吾妻鏡入門第廿二巻

建保二年甲戌(1214)七月小

建保二年(1214)七月小一日甲子。霽。以民部大夫行光爲御使。可爲大慈寺供養導師之由。被仰葉上僧正云々。

読下し                    はれ  みんぶのたいふゆきみつ もっ おんし  な      だいじじ くよう  どうし    な   べ   のよし
建保二年(1214)七月小一日甲子。霽。民部大夫行光を以て御使と爲し、大慈寺供養導師を爲す可し之由、

ようじょうそうじょう  おお  らる   うんぬん
葉上僧正に仰せ被ると云々。

現代語建保二年(1214)七月小一日甲子。晴れました。二階堂民部大夫行光を使者として、大慈寺開眼供養の指導僧をなって欲しいと、葉上坊律師栄西に命じられましたとさ。

建保二年(1214)七月小廿七日庚寅。終日甚雨。今日。大倉大慈寺〔号新御堂〕供養也。巳尅。尼御臺所〔御輿〕渡御彼寺。午尅。將軍家〔御束帶〕御出。供奉人行列。
 前駈〔下臈爲先〕
 橘三藏人   伊賀左近藏人仲能 三條左近藏人親實
 藏人大夫國忠 左近大夫朝親   相摸守經定
 右馬助範俊  前筑後守頼時
 殿上人
 右馬權頭頼兼
 御車〔御車副二人。牛童二人。雜色十八人〕
 御釼役
 小野寺左衛門尉秀通
 御調度懸
 加藤新左衛門尉景長
 後騎
 相摸守〔義時〕   武藏守〔時房〕   修理亮〔泰時已上一行〕
 前大膳大夫〔廣元〕 前駿河守〔惟義〕  遠江守〔親廣〕
 伊賀守朝光     筑後守有範     三浦九郎左衛門尉胤義
 中條右衛門尉家長  葛西左衛門尉C重  嶋津左衛門尉忠久
 佐貫兵衛尉廣綱   大井紀右衛門尉實平 宇佐美右衛門尉實政
 江右衛門尉範親   加藤右衛門尉景廣  江兵衛尉能範
 随兵
 相摸次郎朝時    武田五郎信光    結城左衞門尉朝光
 佐々木左近將監信綱 伊豆左衛門尉頼定  若狹兵衛尉忠秀
 下河邊四郎行時   塩谷兵衛尉朝業   大須賀太郎道信
 東平太所重胤    三浦左衛門尉義村  筑後左衛門尉知重
 檢非違使
 山城判官行村
到寺門。税御車。右馬權頭參進献御沓。御堂上之後。導師葉上僧正榮西率伴僧廿口參入。有供養之儀。其後。及晩被引御布施。被物三十重。御馬二十疋也。

読下し                    しゅうじつ はなは あめ  きょう   おおくらだいじじ  〔しんみどう  ごう  〕  くようなり
建保二年(1214)七月小廿七日庚寅。終日、甚だ雨。今日、大倉大慈寺〔新御堂と号す〕供養也。

みのこく  あまみだいどころ〔おんこし〕 か   てら  とぎょ     うまのこく しょうぐんけ 〔おんそくたい〕 ぎょしゅつ ぐぶにん  ぎょうれつ
巳尅、尼御臺所〔御輿〕彼の寺へ渡御す。午尅、將軍家〔御束帶〕御出。供奉人の行列

  さきがけ 〔げろう さき  な 〕
 前駈〔下臈先を爲す〕

  きつざくらんど             いがのさこんくらんどなかよし      さんじょうさこんくらんどちかざね
 橘三藏人      伊賀左近藏人仲能   三條左近藏人親實

  くらんどたいふくにただ        さこんたいふともちか          さがみのかみつねさだ
 藏人大夫國忠    左近大夫朝親     相摸守經定

  うまのすけのりとし           さきのちくごのかみよりとき
 右馬助範俊     前筑後守頼時

  てんじょうびと
 殿上人

  うまごんのかみよりかね
 右馬權頭頼兼

  おくるま 〔おくるまぞえ ふたり  うしわらわふたり  ぞうしきじうはちにん  〕
 御車〔御車副二人。牛童@二人。雜色十八人〕

参考@牛童は、牛を世話したり牽引したりす ることを職とする。子供とは限らず、稚児髪(垂髪)。

  ぎょけんやく
 御釼役

  おのでらのさえもんのじょうひでみち
 小野寺左衛門尉秀通

  ごちょうどがけ
 御調度懸

  かとうしんさえもんのじょうかげなが
 加藤新左衛門尉景長

   ごき
 後騎

  さがみのかみ 〔よしとき〕      むさしのかみ 〔ときふさ〕        しゅりのさかん 〔やすとき いじょう  いちぎょう〕
 相摸守〔義時〕    武藏守〔時房〕     修理亮〔泰時、已上は一行〕

  さきのだいぜんだいぶ〔ひろもと〕  さきのするがのかみ〔これよし〕      とおとうみのかみ〔ちかひろ〕
 前大膳大夫〔廣元〕  前駿河守〔惟義〕    遠江守〔親廣〕

  いがのかみともみつ         ちくごのかみありのり           みうらのくろうさえもんのじょうたねよし
 伊賀守朝光     筑後守有範      三浦九郎左衛門尉胤義

  ちゅうじょうのうえもんのじょういえなが かさいのさえもんのじょうきよしげ  しまづのさえもんのじょうただひさ
 中條右衛門尉家長  葛西左衛門尉C重   嶋津左衛門尉忠久

  さぬきのひょうえのじょうひろつな  おおいのきうえもんのじょうさねひら  うさみのうえもんのじょうさねまさ
 佐貫兵衛尉廣綱   大井紀右衛門尉實平  宇佐美右衛門尉實政

  えのうえもんのじょうのりちか     かとううえもんのじょうかげひろ      えのひょうえのじょうよしのり
 江右衛門尉範親   加藤右衛門尉景廣   江兵衛尉能範

  ずいへい
 随兵

  さがみのじろうともとき         たけだのごろうのぶみつ         ゆうきのさえもんのじょうともみつ
 相摸次郎朝時    武田五郎信光     結城左衞門尉朝光

  ささきのさこんしょうげんのぶつな  いずのさえもんのじょうよりさだ      わかさのひょうのじょうただひで
 佐々木左近將監信綱 伊豆左衛門尉頼定   若狹兵衛尉忠秀A

  しもこうべのしろうゆきとき       えんやのひょうえのじょうともなり     おおすがのたろうみちのぶ
 下河邊四郎行時   塩谷兵衛尉朝業    大須賀太郎道信

  とうのへいたところのしげたね    みうらのさえもんのじょうよしむら      ちくごのさえもんのじょうともしげ
 東平太所重胤    三浦左衛門尉義村   筑後左衛門尉知重

   けびいし
 檢非違使

  やましろのほうがんゆきむら
 山城判官行村

 じもん  いた   おくるま  と      うまごんのかみさんしん  おんくつ けん
寺門に到り、御車を税くB。右馬權頭參進し御沓を献ず。

みどう   のぼ   ののち  どうしようじょうそうじょうようさい  ばんそうにじっく ひき  さんにゅう
御堂へ上る之後、導師葉上僧正榮西、伴僧廿口を率ひ參入す。

 くようのぎ   あ     そ   ご  ばん  およ  おんふせ   ひかる  かずけものさんじうがさね おんうまにじっぴき
供養之儀有り。其の後、晩に及び御布施を引被る。被物三十重、御馬二十疋也。

参考A若狹兵衛尉忠秀は、島津忠久の弟。
参考B税くは、本来なら解く。

現代語建保二年(1214)七月小二十七日庚寅。一日中大雨です。今日、大慈寺〔新御堂といいます〕の開眼供養落成式です。巳の刻(午前十時頃)尼御台所政子様〔輿で〕その寺へ行かれました。午の刻(正午頃)将軍実朝様の出発です。お供の人の列は

前座〔身分の低い者に前を歩かせています〕橘三蔵人惟広 伊賀左近蔵人仲能 三条左近蔵人親実 蔵人大夫国忠 美作左近大夫朝親 相模守経定 右馬権助範俊 前筑後守頼時

殿上人 右馬権頭頼兼

将軍実朝様の牛車〔車付二人 牛飼い童二人 雑用者十八人〕

太刀持ち 小野寺左衛門尉秀通 弓矢担ぎ 加藤新左衛門尉景長

すぐ後ろの乗馬人
 相模守義時     武蔵守時房     修理亮泰時〔以上三人一列〕
 大江広元      大内前駿河惟義   遠江守源親廣
 伊賀守朝光     筑後守平有範    三浦九郎左衛門尉胤義
 中条右衛門尉家長  葛西左衛門尉清重  島津左衛門尉忠久
 佐貫兵衛尉広綱   大井紀右衛門尉実平 宇佐美右衛門尉実政
 大江右衛門尉範親  加藤右衛門尉景広  大江兵衛尉能範

武装した儀仗兵
 相模次郎北条朝時  武田五郎信光    結城左衛門尉朝光
 佐々木左近将監信綱 伊豆左衛門尉頼定  若狭兵衛尉忠秀
 下河辺四郎行時   塩谷兵衛尉朝業   大須賀太郎道信
 東平太所重胤    三浦左衛門尉義村  筑後左衛門尉八田知重

検非違使 山城判官二階堂行村

寺の門まで来て、牛車から牛を離しました。右馬権頭頼兼は前へ出て沓を差し出しました。将軍実朝様がお堂へあがった後、指導僧の葉上坊僧正栄西が、お供坊さん二十人を引き連れて入りました。開眼供養の式典がありました。その後、夜になってお布施を与えました。被り物三十枚。馬二十頭です。

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