吾妻鏡入門第廿二巻

建保四年丙子(1216)二月大

建保四年(1216)二月大一日甲申。陰。日蝕。不正見。鶴岡供僧頓覺房良喜勤仕御祈。仍被引遣御馬。波多野次郎朝定爲御使。」入夜甚雨。

読下し                    くも    にっしょく  せいげん ず  つるがおかぐそう とんかくぼうりょうき おいのり  ごんじ
建保四年(1216)二月大一日甲申。陰り。日蝕。正見せ不。鶴岡供僧 頓覺房良喜 御祈を勤仕す。

よっ  おんうま  ひきつか  され     はたののじとうともさだ おんしたり    よ   い  はなは あめ
仍て御馬を引遣は被る。波多野次郎朝定御使爲。」夜に入り甚だ雨。

現代語建保四年(1216)二月大一日甲申。曇りです。日食は現れません。鶴岡八幡宮の坊さんの頓覚房良喜がお祈りを勤めました。それで馬を与えました。波多野次郎朝定が使いです。」
夜になって大雨です。

建保四年(1216)二月大十一日甲午。リ。爲將軍家御願。被造立七佛藥師像。今日有事始。行光。行村等爲奉行。

読下し                     はれ  しょうぐんけ  ごがん  ため  しちぶつやくし ぞう   ぞうりゅうされ
建保四年(1216)二月大十一日甲午。リ。將軍家の御願の爲、七佛藥師@の像を造立被る。

きょう ことはじ  あ     ゆきみつ  ゆきむらら ぶぎょう  な
今日事始め有り。行光、行村等奉行を爲す。

参考@七体薬師密教で「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」(七仏薬師経)から胎蔵界大日如来と同体と説かれ、台密では衆生救済と云う。

現代語建保四年(1216)二月大二十一日甲午。晴れです。将軍実朝様は、願い事をかなえるために七体薬師の像を建立させることにしました。今日、作事初めの儀式があり、二階堂行光・二階堂行村が指揮担当です。

建保四年(1216)二月大十六日己亥。小雨降。月蝕。不見。

読下し                     こさめ ふ    げっしょく  あらわ ず
建保四年(1216)二月大十六日己亥。小雨降る。月蝕。見れ不。

現代語建保四年(1216)二月大十六日己亥。小雨が降って、日食は現れません。

建保四年(1216)二月大十九日壬刀。宣旨状一通到來于大夫属入道許。季時取進之。但御精進之間。不能覽之。任其旨。可施行東國御家人等之由。仰善信。是去五日夜。群盜入東寺寳藏。佛舎利道具已下代々寳物等。併盜取之。仍同九日。可尋搜件盜人之由。被下 宣旨於五畿七道云々。 宣下状云。
 右弁官下  東海道諸國。
  應令尋搜盜取東寺舎利并道具等輩事
 右。今月五日夜。有白波入東寺。取舎利盜道具。舎利者一代教主之遣身。道具者三國相承之靈寳也。佛法已得衰微之期。王法又失鎭護之力。不可不惜。不可不恐。左大臣宣。奉 勅。宜仰五畿七道國々并諸寺諸山遍尋搜。雖得一物之輩。募以不次之賞者。諸國承知。依宣行之。
   建保四年二月九日                 左大史小槻宿祢國宗
 權左中弁藤原朝臣

読下し                     せんじじょういっつう たいふさかんにゅうどう もとに とうらい    すえときこれ  と   すす
建保四年(1216)二月大十九日壬刀。宣旨状一通 大夫属入道@の許于到來す。季時之を取り進む。

ただ  ごしょうのさいだ  これ  み     あたはず  そ   むね  まか    とうごく   ごけにんら   せこうすべ   のよし  ぜんしん  おお
但し御精進之間、之を覽るに不能。其の旨に任せ、東國の御家人等に施行可し之由、善信に仰す。

これ  さんぬ いつか  よ   ぐんとう とうじ  ほうぞう  い     ぶっさしゃり どうぐ いげ だいだい ほうもつら   あわ    これ  ぬす  と
是、去る五日の夜、群盜東寺の寳藏に入り、佛舎利道具已下代々の寳物等、併せて之を盜み取る。

よっ  おな   ここのか  くだん ぬすっと  たず  さが  べ   のよし  せんじを  ごきしちどう   くださる    うんぬん  せんげじょう  い
仍て同じき九日、件の盜人を尋ね搜す可き之由、宣旨於五畿七道に下被ると云々。宣下状に云はく。

  みぎべんかんくだ     とうかいどうしょこく
 右弁官下す  東海道諸國

     おう     とうじ しゃり  なら    どうぐ ら   ぬす  と   やから たず  さがせし  こと
  應じて東寺舎利并びに道具等を盜み取る輩を尋ね搜令む事

  みぎ  こんげついつか  よ   はくは あ     とうじ   い      しゃり   と   どうぐ   ぬす    しゃりは いちだいきょうしゅの み  つか
 右、今月五日の夜、白波A有りて東寺に入る。舎利を取り道具を盜む。舎利者一代教主B之身に遣はす。

  どうぐは さんごくそうしょうのれいほうなり  ぶっぽうすで すいちょうのご   え     おうほうまたちんごのちから  うしな   おし  ざるべからず  おそ  ざるべからず
 道具者三國C相承之靈寳也。佛法已に衰微之期を得て、王法又鎭護之力を失う。惜ま不不可。恐れ不不可。

  さだいじん せん  ちょく たてまつ  よろ     ごき しちどう  くにぐになら    しょじ しょざん  おお    あまね たず  さが
 左大臣D宣ず。勅を奉り、宜しく五畿七道の國々并びに諸寺諸山に仰せて遍く尋ね搜せ。

  いちぶつ  え   のやから いへど   ふじのしょう  もっ  つの  てへれ   しょこくしょうち   せん  よっ  これ  おこな
 一物を得る之輩と雖も、不次之賞を以て募る者ば、諸國承知し、宣に依て之を行へ。

       けんぽうよねんにがつここのか                                  さだいしおづきのすくねくにむね
   建保四年二月九日                 左大史小槻宿祢國宗(日下署判で実際に書いた人)

  ごんのさちうべんふじわらあそん
 權左中弁藤原朝臣

参考@大夫属入道は、三善善信。
参考A
白波は、泥棒の事、緑林(山賊)も同じ。これが白浪五人男の語源なのだ。
参考B
一代教主は、釈迦。
参考C
三國は、印度、中国、日本。三国伝来。
参考D
左大臣は、九条良輔。

現代語建保四年(1216)二月大十九日壬寅。朝廷から命令書が一通、大夫属入道三善善信の所へ来ました。中原季時が将軍に取り次ぎました。但し、「二所詣での精進潔斎中なので穢れの内容は見る必要がない。命令通りに、幕府御家人に伝えさせなさい。」と三善善信に仰せられました。
この内容は、先達ての五日に盗賊の群れが東寺の宝物庫に押し入り、仏舎利や仏教用具などの宝物をごっそり盗んでいったのです。それなので、同じ九日に、その盗人を見つけ出すように、朝廷の命令書を諸国に発出したんだそうな。その命令書の書きようは

 右について事務担当の弁官が出します 東海道諸国の国衙へ
命令にこたえて、東寺の仏舎利や仏具を盗んだ連中を探し求める事
 右の内容は、今月五日の夜に泥棒が東寺に入った。舎利をや仏具を盗んだ。舎利はお釈迦様のお体の一部です。仏具はインド中国日本と三国伝来の霊験あらたかなお宝です。仏法が衰退して、国家を守る力が失われます。骨身を惜しむな。盗人を恐れるな。左大臣九条良輔が宣言します。天皇の命令に従って、国土の国々・あちこちのお寺に言いつけて残らず探し回るように。たった一つを見つけ出した者にでさえも、かけがえのない褒美を与えると云ってるので、諸国の人々はこれを承知して、朝廷の命令に従ってこれを行え。
建保四年二月九日           左大史小槻宿祢国宗
                   権左中弁藤原

建保四年(1216)二月大廿三日丙午。霽。二所御進發。

読下し                     はれ  にしょ  ごしんぱつ
建保四年(1216)二月大廿三日丙午。霽。二所へ御進發。

現代語建保四年(1216)二月大二十三日丙午。晴れました。伊豆山箱根の両権現への二所詣でへ出発です。

建保四年(1216)二月大廿七日庚戌。リ。戌尅。將軍家自二所御歸着。

読下し                     はれ  いぬのこく しょうぐんけ にしょよ  ごきちゃく
建保四年(1216)二月大廿七日庚戌。リ。戌尅。將軍家二所自り御歸着。

現代語建保四年(1216)二月大二十七日庚戌。晴れです。午後八時頃将軍実朝様は、二所詣でから帰り着きました。

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