吾妻鏡入門第廿二巻

建保四年丙子(1216)九月小

建保四年(1216)九月小十日庚刀。鎌倉住人藤井國貞〔号藤平〕可爲鶴岡御膳役之由。被仰付云々。

読下し                    かまくら  じゅうにん ふじいくにさだ 〔ふじひら  ごう  〕 つるがおか ごぜんやく  な   べ   のよし  おお  つ   られ    うんぬん
建保四年(1216)九月小十日庚刀。鎌倉の住人@藤井國貞〔藤平と号す〕鶴岡の御膳役を爲す可き之由、仰せ付け被ると云々。

参考@住人は、一定の領地を持つが御家人身分ではない侍。

現代語建保四年(1216)九月小十日庚寅。鎌倉の侍の藤井国貞〔藤平と呼ばれる〕は、鶴岡八幡宮への神様のご飯を上げる役をするように、命じられましたとさ。

建保四年(1216)九月小十八日戊戌。リ。相州招請廣元朝臣。被仰云。將軍家任大將事。内々思食立云々。右大將家者。官位事宣下之毎度。固辞之給。是爲令及佳運於後胤給也。而今御年齢未滿成立。壯年御昇進。太以早速也。御家人等亦不候京都兮。面々補任顯要官班。可謂過分歟。尤所歎息也。下官以愚昧短慮。縱雖傾申。還可蒙其誡。貴殿盍被申之哉云々。廣元朝臣答申云。日來思此事。雖惱丹府。右大將家御時者。於事有下問。當時無其儀之間。獨断膓。不及出微言。今預密談。尤以爲大幸。凡本文之所訓。臣量己受職云々。今繼先君貴(遺)跡給計也。於當代無指勳功。而匪啻管領諸國給。昇中納言中將御。非攝關御息子者。於凡人不可有此儀。爭遁嬰害積殃之兩篇給乎。早爲御使。可申試愚存之趣云々。

読下し                     はれ そうしゅう  ひろもとあそん  しょうせい   おお  られ  い
建保四年(1216)九月小十八日戊戌。リ。相州、廣元朝臣を招請し、仰せ被て云はく。

しょうぐんけ たいしょう  にん   こと  ないないおぼ め   た    うんぬん  うだいしょうけ は   かんい  ことせんげ の まいど  これ   こじ   たま
將軍家、大將に任ずる事、内々思し食し立つと云々。右大將家者、官位の事宣下之毎度、之を固辞し給ふ。

これ  かうん を こういん  およ  せし  たま    ためなり  しか    いま  ごねんれ いま  せいりつ  み       そうねん  ごしょうしん  はなは もっ  そうそくなり
是、佳運於後胤に及ば令め給はん爲也。而るに今、御年齢未だ成立に滿たず。壯年の御昇進、太だ以て早速也。

 ごけにんら またきょうと  そうら  ず   て   めんめん  けんよう  かんはん ぶにん     かぶん   い     べ   か   もっと たんそく   ところなり
御家人等亦京都に候は不し兮、面々に顯要の官班に補任す。過分と謂ひつ可き歟。尤も歎息する所也。

 げかん   ぐまい たんりょ  もっ    たと  かたぶ もう   いへど   かへっ そ  いさめ こうむ べ     きでん なん  これ  もうされ  や   うんぬん
下官の愚昧短慮を以て、縱い傾け申すと雖も、還て其の誡を蒙る可し。貴殿盍ぞ之を申被ん哉と云々。

ひろもとあそん こた  もう    い       ひごろ こ   こと  おも    たんぷ  なやま   いへど   うだいしょうけ  おんときは   こと  をい  かもん あ
廣元朝臣答へ申して云はく。日來此の事を思い、丹府を惱すと雖も、右大將家の御時者、事に於て下問有り。

とうじ   そ   ぎ な   のかん  ひと  だんちょう   びげん  いだ  およ  ず   いま  みつだん あずか   もっと もっ  たいこうたり
當時は其の儀無き之間、獨り断膓し、微言を出し及ば不。今、密談に預り、尤も以て大幸爲。

およ  ほんぶんのおしえ  ところ  しんおのれ はか  しき  う     うんぬん
凡そ本文之訓へる所、臣己を量り職を受くと云々。

いま せんくん  ゆいせき  つ  たま  ばか  なり  とうだい  をい  さ     くんこう な
今は先君の遺跡を繼ぎ給ふ計り也。當代に於て指せる勳功無し。

しか    ただ  しょこく  かんりょう たま      あらず  ちうなごんちうじょう  のぼ  たま
而るに啻に諸國を管領し給ふのみに匪、中納言中將に昇り御う。

せっかん おんむすこ  あらず ば  およ  ぼんじん  かく  ぎ あ   べからず
攝關の御息子に非ん者、於そ凡人に此の儀有る不可。

いかで えいがいせきおう の りょうへん のが  たま    や   はや  おんし  な    ぐそんのおもむき もう  ためし べ     うんぬん
爭か 嬰害積殃 之兩篇を遁れ給はん乎。早く御使と爲し、愚存之趣を申し試む可きと云々。

現代語建保四年(1216)九月小十八日戊戌。晴れです。義時さんは大江広元さんを呼んで、話をされたのには、「将軍実朝様が、大将に任命されたいと思っておられるようです。右大将の頼朝様は官位の内定があるたびに辞退されてきました。それは良い運を子孫に残すためだったのです。それなのに今の方は、まだお年がお若いのに、壮年に達してからの昇進をのぞむなんて、とても速すぎると思うのです。御家人達も、京都朝廷に仕える訳でもないのに、それぞれ勝手に重職の官職をもらっています。分に過ぎる事だと思います。ため息の出る事です。私の浅はかな考えで注文を付けたとしても、かえって怒らせてしまうばかりです。あなたから云ってやってくれませんかねえ。」
大江広元さんが答えたのは「普段、私もその事を思い悩んでいたのですが、頼朝様の時は、どんな事柄でも意見を聞いてきました。今はそれもありませんので、一人悩んで何も言えませんでした。今、あなたから相談を受けて、ほっとしているのです。昔からの教えでは、家来は自分の力量に応じた職に就くべきだと謂われます。」
「今の方は、父親の威光を継いでいるだけで、自分が何か手柄を立てたわけではありません。それなのに単に將軍として諸国を見張っているだけでは物足らず、中納言や中将に昇進しています。摂関家の子供でもなけりゃ、一般の人にはこんな昇進はあり得ません。なんと稚拙な考えによる害と悪さを積んだ家は、その報いが子孫に反映するという、二つの報いを逃れきれないでしょう。早く、将軍実朝様に使者として、この私の意見を申し上げてみてくださいな。」だとさ。

建保四年(1216)九月小廿日庚子。リ。廣元朝臣參御所。稱相州中使。御昇進間事。諷諌申。須令庶幾御子孫之繁榮給者。辞御當官等。只爲征夷将軍。漸及御高年。可令兼大將給歟云々。仰云。諌諍之趣。尤雖甘心。源氏正統縮此時畢。子孫敢不可相繼之。然飽帶官職。欲擧家名云々。廣元朝臣重不能申是非。即退出。被申此由於相州云々。

読下し                    はれ  ひろもとあそん ごしょ  まい    そうしゅう なかつかい しょう   ごしょうしん あいだ こと  ふうかん  もう
建保四年(1216)九月小廿日庚子。リ。廣元朝臣御所へ參り、相州の中使と稱し、御昇進の間の事、諷諌し申す。

すべから ごしそんの はんえい  しょき せし  たま  ば   おんとうかんら  じ     ただせいいしょうぐん な
須く 御子孫之繁榮を庶幾令め給は者、御當官等を辞し、只征夷将軍と爲し、

ようや  ごこうねん   およ    たいしょう けんぜし  たま  べ   か   うんぬん
漸く御高年に及び、大將を兼令め給ふ可き歟と云々。

おお    い     
仰せて云はく。

かんじょうのおもむき もっと かんしん   いへど   げんじ  しょうとう   こ  とき  ちぢま をはんぬ  しそんあえ  これ  あいつ   べからず
 諌諍之趣、 尤も甘心すと雖も、源氏の正統は此の時に縮り畢。 子孫敢て之を相繼ぐ不可。

しからず  あ       かんしょく お     かめい  あ       ほっ    うんぬん
然んば飽くまで官職を帶び、家名を擧げんと欲すと云々。

ひろもとあそん かさ     ぜひ   もう    あたはず  すなは たいしゅつ  こ   よしを そうしゅう もうされ    うんぬん
廣元朝臣重ねて是非を申すに不能。即ち退出し、此の由於相州に申被ると云々。

現代語建保四年(1216)九月小二十日庚子。晴れです。大江広元さんは御所へ出かけて義時さんの使いだと云って、昇進を望むことについてご意見申しあげました。
「もし、子孫の繁栄を望まれるのなら、今の官職を辞退し、ただ武家の頭領としての征夷大将軍だけにして、もっと年配者になってから大将を兼務したらいかがでしょうか。」だとさ。
将軍実朝様が答えて「諫めていることは良くわかる。しかし源氏の血統は私で終わってしまうのだ。子孫が継ぐことは無いであろう。だから、しかたなく官職に着くことで、源氏の位を上げておきたいのだ。」との事です。
大江広元さんはそれ以上云うこともなくなり、御前から退出しました。そしてこの内容を義時さんに伝えたんだそうな。

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