吾妻鏡入門第廿一巻

建暦三年癸酉(1213)月大

建暦三年(1213)十月大二日戊戌。將軍家爲御方違。入御相州御第。出雲守。武藏守。遠江守。結城左衛門尉。三浦左衛門尉。藤内左衛門尉以下供奉云々〔同三日々中自御方違御所還御其期相州被進御馬并御劔等云々〕。

読下し                    しょうぐんけ  おんかたがえ ため  そうしゅう おんだい い   たま
建暦三年(1213)十月大二日戊戌。將軍家、御方違の爲、相州の御第に入り御う。

いずものかみ むさしのかみ とおとうみのかみ ゆうきのさえもんのじょう みうらのさえもんのじょう  とうないさえもんのじょう  いげ  ぐぶ     うんぬん
出雲守、 武藏守、 遠江守、 結城左衛門尉、三浦左衛門尉、 藤内左衛門尉 以下供奉すと云々。

〔 おな    みっか にっちゅうおんかたがえよ   ごしょ    かんご      そ    ご   そうしゅうおんうまなら     ぎょけんら    すす  らる    うんぬん  〕
〔同じき三日々中御方違自り御所へ還御す。其の期に相州御馬并びに御劔等を進め被ると云々。〕

現代語建暦三年(1213)十月大二日戊戌。将軍実朝様は、縁起を担いだ方向替えの方違へのために、相州義時さんの屋敷へ入られました。出雲守藤原長定・武蔵守時房・遠江守源親広・結城左衛門尉朝光・三浦平六兵衛尉義村・藤内左衛門尉季康以下がお供をしました〔同三日の昼間にその方違用屋敷から御所へお帰りになりました。その時に義時さんは馬と剣を献上しましたとさ〕。

建暦三年(1213)十月大三日己亥。日中自御方違御所還御。其期。相州被進御馬并御劔等云々。」今日。以御書。有被仰于大宮大納言殿方之事。自公家被課西國御領等臨時公事也。一切不可及御沙汰之由。如廣元朝臣雖申之。仰曰。於一向停止之儀者不可然。至向後者。楚忽事者。非雜掌等之所堪。假令兼日粗可被定仰之旨。可載之者。仍前大膳大夫於宿舘。書整此御書。遠江守親廣爲御使。數度往廻。親廣申請御判。即爲京進被下藤民部大夫行光云々。

読下し                    にっちゅうおんかたがえよ ごしょ   かんご    そ   ご   そうしゅうおんうまなら   ぎょけんら  すす  らる    うんぬん
建暦三年(1213)十月大三日己亥。日中御方違自り御所へ還御す。其の期に相州御馬并びに御劔等を進め被ると云々。」

きょう   おんしょ  もっ    おおみやだいなごんどの かたに おお  らる   のことあ     こうけ よ   かせら   さいごくごりょうら   りんじ    くじ  なり
今日、御書を以て、 大宮大納言殿 方于仰せ被る之事有り。公家自り課被る西國御領等の臨時の公事也。

いっさい ごさた   およ  べからずのよし  ひろもとあそん  ごと  これ  もう    いへど   おお    い
一切御沙汰に及ぶ不可之由、廣元朝臣の如き之を申すと雖も、仰せて曰はく。

いっこう  ちょうじの ぎ   をい  は しか  べからず  きょうこう いた    は   そこつ  ことは   ざっしょうらの た    ところ あらず
一向に停止之儀に於て者然る不可。向後に至りて者、楚忽の事者、雜掌等之堪える所に非。

かりょう  けんじつあらあ さだ  おお  らる  べ   のむね  これ  の     べ   てへ
假令、兼日 粗ら定め仰せ被る可き之旨、之を載せる可し者り。

よっ  さきのだいぜんだいぶ しゅくかん をい  こ   おんしょ  か  ととの   とうとうみのかみちかひろ おんし な   すうどおうかい
仍て 前大膳大夫 宿舘に於て、此の御書を書き整へ、遠江守親廣 御使と爲し、數度往廻す。

ちかひろごはん  もう  う     すなは きょう すす    ため とうのみんぶたいふゆきみつ  くださる    うんぬん
親廣御判を申し請け、即ち京へ進めん爲、藤民部大夫行光に下被ると云々。

現代語建暦三年(1213)十月大三日己亥。昼間、方違用の屋敷から御所へお帰りになりました。その時に義時さんは馬と剣を献上しましたとさ。
今日、公文書で大宮大納言西園寺公経様に申し渡す事があります。朝廷から課税されている九州の幕府領への臨時の課税の事です。一切応じる必要はありませんと大江広元等は云ってますが、将軍実朝様の仰せでは、「勝手にやめてしまうことはいけません。今後の事については、突然の話には、現地荘園管理者が判断出来ないでしょう。例えば、普段から大まかに決めておいて知らせるようにと、これを書き載せなさい。」と申されました。それで、大江広元さんは、自分の屋敷でこの公文書を清書して、遠江守源親広が使いとして御所との間を何度か往復しました。源親広は、将軍実朝様に申し出て花押をいただき、すぐに京都へ送るために、二階堂民部大夫行光に下げ与えましたとさ。

建暦三年(1213)十月大四日庚子。尚友歸洛云々。

読下し                    なおとも きらく    うんぬん
建暦三年(1213)十月大四日庚子。尚友歸洛すと云々。

現代語建暦三年(1213)十月大四日庚子。前豊後守惟宗尚友が京都へ帰りましたとさ。

説明尚友は、四月一日条で、女官更衣の装束を調進して地頭職一村を得ている。又、九月八日条で、息尚光を連れ御所へ来ている。

建暦三年(1213)十月大十三日己酉。天リ。入夜雷鳴。同時御所南庭狐鳴及度々云々。

読下し                     そらはれ  よ   い   らいめい  どうじ  ごしょ  なんてい  きつね な       たびたび  およ    うんぬん
建暦三年(1213)十月大十三日己酉。天リ。夜に入り雷鳴。同時に御所の南庭で狐の鳴きごえ度々に及ぶと云々。

現代語建暦三年(1213)十月大十三日己酉。空は晴れです。夜になって雷です。同時に御所の南の庭で狐の鳴き声が何度もありましたとさ。

建暦三年(1213)十月大十四日庚戌。天リ。依去夜變異。可致御祈祷之由。爲廣元朝臣奉行。被仰付鶴岳勝長壽院。永福寺等供僧并陰陽道之輩云々。

読下し                     そらはれ  さんう よ   へんい   よっ    ごきとう いた  べ   のよし  ひろもとあそんぶぎょう  な
建暦三年(1213)十月大十四日庚戌。天リ。去る夜の變異に依て、御祈祷致す可し之由、廣元朝臣奉行と爲し、

つるがおか しょうちょうじん  ようふくじ ら  ぐそうなら    おんみょうどうのやから おお  つ   られ   うんぬん
鶴岳、勝長壽院、永福寺等の供僧并びに陰陽道之輩に仰せ付け被ると云々。

現代語建暦三年(1213)十月大十四日庚戌。空は晴れです。昨晩の異変によって、祈祷をするように大江広元が指揮担当して、鶴岡八幡宮・勝長寿院・永福寺の坊さん達や、陰陽師の連中に申しつけられましたとさ。

建暦三年(1213)十月大十八日甲寅。以宗監物孝尚。爲武藏國新開實檢被遣。圖書允C定奉行之。

読下し                      そうけんものたかなお もっ    むさしのくに しんかい  じっけん  ためつか  さる   としょのじょうきよさだこれ ぶぎょう
建暦三年(1213)十月大十八日甲寅。宗監物孝尚を以て、武藏國の新開の實檢の爲遣は被る。圖書允C定之を奉行す。

現代語建暦三年(1213)十月大十八日甲寅。宗監物孝尚を使いとして、武蔵国の新開地の検査のために派遣しました。清原図書允清定が指揮担当です。

建暦三年(1213)十月大廿九日乙丑。天リ。六波羅飛脚參着。申云。C水寺法師等。依寄附寺家於台嶺之末寺。山門使入部彼寺領之間。南都衆徒憤之。爲燒失延暦寺擬發向。就之。重可發遣官軍之由。及公卿僉議云々。

読下し                     そらはれ   ろくはら  ひきゃくさんちゃく    もう    い
建暦三年(1213)十月大廿九日乙丑。天リ。六波羅の飛脚參着し、申して云はく。

きよみずでら  ほうしら    じけを  たいれいの まつじ   きふ       よっ    さんもん  つか  か   じりょう  にゅうぶのあいだ
C水寺の法師等、寺家於台嶺之末寺に寄附するに依て、山門の使い彼の寺領に入部之間、

なんと   しゅと これ  いか    えんりゃくじ しょうしつ    ため  はっこう  ぎ
南都の衆徒之を憤り、延暦寺を燒失せん爲、發向を擬す。

これ  つ     かさ    かんぐん  はっけんすべ のよし  くぎょうせんぎ  およ    うんぬん
之に就き、重ねて官軍を發遣可き之由、公卿僉議に及ぶと云々。

現代語建暦三年(1213)十月大二十九日乙丑。空は晴れです。六波羅の伝令が到着して報告しました。「清水寺の僧の集団が寺の領地の在家を比叡山の末寺に寄付したので、延暦寺の使いが清水寺領地に入り込んできました。興福寺の僧兵どもがこれを怒って、延暦寺に火を付けろと出発しようとしました。この事について、以前同様に朝廷軍を派遣しようかどうか、公卿が検討会を開きました。」だとさ。

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