吾妻鏡入門第廿二巻

建保四年丙子(1216)十二月大

建保四年(1216)十二月大一日己酉。諸人愁訴相積之由。依聞食之。年内可令是非之旨。被仰奉行人等云々。

読下し                      しょにん  しょうそあいつも  のよし  これ  き     め     よっ    ねんない  ぜひ せし  べ   のむね
建保四年(1216)十二月大一日己酉。諸人の愁訴相積る之由、之を聞こし食すに依て、年内に是非令む可き之旨、

ぶぎょうにんら  おお  られ    うんぬん
奉行人等に仰せ被ると云々。

現代語建保四年(1216)十二月大一日己酉。御家人の窮状の訴えがたまっているとの事をお聞きになり、年内に決裁するようにと担当者に命じられましたとさ。

建保四年(1216)十二月大八日丙辰。伊賀國壬生野庄者。爲春日社領。而宇都宮弥三郎頼綱入道稱地頭押領之由。興福寺住侶僧信賢所參訴也。今日有其沙汰。不能關東御成敗。於記録所。被遂對决可宣之由。被仰下云々。

読下し                      いがのくに みぶのしょうは   かすがしゃりょうたり
建保四年(1216)十二月大八日丙辰。伊賀國壬生野庄@者、春日社領爲。

しか   うつのみやいやさぶろうよりつなにゅうどう ぢとう  しょう  おうりゅう    のよし  こうふくじじゅうりょ そうしんけん  うった まい ところなり
而るに 宇都宮弥三郎頼綱入道 地頭と稱し押領する之由、興福寺住侶 僧信賢、訴へ參る所也。

きょう  そ   さた あ
今日其の沙汰有り。

かんとう  ごせいばい  あたはず  きろくしょ  をい    たいけつ  と   られ    よろ      べ   のよし  おお  くだされ    うんぬん
關東の御成敗に不能。記録所Aに於て、對决を遂げ被るが宣しかる可き之由、仰せ下被ると云々。

参考@伊賀國壬生野は、三重県伊賀市川東(旧阿山郡伊賀町川東)に壬生野郵便局・壬生野小学校あり。
参考
A記録所は、後三条天皇が院政を始めようとしたときに、摂関家の荘園を取上げるために「記録荘園券契所」を作り、文書のきちんとしていない分の荘園は取上げようとしたが、出来なかった。それが後に後白河の時代には院政をする場所になってしまった。

現代語建保四年(1216)十二月大八日丙辰。伊賀国壬生野荘は、春日大社の領地です。それなのに宇都宮弥三郎頼綱入道が地頭だと云って横取りしていると、興福寺の住職僧信賢が訴えに来ました。今日、その裁断がありました。「関東(鎌倉幕府)で判断する範疇ではないので、記録所(朝廷の文書管理所)で双方出頭の上、裁判対決をする方が良いだろう。」と、仰せになられましたとさ。

解説壬生野は、上記の記事から本所が春日大社で、領家又は下司職が興福寺のようである。
疑問
壬生野は、3巻元暦元年(1184)5月24日条で、頼朝から頼綱父の宇都宮朝綱が、平家に仕えていたが逃げ出してきて頼朝に仕えた褒美として、本領の宇都宮社務職を安堵されると共に新恩として壬生野郷の地頭職を給付されている。単に郷の地頭だったのが荘園全体を掌握してしまったのだろうか?

建保四年(1216)十二月大十三日辛酉。將軍家御參法華堂。有恒例御佛事。尼御臺所同御參云々。導師和泉阿闍梨云々。

読下し                        しょうぐんけ   ほけどう   まい  たま    こうれい  おんぶつじ あ
建保四年(1216)十二月大十三日辛酉。將軍家、法華堂へ參り御う。恒例の御佛事有り。

あまみだいどころおな   まい  たま    うんぬん  どうし   いずみのあじゃり   うんぬん
尼御臺所同じく參り御うと云々。導師は和泉阿闍梨と云々。

現代語建保四年(1216)十二月大十三日辛酉。将軍実朝様は、頼朝法華堂へお参りです。月違い命日の恒例の法要です。尼御台所政子様も同じようにお参りです。指導僧は、和泉阿闍梨だそうな。

建保四年(1216)十二月大廿日戊辰。富士御領濟物京進綿無皆濟儀之旨云々。甘苔夫者。必今明中可令進發之由云々。

読下し                       ふじごりょう   さいもつ  きょうしん わた  かいさい  ぎ な   のむね  うんぬん
建保四年(1216)十二月大廿日戊辰。富士御領の濟物、京進の綿、皆濟の儀無き之旨と云々。

あまのり  ぶ は  かなら こんみょうちう  しんぱつせし べ   のよし  うんぬん
甘苔の夫者、必ず今明中に 進發令む可し之由と云々。

現代語建保四年(1216)十二月大二十日戊辰。富士宮浅間神社領の年貢も、京都朝廷への綿も、全納されていないとのことです。京都への甘海苔を届ける人夫は、必ず明日中に出発するようにとのことです。

建保四年(1216)十二月大廿三日辛未。橘左衛門尉公業有御對面。披故右幕下慇懃御遺書。有愁申之旨。頗拭涙及述懷。頻有御憐愍之氣云々。

読下し                        たちばなさえもんのじょうきんなり ごたいめんあ
建保四年(1216)十二月大廿三日辛未。 橘左衛門尉公業 御對面有り。

こうばっか いんぎん  ごゆいしょ  ひら    うれ  もう  のむねあ     すこぶ なみだ ぬぐ じゅっかい およ    しきり  ごれんみんのけ あ     うんぬん
故右幕下慇懃の御遺書を披き、愁い申す之旨有り。頗る 涙を拭い 述懷に及ぶ。頻に御憐愍之氣有りと云々。

現代語建保四年(1216)十二月大二十三日辛未。橘次左衛門尉公成とお会いになりました。頼朝様のねんごろなお手紙を開いて、嘆き訴っへました。沢山涙を流しながら思いを述べました。将軍実朝様は、憐れみと同情を感じましたとさ。

建保四年(1216)十二月大廿五日癸酉。小笠原次郎景C申云。甲斐國領所有堂舎。皈敬已年尚。是爲資故大將家御菩提。殊加修理等。向後爲御願寺。可被寄附一村之由云々。有其沙汰。於御願寺事者。不可有子細。一村御寄附者。追可有左右之旨。被仰出。仲業奉行之。

読下し                        おがさわらのじろうかげきよ もう    い
建保四年(1216)十二月大廿五日癸酉。小笠原次郎景C申して云はく。

かいのくに  りょうしょ  どうしゃあ     ききょうすで  としひさ    これ  こたいしょうけ ごぼだい  つく    ため  こと  しゅうりら    くは
甲斐國の領所に堂舎有り。皈敬已に年尚し。是、故大將家御菩提に資さん爲、殊に修理等を加う。

きょうご   ごがんじ   な     いっそん  きふされ  べ   のよし  うんぬん
向後は御願寺と爲し、一村を寄附被る可き之由と云々。

 そ    さた あ     ごがんじ   こと  をい  は   しさい あ  べからず
其の沙汰有り。御願寺の事に於て者、子細有る不可。

いっそん  ごきふは    おっ   そう あ   べ   のむね  おお  いだされ   なかなりこれ  ぶぎょう
一村の御寄附者、追て左右有る可き之旨、仰せ出被る。仲業之を奉行す。

現代語建保四年(1216)十二月大二十五日癸酉。小笠原次郎景清が云うのには、「甲斐国の領地にひとつのお寺があります。敬って進行して久しくなります。これは、頼朝様の御冥福を祈るため特に修理をしております。今後は、常に冥福を祈る寺として一村を寄付しては如何でしょう。」との事でした。その決定がされました。幕府の願をかける御願寺にすることは意義はない。しかし一村の寄付については、追って決めようとおっしゃいました。右京進仲業が担当です。

吾妻鏡入門第廿二巻

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