吾妻鏡入門第廿二巻

建保二年甲戌(1214)十二月大

建保二年(1214)十二月大一日辛夘。相摸國大山寺免田五丁二段。可引募同國丸嶋郷之由。被仰下云々。

読下し                     さがみのくにおおやまでら めんでんごちょうにたん どうこくまるしまごう  ひきつの  べ   のよし  おお  くだされ    うんぬん
建保二年(1214)十二月大一日辛夘。相摸國大山寺@の免田五丁二段A、同國丸嶋郷Bに引募る可き之由、仰せ下被ると云々。

参考@大山寺は、神奈川県伊勢原市大山の阿夫利神社。神仏分離後は雨降山大山寺。鎌倉時代作鉄の不動尊。
参考A五丁二段は、五町二反で5.2ヘクタール。
参考B
丸嶋郷は、神奈川県平塚市岡崎に丸島バス停、丸島自治会館あり。

現代語建保二年(1214)十二月大一日辛卯。相模国大山寺への税金免除の田んぼ五町二反は、同じ相摸の丸島郷(平塚市岡崎)を寄付するように命じられましたとさ。

建保二年(1214)十二月大二日壬辰。霰降。京都使者參着。去月廿一日未尅。高陽院仙洞有失火。但打消之間。兩宇之外不燒。同日亥刻。仁和寺御室〔道〕御入滅〔御年四十九〕云々。

読下し                     あられふ    きょうと  ししゃさんちゃく    さんぬ つき にじういちにち ひつじのこく かやいん  せんとう  しっかあ
建保二年(1214)十二月大二日壬辰。霰降る。京都の使者參着す。去る月 廿一日 未尅、 高陽院の仙洞@に失火有り。

ただ  う   け   のあいだ  りょううの ほか や  ず   どうじついのこく  にんなじ おむろ 〔どう〕  ごにゅうめつ 〔 おんとししじうく 〕     うんぬん
但し打ち消す之間、兩宇之外燒け不。同日亥刻、仁和寺御室〔道〕A御入滅〔御年四十九〕と云々。

参考@高陽院の仙洞は、上京区南、中京区北、丸田町などで二条城を含む。
参考A御室〔道〕は、道法法親王。

現代語建保二年(1214)十二月大二日壬辰霰が降りました。京都からの使いがやって来て、先月の二十一日午後二時頃高陽院の上皇の居所で失火しました。すぐにたたき消したので、二棟以外に類焼しませんでした。同じ日の午後十時頃に仁和寺の道法法親王が亡くなられました。〔年は四十九歳です〕

建保二年(1214)十二月大四日甲午。リ。亥尅。由比濱邊燒亡。南風烈之間。及若宮大路數町。其中間人家皆以災。

読下し                     はれ  いのこく  ゆいがはま  あた しょうぼう   みなみかぜはげ  のあいだ  わかみやおおじすうちょう およ
建保二年(1214)十二月大四日甲午。リ。亥尅、由比濱の邊り燒亡す。南風烈しき之間、若宮大路數町に及ぶ。

そ   ちうかん  じんかみなもっ わざわい
其の中間の人家皆以て災す。

現代語建保二年(1214)十二月大四日甲午。晴れです。昼頃に由比ガ浜のあたりで火事がありました。南風が強かったので、若宮大路数町に達しました。その間の人家は全て焼失しました。

建保二年(1214)十二月大十日庚子。リ。將軍家御出永福寺。是依爲恒例一切經會也。

読下し                     はれ  しょうぐんけ ようふくじ  い   たま    これ  こうれい  いっさいきょうえ  ため  よっ  なり
建保二年(1214)十二月大十日庚子。リ。將軍家永福寺へ出で御う。是、恒例の一切經會の爲に依て也。

現代語建保二年(1214)十二月大十日庚子。晴れです。将軍実朝様は永福寺へお出かけです。これは恒例の一切経供養の儀式のためです。

建保二年(1214)十二月大十二日壬寅。諸人官爵事者。家督之仁存知其官仕勞可執申之。於直進款状者。奉行人不可及披露之由。被仰定之。爲廣元朝臣奉行。普相觸之云々。

読下し                        しょにん  かんしょく ことは   かとくの じん   そ   かんじ  ろう   ぞんち    これ  と   もう  べ
建保二年(1214)十二月大十二日壬寅。諸人、官爵の事者、家督之仁、其の官仕の勞を存知し、之を執り申す可し。

じき  すす   かんじょう  をい  は   ぶぎょうにん ひろう  およ  べからずのよし  これ  おお  さだ  られ
直に進める款状に於て者、奉行人披露に及ぶ不可之由、之を仰せ定め被る。

ひろもとあそんぶぎょう  な     あまねくこれ  ふ       うんぬん
廣元朝臣奉行と爲し、普相之を觸れると云々。

現代語建保二年(1214)十二月大十二日壬寅。一般武士たちの官職への希望は、惣領がその貢献度をよく見て推薦するようにしなさい。庶子からの自薦の上申書については、担当奉行は見る必要はないと、お決めになり命じました。大江広元を担当にして、もれなく全てに知らせましたとさ。

説明家督之仁云々は、惣領が良く調べて申し出なさいと云っているので、惣領制が崩れ始めている。

建保二年(1214)十二月大十七日丁未。故屋嶋前内府家人美濃前司則C子左衛門尉則種自丹後國參上。可致幕府官仕之由望申之。聊雖有豫儀。右大將家御時。平家侍令參上之時者。可召仕之趣。去建久年中被誅伊賀大夫之後。被定置之上者。可被聽之旨被仰出。是歌仙也。相叶御意云々。

読下し                       こやしまのさきのないふ  けにん みののぜんじのりきよ  こ   さえもんのじょうのりたね  たんごのくによ さんじょう
建保二年(1214)十二月大十七日丁未。故屋嶋前内府が家人美濃前司則C@が子、左衛門尉則種、丹後國自り參上す。

ばくふ   かんじいた  べ   のよしこれ  のぞ  もう
幕府に官仕致す可し之由之を望み申す。

いささ  よぎ あ    いへど   うだいしょうけ  おんとき  へいけ さむらい さんじょうせし のときは  めしつか  べ のおもむき
聊か豫儀有ると雖もA、右大將家の御時、平家の侍 參上令む之時者、召仕う可き之趣、

さんぬ けんきゅうねんちう いがのたいふちうさる  ののち  さだ  おかれ   のうえは  ゆるさる  べ   のむねおお  い   さる
去る 建久年中に 伊賀大夫誅被るB之後、定め置被る之上者、聽被る可き之旨仰せ出だ被る。

これ  かせんなり  ぎょうに  あいかな   うんぬん
是、歌仙也。御意に相叶うと云々。

参考@則Cは、美濃源氏で満政流。父季遠が平忠盛家人。
参考A
聊か豫儀有ると雖もは、多少疑問があるけれど。
参考B伊賀大夫誅被るは、平知盛の子の知忠。建久七年に突如として一条能保暗殺計画を企むが幕府に察知され攻め殺された。享年17歳。

現代語建保二年(1214)十二月大十七日丁未。故平宗盛の家来の源則清の子供の、左衛門尉則種が丹後(京都府北部)からやって参りました。幕府に勤めたい(御家人になりたい)と希望しています。多少疑問はあるけれど、頼朝様の時代に平家の侍が望んできた時は使ってやるように、平知忠が殺された後、お決めになられているので許してあげようと、言い出しました。この人は、和歌の名人なので、お気に入りになりましたとさ。

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