吾妻鏡入門第廿一巻

建暦三年癸酉(1213)月大

建暦三年(1213)九月大八日乙巳。豊前々司尚友參御所。相具子息内藏允尚光。兵衛尉能尚等自京都參着云々。藤民部大夫行光爲申次。入見參。是爲西國御領乃貢納下奉行。令在洛者也。

読下し                    ぶぜんぜんじひさとも ごしょ  まい    しそくくらのじょうひさみつ  あいぐ
建暦三年(1213)九月大八日乙巳。豊前々司尚友御所に參る。子息内藏允尚光を相具す。

ひょうえのじょうよしひさら きょうとよ   まい  つ     うんぬん  とうのみんぶたいふゆきみつ もう  つぎたり  げざん  い
兵衛尉能尚等 京都自り參り着くと云々。藤民部大夫行光、申し次爲。見參に入る。

これ  さいごくごりょう  のうぐ   おさ  くだ  ぶぎょう  な     ざいらくせし  ものなり
是、西國御領の乃貢、納め下し奉行と爲し、在洛令む者也。

現代語建暦三年(1213)九月大八日乙巳。前豊前守尚友が、御所に来ました。せがれの内蔵允尚光を連れてます。兵衛尉能尚が京都から来ました。二階堂民部大夫行光が取り次ぎました。この人たちは、九州にある関東御領の年貢を集める担当として、京都に駐在する者です。

建暦三年(1213)九月大十日丁未。幕府有女房勝負。武州。并近江前司仲兼。内藤馬允知親許。被召加其中云々。

読下し                    ばくふ  にょぼう  しょうぶあ
建暦三年(1213)九月大十日丁未。幕府で女房の勝負有り。

ぶしゅうなら   おうみぜんじなかかね  ないとううまのじょいともちか ばか   そ   なか  め   くは  らる    うんぬん
武州并びに近江前司仲兼、 内藤馬允知親 許り、其の中に召し加へ被ると云々。

現代語建暦三年(1213)九月大十日丁未。幕府で女官による賭け事の勝負がありました。武州時房と前近江守仲兼、内藤右馬允知親の三人だけをそれに参加させました。

建暦三年(1213)九月大十二日己酉。於幕府有駒御覽。修理亮〔泰時〕所被進也。三浦平六左衛門尉義村〔御厩別當〕爲奉行。諸人群參。及千人。經御覽之後。可賜人々之旨被仰出。相州承其人數。於當座。令右筆注折紙給云々。
 一疋〔鹿毛〕 今日護侍僧 一疋〔黒駮〕 出雲守
 一疋〔葦毛〕 大和前司  一疋〔鴾毛〕 三條藏人
 一疋〔黒糟毛〕近江前司  一疋〔鹿毛〕 豊前兵衛尉
 一疋〔鴾毛〕 宮内兵衛尉 一疋〔瓦毛〕 藤九郎次郎
 一疋〔栗毛〕 内藤右馬允 一疋〔赤葦毛〕當番陰陽師
   殿上人僧陰陽師之外。皆參庭中給之。退出。

読下し                      ばくふ  をい  こま ごらんあ     しゅりのすけ 〔やすとき〕 すす  らる ところなり
建暦三年(1213)九月大十二日己酉。幕府に於て駒御覽有り。修理亮〔泰時〕進め被る所也。

みらのへいろくさえもんのじょうよしむら〔みんまやべっとう〕 ぶぎょう  な    しょにん  ぐんさん  せんにん  およ
三浦平六左衛門尉義村〔御厩別當〕奉行を爲す。諸人の群參、千人に及ぶ。

 ごらん  へ   ののち   ひとびと  たま    べ   のむねおお  いださる
御覽を經る之後。人々に賜はる可し之旨仰せ出被る。

そうしゅう そ  にんずう  うけたまは  とうざ   をい    ゆうひつ  し   おりがみ  ちう  たま    うんぬん
相州其の人數を 承り、當座に於て、右筆を令て折紙に注し給ふと云々。

  いっぴき 〔 かげ 〕   きょう    ごじそう         いっぴき 〔くろぶち〕  いずものかみ
 一疋〔鹿毛〕 今日の護侍僧    一疋〔黒駮〕 出雲守

  いっぴき 〔 あしげ 〕   やまとのぜんじ            いっぴき 〔 つきげ〕   さんじょうくらんど
 一疋〔葦毛〕 大和前司      一疋〔鴾毛〕 三條藏人

  いっぴき 〔くろかすげ〕 おうみのぜんじ            いっぴき 〔 かげ 〕   ぶぜんひょうえのじょう
 一疋〔黒糟毛〕近江前司      一疋〔鹿毛〕 豊前兵衛尉

  いっぴき 〔 つきげ 〕   くないひょうえのじょう         いっぴき 〔かわらけ〕  とうくろうじろう
 一疋〔鴾毛〕 宮内兵衛尉     一疋〔瓦毛〕 藤九郎次郎

  いっぴき 〔 くりげ 〕   ないとううまのじょう           いっぴき 〔あかあしげ〕 とうばん おんみょうじ
 一疋〔栗毛〕 内藤右馬允     一疋〔赤葦毛〕當番の陰陽師

      てんじょうびと そう  おんみょうじのほか  みなていちう  まい  これ  たま      たいしゅつ
   殿上人、僧、陰陽師之外、皆庭中に參り之を給はり、退出す。

現代語建暦三年(1213)九月大十二日己酉。幕府で、若馬を将軍が見る儀式がありました。修理亮泰時が納めたのです。三浦平六兵衛尉義村〔将軍の厩担当〕が指揮担当をしました。見物の人々が大勢きました。ご覧の後、御家人どもに与えるように仰せになられました。相州義時が与える武士の数をお聞きになり、この場において筆記人に二つ折りの公式文書として書き出させましたとさ。

 一頭〔鹿毛〕今日の将軍守護の経を読む僧。一頭〔黒ぶち〕出雲守藤原長定。
 一頭〔葦毛〕大和前司山田重弘。     一頭〔月毛〕三条蔵人親実。
 一頭〔黒かす毛〕近江前司仲兼。     一頭〔鹿毛〕豊前兵衛尉。
 一頭〔月毛〕宮内兵衛尉公氏。      一頭〔瓦毛〕藤九郎次郎大曽根時長。
 一頭〔栗毛〕内藤右馬允知親。      一頭〔赤葦毛〕今日の当番の陰陽師

 京都朝廷の御所に上がれる身分の殿上人・坊さん・陰陽師以外は、皆庭の中に来てこれを受け取っていきました。

参考鹿毛は、最も一般的な毛色で、鹿の毛のように茶褐色で、タテガミ・尾・足首に黒い毛が混じる。
参考黒駮は、黒毛で体に大きな白斑のあるもの。
参考葦毛は、体の一部や全体に白い毛が混生し、年齢とともにしだいに白くなる。はじめは栗毛や鹿毛にみえることが多い。原毛色の残り方から赤芦毛・連銭芦毛など種々ある。
参考鴾毛は、葦毛でやや赤みをおびたもの。
参考瓦毛は、体は淡い黄褐色か亜麻色で四肢の下部と長毛は黒い。
参考栗毛は、全身が褐色の毛で覆われている。たてがみや尾も同色のものが多いが、白いものは尾花(おばな)栗毛と呼ぶ。
参考糟毛は、灰色に少し白い毛がまじっているもの。Yoo辞書から

建暦三年(1213)九月大十八日乙夘。天リ。戌刻。永福寺別當美作律師經玄入滅。依日來痢病也。

読下し                     そらはれ いぬのこく  ようふくじべっとう みまさかりっしきょうげん にゅうめつ   ひごろ りぎょう  よっ  なり
建暦三年(1213)九月大十八日乙夘。天リ。戌刻、永福寺別當 美作律師經玄、入滅す。日來痢病に依て也。

現代語建暦三年(1213)九月大十八日乙卯。空は晴れです。戌の刻〔午後八時頃〕永福寺代表の美作律師経玄が亡くなりました。激しい下痢を伴う赤痢の病気のためでしょう。

建暦三年(1213)九月大十九日丙辰。未尅。日光山別當法眼弁覺進使者申云。故畠山次郎重忠末子大夫阿闍梨重慶籠居當山之麓招聚窂人。又祈祷有碎肝膽事。是企謀叛之條。無異儀歟之由申之。仲兼朝臣以弁覺使者申詞。披露御前。其間。長沼五郎宗政候當座之間。可生虜重慶之趣。被仰含之。仍宗政不能歸宅。具家子一人。雜色男八人。自御所。直令進發下野國。聞及郎從等竸争。依之鎌倉中聊騒動云々。

読下し                    ひつじのこく にこうさんべっとう ほうげんべんかく ししゃ まいら もう    い
建暦三年(1213)九月大十九日丙辰。未尅。日光山別當 法眼弁覺使者を進し申して云はく。

こはたけやまのじろうしげただ ばっし  たいふあじゃりちょうけい  とうさんのふもと  ろうきょ  ろうにん  まね  あつ
故畠山次郎重忠が末子、大夫阿闍梨重慶 當山之麓に籠居し窂人を招き聚める。

また  きとう     かんたん  くだ  ことあ     これ むほん  くはだ   のじょう   いぎ な   か のよしこれ  もう
又、祈祷にて肝膽を碎く@事有り。是謀叛を企てる之條、異儀無き歟之由之を申す。

なかかねあそんべんかく ししゃ  もう  ことば  もっ    ごぜん  ひろう
仲兼朝臣弁覺の使者を申す詞を以て、御前に披露す。

そ   かん  ながぬまのごるむねまさ とうざ そうら  のかん  ちょうけい いけどるべ のおもむき これ  おお  ふく  られ
其の間、長沼五郎宗政當座に候う之間、重慶を生虜可き之趣、 之を仰せ含め被る。

よっ  むねまさ きたく      あたはず  いえのこひとり  ぞうしきおとこ はちにん ぐ    ごしょよ     ただち しもつけのくに しんぱつせし
仍て宗政歸宅するに不能、家子一人、雜色男 八人を具し、御所自り、直に下野國へ進發令む。

き  およ  ろうじゅうら きそ  あらそ   これ  よっ  かまくらちう  いささ そうどう    うんぬん
聞き及び郎從等竸い争う。之に依て鎌倉中、聊か騒動すと云々。

参考@肝膽を碎くは、肝胆を砕くで、肝臓と胆嚢を砕くほどから「真心を尽くす。一所懸命になってする。」の意味。

現代語建暦三年(1213)九月大十九日丙辰。未の刻〔午後二時頃〕日光山二荒山神社の筆頭法眼弁覚が、使いをよこして告げてきました。「亡くなった畠山次郎重忠の末っ子の大夫阿闍梨重慶が、日光山の麓に隠れ住み、流浪者を呼び集めております。又、御祈祷は懸命にやっています。これを推測すると謀反の計画を考えていることは間違いありません。」と申し上げました。近江前司仲兼が弁覚の使いの言葉を、将軍実朝様の前で申しあげました。そこで、長沼五郎宗政がそばに居たので、重慶を捕まえてくるように命じられました。それで、長沼五郎宗政は仕度に家へ帰る事もせず、身内の家来一人、雑用の連中八人を連れて、御所から直接下野国(栃木県)へ出発しました。この話を聞いて、家来たちがあわてて後を追ったので、鎌倉中が多少騒がしかったそうです。

建暦三年(1213)九月大廿二日戊午。將軍家令逍遥火取澤邊給。是依覽草花秋興也。武藏守。修理亮。出雲守。三浦左衛門尉。結城左衛門尉。内藤右馬允等令供奉。皆携哥道之輩也。

読下し                     しょうぐんけ  ひとりさわ へん しょうようせし  たま    これ  くさばな  あき  きょう  み     よっ  なり
建暦三年(1213)九月大廿二日戊午。將軍家、火取澤邊に逍遥令め給ふ。是、草花の秋、興を覽るに依て也。

むさしのかみ しゅりのすけ いずものかみ みうらのさえもんのじょう  ゆうきのさえもんのじょう  ないとううまのじょう ら ぐぶ せし    みな かどう  かかは のやからなり
武藏守、修理亮、 出雲守、三浦左衛門尉、 結城左衛門尉、内藤右馬允等供奉令む。皆哥道に携る之輩也。

現代語建暦三年(1213)九月大二十二日戊午。将軍実朝様は、磯子の氷取沢のあたりへ散策しました。それは、秋の草花のおもむきを見て和歌の題材を考えるためです。武蔵守時房・修理亮泰時。出雲守藤原長定・三浦平六左衛門尉義村・結城左衛門尉朝光・内藤右馬允知親などがお供をしました。皆和歌の道に通じる連中です。

参考火取澤は、横浜市磯子区氷取沢。朝比奈峠を越えて下の道を行ったか、天園から尾根伝いに行ったか、いずれかであろう。

建暦三年(1213)九月大廿六日癸亥。天リ。晩景宗政自下野國參着。斬重慶之首。持參之由申之。將軍家以仲兼朝臣被仰曰。重忠本自無過而蒙誅。其末子法師縱雖挿隱謀。有何事哉。随而任被仰下之旨。先令生虜其身具參之。就犯否左右。可有沙汰之處。加戮誅。楚忽之議。爲罪業因之由。太御歎息云々。仍宗政蒙御氣色。而宗政怒眼。盟仲兼朝臣云。於件法師者。叛逆之企無其疑。又生虜條雖在掌内。直令具參之者。就諸女性比丘尼等申状。定有宥沙汰歟之由。兼以推量之間。如斯加誅罸者也。於向後者。誰輩可抽忠節乎。是將軍家御不可也。凡右大將家御時。可厚恩賞之趣。頻以雖有嚴命。宗政不諾申。只望。給御引目。於海道十五ケ國中。可糺行民間無礼之由。令啓之間。被重武備之故。忝給一御引目。于今爲蓬屋重寳。當代者。以哥鞠爲業。武藝似廢。以女性爲宗。勇士如無之。又没収之地者。不被充勳功之族。多以賜女等。所謂。榛谷四郎重朝遺跡給五條局。以中山四郎重政跡賜下総局云々。此外過言不可勝計。仲兼不及一言起座。宗政又退出。

読下し                     そらはれ ばんけい むねまさ しもつけのくによ さんちゃく   ちょうけいのくび  き     じさん     のよし  これ  もう
建暦三年(1213)九月大廿六日癸亥。天リ。晩景に宗政、下野國自り參着す。重慶之首を斬り、持參する之由、之を申す。

しょうぐんけ  なかかねあそん  もっ  おお  られ  い      しげただもとよ   とが な    て ちう  こうむ
將軍家、仲兼朝臣を以て仰せ被て曰はく。重忠本自り過無くし而誅を蒙る。

そ   まっし  ほうし たと  いんぼう さしはさ   いへど    なにごと  あ    や
其の末子の法師縱い隱謀を挿むと雖も、何事が有らん哉。

したが て おお  くださる のむね  まか    ま   そ   み   いけどらせし  これ  ぐ   まい    はんぴ   そう   つ      さた あ   べ  のところ
随い而仰せ下被る之旨に任せ、先ず其の身を生虜令め之を具し參り、犯否の左右に就き、沙汰有る可き之處、

ちうりく  くは      そこつのぎ   ざいごう  もといたるのよし  はなは ごたんそく  うんぬん  よっ  むねまさ みけしき  こうむ
戮誅を加うは、楚忽之議、罪業の因爲之由、太だ御歎息と云々。仍て宗政御氣色を蒙る。

しか    むねまさ め  いか     なかかねあそん  ちか    い       くだん ほうし  をい  は   ほんぎゃくのくはだ そ  うたが  な
而るに宗政眼を怒らせ、仲兼朝臣に盟いて云はく。件の法師に於て者、叛逆之企て其の疑い無し。

また  いけどり じょうしょうない あ    いへど   じき  これ  ぐ   まい  せし  ば  もろもろ にょしょう  びくに など  もう  じょう  つ
又、生虜の條掌内に在ると雖も、直に之を具し參ら令め者、諸の女性、比丘尼等の申し状に就き、

さだ    なだ   さた あ   か のよし  かね  もっ  すいりょうのあいだ かく  ごと  ちうばつ  くは    ものなり
定めて宥め沙汰有る歟之由、兼て以て推量之間、斯の如く誅罸を加へる者也。

きょうこう をい  は  だれやから ちうせつ ぬき   べ   や   これ しょうぐんけ   ごふか  なり
向後に於て者、誰輩 忠節を抽んず可き乎。是、將軍家の御不可也。

およ  うだいしょうけ  おんとき    おんしょう  あつ  すべ のおもむき しきり  もっ  げんめい あ   いへど  むねまさだく  もう  ず
凡そ右大將家の御時は、恩賞を厚く可き之趣、 頻に以て嚴命有ると雖も、宗政諾し申さ不、

ただのぞ      おんひきめ  たま      かいどう じうごかこく ちう  をい    たみ あいだ  ぶれい  ただ  おこな べ   のよし  けいせし のあいだ
只望むは、御引目を給はり、海道十五ケ國中に於て、民の間の無礼を糺し行う可し之由、啓令む之間、

 ぶび   おも    られ  のゆえ かたじけ  いちおんひきめ  たま     いまに ほうおく ちょうほうたり
武備を重んじ被る之故、忝くも一御引目を給はり、今于蓬屋の重寳爲。

とうだいは   うたまり  もっ なりわい な     ぶげい  すたれ   に     にょしょう もっ  むねと な     ゆうしの な     ごと
當代者、哥鞠を以て業と爲し、武藝は廢るに似て、女性を以て宗と爲し、勇士之無きが如し。

また  ぼっしゅうのち は  くんこうのやから  あ   られず  おお  もっ   あおめら   たま
又、没収之地者、勳功之族に充て被不、多く以て女等に賜はる。

いはゆる はんがやつのしろうしげとも ゆいせき ごじょうのつぼね たま     なかやまのしろうしげまさ あと  もっ  しもうさのつぼね たま   うんぬん
所謂、 榛谷四郎重朝 が遺跡は 五條局に給はり、中山四郎重政の跡を以て 下総局に賜はると云々。

こ   ほか  かごん あげ  かぞ  べからず なかかねひとこと  およばず ざ  た     むねまさまたたいしゅつ
此の外の過言勝て計う不可。仲兼一言にも不及座を起つ。宗政又退出す。

現代語建暦三年(1213)九月大二十六日癸亥。空は晴れです。夜になって長沼五郎宗政が下野国(栃木県)から到着しました。重慶の首を切って持ってきましたと報告しました。将軍実朝様は、近江前司仲兼を通じて仰せになられました。「畠山次郎重忠元々過ちがないのに攻め殺されてしまった。その末っ子がたとえ陰謀をもったとしても大したことではないではないか。それだから、命令通りに捕虜にして連れてきて、その上で罪の有無を調べるべきなのに、殺してしまうとは、軽はずみな行為は罪作りの元だ。」ととてもがっかりしたそうです。そこで長沼五郎宗政はお怒りをかってしまいました。

しかし、長沼五郎宗政は目をむいて怒って、近江前司仲兼に確信を持って云いました。
「あの坊主の陰謀は疑いない。また、生け捕ってくるのも容易だけど、将軍のところへ直接連れてくると、周りの女官や尼御台所政子様が云いだして、おそらく許されてしまうだろうと、あらかじめ推測していたので、このように殺してしまったのです。こんなことでは、今後誰が忠義を尽くすでしょうか。これは、将軍実朝様の誤りです。前の頼朝様の時代には、褒美を多く与えるように厳しくおっしゃっていましたが、長沼五郎宗政は承知しないで、「欲しいものは、単に矢じりのない鏑矢を戴き、東海道十五か国では、民に礼を守らせましょう。」と、申しあげたので、武具の備えを重んじられて、もったいなくも一番目の鏑矢を頂いて、今ではそまつな我が家の宝物としています。現在の將軍は、和歌や蹴鞠を商売にして、武芸はすたれているようで、女性をもっぱら部下にしているので、勇士はまるでいないと同じです。又、違反などで取り上げた領地も、手柄のある武士に与えるのではなく、殆どが女の人に与えられています。たとえば、榛谷四郎重朝の領地は五条局に与えられ、中山四郎重政の跡地を下総局にお授けになられました。」などと、この他にも沢山過言を吐き出しました。仲兼は一言も言わずに席を立ちました。仕方なく長沼五郎宗政も御所を去りました。

閏九月へ

吾妻鏡入門第廿一巻

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