吾妻鏡入門第廿三巻

建保六年戊寅(1218)十月大

建保六年(1218)十月大十九日戊午。陰。佐々木判官廣綱飛脚參着。申云。去十日。中宮〔故中御門關白御女〕御産。皇子御誕生。九日有任大臣等。將軍家任内大臣給。仍持參彼除書。太政大臣〔公房〕。内大臣〔實朝。大將如元〕。大納言定通。中納言實氏云々。同十一日又徐目。時廣已下少々令敍留也。此外中宮御産之時鳴弦輩任官云々。

読下し                      くも     ささきのほうがんひろつな  ひきゃくさんちゃく   もう    い
建保六年(1218)十月大十九日戊午。陰り。佐々木判官廣綱が飛脚參着し、申して云はく。

さんぬ とおか  ちうぐう 〔 こなかみかどかんぱく  おんむすめ 〕 おさん  みこ ごたんじょう
去る十日、中宮〔故中御門關白の御女〕御産。皇子御誕生。

ここのかだいじんら  にんあ    しょうぐんけないだいじん にん  たま    よっ  か   じしょ  じさん
九日大臣等の任有り。將軍家内大臣に任じ給ふ。仍て彼の除書を持參す。

だじょうだいじん 〔きんふさ〕  ないだいじん 〔さねとも  たいしょもと   ごと  〕    だいなごんさだみち  ちうなごんさねうじ  うんぬん
太政大臣〔公房〕。内大臣〔實朝。大將元の如し〕。大納言定通。中納言實氏と云々。

おな   じういちにちまた じもく  ときひろ いげ しょうしょうじょりゅうせし なり  こ  ほか  ちうぐうおさんの ときめいげん やからにんかん   うんぬん
同じき十一日又徐目。時廣已下少々敍留令む也。此の外、中宮御産之時鳴弦の輩任官すと云々。

現代語建保六年(1218)十月大十九日戊午。曇りです。佐々木判官広綱の伝令が到着し、報告しました。先日の十日に、中宮九条立子〔故中御門関白九条良経の娘〕がお産で皇子(順徳天皇皇子懐成親王・仲恭天皇)を生みました。その前日の九日に大臣などの任命がありました。それでその辞令書を持ってきました。内容は、太政大臣〔三条公房〕、内大臣〔実朝、大将は今まで通り〕、大納言は土御門定通、中納言は西園寺実氏だそうな。又十一日にも辞令。長井時広を始め若干が任命されました。その他には、中宮のお産の時に悪鬼払いの弓を鳴らす鳴弦の役の人も官職を貰ったそうです。

建保六年(1218)十月大廿二日辛酉。日吉神輿入洛以下事。已靜謐之由。有其沙汰。日來度々被申京都訖。去月廿一日入洛。同廿三日。三塔諸堂日吉社頭閇門。又祗園北野以下末寺末社同以閇門。雖然。今月十二日。貫首以下門徒僧綱登山。宥衆徒。令開山上社頭門戸。中堂四社神輿奉歸座本社云々。

読下し                      ひえ   みこし じゅらく いげ   こと  すで  せいひつの よし  そ    さた あ
建保六年(1218)十月大廿二日辛酉。日吉の神輿入洛以下の事、已に靜謐之由、其の沙汰有り。

ひごろ たびたびきょうと もうされをはんぬ
日來度々京都へ申被 訖。

さんぬ つき にじういちにち じゅらく    おな  にじうさんにち  さんとうしょどう ひえしゃ とうもん  と
去る月 廿一日 入洛す。同じき廿三日、三塔諸堂日吉社頭門を閇ざす。

また  ぎおん   きたの いげ   まつじまっしゃおな    もっ  もん  と
又、祗園、北野以下の末寺末社同じく以て門を閇ざす。

しか    いへど   こんげつじうににち  かんしゅ いげ   もんと そうこう とざん     しゅと   なだ   さんじょうしゃとう  もんこ   ひら   せし
然りと雖も、今月十二日、貫首以下の門徒僧綱登山し、衆徒を宥め、山上社頭の門戸を開か令む。

ちうどうよんしゃ  みこしほんしゃ  きざ たてまつ  うんぬん
中堂四社の神輿本社へ歸座奉ると云々。

現代語建保六年(1218)十月大二十二日辛酉。日吉神社の神輿を京都へ担ぎこんだ騒ぎは、既に静まったのかとの仰せがありました。このところ、何度も京都へ問い合わせてきました。先月の二十一日に京都の町中へ神様の移った神輿を担ぎだしたので、二十三日には比叡山の東塔・西塔・横川の三塔やお堂類や日吉神社の門を僧兵は閉めました。また、祗薗八坂神社北野天満宮を初めてする末寺・末社も同様に門を閉めてしまい、神輿を振り立てて騒いでいました。しかし、今月の12日に長官の貫首を始めとする役職の坊さん僧綱たちが比叡山へ上って、僧兵達を説得して山の上の神社仏閣の門を開かせました。根本中堂の四つの神社のお神輿は、本社へ帰りましたとさ。

建保六年(1218)十月大廿六日乙丑。リ。京都使者參。去十三日。禪定三品令敍從二位給云々。

読下し                     はれ  きょと   ししゃまい    さんぬ じうさんにち ぜんじょうさんぽん じゅにい  じょせし  たま    うんぬん
建保六年(1218)十月大廿六日乙丑。リ。京都の使者參る。去る十三日、禪定三品從二位に敍令め給ふと云々。

現代語建保六年(1218)十月大二十六日乙丑。晴れです。京都からの使いが来て、先日の13日に禅定三位政子様は従二位に任命されたとの事です。

建保六年(1218)十月大廿七日丙寅。霽。秋田城介景盛爲使節上洛。依被賀申皇子降誕之事也。」今日。左兵衛尉長谷部信連法師於能登國大屋庄河原田卒。是本故三條宮侍。近關東御家人也。長馬新大夫爲連男也。

読下し                     はれ  あいだのじょうすけかげもり しせつ  な  じょうらく    みこ こうたんの こと  が   もうさる    よっ  なり
建保六年(1218)十月大廿七日丙寅。霽。 秋田城介景盛 使節と爲し上洛す。皇子降誕之事を賀し申被るに依て也。」

きょう   さひょうえのじょうはせべののぶつらほっし のとのくにおおやのしょうかわらだ  をい  そっ
今日、左兵衛尉長谷部信連法師、能登國大屋庄河原田@に於て卒す。

これ  もと  こさんじょうのみや さむらい ちか   かんとう  ごけにん なり  ちょうましんたいふためつら  だんなり
是、本は 故三條宮の侍。 近くは關東の御家人也。長馬新大夫爲連が男也。

参考@河原田は、石川県輪島市山岸町(旧河原田村)。河原田川のほとり、輪島病院の裏に長谷部信連の墓があるそうです。

現代語建保六年(1218)十月大二十七日丙寅。晴れました。秋田城介景盛が公式使者として京都へ上ります。皇子の誕生をお祝い申し上げるためです。」
今日、左兵衛尉長谷部信連法師が、能登国大屋庄河原田で亡くなりました。彼は、元は故三条高倉宮以仁王の侍だったのです。最近は関東の御家人になってました。長谷部馬新大夫為連の男子です。

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