吾妻鏡入門第廿二巻

建保四年丙子(1216)五月大

建保四年(1216)五月大十日壬戌。霽。御所御持佛堂。被安置七佛藥師像。又有供養儀。導師小河法印忠快。即以同人被修七佛藥師法。

読下し                   はれ  ごしょ   おんじぶつどう  しちぶつやくし ぞう   あんちされ    また  くよう  ぎ あ
建保四年(1216)五月大十日壬戌。霽。御所の御持佛堂、七佛藥師@の像を安置被る。又、供養の儀有り。

どうし   おがわのほういんちうかい すなは どうにん  もっ  しちぶつやくし ほう  しゅうされ
導師は小河法印忠快。 即ち同人を以て七佛藥師の法を修被る。

参考@七仏薬師は、密教で「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」(七仏薬師経)から胎蔵界大日如来と同体と説かれ、台密では衆生救済と云う。

現代語建保四年(1216)五月大十日壬戌。晴れました。御所の将軍の守り本尊を祀る持仏堂に、七仏薬師の像を置いて、開眼供養の法要がありました。指導僧は、小河法印忠快。すぐに彼は七仏薬師経をあげました。

建保四年(1216)五月大十三日乙丑。將軍家令參法花堂給。被修佛事云々。

読下し                     しょうぐんけ   ほけどう   まい  せじ  たま    ぶつじ  しゅうされ   うんぬん
建保四年(1216)五月大十三日乙丑。將軍家、法花堂@へ參ら令め給ひ、佛事を修被ると云々。

参考@法花堂は、頼朝法華堂で、十三日は頼朝の月違い命日。

現代語建保四年(1216)五月大十三日乙丑。将軍実朝様は、頼朝法華堂へ行かれて、法要を行いましたとさ。

建保四年(1216)五月大十八日庚午。リ。七佛藥師法結願。施物已下事被盡美。相州。武州。遠江守。駿河守以下着座。堂上如花。

読下し                     はれ  しちぶつやくしほうけちがん   せもつ いげ  こと   び  つくされ
建保四年(1216)五月大十八日庚午。リ。七佛藥師法結願す。施物已下の事、美を盡被る。

そうしゅう ぶしゅう とおとうみのかみ するがのかみ いげ ちゃくざ   どう  かみはな  ごと
相州、武州、遠江守、 駿河守以下着座す。堂の上花の如し。

現代語建保四年(1216)五月大十八日庚午。晴れです。七仏薬師の法要が終えました。お布施など沢山用意しました。義時さん・時房さん・遠江守源親広・駿河守中原季時以下の御家人が座ったので、堂上は花が咲いたようでした。

建保四年(1216)五月大廿四日丙子。將軍家令歴覽山内邊給。不期之間。諸人追馳參云々。

読下し                     しょうぐんけ  やまのうちあた   れきらんせし  たま  ごせざるのあいだ  しょにんお  は   まい    うんぬん
建保四年(1216)五月大廿四日丙子。將軍家、山内邊りを歴覽令め給ふ。期不之間、諸人追い馳せ參ると云々。

現代語建保四年(1216)五月大二十四日丙子。将軍実朝様は、山内(北鎌倉)を散策しました。急に思い立っての事なので、皆あわてて追っかけて行ったそうな。

参考山内辺は、北鎌倉辺りを指すのであろう。

建保四年(1216)五月大廿五日丁丑。有恩澤沙汰。又新御堂寺用事被定之。

読下し                      おんたく   さた あ     また   しんみどう   じよう   こと  これ  さだ  られ
建保四年(1216)五月大廿五日丁丑。恩澤の沙汰有り。又、新御堂の寺用の事、之を定め被る。

現代語建保四年(1216)五月大二十五日丁丑。ご褒美の裁決がありました。又、新しく建てるお堂(大慈寺)について、お決めになられました。

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