吾妻鏡入門第廿三巻

建保六年戊寅(1218)五月大

建保六年(1218)五月大四日甲戌。陰。相州自京都下着給。三品御上洛之時被扈從。而三品去月十五日雖出京給。爲參 仙洞御鞠。被逗留云々。

読下し                    くも    そうしゅうきょうとよ   げちゃく  たま    さんぽん ごじょうらくのとき こしょうされ
建保六年(1218)五月大四日甲戌。陰り。相州京都自り下着し給ふ。三品、御上洛之時扈從被る。

しか   さんぽんさんぬ つきじうごにちきょう いでたま   いへど   せんとう  おんまり  まい  ため  とうりゅうされ   うんぬん
而るに三品去る月十五日京を出給ふと雖も、仙洞の御鞠に參る爲、逗留被ると云々。

現代語建保六年(1218)五月大四日甲戌。曇りです。相州時房さんが帰り着きました。三位政子様の京都への旅にお供をされました。しかし、三位政子様が先月の十五日に京都を出発しましたが、後鳥羽上皇の蹴鞠に付き合うために残っていたのです。

建保六年(1218)五月大五日乙亥。リ。相州依召被參御所。洛中事被尋仰之處。相州被申云。先去月八日梅宮祭之時。御鞠有拝見志之由。内々申之間。臨幸件宮。右大將〔半蔀車。具隨身上臈〕被刷顯官之威儀。是皆下官見物之故也云々。。同十四日初參于御鞠庭。着布衣〔顯文紗狩衣。白指貫〕。伴愚息二郎時村〔二藍布狩衣。白狩袴〕。公卿候簀子。 上皇上御簾叡覽之。同十五日。十六日以後。連々參入。當道頗得其骨之由。叡感及數度。院中出仕不知案内之旨。示合之間。尾張中將C親〔坊門内府甥〕毎事扶持。生涯爭忘其芳志哉云々。

読下し                   はれ  そうしゅう  めされ    よっ  ごしょ  まい
建保六年(1218)五月大五日乙亥。リ。相州、召被るに依て御所へ參る。

らくちう  こと  たず  おお  られ  のところ そうしゅうもうされ  い
洛中の事を尋ね仰せ被る之處、相州申被て云はく。

 ま   さんぬ つきようか うめみやまつ のとき  おんまりはいけん こころざ あ   のよし  ないないもう  のあいだ くだん みや りんこう
先ず去る月八日梅宮祭り@之時、御鞠拝見の 志し 有る之由、内々申す之間、件の宮に臨幸す。

うだいしょう 〔はんしとみぐるま ずいしんじょうろう ぐ  〕  けんかんの いぎ  さっされ    これみな げかん  けんぶつのゆえなり  うんぬん
右大將A〔半蔀車。隨身上臈を具す〕顯官之威儀を刷被る。是皆下官を見物之故也と云々。

おな   じうよっか おんまりていに はじ   まい
同じき十四日御鞠庭于初めて參る。

 ほい  〔けんもんしゃ かりぎぬ  しろさしぬき〕     き   ぐそく じろうときむら  〔 ふたあいふ かりぎぬ しろかりばかま 〕   ともな   くぎょう  すのこ  そうら
布衣〔顯文紗B狩衣C。白指貫〕を着て愚息二郎時村〔二藍布狩衣。白狩袴〕を伴い、公卿の簀子に候う。

じょうこう  おんみす  あ   これ  えいらん   おな    じうごにち  じうろくにち いご   れんれんまい  い
上皇、御簾を上げ之を叡覽す。同じき十五日、十六日以後、連々參り入る。

とうどうすこぶ そ   こつ  え   のよし  えいかんすうど  およ
當道頗る其の骨を得る之由、叡感數度に及ぶ。

いんちう  しゅっし  あない  しらずのむね  しめ  あは  のあいだ  おわりのちうじょうきよちか 〔ぼうもんないふ  おい〕  まいじ ふち
院中の出仕、案内を不知之旨、示し合す之間、 尾張中將C親〔坊門内府が甥〕毎事扶持す。

しょうがい いかで そ  ほうし   わす    や   うんぬん
生涯 爭か其の芳志を忘れん哉と云々。

参考@梅宮祭りは、京都市右京区梅津フケノ町30梅宮大社で、嵯峨天皇の皇后橘智子(檀林皇后)によって、今の神域に遷し祀られ自ら御幸して、お祭りになったのが梅宮祭りの起源といわれる。
参考A
右大将は、久我通光(こがみちてる)で源通親の三男。
参考B顕文紗は、顕紋紗で紗の衣装の模様の部分だけを平織で浮き出させたもの。
参考C狩衣は、〔もと、狩りなどのときに着たところから〕盤領(まるえり)で脇を縫い合わせず、くくり緒のある袖が後ろ身頃にわずかに付いているだけの衣服。地質は、布(ふ)を用いるので布衣(ほい)とも呼んだが、のちに絹綾(きぬあや)のものもできた。平安時代には公家の平常の略服であったが、鎌倉時代以後は公家・武家ともに正服、または礼服として用いた。現在は、神官の服装に見られる。狩襖(かりあお)。かりごろも。Goo電子辞書から

現代語建保六年(1218)五月大五日乙亥。晴れです。相州時房さんは将軍実朝様に呼ばれて御所へ来ました。
京都での出来事をお尋ねになられたので、時房さんは答えました。
「まず先月八日の梅宮大社のお祭りに、上皇様が蹴鞠の腕を見たいとおぼしめしが内々にあって、梅宮大社へお出になられました。
右大将久我通光〔半分蔀戸になった牛車。朝廷からの警備兵で上位の者が一緒です〕は、身分相応の正装を整えていました。それもこれも私の蹴鞠を見物するためです。
同様に先月十四日に、初めて朝廷の蹴鞠場に行きました。普段着の布衣〔丸紋で紗(顕紋紗)の狩衣・下は白い指貫(括り袴)〕を着て、息子の次郎時村〔二枚重ねの藍染の狩衣・白い狩袴〕を連れて、公卿の座席の濡れ縁に控えました。
後鳥羽上皇は御簾を上げさせて、私どもをご覧になりました。十五日も十六日も続けて行きました。この道(蹴鞠)のコツを良く呑み込んでいると、上皇は何度も感心しておりました。
院へ出かける礼儀やしきたりを知らないと云ったところ、尾張中将清親〔実朝室の父坊門内大臣信清の甥〕が毎回手助けをしました。この恩は生涯忘れられませんね。」だとさ。

建保六年(1218)五月大九日己夘。霽。女房三條局〔督典侍女〕自京都歸參。是亡父越後法橋範智之粟田口遺跡造一堂。依此事上洛。彼堂去月八日遂供養。先是三ケ日内。尊長法印俄築々垣。花山院右府被送被物十重。布施取公卿前中納言範朝。宰相中將經通。刑部卿宗長。三位兼季云々。

読下し                   はれ  にょぼうさんじょうのつぼね〔こうのすけ おんな〕   きょうとよ    きさん
建保六年(1218)五月大九日己夘。霽。 女房三條局@〔督典侍が女〕京都自り歸參す。

これ  ぼうふ えちごほっきょうはんちの あわたぐちゆいせき いちどう  つく    かく  こと  よっ  じょうらく     か   どうさんぬ つきようか くよう   と
是、亡父越後法橋範智之粟田口遺跡に一堂を造る。此の事に依て上洛す。彼の堂去る月八日供養を遂ぐ。

これ    さき  みっかび  うち     そんちょうほういん にはか つきがき きづ
是より先に三ケ日の内に、 尊長A法印俄に築垣を築く。

かざんいんのうふ かづけものとえ  おくられ     ふせとり   くぎょう さきのちうなごんのりとも  さいしょうちうじょうつねみち  ぎょうぶきょうむねなが  さんみかねすえ  うんぬん
花山院右府B被物十重を送被る。布施取は公卿 前中納言範朝、 宰相中將經通、 刑部卿宗長、 三位兼季Cと云々。

参考@三條局は、頼朝の従兄弟。
参考A尊長は、能保の息子。
参考B花山院右府は、清盛の孫。
参考C
兼季は、能保の娘婿。

現代語建保六年(1218)五月大九日己卯。晴れました。女官の三条局〔督典侍藤原範盛の娘〕が、京都から帰ってきました。その用は、亡き父越後法橋範智(範盛)の粟田口の屋敷跡に、お堂を建てました。この行事に出席のため京都へ行ったのです。そのお堂は先月の八日に開眼供養をしました。
この日より三日前以内に、尊長法印が急いで垣根を造りました。花山院右大臣忠経さんは、被り物十着を送りました。
坊さんへのお布施を渡す役は、公卿の前中納言藤原範朝・宰相中将経通・刑部卿宗長・三位兼季さんだとさ。

参考     季範(熱田)         頼朝の姉─┬─能保(一条)    忠雅   清盛
    ┌──┼──┐          ┌──┬──┼──┬──┐     │    │
    範盛 範忠 由良┬義朝  
C兼季─女 A尊長 実雅 信能 高能    兼雅─┬─ 女
    │       │                  ┌─┴─┐      │
 顕季─三条
@     頼朝                 能氏  能継    B忠経

建保六年(1218)五月大廿五日乙未。リ。右少將能継朝臣參着。

読下し                     はれ   うしょうしょうよしつぐあそん さんちゃく
建保六年(1218)五月大廿五日乙未。リ。右少將能継朝臣@參着す。

参考@右少將能継朝臣は、一条能保の孫。能保高能能継。

現代語建保六年(1218)五月大二十五日乙未。晴れです。右近衛の少將一条能継さんが、到着しました。

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