てくる「きりぎりすの思い」相思夕上松台立蛬思蝉声満耳秋(後略)だそうな。当時はコオロギもキリギリスと云ったそうな。

現代語建暦三年(1213)八月小十八日丙戌。晴れました。子の刻(夜中の零時頃)将軍実朝様は、南の公邸にお出ましになりました。当然、明かりも消え人は寝静まり、ひっそりとっして音はありません。ただ、月色ときりぎりす(コオロギ)の声が心に染み入るばかりです。そこで和歌を数首詠われました。
丑の刻(午前二時頃)になって、まるで夢の様に若い女性が一人、前庭を通りました。盛んに声をかけて尋ねましたが、とうとう名乗りませんでした。しかし、門の外に行った時になって、急に光る物が現れました。まるで松明の灯りのようでした。
宿直の者に言いつけて、陰陽師の少允親職を呼び出しました。親職は着物を裏返しに着るくらいあわてて走ってきました。直接この事情を話しました。そこで上申していうのには、「これは変事ではありません。」との事でした。それでも、南庭でお祓いの招魂祭を実施しました。将軍実朝様は、今夜着ていた上着を褒美に与えました。

建暦三年(1213)八月小十九日丁亥。丑刻。大地震。

読下し                     うしのこく だいぢしん
建暦三年(1213)八月小十九日丁亥。丑刻。大地震。

現代語建暦三年(1213)八月小十九日丁亥。丑の刻(午前二時頃)大地震がありました。

建暦三年(1213)八月小廿日戊子。天リ風靜。將軍家新御所移徙之御車。自京都遲到之間。被用御輿。酉刻。自前大膳大夫廣元朝臣第。入御新御所。大須賀太郎道信牽黄牛。
隨兵
 三浦左衛門尉義村  武田五郎信光
 小笠原次郎兵衛長C 三浦九郎右衛門尉胤義
 波多野中務丞忠綱  佐々木左近將監信綱
 小山左衛門尉朝政  藤右衛門尉景盛
前駈
 前右馬助範氏    兵衛大夫季忠
 右馬權助宗保    伊賀左近藏人仲能
 三條左近藏人親實  橘三藏人惟廣
殿上人    出雲守長定
御輿〔上御簾御束帶〕
御釼役人   修理亮〔泰時〕
御調度懸   勅使河原小三郎則直
御後
 相摸守〔義時〕   駿河守惟義
 武藏守〔時房〕   前大膳大夫廣元
  以下數輩〔畧之〕
 藏人大夫朝親    左衛門大夫惟信
 前皇后宮權少進盛景 伊賀守朝光
 筑後守頼時     狩野民部大夫行光
 山内刑部大夫經俊  善民部大夫康俊
 結城左衛門尉朝光  伊賀太郎兵衛尉光季
 中條右衛門尉家長  加地五郎兵衛尉義綱
 堺平次兵衛尉常秀  葛西兵衛尉C重
 塩谷兵衛尉朝業   天野右馬允泰高
 廣澤左衛門尉實高  大友左衛門尉能直
   廷尉
  山城判官行村
御輿入御南門之比。陰陽少允親職〔束帶〕候反閇。被相具水火童女。次於西廊。自御輿下御。随反閇入御于寢殿。移殿移徙之時。直可入御寢殿。令議非普通作法之由。廣元朝臣頻傾申云々。次尼御臺所入御。遠江守親廣。狩野民部大夫行光候御輿寄。次親職賜祿〔五衣〕左近藏人仲能取御衣。進出自小御所。於廊給之。親職一拝退出。其後有垸飯献盃等之儀。相州持參吉書。於寢殿階間覽之。戌尅。被置七十二星西岳眞人符於新御所寢殿。御寢所天井之上。泰貞奉仕之。

読下し                   そらはれかぜしずか しょうぐんんけ ごいし の おくるま  きょうとよ   おそ  いた  のあいだ  おんこし  もち  られ
建暦三年(1213)八月小廿日戊子。天リ風靜。將軍家新御所移徙之御車、京都自り遲く到る之間、御輿を用い被る。

とりのこく さきのだいぜんだいぶひろもとあそん だいよ    しんごしょ  い   たま   おおすがのたろうみちのぶ  あめうじ  ひ
酉刻、前大膳大夫廣元朝臣の第自り、新御所に入り御う。大須賀太郎道信、黄牛を牽く。

ずいへい
隨兵

  みうらのさえもんのじょうよしむら     たけだのごろうのぶみつ
 三浦左衛門尉義村   武田五郎信光

  おがさわらのじろうひょうえながきよ   みうらのくろううえもんのじょうたねよし
 小笠原次郎兵衛長C  三浦九郎右衛門尉胤義

  はたののなかつかさのじょうただつな  ささきのさこんしょうげんのぶつな
 波多野中務丞忠綱   佐々木左近將監信綱

  おやまのさえもんのじょうともまさ     とうのうえもんのじょうかげもり
 小山左衛門尉朝政   藤右衛門尉景盛

さきがけ
前駈

  さきのうまのすけのりうじ          ひょうえのたいふすえただ
 前右馬助範氏     兵衛大夫季忠

  うまごんのすけむねやす         いがのさこんくらんどなかよし
 右馬權助宗保     伊賀左近藏人仲能

  さんじょうさこんくらんどちかざね     きつざくらんどこれひろ
 三條左近藏人親實   橘三藏人惟廣

てんじょうびと        いづものかみながさだ
殿上人     出雲守長定

おんこし 〔 みす   あ   おんそくたい〕
御輿〔御簾を上げ御束帶〕

ぎょけんやく ひと      しゅりのりょう 〔やすとき〕
御釼役の人   修理亮〔泰時〕

ごちょうどがけ         てしがわらのこさぶろうのりなお
御調度懸    勅使河原小三郎則直

おんうしろ
御後

  さがみのかみ 〔よしとき〕         するがのかみこれよし
 相摸守〔義時〕    駿河守惟義

  むさしのかみ 〔ときふさ〕         さきのだいぜんだいぶひろもと
 武藏守〔時房〕    前大膳大夫廣元

     いげ すうやから 〔これ  りゃく 〕
  以下數輩〔之を畧す〕

  くらんどたいふともちか          さえもんたいふこれのぶ
 藏人大夫朝親     左衛門大夫惟信

  さきのこうごうぐうごんのしょうしんもりかげ いがのかみともみつ
 前皇后宮權少進盛景  伊賀守朝光

  ちくごのかみよりとき            かのうのうみんぶたいふゆきみつ
 筑後守頼時      狩野民部大夫行光

  やまのうちのぎょうのたいふつねとし  ぜんみんぶたいふやすとし
 山内刑部大夫經俊   善民部大夫康俊

  ゆうきのさえもんのじょうともみつ     いがのたろうひょうえのじょうみつすえ
 結城左衛門尉朝光   伊賀太郎兵衛尉光季

  ちうじょううえもんのじょういえなが    かぢのごろうひょうえのじょうよしつな
 中條右衛門尉家長   加地五郎兵衛尉義綱

  さかいのへいじひょうえのじょうつねひで かさいのひょうえのじょうきよしげ
 堺平次兵衛尉常秀   葛西兵衛尉C重

  えんやのひょうえのじょうともなり     あまののうまのじょうやすたか
 塩谷兵衛尉朝業    天野右馬允泰高

  ひろさわのさえもんのじょうさねたか   おおとものさえもんのじょうよしなお
 廣澤左衛門尉實高   大友左衛門尉能直

      ていじょう
   廷尉

    やましろのほうがんゆきむら
  山城判官行村

おんこし みなみもん い   たま  のころ  おんみょうしょうじょうちかもと 〔そくたい〕 へんばい そうら   すいか  どうじょ  あいぐされ
御輿、南門に入り御う之比、 陰陽少允親職 〔束帶〕反閇に候う。水火の童女を相具被る。

つぎ  にしろう  をい    おんこしよ   お   たま   へんばい したが しんでんに い  たま
次に西廊に於て、御輿自り下り御う。反閇に随い寢殿于入り御う。

うつしどの いしのとき    じき  しんでん  い   たま  べ     ふつう   さほう  あらざ  のよし ぎせし    ひろもとあそんしき    かたぶ もう    うんぬん
移殿移徙之時は、直に寢殿に入り御う可し。普通の作法に非る之由議令め、廣元朝臣頻りに傾け申すと云々

つい   あまみだいどころ い たま   とおとうみのかみちかひろ かのうのみんぶたいふゆきみつ おんこしよせ そうら
次で、尼御臺所入り御う。 遠江守親廣、 狩野民部大夫行光 御輿寄に候う。

つい  ちかもと  ろく 〔 ごい 〕    たま
次で親職、祿〔五衣〕を賜はる。

さこんくらんどなかよし ごい   と      こごしょ  よ   すす  い     ろう  をい  これ  たま      ちかもといっぱい   たいしゅつ
左近藏人仲能御衣を取る。小御所自り進み出で、廊に於て之を給はる。親職一拝して退出す。

そ   ご   おうばんはいしゅらの ぎ あ    そうしゅうきっしょ  じさん    しんでん きざはしのま   をい これ  み
其の後、垸飯献盃等之儀有り。相州吉書を持參す。寢殿の階間@に於て之を覽る。

いぬのこく しちじうにせい せいがくしんじん  ふ を しんごしょ  しんでん    ごしんじょ  てんんじょうのうえ  おかれ    やすさだこれ  ほうし
戌尅、七十二星 西岳眞人の符於新御所の寢殿の、御寢所の天井之上に置被る。泰貞之を奉仕す。

参考@階間は、「きざはしのま」で階隠しの間(はしかくしのま)とも謂われ、階段を上った上段、簀子に面する庇の間。階隠しは、社殿や寝殿造りの殿舎で、正面の階段上に、柱を2本立てて突出させた庇。社殿では向拝(こうはい)ともいう。

現代語建暦三年(1213)八月小二十日戊子。空は晴れて風も静かです。将軍実朝様が新築の御所への引っ越し式ですが、牛車が京都からの到着が遅れているので、輿を使われました。酉の刻(午後六時ころ)に大江広元さんの屋敷から新築の御所へお入りになりました。大須賀太郎道信が牛車の牛を牽きました。参考は、土についている神様をなだめる。
警備兵 三浦平六左衛門尉義村と武田五郎信光 小笠原次郎兵衛長清と三浦九郎右衛門尉胤義 波多野中務丞小次郎忠綱と佐々木左近将監信綱 小山左衛門尉朝政と藤右衛門尉景盛
清めに先を行く人の先駆 前右馬助範氏と兵衛大夫季忠 右馬権助宗保と伊賀左近蔵人仲能 三条左近蔵人親実と橘三蔵人惟広
殿上人 出雲守長定
輿〔御簾を上げて束帯姿〕
刀持ち 修理亮〔泰時〕
弓矢持ち 勅使河原小三郎宣直
将軍のすぐ後の控え 相模守〔義時〕 大内駿河守惟義 武蔵守〔時房〕 大江広元 以下数人〔後略〕
 美作蔵人大夫朝親 左衛門大夫大内惟信 前皇后宮権少進盛景 伊賀守朝光 筑後守源頼時 狩野民部大夫行光 山内首藤刑部大夫経俊 三善民部大夫町野康俊
 結城左衛門尉朝光 伊賀太郎兵衛尉光季 中条右衛門尉家長 加地五郎兵衛尉義綱 境平次兵衛尉常秀 葛西兵衛尉清重 塩谷兵衛尉朝業 天野右馬允保高 広沢右衛門尉実高 大友左衛門尉能直
検非違使 山城判官二階堂行村
輿が南門に入る時に、陰陽少允安陪親職〔束帯〕がお祓いの踊り反閇を行いました。水と火伏の役の少女を連れていました。次に西の回廊で、輿から降りられ、お祓い者について寝殿に入られました。「お引っ越しの時は、直接寝殿にお入りください。普通の時の作法と違うからと決めたじゃないですか。」と大江広元さんが頻りに文句をたれていましたとさ。
次に、尼御台所政子様がお入りになりました。遠江守源大江親廣・狩野民部大夫行光が輿を下ろす濡れ縁に控えました。
次に安陪親職が、褒美〔御召し物〕を与えられました。左近蔵人伊賀仲能がお召し物を受け取りまして、小御所から持って出て廊下でこれを与えました。親職はお辞儀をして退出しました。
その後、御馳走のふるまいがあって、相州義時がめでたい書き出しの吉書を持ってきました。寝殿の階段上の庇の間でこれを見る儀式をしました。
戌の刻(午後八時頃)、陰陽師の下位七十二星・西岳真人祭のお札を新築御所の寝殿の寝間の天井裏に置きました。安陪泰貞が祈りました。

建暦三年(1213)八月小廿二日庚寅。天リ。未尅。鶴岳上宮寳殿。黄蝶大小群集。人奇之。」今日。大友左衛門尉能直爲使節上洛。依山門騒動事也。

読下し                     そらはれ ひつじのこく つるがおか じょうぐうほうでん    きちょう だいしょうぐんしゅう  ひとこれ  あやし
建暦三年(1213)八月小廿二日庚寅。天リ。 未尅。 鶴岳の 上宮寳殿に、黄蝶の大小群集す。人之を奇む。」

きょう   おおとものさえもんのじょうよしなり しせつ  な   じょうらく   さんもん  そうどう  こと  よっ  なり
今日。 大友左衛門尉能直 使節と爲し上洛す。山門の騒動の事に依て也。

現代語建暦三年(1213)八月小二十二日庚寅。空は晴れです。未の刻(午後二時頃)鶴岡八幡宮の上宮の神殿に大小の黄色い蝶々が群れ飛んでいました。人々は不思議がりました。」今日、大友左衛門尉能直が派遣員として京都へ上りました。比叡山の騒ぎによってです。

建暦三年(1213)八月小廿六日甲午。天霽。將軍家入御廣元朝臣之第。是御移徙之後。御行始也。供奉人々數輩。大畧如前〔畧之〕。
供奉人
  随兵
 小山左衛門尉朝政  三浦九郎右衛門尉胤義
 藤右衛門尉景盛   佐々木左近將監信綱
 善左衛門尉康盛   大井右衛門尉實平
 伊豆左衛門尉頼定  武田五郎信光
 狩野民部大夫行光  伊賀太郎兵衛尉光季
  前駈
 前左馬助範氏    右馬權助宗俊(保)
 伊賀左近藏人仲能  三條左近藏人親實
 橘三藏人惟廣
  殿上人
 出雲守長定
  御後
 相摸守義時     駿河守惟義
 武藏守時房     遠江守親廣
 修理亮泰時     駿河左衛門大夫惟信
 美作左近大夫朝親  伊賀守朝光
 前皇后宮權助宗保  筑後守頼時
 山内刑部大夫經俊  善民部大夫康俊
 藤民部大夫行光   三浦左衛門尉義村
 結城左衛門尉朝光  中條左衛門尉家長
 小野寺左衛門尉秀通 加藤左衛門尉景長
 嶋津左衛門尉忠久  宇佐美左衛門尉祐政
 江左衛門尉能親   江兵衛尉能範
 佐貫兵衛尉廣綱   天野右馬允泰高
 境兵衛尉常秀    波多野中務丞忠綱
  檢非違使
 山城判官行村

読下し                     そらはれ  しょぐんけ  ひろもとあそんの だい い   たま    これ   ごいし ののち  みゆきはじめなり
建暦三年(1213)八月小廿六日甲午。天霽。將軍家、廣元朝臣之第に入り御う。是、御移徙之後の御行始也。

 ぐぶ  ひとびと すうやから  たいりゃく さき  ごと    〔これ  りゃく〕
供奉の人々 數輩。 大畧 前の如し。〔之を畧す。〕

 ぐぶにん
供奉人

    ずいへい
  随兵

  おやまのさえもんのじょうともまさ     みうらのくろううえもんのじょうたねよし
 小山左衛門尉朝政   三浦九郎右衛門尉胤義

  とうのうえもんのじょうかげもり        ささきのさこんしょうげんのぶつな
 藤右衛門尉景盛    佐々木左近將監信綱

  ぜんのさえもんのじょうやすもり      おおいのうえもんのじょうさねひら
 善左衛門尉康盛    大井右衛門尉實平

  いずのさえもんのじょうよりさだ       たけだのごろうのぶみつ
 伊豆左衛門尉頼定   武田五郎信光

  かのうのみんぶたいふゆきみつ      いがのたろうひょうえのじょうみつすえ
 狩野民部大夫行光   伊賀太郎兵衛尉光季

     さきがけ
  前駈

  さきのさまのすけのりうじ          うまごんのすけむねやす
 前左馬助範氏     右馬權助宗保

  いがのさこんくらんどなかよし       さんじょうのさこんくらんどちかざね
 伊賀左近藏人仲能   三條左近藏人親實

  きつざくらんどこれひろ
 橘三藏人惟廣

    てんじょうびと
  殿上人

  いずものかみながさだ
 出雲守長定

    おんうしろ
  御後

  さがみのかみよしとき           するがのかみこれよし
 相摸守義時      駿河守惟義

  むさしのかみときふさ           とおとうみのかみちかひろ
 武藏守時房      遠江守親廣

  しゅりのすけやすとき           するがのさえもんのじょうたいふこれのぶ
 修理亮泰時      駿河左衛門大夫惟信

  みまさかのさこんたいふとのちか     いがのかみともみつ
 美作左近大夫朝親   伊賀守朝光

  さきのこうごうぐうごんのすけむねやす   ちくごのかみよりとき
 前皇后宮權助宗保   筑後守頼時

  やまのうちのぎょうぶたいふつねとし   ぜんのみんぶたいふやすとし
 山内刑部大夫經俊   善民部大夫康俊

  とうのみんぶたいふゆきみつ       みうらのさえもんのじょうよしむら
 藤民部大夫行光    三浦左衛門尉義村

  ゆうきのさえもんのじょうともみつ     ちうじょうのさえもんのじょういえなが
 結城左衛門尉朝光   中條左衛門尉家長

  おのでらのさえもんのじょうひでみち   かとうさえもんのじょうかげなが
 小野寺左衛門尉秀通  加藤左衛門尉景長

  しまづのさえもんのじょうただひさ     うさみのさえもんのじょうすけまさ
 嶋津左衛門尉忠久   宇佐美左衛門尉祐政

  えのさえもんのじょうよしちか       えのひょうえのじょうよしのり
 江左衛門尉能親    江兵衛尉能範

  さぬきのひょうえのじょうひろつな    あまののうまのじょうやすたか
 佐貫兵衛尉廣綱    天野右馬允泰高

  さかいのひょうえのじょうつねひで    はたののなかつかさのじょうただつな
 境兵衛尉常秀     波多野中務丞忠綱

     けびいし
  檢非違使

  やましろのほうがんゆきむら
 山城判官行村

現代語建暦三年(1213)八月小二十六日甲午。空は晴れました。将軍実朝様は大江広元さんの屋敷へ入りました。これは、引っ越し後の外出始めです。お供の人は数人です。殆ど前回と同じです。〔略します〕
お供の人
  警備兵
 小山左衛門尉朝政と三浦九郎右衛門尉胤義
 藤右衛門尉景盛と佐々木左近将監信綱
 三善左衛門尉康盛と大井右衛門尉実平
 伊豆左衛門尉頼定と武田五郎信光
 狩野民部大夫行光と伊賀太郎兵衛尉光季
清めに先を行く人の先駆
 前右馬助範氏と右馬権助宗保
 伊賀左近蔵人仲能と三条左近蔵人親実
 橘三蔵人惟広
殿上人
 出雲守長定
将軍のすぐ後の控え
 相模守北条義時  駿河守大内惟義
 武蔵守北条時房  遠江守源親広
 修理亮北条泰時  駿河左衛門大夫大内惟信
 美作左近大夫朝親 伊賀守朝光
 前皇后宮権助宗保 筑後守源頼時
 山内刑部大夫経俊 三善民部大夫町野康俊
 藤民部二階堂行光 三浦左衛門尉義村
 結城左衛門尉朝光 中条右衛門尉家長
 小野左衛門尉秀通 加藤左衛門尉景長
 島津左衛門尉忠久 宇佐美左衛門尉祐政
 大
江左衛門尉能親 大江兵衛尉能範
 佐貫兵衛尉廣綱  天野右馬允保高
 境平次兵衛尉常秀 波多野中務丞小次郎忠綱
検非違使
 山城判官二階堂行村

建暦三年(1213)八月小廿八日丙申。陰。去廿二日鶴岡奇異事。爲兵革兆之由。依有申入之輩。被行御占之處。可有御愼之旨。勘申之間。於八幡宮。被行百恠祭。奉行遠江守親廣云々。

読下し                   そらはれ さんぬ にじうににち つるがおか きい   こと  へいかく きざしたるのよし  もう  い   のやからあ    よっ
建暦三年(1213)八月小廿八日丙申。陰。去る廿二日の鶴岡の奇異の事、兵革の兆爲之由、申し入る之輩有るに依て、

おんうら おこな らる  のところ  おんつつし あ  べ   のむね  かん  もう  のかん  はちまんぐう  をい    ひゃっけさい おこ らる
御占を行は被る之處、御愼み有る可し之旨、勘じ申す之間、八幡宮に於て、百恠祭を行は被る。

ぶぎょう とおとうみのかみちかひろ うんぬん
奉行は遠江守親廣と云々。

現代語建暦三年(1213)八月小二十八日丙申。曇りです。先日の二十二日の鶴岡八幡宮での奇妙な出来事は、戦が起こる兆候なのだと、申し入れる連中がいたので、占ったところもの忌をした方が良いとの上申があったので、鶴岡八幡宮で多くの怪しい者を取り除く祈りの百怪祭を行いました。担当は遠江守源親広です。

建暦三年(1213)八月小廿九日丁酉。天霽。寅尅。廣元朝臣息女卒去〔六才〕」亥刻地震。

読下し                     そらはれ とらのこく ひろもとあそん  そくじょそっきょ     〔ろくさい  〕
建暦三年(1213)八月小廿九日丁酉。天霽。寅尅。廣元朝臣が息女卒去す。〔六才〕

いのこくぢしん
亥刻地震。

現代語建暦三年(1213)八月小二十九日丁酉。空は晴れです。大江広元さんの娘さんが亡くなりました。〔六才です〕」
亥の刻(午後十時頃)地震です。

九月へ

吾妻鏡入門第廿一巻

inserted by FC2 system