吾妻鏡入門第廿二巻

建保四年丙子(1216)三月大

建保四年(1216)三月大三日丙辰。細雨灑。鶴岳八幡宮一切經會也。將軍家無御出。武州爲御使神拝給。

読下し                    さいうそそ   つるがおかはちまんぐう いっさいきょうえなり  しょうぐんけおんいでな    ぶしゅうおんし  な   しんぱい たま
建保四年(1216)三月大三日丙辰。細雨灑ぐ。鶴岳八幡宮の一切經會也。 將軍家御出無し。武州御使と爲し神拝し給ふ。

現代語建保四年(1216)三月大三日丙辰。霧雨が降ってます。鶴岡八幡宮で一切経を唱える法要です。将軍実朝様の出席は無く、武州時房さんが代参しました。

建保四年(1216)三月大五日戊午。リ。故金吾將軍姫君〔年十四〕渡御々所〔御乘輿也〕。扈從侍二人〔各布衣〕。御臺所謁之給。是依尼御臺所仰。御猶子之儀也。爲行光沙汰。被進御贈物等云々。

読下し                    はれ  こきんごしょうぐん  ひめぎみ  〔としじうし〕   ごしょ   わた  たま   〔おんのりこしなり〕
建保四年(1216)三月大五日戊午。リ。故金吾將軍の姫君@〔年十四〕々所へ渡り御う〔御乘輿也〕

こしょう さむらいふたり 〔おのおの ほい〕  みだいどころ  これ えっ  たま
扈從の 侍 二人〔各、布衣〕御臺所、之に謁し給ふ。

これあまみだいどころ おお  よっ    ごゆうし  の ぎ なり  ゆきみつ  さたたり  おんおくりものら すす  られ   うんぬん
是尼御臺所の仰せに依て、御猶子A之儀也。行光の沙汰爲、御贈物等を進め被ると云々。

参考@故金吾將軍の姫君は、竹御所鞠子。吾妻鏡では、天福2年(1234)7月27日の死亡記事に御歳32歳となっている。双方の記事から数え年で逆算すると建仁三年(1203)生まれ、尊卑分脈では、母は木曾義仲の娘とされるが、屋敷が比企谷なので比企能員の娘若狭局とも推測されている。
参考A猶子は、「なお子の如し」で相続権のない養子。

現代語建保四年(1216)三月大五日戊午。晴れです。故左衛門督頼家様の姫君竹御所〔年十四〕が御所へやって来ました〔輿です〕。お供は侍二人〔狩衣〕です。実朝夫人がお会いになりました。これは尼御台所政子様の言いつけで、養子縁組だからです。二階堂行光が用意して贈り物を進上しました。

建保四年(1216)三月大七日庚申。海水變色。赤如浸紅云々。

読下し                   かいすいへんしょく  あか  べに  ひた    ごと    うんぬん
建保四年(1216)三月大七日庚申。海水變色す。赤く紅を浸すが如しと云々。

現代語建保四年(1216)三月大七日庚申。海の水の色が辺です。赤くなってまるで紅を解かしたみたいです。(赤潮であろう)

建保四年(1216)三月大十六日己巳。快霽。御臺所詣江嶋給。信濃守行光。筑後前司頼時以下五位六位數輩扈從。

読下し                      かいせい みだいどころ えのしま  もう  たま
建保四年(1216)三月大十六日己巳。快霽。御臺所、江嶋へ詣で給ふ。

しなののかみゆきみつ ちくごのぜんじよりとき いげ  ごい ろくい すうやからこしょう
信濃守行光、 筑後前司頼時以下五位六位の數輩扈從す。

現代語建保四年(1216)三月大十六日己巳。快晴です。実朝夫人が江の島詣でです。二階堂信濃守行光・前筑後守頼時をはじめとする五位六位の者数名がお供をしました。

建保四年(1216)三月大廿二日乙亥。京都使者到着。申云。去月廿九日申尅許。於東山新日吉邊。大夫尉秀能。淡路守秀康等生虜東寺強盜。佛舎利道具等不紛失。仍今月九日如元被奉安置于東寺。即日。秀康任右馬助〔淡路守如元〕。秀能任出羽守〔使如元〕。各搦進東寺強盜賞也云々。爲此御祈。二月廿三日被立公卿 勅使〔光親卿〕。於伊勢太神宮。今月廿九日入洛之後。彼賊徒等露顯。是則云王化。云佛法。未盡之所致也云々。

読下し                      きょうと   ししゃ とうちゃう    もう    い
建保四年(1216)三月大廿二日乙亥。京都の使者到着し、申して云はく。

さんぬ つきにじうくにち さるのこくばか     ひがしやま  いまひえ へん  をい   たいふのじょうひでよし あわじのかみひでやすら とうじ  ごうとう  いけど
去る月廿九日 申尅 許りに、東山の新日吉邊に於て、大夫尉秀能、 淡路守秀康等 東寺の強盜を生虜る。

ぶっさしゃり どうぐらふんしつせず  よっ こんげつここのか もと  ごと  とうじ に  あんち たてまつられ
佛舎利道具等紛失不。仍て今月九日 元の如く東寺于安置し奉被る。

そくじつ  ひでやすうまのすけ にん  〔あわじのかみもと  ごと  〕    ひでよしでわのかみ  にん  〔 し  もと   ごと  〕   おのおの  とうじ   ごうとう   から  しん   しょうなり  うんぬん
即日、秀康右馬助に任じ〔淡路守元の如く〕@秀能出羽守に任ず〔使は元の如し〕A。各、東寺の強盜を搦め進ずる賞也と云々。

こ   おいのり  ため にがつにじうさんにち くぎょうちょくし 〔みつちかきょう〕 を いせだいじんぐう  たてられ   こんげつにじうくにち じゅらくの のち  か   ぞくとら  ろけん
此の御祈の爲、二月廿三日 公卿勅使〔光親卿〕於伊勢太神宮へ立被る。今月廿九日 入洛之後、彼の賊徒等露顯す。

これすなは おうけ  い   ぶっぽう  い     いま  つき    の いた  ところなり うんぬん
是則ち王化と云ひ佛法と云ひ、未だ盡ざる之致す所也と云々。

参考@右馬助に任じ〔淡路守元の如く〕は、右馬助が内官で、淡路守は外官なので兼務できる。
参考A
出羽守に任ず〔使は元の如し〕は、出羽守が外官で使は検非違使なので内官。

現代語建保四年(1216)三月大二十二日乙亥。京都から使者が到着して報告しました。先月の二十九日午後四時頃に東山の新日吉神社のあたりで、大夫検非違使の尉藤性足利秀能と淡路守藤性足利秀康が東寺の強盗を捕獲しました。仏舎利や法具などは無くしていませんでしたので、今月九日に元の通り東寺へお返ししました。その日のうちに、秀康は右馬助に任命され〔淡路守はそのまま兼務〕、秀能は出羽守に任命されました〔検非違使はそのまま兼務〕。それぞれ東寺の強盗を逮捕した褒美です。この逮捕劇を祈願するために二月二十三日天皇の代参の公卿〔葉室光親さん〕を伊勢神宮へ行かせました。今月二十九日京都へ戻ってきたら、とたんに盗人がつかまりました。これは天皇家の神様や仏様のの御威光がまだ地に落ちていないあかしでしょうだとさ。

建保四年(1216)三月大廿四日丁丑。京都飛脚參着。去十四日夜。坊門前内府禪室於西郊別業薨御。仍十五日寅尅。 上皇自八幡俄還御〔上皇御外舅也〕之由申之。

読下し                      きょうと  ひきゃくさんちゃく   さんぬ じうよっかよる  ぼうもんさきのないふぜんしつ せいこう べつぎょう  をい  こうご
建保四年(1216)三月大廿四日丁丑。京都の飛脚參着す。去る十四日夜、 坊門前内府禪室、西郊の別業に於て薨御。

よっ  じうごにちとらのこく  じょうこうはちまんよ にはか かんご 〔じょうこう  ごがいしゅう なり〕  のよし これ  もう
仍て十五日寅尅、上皇八幡自り俄に還御〔上皇の御外舅@也〕之由之を申す。

参考@御外舅は、嫁が信清の娘。実朝とは義理の兄弟。

現代語建保四年(1216)三月大二十四日丁丑。京都の伝令が来ました。先日の十四日の夜、坊門前内府禅室信清さんが京都の西の郊外の別荘でお亡くなりになりました。それなので、十五日の午前四時頃に後鳥羽上皇は石清水八幡宮からあわてて帰ると言い出しました〔上皇の嫁の父親だから〕。

建保四年(1216)三月大廿五日戊刀。御臺所〔御車〕依嚴閤薨御。渡御信濃守行光山庄。密儀也云々。

読下し                      みだいどころ 〔おくるま〕 げんこう  こうぐ   よっ   しなののかみゆきみつ さんそう  わた  たま    みつぎなり  うんぬん
建保四年(1216)三月大廿五日戊刀。御臺所〔御車〕嚴閤の薨御に依て、信濃守行光の山庄へ渡り御う。密儀也と云々。

現代語建保四年(1216)三月大二十五日戊寅。将軍の奥さん坊門姫は、父親坊門信清の死の穢れのために、二階堂行光の別荘へ移りました〔牛車〕。神様に内緒だそうです。

建保四年(1216)三月大廿六日己夘。爲此御訪。佐々木左近將監。足立八郎元春等上洛。

読下し                      かく  おんとぶら  ため  ささきのさこんしょうげん  あだちのはちろうもとはるら じょうらく
建保四年(1216)三月大廿六日己夘。此の御訪ひの爲、佐々木左近將監、足立八郎元春等上洛す。

現代語建保四年(1216)三月大二十六日己卯。この弔問のために佐々木左近将監信綱と足立八郎元春が京都へ上りました。

建保四年(1216)三月大卅日癸未。京都飛脚參着于相州御亭。去廿二日三條中納言〔實宣〕室逝去給之由申之。是故遠州禪室御息女。相州御妹也。仍輕服之間。諸人令群參。

読下し                     きょうと  ひきゃくそうしゅう おんていにさんちゃく
建保四年(1216)三月大卅日癸未。京都の飛脚相州の御亭于參着す。

さんぬ にじうににち さんじょうちうなごん 〔さねのぶ〕  しつせいきょ  たま  のよし  これ  もう
去る廿二日 三條中納言〔實宣〕が室逝去し給ふ之由、之を申す。

これ こえんしゅうぜんしつ ごそくじょ  そうしゅう おんいもうとなり  よっ けいぶくのあいだ しょにんぐんさんせし
是、故遠州禪室が御息女、相州の御妹也。 仍て輕服之間、諸人群參令む。

参考相州の御妹は、政子の妹でもある。

現代語建保四年(1216)三月大三十日癸未。京都からの伝令が義時さんの屋敷へ着きました。先日の二十二日に三条中納言実宣さんの奥さんが亡くなりました。この人は北條時政殿さんの娘で義時さんの妹です。それで、軽い喪に服すことになったので、御家人どもが弔問に集まりましたとさ。

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