吾妻鏡入門第廿三巻

建保五年丁丑(1217)十一月小

建保五年(1217)十一月小八日壬午。陰。陸奥守廣元朝臣不例。目所勞。腫物等計會。今日行七座如法泰山府君祭云々。

読下し                     はれ  むつのかみひろもとあそん ふれい  め  しょろう  はれものらけいかい
建保五年(1217)十一月小八日壬午。陰。陸奥守廣元朝臣不例。目の所勞、腫物等計會@す。

きょう    しちざ   にょほう たいさんふくんさい  おこな   うんぬん
今日、七座の如法A泰山府君祭Bを行うと云々。

参考@計會は、合わさってしまった。
参考A
如法は、法の如く、規則どおりにきちんとする。

現代語建保五年(1217)十一月小八日壬午。曇りです。大江広元さんが具合が悪いのです。目の病気と腫物が合わさってしまったのです。今日、七人で規則通りの泰山府君祭を行ってもらいましたとさ。

説明B泰山府君祭は、安倍晴明が創始した祭事で月ごと季節ごとに行う定期のものと、命に関わる出産、病気の安癒を願う臨時のものがあるという。「泰山府君」とは、中国の名山である五岳のひとつ東嶽泰山から名前をとった道教の神である。陰陽道では、冥府の神、人間の生死を司る神として崇拝されていた。延命長寿や消災、死んだ人間を生き帰らすこともできたという。

建保五年(1217)十一月小九日癸未。霽。廣元朝臣病惱危急之間。爲令見訪之給。右京兆渡御于彼亭。

読下し                     はれ  ひろもとあそん  びょうのう  ききゅうのあいだ  これ  みとぶら  せし  たま    ため  うけいちょうか  ていに わた  たま
建保五年(1217)十一月小九日癸未。霽。廣元朝臣の病惱、危急之間、之を見訪は令め給はん爲、右京兆彼の亭于渡り御う。

現代語建保五年(1217)十一月小九日癸未。晴れました。大江広元さんの病気が緊急事態なので、お見舞いをするために右京兆義時さんは大江さんの屋敷へ行かれました。

建保五年(1217)十一月小十日甲申。リ。陸奥守依獲麟。爲存命出家〔法名覺阿〕。將軍令左衛門尉朝光訪之給。

読下し                     はれ  むつのかみかくりん  よっ    ぞんめい ためしゅっけ  〔ほうみょう  かくあ〕
建保五年(1217)十一月小十日甲申。リ。陸奥守獲麟@に依て、存命の爲出家A〔法名は覺阿〕

 しょうぐん  さえもんのじょうともみつ  これ  とぶら せし  たま
將軍、左衛門尉朝光に之を訪は令め給ふ。

参考@獲麟は、危篤。
参考A
出家は、最後の延命措置である。

現代語建保五年(1217)十一月小十日甲申。晴れです。陸奥守大江広元さんが危篤になったので、命を仏様に救ってもらうため出家しました。〔法名は覚阿〕将軍実朝様は、結城左衛門尉朝光に見舞わせました。

建保五年(1217)十一月小十七日辛夘。霽。奥州闕。右京兆〔義時朱〕可令兼任給之由。被預御吹擧云々。

読下し                      はれ  おうしゅう けつ  うけいちょう 〔よしとき しゅが  〕 けんにんせし  たま  べ   のよし  ごすいきょ  あず  られ    うんぬん
建保五年(1217)十一月小十七日辛夘。霽。奥州の闕@、右京兆A〔義時朱書き〕兼任令め給ふ可き之由、御吹擧Bに預か被ると云々。

参考@奥州の闕は、出家によって陸奥守が欠員となった。
参考A
右京兆は、右京大夫の唐名。右京大夫は内官なので、外官の陸奥守を兼任できる。
参考B
御吹擧は、京都朝廷に大江広元の職を推薦している。

現代語建保五年(1217)十一月小十七日辛卯。晴れました。大江広元さんの出家で欠員となった陸奥守を右京兆義時さんが兼務するように京都朝廷へ推薦したそうです。

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