建保六年戊寅(1218)五月大
建保六年(1218)五月大四日甲戌。陰。相州自京都下着給。三品御上洛之時被扈從。而三品去月十五日雖出京給。爲參 仙洞御鞠。被逗留云々。 |
読下し
くも そうしゅうきょうとよ げちゃく たま
さんぽん ごじょうらくのとき こしょうされ
建保六年(1218)五月大四日甲戌。陰り。相州京都自り下着し給ふ。三品、御上洛之時扈從被る。
しか さんぽんさんぬ つきじうごにちきょう いでたま
いへど せんとう おんまり まい ため とうりゅうされ うんぬん
而るに三品去る月十五日京を出給ふと雖も、仙洞の御鞠に參る爲、逗留被ると云々。
現代語建保六年(1218)五月大四日甲戌。曇りです。相州時房さんが帰り着きました。三位政子様の京都への旅にお供をされました。しかし、三位政子様が先月の十五日に京都を出発しましたが、後鳥羽上皇の蹴鞠に付き合うために残っていたのです。
建保六年(1218)五月大五日乙亥。リ。相州依召被參御所。洛中事被尋仰之處。相州被申云。先去月八日梅宮祭之時。御鞠有拝見志之由。内々申之間。臨幸件宮。右大將〔半蔀車。具隨身上臈〕被刷顯官之威儀。是皆下官見物之故也云々。。同十四日初參于御鞠庭。着布衣〔顯文紗狩衣。白指貫〕。伴愚息二郎時村〔二藍布狩衣。白狩袴〕。公卿候簀子。 上皇上御簾叡覽之。同十五日。十六日以後。連々參入。當道頗得其骨之由。叡感及數度。院中出仕不知案内之旨。示合之間。尾張中將C親〔坊門内府甥〕毎事扶持。生涯爭忘其芳志哉云々。 |
読下し はれ
そうしゅう めされ よっ ごしょ まい
建保六年(1218)五月大五日乙亥。リ。相州、召被るに依て御所へ參る。
らくちう こと たず おお られ のところ そうしゅうもうされ い
洛中の事を尋ね仰せ被る之處、相州申被て云はく。
ま
さんぬ つきようか
うめみやまつ のとき おんまりはいけん こころざ あ のよし ないないもう のあいだ くだん みや りんこう
先ず去る月八日梅宮祭り@之時、御鞠拝見の
志し 有る之由、内々申す之間、件の宮に臨幸す。
うだいしょう 〔はんしとみぐるま ずいしんじょうろう ぐ 〕 けんかんの いぎ さっされ これみな
げかん けんぶつのゆえなり うんぬん
右大將A〔半蔀車。隨身上臈を具す〕顯官之威儀を刷被る。是皆下官を見物之故也と云々。
おな じうよっか おんまりていに
はじ まい
同じき十四日御鞠庭于初めて參る。
ほい 〔けんもんしゃ かりぎぬ しろさしぬき〕
き ぐそく じろうときむら 〔
ふたあいふ かりぎぬ しろかりばかま 〕 ともな くぎょう すのこ そうら
布衣〔顯文紗B狩衣C。白指貫〕を着て愚息二郎時村〔二藍布狩衣。白狩袴〕を伴い、公卿の簀子に候う。
じょうこう
おんみす あ これ えいらん おな じうごにち じうろくにち いご れんれんまい
い
上皇、御簾を上げ之を叡覽す。同じき十五日、十六日以後、連々參り入る。
とうどうすこぶ そ こつ え のよし えいかんすうど およ
當道頗る其の骨を得る之由、叡感數度に及ぶ。
いんちう しゅっし あない しらずのむね しめ あは
のあいだ おわりのちうじょうきよちか 〔ぼうもんないふ おい〕
まいじ ふち
院中の出仕、案内を不知之旨、示し合す之間、
尾張中將C親〔坊門内府が甥〕毎事扶持す。
しょうがい
いかで そ ほうし わす や うんぬん
生涯
爭か其の芳志を忘れん哉と云々。
参考@梅宮祭りは、京都市右京区梅津フケノ町30梅宮大社で、嵯峨天皇の皇后橘智子(檀林皇后)によって、今の神域に遷し祀られ自ら御幸して、お祭りになったのが梅宮祭りの起源といわれる。
参考A右大将は、久我通光(こがみちてる)で源通親の三男。
参考B顕文紗は、顕紋紗で紗の衣装の模様の部分だけを平織で浮き出させたもの。
参考C狩衣は、〔もと、狩りなどのときに着たところから〕盤領(まるえり)で脇を縫い合わせず、くくり緒のある袖が後ろ身頃にわずかに付いているだけの衣服。地質は、布(ふ)を用いるので布衣(ほい)とも呼んだが、のちに絹綾(きぬあや)のものもできた。平安時代には公家の平常の略服であったが、鎌倉時代以後は公家・武家ともに正服、または礼服として用いた。現在は、神官の服装に見られる。狩襖(かりあお)。かりごろも。Goo電子辞書から
現代語建保六年(1218)五月大五日乙亥。晴れです。相州時房さんは将軍実朝様に呼ばれて御所へ来ました。
京都での出来事をお尋ねになられたので、時房さんは答えました。
「まず先月八日の梅宮大社のお祭りに、上皇様が蹴鞠の腕を見たいとおぼしめしが内々にあって、梅宮大社へお出になられました。
右大将久我通光〔半分蔀戸になった牛車。朝廷からの警備兵で上位の者が一緒です〕は、身分相応の正装を整えていました。それもこれも私の蹴鞠を見物するためです。
同様に先月十四日に、初めて朝廷の蹴鞠場に行きました。普段着の布衣〔丸紋で紗(顕紋紗)の狩衣・下は白い指貫(括り袴)〕を着て、息子の次郎時村〔二枚重ねの藍染の狩衣・白い狩袴〕を連れて、公卿の座席の濡れ縁に控えました。
後鳥羽上皇は御簾を上げさせて、私どもをご覧になりました。十五日も十六日も続けて行きました。この道(蹴鞠)のコツを良く呑み込んでいると、上皇は何度も感心しておりました。
院へ出かける礼儀やしきたりを知らないと云ったところ、尾張中将清親〔実朝室の父坊門内大臣信清の甥〕が毎回手助けをしました。この恩は生涯忘れられませんね。」だとさ。
建保六年(1218)五月大九日己夘。霽。女房三條局〔督典侍女〕自京都歸參。是亡父越後法橋範智之粟田口遺跡造一堂。依此事上洛。彼堂去月八日遂供養。先是三ケ日内。尊長法印俄築々垣。花山院右府被送被物十重。布施取公卿前中納言範朝。宰相中將經通。刑部卿宗長。三位兼季云々。 |
読下し はれ にょぼうさんじょうのつぼね〔こうのすけ おんな〕
きょうとよ きさん
建保六年(1218)五月大九日己夘。霽。 女房三條局@〔督典侍が女〕京都自り歸參す。
これ ぼうふ
えちごほっきょうはんちの あわたぐちゆいせき いちどう
つく かく こと よっ じょうらく か
どうさんぬ つきようか くよう と
是、亡父越後法橋範智之粟田口遺跡に一堂を造る。此の事に依て上洛す。彼の堂去る月八日供養を遂ぐ。
これ さき みっかび うち
そんちょうほういん にはか つきがき きづ
是より先に三ケ日の内に、
尊長A法印俄に築垣を築く。
かざんいんのうふ かづけものとえ おくられ ふせとり くぎょう
さきのちうなごんのりとも さいしょうちうじょうつねみち ぎょうぶきょうむねなが さんみかねすえ うんぬん
花山院右府B被物十重を送被る。布施取は公卿
前中納言範朝、 宰相中將經通、 刑部卿宗長、 三位兼季Cと云々。
参考@三條局は、頼朝の従兄弟。
参考A尊長は、能保の息子。
参考B花山院右府は、清盛の孫。
参考C兼季は、能保の娘婿。
現代語建保六年(1218)五月大九日己卯。晴れました。女官の三条局〔督典侍藤原範盛の娘〕が、京都から帰ってきました。その用は、亡き父越後法橋範智(範盛)の粟田口の屋敷跡に、お堂を建てました。この行事に出席のため京都へ行ったのです。そのお堂は先月の八日に開眼供養をしました。
この日より三日前以内に、尊長法印が急いで垣根を造りました。花山院右大臣忠経さんは、被り物十着を送りました。
坊さんへのお布施を渡す役は、公卿の前中納言藤原範朝・宰相中将経通・刑部卿宗長・三位兼季さんだとさ。
参考
季範(熱田) 頼朝の姉─┬─能保(一条)
忠雅 清盛
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範盛 範忠 由良┬義朝 C兼季─女
A尊長 実雅 信能 高能 兼雅─┬─ 女
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顕季─三条@
頼朝 能氏 能継
B忠経
建保六年(1218)五月大廿五日乙未。リ。右少將能継朝臣參着。 |
読下し
はれ うしょうしょうよしつぐあそん さんちゃく
建保六年(1218)五月大廿五日乙未。リ。右少將能継朝臣@參着す。
参考@右少將能継朝臣は、一条能保の孫。能保─高能─能継。
現代語建保六年(1218)五月大二十五日乙未。晴れです。右近衛の少將一条能継さんが、到着しました。