吾妻鏡入門第廿四巻

建保七年己卯(1219)正月大

建保七年(1219)正月大七日甲戌。戌刻。御所近邊。前大膳大夫入道覺阿亭以下四十余宇燒亡。

読下し                   いぬのこく ごしょ  きんぺん  さきのだいぜんだいぶにゅうどうかくあ てい いげ  しじゅうよう  しょうぼう
建保七年(1219)正月大七日甲戌。戌刻。御所の近邊、 前大膳大夫入道覺阿の亭@以下四十余宇燒亡す。

現代語建保七年(1219)正月大七日甲戌。午後の九時頃に御所の近所の、前大膳大夫入道覺阿大江広元の屋敷外四十余軒が火事で燃えました。

推定@ 前大膳大夫入道覺阿大江広元の亭は、大倉幕府前西はずれ筋替え橋東側と推定される。西御門川を挟んで西南は義時邸、東は八田知家邸。

建保七年(1219)正月大八日乙亥。心經會。將軍家出御南面。其儀如例。

読下し                    しんぎょうえ  しょうぐんけなんめん い   たま    そ   ぎ れい  ごと
建保七年(1219)正月大八日乙亥。心經會。將軍家南面へ出で御う。其の儀例の如し。

現代語建保七年(1219)正月大八日乙亥。般若心経を読経する法会です。実朝将軍は、御所の公邸南面へ御出になられました。その儀式は何時もの通りです。

建保七年(1219)正月大十五日壬午。丑刻。大倉邊燒亡。相州室宿所以下數十宇災。

読下し                     うしのこく  おおくら あた しょうぼう  そうしゅう しつ  すくしょ いげ すうじううわざわい
建保七年(1219)正月大十五日壬午。丑刻。大倉の邊り燒亡。相州が室の宿所@以下數十宇災す。

現代語建保七年(1219)正月大十五日壬午。午前二時頃に、大倉の辺りで火事がありました。相州時房の妻(足立遠元の女)の家外数十軒が火災に会いました。

推定@相州が室の宿所は、覚園寺が大倉薬師堂なのでその途中かと思われる。

建保七年(1219)正月大廿三日庚寅。晩頭雪降。入夜盈尺。今日坊門大納言自京都下着。以右京兆大倉御亭。被點彼旅舘云々。此外卿相雲客多以下向。是爲將軍家大臣御拝賀扈從也。

読下し                     ばんとう  ゆきふ     よ   い  しゃくつも    きょう ぼうもんだいなごんきょうとよ   げちゃく
建保七年(1219)正月大廿三日庚寅。晩頭に雪降る。夜に入り尺盈る。今日坊門大納言京都自り下着す。

うけいちょう  おおくら  おんてい  もっ    か   りょかん  てん  られ    うんぬん  こ   ほか きょうそううんきゃく おお もっ  げこう
右京兆の大倉の御亭@を以て、彼の旅舘に點じ被ると云々。此の外、卿相雲客 多く以て下向す。

これ  しょうぐんけ  だいじんごはいが  ため  こしょうなり
是、將軍家の大臣御拝賀の爲の扈從也。

現代語建保七年(1219)正月大二十三日庚寅。夕方から雪が降り始めました。夜になると一尺も積もりました。今日、坊門大納言忠信(実朝室の兄)が京都から到着しました。右京兆義時の屋敷を、旅の館に決められましたとさ。その他にも、お公卿さんたちが大勢、鎌倉へ向かっています。これは、将軍家実朝の大臣任命報告式に参列するためです。

推定@右京兆の大倉の御亭は、関取場北側と思われる。

建保七年(1219)正月大廿四日辛卯。白雪滿山積地。今日坊門亞相渡御營中。御臺所御對面。於御前有盃酒之儀。若少女房十人〔各折花〕候陪膳役送云々。縡雖起卒爾。遊興滅永日。及秉燭之期令歸給。將軍家被献御馬〔鴾毛号雛冠木。置鞍〕秋田城介景盛引之。

読下し                     はくせつやま  み   ち   つ     きょう   ぼうもんあそう えいちゅう わた  たま    みだいどころごたいめん
建保七年(1219)正月大廿四日辛卯。白雪山に滿ち地に積む。今日、坊門亞相@營中に渡り御う。御臺所御對面。

ごぜん  をい  はいしゅの ぎ あ    じゃくしょう にょぼうじうにん 〔おのおの はな  お 〕  ばいぜん  えきそう  こう    うんぬん
御前に於て盃酒之儀有り。若少の女房十人〔各、花を折るA陪膳の役送に候ずと云々。

ことそつじ  おこ   いへど  ゆうきょうえいじつ  めっ    へいしょくのご  およ  かえ  せし  たま
縡卒爾に起ると雖も、遊興永日を滅す。秉燭之期に及び歸ら令め給ふ。

しょうぐんけおんうま 〔つきげ   かえで     ごう      くら  お      けん  らる  あいだのじょうすけかげもりこれ  ひ
將軍家御馬〔鴾毛、雛冠木と号す。鞍を置く〕を献ぜ被る。秋田城介景盛之を引く。

参考@亜相は、亜は次ぐ、相は大臣。で、大臣の次ぎなので大納言。
参考A花を折るは、花を折って翳(かざ)すという意味で、衣装や身繕(づくろ)いを華やかにする。美しく着飾る。

現代語建保七年(1219)正月大二十四日辛卯。真っ白な雪で山も地面も皆覆われました。今日坊門大納言忠信様が御所へお渡りになられました。御臺所(坊門姫)とお会いになられました。将軍の御前で盃を交わす儀式をしました。若手の女官十人〔それぞれ身づくろいをして綺麗に飾っています〕が給仕の役目をしたそうです。予期していない事がにわかに起こりましたが、お遊びは春の一日を楽しまれ、明かりを灯す時間になってお帰りになられました。将軍家実朝様は、馬〔月毛で雛冠木と云います、鞍置きです〕を引出物に出されました。秋田城介安達景盛が庭に引いてお披露目をしました。

建保七年(1219)正月大廿五日壬辰。右馬權頭頼茂朝臣參籠于鶴岡宮。去夜跪拝殿。奉法施之際。一瞬眠中。鳩一羽居典厩之前。小童一人在其傍。小時童取杖打殺彼鳩。次打典厩狩衣袖。成奇異思曙之處。今朝廟庭有死鳩。見人怪之。頼茂朝臣依申事由有御占。泰貞宣賢等申不快之趣云々。

読下し                     うまごんのかみよりしげあそん つるがおかぐうに さんろう
建保七年(1219)正月大廿五日壬辰。右馬權頭頼茂朝臣、鶴岡宮于參籠す。

さんぬ よ はいでん ひざまづ  ほう ほどこ たてまつ のきわ  いっしゅん ねむ   なか   はといちはてんきゅうのまえ  い
去る夜拝殿に跪き、法を施し 奉る之際、一瞬の眠りの中に、鳩一羽典厩之前に居る。

こわらべ ひとり そ  かたわ   あ     しばらく  わらべつえ  と   か   はと  うちころ    つぎ てんきゅう かりぎぬ そで  う
小童一人其の傍らに在り。小時して童杖を取り彼の鳩を打殺す。次に典厩の狩衣の袖を打つ。

 きい   おも   あけぼの な   のところ   けさ   びょうてい  しにばとあ    み   ひとこれ  あやし
奇異の思いを曙に成す之處、今朝、廟庭に死鳩有り。見る人之を怪む。

よりしげあそん  もう  こと  よし  よっ    おんうらな あ     やすさだ  のぶかたら ふかいのおもむき もう    うんぬん
頼茂朝臣の申す事の由に依て、御占い有り。泰貞、宣賢等 不快之 趣を申すと云々。

現代語建保七年(1219)正月大二十五日壬辰。右馬権頭頼茂さんが、鶴岡八幡宮にお籠りしました。昨夜、拝殿でお経を上げている時、一瞬ですが眠ってしまい、夢の中で鳩が一羽彼の前に居ました。子供が一人そのわきに居ました。少したって子供は杖を取だし、鳩を叩き殺しました。それに次いで彼の狩衣の袖を打ってきました。奇妙な思いの内に夜が明けたら、今朝、八幡宮の庭に鳩が死んでいました。見る人は不吉だと思いました。頼茂さんの云うことを占いさせました。安陪泰貞・宣賢は良くない知らせだと云ってましたとさ。

建保七年(1219)正月大廿七日甲午。霽。入夜雪降。積二尺餘。今日將軍家右大臣爲拝賀。御參鶴岳八幡宮。酉刻御出。
行列
  先居飼四人〔二行退紅縫越手下〕
  次舎人四人〔二行柳上下平礼〕
  次一員〔二行〕
 將曹菅野景盛          府生狛盛光
 將監中原成能〔以上束帶〕
  次殿上人〔二行〕
 一條侍從能氏          藤兵衛佐頼經
 伊豫少將實雅          右馬權頭頼茂朝臣
 中宮權亮信能朝臣〔子随臣四人〕 一條大夫頼氏
 一條少將能継          前因幡守師憲朝臣
 伊賀少將隆經朝臣        文章博士仲章朝臣
  次前駈笠持
  次前駈〔二行〕
 藤匂當頼隆           平匂當時盛
 前駿河守季時          左近大夫朝親
 相摸權守經定          藏人大夫以邦
 右馬助行光           藏人大夫邦忠
 右衛門大夫時廣         前伯耆守親時
 前武藏守義氏          相摸守時房
 藏人大夫重綱          左馬權助範俊
 右馬權助宗保          藏人大夫有俊
 前筑後守頼時          武藏守親廣
 修理權大夫惟義朝臣       右京權大夫義時朝臣
  次官人
 泰兼峰             番長下毛野敦秀〔各白狩衣 一脛巾 負狩胡録〕
  次御車〔檳榔〕 車副四人〔平礼白張〕 牛童一人
  次随兵〔二行〕
 小笠原次郎長C〔甲小櫻威〕   武田五郎信光〔甲黒糸威〕
 伊豆左衛門尉頼定〔甲萌黄威〕  隱岐左衛門尉基行〔甲紅〕
 大須賀太郎道信〔甲藤威〕    式部大夫泰時〔甲小櫻〕
 秋田城介景盛〔甲黒糸威〕    三浦小太郎時(朝)村〔甲萌黄〕
 河越次郎重時〔甲紅〕      荻野次郎景員〔甲藤威〕
     各冑持一人。張替持一人。傍路前行。但景盛不令持張替。
  次雜色廿人〔皆平礼〕
  次檢非違使
 大夫判官景廉
 〔束帶
平塵蒔太刀 舎人一人 郎等四人 調度懸 小舎人童各一人 看督長二人 火長二人 雜色六人 放免五人〕
  次御調度懸
 佐々木五郎左衛門尉義C
  次下臈御随身
 秦公氏             同兼村
 播磨貞文            中臣近任
 下毛野敦光           同敦氏
  次公卿
 新大納言忠信〔前駈五人〕    左衛門督實氏〔子随身四人〕
 宰相中將國道〔子随身四人〕   八條三位光盛
 刑部卿三位宗長〔各乘車〕
  次
 左衛門大夫光員         隱岐守行村
 民部大夫廣綱          壹岐守C重
 關左衛門尉政綱         布施左衛門尉康定
 小野寺左衛門尉秀通       伊賀左衛門尉光季
 天野左衛門尉政景        武藤左衛門尉頼茂
 伊東左衛門尉祐時        足立左衛門尉元春
 市河左衛門尉祐光        宇佐美左衛門尉祐長
 後藤左衛門尉基綱        宗左衛門尉孝親
 中條左衛門尉家長        佐貫左衛門尉廣綱
 伊達右衛門尉爲家        江右衛門尉範親
 紀右衛門尉實平         源四郎右衛門尉季氏
 塩谷兵衛尉朝業         宮内兵衛尉公氏
 若狹兵衛尉忠季         綱嶋兵衛尉俊久
 東兵衛尉重胤          土屋兵衛尉宗長
 境兵衛尉常秀          狩野七郎光廣〔任右馬允除書後同到着云々〕
  路次随兵一千騎也
令入宮寺樓門御之時。右京兆俄有心神御違例事。讓御劔於仲章朝臣。退去給。於神宮寺。御解脱之後。令歸小町御亭給。及夜陰。神拝事終。漸令退出御之處。當宮別當阿闍梨公曉窺來于石階之際。取劔奉侵丞相。其後隨兵等雖馳駕于宮中〔武田五郎信光進先登〕。無所覓讎敵。或人云。於上宮之砌。別當阿闍梨公曉討父敵之由。被名謁云々。就之。各襲到于件雪下本坊。彼門弟悪僧等。籠于其内。相戰之處。長尾新六定景与子息太郎景茂。同次郎胤景等諍先登云々。勇士之赴戰塲之法。人以爲美談。遂悪僧敗北。闍梨不坐此所給。軍兵空退散。諸人惘然之外無他。爰阿闍梨持彼御首。被向于後見備中阿闍梨之雪下北谷宅。羞膳間。猶不放手於御首云々。被遣使者弥源太兵衛尉〔闍梨乳母子〕於義村。今有將軍之闕。吾專當東關之長也。早可廻計議之由被示合。是義村息男駒若丸依列門弟。被恃其好之故歟。義村聞此事。不忘先君恩化之間。落涙數行。更不及言語。少選。先可有光臨于蓬屋。且可獻御迎兵士之由申之。使者退去之後。義村發使者。件趣告於右京兆。々々無左右。可奉誅阿闍梨之由。下知給之間。招聚一族等凝評定。阿闍梨者。太足武勇。非直也人。輙不可謀之。頗爲難儀之由。各相議之處。義村令撰勇敢之器。差長尾新六定景於討手。定景遂〔雪下合戰後。向義村宅〕不能辞退。起座着黒皮威甲。相具雜賀次郎〔西國住人。強力者也〕以下郎從五人。赴于阿闍梨在所備中阿闍梨宅之刻。阿闍梨者。義村使遲引之間。登鶴岳後面之峯。擬至于義村宅。仍與定景相逢途中。雜賀次郎忽懷阿闍梨。互諍雌雄之處。定景取太刀。梟闍梨〔着素絹衣腹巻。年廿云々〕首。是金吾將軍〔頼家〕御息。母賀茂六郎重長女〔爲朝孫女也〕公胤僧正入室。貞曉僧都受法弟子也。定景持彼首皈畢。即義村持參京兆御亭。々主出居。被見其首。安東次郎忠家取脂燭。李部被仰云。正未奉見阿闍梨之面。猶有疑貽云々。抑今日勝事。兼示變異事非一。所謂。及御出立之期。前大膳大夫入道參進申云。覺阿成人之後。未知涙之浮顏面。而今奉昵近之處。落涙難禁。是非直也事。定可有子細歟。東大寺供養之日。任右大將軍御出之例。御束帶之下。可令着腹巻給云々。仲章朝臣申云。昇大臣大將之人未有其式云々。仍被止之。又公氏候御鬢之處。自抜御鬢一筋。稱記念賜之。次覽庭梅。詠禁忌和歌給。
 出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ
次御出南門之時。靈鳩頻鳴囀。自車下給之刻被突折雄劔云々。」又今夜中可糺彈阿闍梨群黨之旨。自二位家被仰下。信濃國住人中野太郎助能生虜少輔阿闍梨勝圓。具參右京兆御亭。是爲彼受法師也云云。

読下し                     はれ  よ   い   ゆきふ    にしゃくあま  つも
建保七年(1219)正月大廿七日甲午。霽。夜に入り雪降る。二尺餘り積る。

きょう   しょうぐんけ うだいじん  はいが  ため つるがおかはちまんぐう ぎょさん  とりのこくおんいで
今日、將軍家右大臣の拝賀の爲、鶴岳八幡宮へ御參す。酉刻御出。

ぎょうれつ
行列

    ま  いかいよにん   〔にぎょう  たいこう   ぬいおこし  たもと 〕
  先ず居飼@四人〔二行 退紅A・縫越Bの手下C

参考@居飼は、古代・中世、院司や家司(けいし)の厩別当(うまやのべつとう)に属し、牛馬の世話をする役の者。
参考A退紅は、薄紅色。
参考B
縫越は、膝までの半袴。
参考C
手下は、不明だが、袂(たもと)かもしれない。

    つぎ  とねり よにん 〔にぎょう   やなぎのじょうげ   ひれ 〕
  次に舎人@四人〔二行 柳のA上下 平礼B

参考@舎人は、皇族・貴族に仕えて、雑務を行なった下級官人。
参考A柳のは、緑色の。
参考B
平礼は、身分の低い人の粗末な縁のない烏帽子。漆が薄いのでひらひらする。

    つぎ いちいん 〔にぎょう〕
  次に一員@〔二行〕  参考@一員は、律令制の役人の一人。

  しょうそうすがののかげもり                   ふしょうこまのもりみつ
 將曹@菅野景盛          府生A狛盛光

参考@將曹は、近衛(このえ)府の主典(さかん)
参考A府生は、検非違使の下役。

  しょうかんなかはらのなりよし〔いじょうそくたい〕
 將監@中原成能 〔以上束帶〕

参考@將監は、近衛(このえ)府の判官(じよう)。左右がある。

    つぎ でんじょうびと 〔にぎょう〕
  次に殿上人〔二行〕

  いちじょうじじゅうよしうじ                    とうのひょうえのすけよりつね
 一條侍從能氏          藤兵衛佐頼經

  いよのしょうしょうさねまさ                   うまごんのかみよりもちあそん
 伊豫少將實雅          右馬權頭頼茂朝臣

  ちうぐうごんのさかんのぶよしあそ〔 こ  ずいしんよねん〕  いちじょうたいふよりうじ
 中宮權亮信能朝臣〔子、随臣四人〕  一條大夫頼氏

  いちじょうしょうしょうよしつぐ                  さきのいなばのかみもろのりあそん
 一條少將能継          前因幡守師憲朝臣

  いがのしょうしょうたかつねあそん               もんじょうはくじなかあきらあそん
 伊賀少將隆經朝臣        文章博士仲章朝臣

    つぎ  さきがけかさもち
  次に前駈笠持

    つぎ  さきがけ 〔にぎょう〕
  次に前駈〔二行〕

  とうのこうとうよりたか                       へいのこうとうときもり
 藤匂當頼隆           平匂當時盛

  さきのするがのかみすえとき                  さこんたいふともちか
 前駿河守季時          左近大夫朝親

  さがみごんのかみつねさだ                   くらんどたいふもちくに
 相摸權守經定          藏人大夫以邦

  うまのすけゆきみつ                       くらんどたいふくにただ
 右馬助行光           藏人大夫邦忠

  うえもんたいふときひろ                     さきのほうきのかみちかとき
 右衛門大夫時廣         前伯耆守親時

  さきのむさしのかみよしうじ                   さがみのかみときふさ
 前武藏守義氏          相摸守時房

  くらんどたいふしげつな                    さまごんのすけのりとし
 藏人大夫重綱          左馬權助範俊

  うまごんのすけむねやす                    くらんどたいふありとし
 右馬權助宗保          藏人大夫有俊

  さきのちくごのかみよりとき                   むさしのかみちかひろ
 前筑後守頼時          武藏守親廣

  しゅりごんのたいふこれよしあそん              うきょうごんのたいふよしときあそん
 修理權大夫惟義朝臣       右京權大夫義時朝臣

    つぎ  かんじん
  次に官人

  はたのかねみね                        ばんちょうしもつけのあつひで 〔 おのおのしろかりぎぬ あおひとすねはばき かりやなぐい お 〕
 泰兼峰             番長下毛野敦秀〔各白狩衣 一脛巾 狩胡録を負う〕

    つぎ  ぎょしゃ 〔びんろう〕    くるまぞえよにん 〔 ひれ しろはり 〕   うしわらわ ひとり
  次に御車〔檳榔@〕 車副四人〔平礼白張〕 牛童A一人

参考@檳榔は、檳榔毛の車で、檳榔の葉を細かに裂き、白くさらしたもので車の箱をおおった牛車(ぎつしや)。
参考A牛童は、牛を世話したり牽引したりす ることを職とする。子供とは限らず、稚児髪(垂髪)。

    つぎ  ずいへい 〔にぎょう〕
  次に随兵〔二行〕

  おがさわらのじろうながきよ 〔こざくらをどし よろい〕    たけだのごろうのぶみつ 〔くろいとをどし よろい〕
 小笠原次郎長C〔小櫻威の甲〕  武田五郎信光〔黒糸威の甲〕

  いずのさえもんのじょうよりさだ 〔もえぎをどし よろい〕    おきのせもんのじょうもとゆき 〔くれない よろい〕
 伊豆左衛門尉頼定〔萌黄威の甲〕 隱岐左衛門尉基行〔紅の甲〕

  おおすがのたろうみちのぶ 〔ふじをどし よろい〕       しきぶのたいふやすとき 〔こざくら よろい〕
 大須賀太郎道信〔藤威の甲〕   式部大夫泰時〔小櫻の甲〕

  あきたのじょうのすけかげもり 〔くろいとをどし よろい〕    みうらのこたろうともむら 〔もえぎ  よろい〕
 秋田城介景盛〔黒糸威の甲〕   三浦小太郎朝村〔萌黄の甲〕

  かわごえのじろうしげとき 〔くれない よろい〕          おぎののじろうかげかず 〔ふじをどし よろい〕
 河越次郎重時〔紅の甲〕     荻野次郎景員〔藤威の甲〕

           おのおのかぶともちひとり  はりかえもちひとり みち かたわら まえ  い    ただ  かげもり はりかえ もたせしめず
      各 冑持一人。張替持一人。路の傍を前へ行く。但し景盛は張替を持令不。

    つぎ  ぞうしきにじうにん 〔みな ひれ 〕
  次に雜色廿人〔皆平礼〕

    つぎ    けびいし
  次に檢非違使

  たいふほうがんかげかど
 大夫判官景廉

    〔そくたい  へいじんまきのたち   とねりひとり   ろうとうよにん   ちょうどがけ   ことねりわらわおのおのひとり  かどのおさふたり   かちょうふたり  ぞうしきろくにん  ほうめんごにん 〕
 〔束帶 平塵蒔太刀 舎人一人 郎等四人 調度懸 小舎人童各一人 看督長@二人 火長A二人 雜色六人 放免B五人〕

参考@看督長は、検非違使の属官として、牢獄の管理や犯人の追捕(ついぶ)などに当たった者。
参考A
火長は、検非違使の下級職員。府生(ふしよう)の下。
参考B放免は、検非違使庁に使われていた下部(しもべ)。刑期を終えた囚人や徒刑・流刑を許された者で、犯罪人の探索・護送などに当たった。

    つぎ  ごちょうどがけ
  次に御調度懸

  ささきのごろうさえもんのじょうよしきよ
 佐々木五郎左衛門尉義C

    つぎ  げろう ごずいじん
  次に下臈御随身

  はたのきんうじ                          どうかねむら
 秦公氏             同兼村

  はりまのさだふみ                        なかとみのちかとう
 播磨貞文            中臣近任

  しもつけぬのあつみつ                     どうあつうじ
 下毛野敦光           同敦氏

     つぎ   くげ
  次に公卿

  しんだいなごんただのぶ 〔さきがけごにん〕         さえもんのかみさねうじ 〔こずいしんよにん〕
 新大納言忠信〔前駈五人〕    左衛門督實氏〔子随身四人〕

  さいしょうちうじょうくにみち 〔こずいしんよにん〕       はちじょうさんみみつもり
 宰相中將國道〔子随身四人〕   八條三位光盛

  ぎょうぶきょうさんみむねなが 〔おのおのじょうしゃ〕
 刑部卿三位宗長〔各乘車〕

    つぎ
  次

  さえもんたいふみつかず                    おきのかみゆきむら
 左衛門大夫光員         隱岐守行村

  みんぶたいふひろつな                     いきのかみきよしげ
 民部大夫廣綱          壹岐守C重

  せきのさえもんのじょうまさつな                 ふせさえもんのじょうやすさだ
 關左衛門尉政綱         布施左衛門尉康定

  おのでらのさえもんのじょうひでみち              いがのさえもんのじょうみつすえ
 小野寺左衛門尉秀通       伊賀左衛門尉光季

  あまののさえもんのじょうまさかげ                むとうさえもんのじょうよりもち
 天野左衛門尉政景        武藤左衛門尉頼茂

  いとうのさえもんのじょうすけとき                あだちのさえもんのじょうもとはる
 伊東左衛門尉祐時        足立左衛門尉元春

  いちかわのさえもんのじょうすけみつ             うさみのさえもんのじょうすけなが
 市河左衛門尉祐光        宇佐美左衛門尉祐長

  ごとうさえもんのじょうもとつな                  そうさえもんのじょうたかちか
 後藤左衛門尉基綱        宗左衛門尉孝親

  ちうじょうさえもんのじょういえなが               さぬきのさえもんのじょうひろつな
 中條左衛門尉家長        佐貫左衛門尉廣綱

  だてのうえもんのじょうためいえ                 えのうえもんのじょうのりちか
 伊達右衛門尉爲家@        江右衛門尉範親
参考@
伊達右衛門尉爲家は、父伊佐朝宗(伊達初代)が奥州合戦後伊達郡をもらい共に伊達郡へ移住し、伊達を名乗る。
   朝宗     宗村から後の政宗へつながる。なお、為村は常陸に残り伊佐氏を継ぐ。
┌─┬┴┬─┐
為 宗 資 為
宗 村 綱 家

  きのうえもんのじょうさねひら                  げんしろううえもんのじょうすえうじ
 紀右衛門尉實平         源四郎右衛門尉季氏

  しおやのひょうえのじょうともなり                くないひょうえのじょうきんうじ
 塩谷兵衛尉朝業         宮内兵衛尉公氏

  わかさのひょうえのじょうただすえ               つなしまひょうえのじょうとしひさ
 若狹兵衛尉忠季         綱嶋兵衛尉俊久

  とうのひょうえのじょうしげたね                 つちやのひょうえのじょうむねなが
 東兵衛尉重胤          土屋兵衛尉宗長

  さかいのひょうえのじょうつねひで               かのうのしちろうみつひろ 〔うまのじょう  にん       じしょのち  おな     とうちゃく    うんぬん〕
 境兵衛尉常秀          狩野七郎光廣〔右馬允に任ずるの除書後に同じく到着すと云々。〕

     ろじ   ずいへいいっせんきなり
  路次の随兵一千騎也

ぐうじ   ろうもん  い   せし  たま  のとき  うけいちょう  にはか  しんしん  ごいれい  ことあ
宮寺の樓門に入ら令め御う之時、右京兆、俄に心神に御違例の事有り。

ぎょけんをなかあきらあそん  ゆず   たいきょ  たま   じんぐうじ   をい    ごげだつののち   こまち  おんてい  かえ  せし  たま
御劔於仲章朝臣に讓り、退去し給ふ。神宮寺に於て、御解脱之後、小町の御亭へ歸ら令め給ふ。
参考愚管抄では、義時ハ太刀ヲ持テカタハラニ有ケルヲサヘ、中門ニトドマレトテ留メテケリ。と有ります。

やいん   およ   しんぱい  ことおわ  ようや たいしゅつせし たま のところ  とうぐうべっとう あじゃりくぎょう せきかいのきわに きた   うかが
夜陰に及び、神拝の事終り、漸く退出令め御ふ之處、當宮別當阿闍梨公曉石階之際于來るを窺ひ、

つるぎ と  じょうそう  おか たてまつ
劔を取り丞相を侵し奉る。参考愚管抄では、一ノ刀ノ時、「ヲヤノ敵ハカクウツゾ」ト云ケル、公卿ドモアザヤカニ皆聞ケリ。と有ります。

 そ  ご   ずいへら ぐうちゅうに は  が    いへど    〔たけだのごろうのぶみつせんと すす 〕 あだてき  み   ところな
其の後、隨兵等宮中于馳せ駕すと雖も、〔武田五郎信光先登に進む〕讎敵を覓る所無し。

あるひと  い       うえみやのみぎり をい   べっとうあじゃりくぎょう  ちち かたき う    のよし   なのらる    うんぬん
或人の云はく、上宮之砌に於て、別當阿闍梨公曉父の敵を討つ之由、名謁被ると云々。

これ  つ   おのおの くだん ゆきのしたぼうにおそ いた    か  もんていあくそうら   そ  うちにこも      あいたたか のところ
之に就き、各、件の雪下本坊于襲い到り、彼の門弟悪僧等、其の内于籠り、相戰う之處、

ながおのしんろくさだかげとしそくたろうかげもち  おな   じろうたねかげら  せんと  あらそ   うんぬん
長尾新六定景与子息太郎景茂、同じき次郎胤景等先登を諍うと云々。

ゆうしのせんじょう  おもむ のほう  ひともつ  びだん  な
勇士之戰塲に赴く之法、人以て美談と爲す。

つい  あくそうはいぼく    じゃり こ ところ   おは  たま  ず  ぐんぴょうむな   たいさん    しょにんぼうぜんのほか たな    
遂に悪僧敗北す。闍梨此の所に坐し給は不。軍兵空しく退散す。諸人惘然之外他無し。

ここ   あじゃり か  おんくび  も     こうけんびっちゅうあじゃりのゆきのしたきただににむかはれ  ぜん すす   かん  なお とを おんくび   はなさざる うんぬん
爰に阿闍梨彼の御首を持ち、後見備中阿闍梨之雪下北谷宅于向被、膳を羞める間、猶手於御首から放不と云々。

ししゃいやげんたひょうえのじょう 〔じゃり  めのとご 〕  を よしむら つか され  いましょうぐんのけつあ    われもっぱ とうかんのおさ あた なり
使者弥源太兵衛尉〔闍梨の乳母子〕於義村に遣は被、今將軍之闕有り。吾專ら東關之長に當る也。

はや けいぎ  めぐ    べ   のよし しめ  あ   さる    これ よしむらそくなんこまわかまる もんてい れつ     よつ    そ  よしみ  たのまる のゆえか
早く計議を廻らす可し之由示し合は被る。是、義村息男駒若丸、門弟に列するに依て、其の好を恃被る之故歟。

よしむら こ  こと  き     せんくん おんげ  わすれずのかん  らくるいすうぎょう さら げんご およばず   しばらく      ま  ほうおくに こうりんあ  べ
義村此の事を聞き、先君の恩化を忘不之間、落涙數行。更に言語に不及。少選して、先ず蓬屋于光臨有る可し。

かつう おんむか   へいし  けん  べ   のよしこれ  もう    ししゃたいしゅつののち  よしむらししゃ  はつ  くだん おもむきをうけいちょう  つ
且は御迎への兵士を獻ず可し之由之を申す。使者退去之後、義村使者を發し、件の趣於右京兆に告ぐ。

けいちょう そう な     あじゃり   ちう たてまつ べ   のよし   げち  たま  のかん  いちぞくら  まね  あつ ひょうじょう こ
々々左右無く、阿闍梨を誅し奉る可し之由、下知し給ふ之間、一族等を招き聚め評定を凝らす。

 あじゃりは   はなは ぶゆう  た     じきなるひと あらず たやす これ はか べからず 
阿闍梨者、太だ武勇に足り、直也人に非。輙く之を謀る不可。

すこぶ なんぎのたるのよし おのおの あいぎ のところ  よしむらゆうかんのうつわ えら  せし  ながおのしんろくさだかげを うって  さ
頗る難儀爲之由、各 相議す之處、義村勇敢之器を撰ば令め、長尾新六定景於討手に差す。

さだかげつい  〔ゆきのしたかっせんご よしむらたく  むか〕 じたい  あたはず
定景遂に〔雪下合戰後、義村宅へ向う〕辞退に不能。

 ざ  た  くろかわをどし よろい き     さいがのじろう 〔さいごくじゅうにん  ごうりき  ものなり〕  いか ろうじゅうごにん  あいぐ   あじゃり  ざいしょ
座を起ち黒皮威の甲を着て、雜賀次郎〔西國住人、強力の者也〕以下郎從五人を相具し、阿闍梨の在所、

びっちゅうあじゃりたく に おもむ のとき   あじゃりは  よしむら  つか  ちいんのかん  つるがおかこうめんのみね のぼ   よしむらたくに いた      ぎ
備中阿闍梨宅于赴く之刻、阿闍梨者、義村の使い遲引之間、鶴岳 後面之峯に登り、義村宅于至らんと擬す。

よつ  さだかげと とちゅう  あいあ
仍て定景與途中に相逢う。

さいがのじろうたちま  あじゃり   いだ   たがい  しゆう  あらそ のところ  さだかげ たち  と     じゃり  〔すぎぬころも  はらまき   き     としはたち  うんぬん 〕   くび  きょう
雜賀次郎忽ち阿闍梨を懷き、互に雌雄を諍う之處、定景太刀を取り、闍梨〔素絹衣に腹巻を着る。年廿と云々〕の首を梟す。

これ  きんごしょうぐん 〔よりいえ〕  おんそく  はは かものろくろうしげなが おんな 〔ためとも  そんじょなり 〕   こういんそうじょう じゅしつ ていぎょうそうづずほう  でし なり
是、金吾將軍〔頼家〕の御息。母は賀茂六郎重長が女〔爲朝の孫女也〕。公胤僧正に入室。貞曉僧都受法の弟子也。

さだかげ か くび  も   かえ をはんぬ すなは よしむら けいちょう おんてい も まい    ていしゅ でい    そ   くび  みらる    あんどうのじろうただいえししょく  と
定景彼の首を持ち皈り畢。即ち義村、京兆の御亭に持ち參る。々主出居にて其の首を見被る。安東次郎忠家脂燭を取る。

 りぶ おお られ   い      まさ  いま   あじゃりのつら  みたてまつら  なおぎたいあ   うんぬん
李部仰せ被て云はく。正に未だ阿闍梨之面を見奉ず。猶疑貽有りと云々。

そもそも きょう  しょうじ  かね  へんい  しめ ことひとつならず いはゆる  ごしゅったつのご  およ  さきのだいぜんだいぶにゅうどう さんしん もう    い
抑、今日の勝事、兼て變異を示す事 一非。 所謂、御出立之期に及び、前大膳大夫入道 參進し申して云はく。

かくあ せいじんののち  いま なみだのうか がんめん  し      しか   いま じっこんたてまつ のところ らくるいきん がた    これじきなること  あらず
覺阿成人之後、未だ涙之浮ぶ顏面を知らず。而るに今、昵近奉る之處、落涙禁じ難し、是直也事に非。

さだ    しさい あ  べ   か
定めて子細有る可き歟。

とうだいじくよう の ひ    うだいしょうぐんぎょしゅつのれい  まか    おんそくたいのした   はらまき  つ  せし  たま  べ     うんぬん
東大寺供養之日の、右大將軍御出之例に任せ、御束帶之下に、腹巻を着け令め給ふ可きと云々。

なかあきらあそんもう   い       だいじんたいしょう のぼ  のひと  いま  そ  しきあ      うんぬん  よつ  これ  とど らる
仲章朝臣申して云はく、大臣大將に昇る之人、未だ其の式有らずと云々。仍て之を止め被る。

また  きんうじ ごびん  そうら のところ  ごびんよ  ひちすじぬ     きねん  これ  たま      しょう  つい  にわ  うめ  み     きんき   わか  えい  たま
又、公氏御鬢に候う之處、御鬢自り一筋抜き、記念に之を賜はると稱す。次で庭の梅を覽て、禁忌の和歌を詠じ給ふ。

    でていなば   ぬしなきやどと  なりぬとも   のきばのうめよ  はるをわするな
 出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ

つぎ みなみもん ぎょしゅつのとき れいきゅうしきり なきさえず  くるまよ  お   たま   のとき   ゆうけん  つ   おらる    うんぬん
次に南門を 御出之時、靈鳩 頻に鳴囀り、車自り下り給ふ之刻、雄劔を突き折被ると云々。」

また  こんやじゅう  あじゃり   ぐんとう  きゅだんすべ のむね   にいけ よ   おお  くださる
又、今夜中に阿闍梨の群黨を糺彈可し之旨、二位家自り仰せ下被る。

しなののくにじうにんなかののたろうすけよし しょうゆうあじゃりしょうえん いけど    うけいちょう  おんてい  ぐ  まい    これ  か   ずほう  し   な   なり  うんぬん
信濃國住人中野太郎助能、少輔阿闍梨勝圓を生虜り、右京兆の御亭へ具し參る。是、彼の受法の師を爲す也と云云。

現代語建保七年(1219)正月廿七日甲午。晴れましたが、夜になって雪が降り、二尺ばかり(60cm)積もりました。今日は将軍家の右大臣任命報告の拝賀のため鶴岡八幡宮へお参りします。お参りは酉の刻(午後6時)です。

行列
  先ず馬の世話人居飼四人〔二行で薄紅色の膝までの半袴の手もと
  次に
雑務の舎人四人〔二行で緑色の上下とも糊の利かない普段着
  次に役人〔二行で〕 四等官将曹菅野景盛と検非違使下役の府生狛盛光。近衛府の三等官の将監中原成能〔以上は束帶〕
  次に宮中へ上れる殿上人〔二行で〕
 一条侍従能氏と藤原兵衛佐頼経。伊予少将藤原実雅と右馬権頭頼茂さん。中宮権亮一条信能さん〔子供のお供四人〕と一条大夫頼氏。
 一条少将能継と前因幡守師憲さん。伊賀少将隆経さん臣と文章博士仲章さん。
  次に前駈、笠を持つ
  次に前駈〔二行で〕
 藤匂当頼隆と平匂当時盛。前駿河守季時と左近大夫朝親。相模権守経定と蔵人大夫以邦。右馬助行光と蔵人大夫邦忠。
 右衛門大夫長井時広と前伯耆守親時。前武蔵守足利義氏と相模守時房。蔵人大夫重綱と左馬権助範俊。
 右馬権助宗保と蔵人大夫有俊。前筑後守頼時と武蔵守源親広。修理権大夫大内惟義さんと右京権大夫義時さん。
  次に朝廷の役人の官人 泰兼峰   近衛府の下級役人の番長 下毛野敦秀
  〔それぞれ、白の狩衣で青い青の脛巾(はばき・スパッツ)狩用の矢を入れるやなぐいを背負う〕
  次に御車〔檳榔毛の車〕 車の付き添いが四人〔糊の利かない普段着白張〕 牛扱いの牧童一人
  次に武装兵〔二行で〕
 小笠原次郎長清〔小桜威しの鎧〕 と  武田五郎信光〔黒糸威しの鎧〕
 伊豆左衛門尉頼定〔萌黄威しの鎧〕と  隠岐左衛門尉基行〔紅威しの鎧〕
 大須賀太郎道信〔藤威しの鎧〕  と  式部大夫泰時〔小桜威しの鎧〕
 秋田城介景盛〔黒糸威しの鎧〕  と  三浦小太郎朝村〔萌黄威しの鎧〕
 河越次郎重時〔紅威しの鎧〕   と  荻野次郎景員〔藤威しの鎧〕
     それぞれ兜持ち一人・弓弦の張替持ち一人が路の傍らに前を行く。但し景盛は弓弦の張替持ち無し。
  次に雑用二十人〔皆糊の利かない普段着
  次に検非違使
 大夫判官加藤次景廉 
〔束帶で、平塵の蒔絵の太刀・身の回りの世話人一人・家来の侍四人・弓を持つ人・身の回りの世話をする少年それぞれ一人 検非違使の属官二人 検非違使の下級役人二人 雑用六人 探索方の放免五人〕
  次に、将軍の弓と矢を入れるやなぐいを肩に書ける人 佐々木五郎左衛門尉義清
  次に身分の低いお供の人 秦公氏と同兼村。播磨貞文と中臣近任。下毛野敦光と同敦氏
  次に公卿
 新大納言坊門忠信〔前払いが五人付く〕  左衛門督西園寺実氏〔子随身四人〕
 宰相中将国道〔子随身四人〕       八條三位光盛
 刑部卿三位宗長〔それぞれ牛車に乗る〕
  次
 左衛門大夫加藤光員と隠岐二階堂行村   民部大夫阿曽沼広綱と壱岐守葛西清重   関左衛門尉政綱 と布施左衛門尉康定
 小野寺左衛門尉秀通と伊賀左衛門尉光季  天野左衛門尉政景 と武藤左衛門尉頼茂  伊東左衛門尉祐時と足立左衛門尉元春
 市河左衛門尉祐光 と宇佐美左衛門尉祐長 後藤左衛門尉基綱 と宗左衛門尉孝親   中条左衛門尉家長と佐貫左衛門尉広綱
 伊達右衛門尉為家 と大江右衛門尉範親  紀右衛門尉実平  と源四郎右衛門尉季氏 塩谷兵衛尉朝業 と宮内兵衛尉公氏
 若狭兵衛尉忠季  と綱島兵衛尉俊久   東兵衛尉重胤   と土屋兵衛尉宗長   境兵衛尉常秀  と狩野七郎光廣〔任右馬允に任命された辞令が後に同じく届いたそうです〕
  道の途中の警備兵は一千騎です

括弧書きは管理人注

路地の警護の軍隊は千騎(沢山の意味)です。八幡宮の楼門に入られる時に、右京兆義時は急に気分が悪くなる事があって、将軍の太刀を源仲章に渡して引き下がり、神宮寺の所で列から離れ、小町の屋敷に帰られました。将軍実朝様は夜遅くなって神様への参拝の儀式が終わって、やっと引き下がられたところ、八幡宮別当(代表)の公暁が、石階の脇にそっと来て、剣をとって実朝様を殺害しました。

その後、警護の武士達が八幡宮社殿の中へ走りあがり、〔武田信光が先頭に進みました〕下手人を探しましたが見つかりませんでした。ある人が云うには、上の宮のはしで公暁は「父のかたきを討った。」と名乗っていたとの事です。これを聞いて、武士達はそれぞれ八幡宮の雪ノ下にある御坊(八幡宮西脇の奥)へ攻めかかって行きました。公暁の門弟の僧兵達が中に閉じこもって戦っていましたが、長尾新六定景、その息子の太郎景茂と次郎胤景とが先頭を競い合いましたとの事です。勇士が戦場へ向かう心得は、こうあるべきだと人は美談にしました。(長尾は石橋山合戦で敵対したため、囚人として三浦に預けられ、被官化している。)ついに僧兵達は負けてしまいました。公暁がここにいなかったので、軍隊はむなしく退散し、皆呆然とするしかなかったのです。

一方公暁は、将軍実朝様の首をもって、後見者の備中阿闍梨の雪ノ下の北谷の屋敷へ向かいました。ご飯を進められましたが首を離さなかったとの事です。使いの者の弥源大兵衛尉〈公暁の乳母の子〉を三浦義村の所へ行かせました。「今は将軍の席が空いている。私が関東の長(将軍)に該当するべき順なので、早く方策を考えまとめるように指示しました。これは義村の息子の駒若丸が公暁の門弟になっているから、その縁で頼まれたからなのか。義村はこの事を聞いて、将軍実朝様からの恩義を忘れていないので涙を落としました。しかも言葉を発することもありませんでした。

しばらくして、「私の屋敷に来てください。それに迎えの軍隊を行かせます。」と伝えるよう云いました。使いの者が立ち去った後に、義時の下へ使いを出しましたとの事です。義時からは、躊躇せずに公暁を殺してしまうように命令されましたので、義村は一族を集めて会議をしました。公暁はとても武勇にたけた人なので、たやすくはいかないので、さぞかし大変な事だろうと皆が議論していたところ、義村は長尾定景をさして勇敢な器量を持っていると討手に選びました。

長尾新六定景〔八幡宮での合戦の後、義村の宅に向かって来ていました。〕は辞退することが出来ず、座を立って黒皮威しの鎧を着て、雑賀次郎〔関西の人で力持ちの人です。〕と部下を五人連れて、公暁がいる備中阿闍梨の宅へ出かけた時、公暁は、三浦義村の使者が遅れて(いるらしくちっとも)来ないので(待ちきれずに)、八幡宮の裏山の峰へ登り、義村の屋敷へ行こうと考え(行動に移し)ました。そしたら、途中で長尾新六定景と出会い、一緒に居た雑賀次郎は(迎えにきたふりをして公暁に近寄り)即座に公暁に組み付いていきました。互いに(相手をねじ伏せようと)争っている処を、長尾定景が太刀を取って(後ろからバッサリと一刀のもとに)公暁の首を刎ねました。〔公暁は白い絹の着物に簡易な鎧の腹巻を着けていました。年齢は二十歳なんだとさ〕
この人は、前の將軍頼家の息子で、母〔爲朝の孫娘です〕は賀(
蒲)生六郎重長の娘です。公胤僧正(千葉常胤の子)に受戒を受けて出家して、貞暁僧都(前の八幡宮別当)から仏教を習った弟子です。

長尾新六定景はその首を持ち帰りました。直ぐに義村は北條義時の屋敷へ持って行きました。北條義時は玄関の間に出てきてその首を見られました。安東次郎忠家が明かりを取って差し掛けました。北條泰時(李部は式部省の唐名=泰時)がおっしゃられました。「正に未だ公暁の顔を拝顔していないので、なお疑いがある。」との事でした。

そもそも、今日の勝事(不吉な事を忌言葉{縁起が悪い言葉}を嫌いこう云う。「梨」を「有の実」とか「するめ」を「当たり目」と云ったり)は前々から現れていた異常な事が一つではないのです。将軍実朝様は出発の時間になって、大江広元が前へ来て云いました。「私は成人してからこの方、未だに涙を顔に浮かべた事が有りません。それなのに今、お側に居ましたら涙が流れて仕方がないのです。これは只事では有りません。何か在るのかもしれません。頼朝様が東大寺の大仏殿完成式に出た日の例に合わせて、束帯(衣冠束帯と云って公式の礼服)の下に腹巻(簡易な鎧)を着けて行かれるのが良いでしょう。」との事でした。源仲章が申し上げました。大臣大將の位まで昇った人で、未だかつてそんな式に出た人はありませんとの事でした。それでこれは取り止めとなりました。

又、宮内公氏が将軍実朝様の髪を梳かしていたら、自ら髪の毛を一本抜いて、「記念だ。」と云ってこれを渡しました。次に庭の梅を見て縁起のよくない和歌を歌われました。「出ていなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな」(出て行ってしまったら主人のいない家になってしまうけど、梅よ春になったら忘れずに咲くのですよ。)次に、南門を出られる時は源氏の守り神である鳩が盛んにさえずっていたし、車から降りる時には刀を引っ掛けて折ってしまいましたとの事です。

又、今夜のうちに公暁の仲間を糾弾するように、二位家(政子)から命令が出ました。信濃國の住人で中野太郎助能は少輔阿闍梨勝円を捕虜にして北条四郎義時の屋敷に連れて来ました。是は公暁の受法の師匠だからとの事です。

建保七年(1219)正月大廿八日(乙未)。今曉加藤判官次郎爲使節上洛。是依被申將軍家薨逝之由也。行程被定五箇日云云。辰剋。御臺所令落餝御。莊嚴房律師行勇爲御戒師。又武藏守親廣。左衛門大夫時廣。前駿河守季時。秋田城介景盛。隱岐守行村。大夫尉景廉以下御家人百餘輩不堪薨御之哀傷。遂出家也。戌剋。將軍家奉葬于勝長壽院之傍。去夜不知御首在所。五體不具。依可有其憚。以昨日所給公氏之御鬢。用御頭。奉入棺云云。

読下し                        こんぎょう かとうほうがんじろう しせつ  な   じょうらく    これ  しょうぐんけこうきょの よしもうされ    よっ  なり
建保七年(1219)正月大廿八日乙未。今曉、加藤判官次郎使節と爲し上洛す。是、將軍家薨逝之由申被るに依て也。

こうていいつかにち  さだ  られ    うんぬん  たつのこく みだいどころ らくしょくせし たま    しょうごんぼうりっしぎょうゆう ごかいし  な
行程五箇日と定め被ると云云。 辰剋、 御臺所 落餝令め御う。莊嚴房律師行勇御戒師を爲す。

また むさしのかみちかひろ さえもんたいふときひろ  さきのするがのかみすえとき あいだのじょうすけかげもり おきのかみゆきむら  たいふのじょうかげかど いげ  ごけにん
又、武藏守親廣、左衛門大夫時廣、 前駿河守季時、 秋田城介景盛、 隱岐守行村、 大夫尉景廉 以下の御家人

ひゃくよやから こうごのあいしょう  たえず  しゅっけ  と   なり  いぬのこく しょうぐんけ しょうちょうじゅいんの かたわらに ほうむ たてまつ
 百餘輩 薨御之哀傷に堪不、出家を遂ぐ也。戌剋、將軍家、勝長壽院之 傍于 葬り奉る。

さぬ  よ   おんくび  ざいしょ  しれず   ごたいふぐ   そ  はばか あ   べ     よっ
去る夜、御首の在所を知不@、五體不具。其の憚り有る可しに依て、

さくじつきぬじ  たま    ところのおぐし  もっ    おかしら  もち    かん  い  たてまつ  うんぬん
昨日公氏に給はる所之御鬢を以て、御頭に用い、棺に入れ奉ると云云。

参考@御首の在所を知不は、鎌倉市から約30キロメートル離た秦野市の郊外に「御首塚」(みしるしづか)があります。記録によると,三浦義村の家臣「武常晴」(たけつねはる)がここに実朝さんの首を葬ったと伝えられています.三浦義村は実朝を討った公曉(くぎょう)をそそのかした張本人と言われている人で、実朝暗殺と北条氏打倒の企てがばれたために実朝の首を持ってきた公曉を殺したと言われています。処分に困った「実朝公の首」は家臣である武常晴に渡されました。そして、三浦氏と仲の良かった波多野氏に頼み、波多野氏の領地内に墓所を作ったと考えられています。その後、武常晴が御首塚の近くに金剛寺というお寺を作ったと伝えられています.しばらくして御首塚は荒れてしまいましたが,700年たった1919年に近隣の人や秦野市民の手によってきれいに復興しました。実朝さんも安らかに眠っていることでしょう。と玉川学園のHPにあります。
しかし、今迄何故あんな畑のど真ん中に首塚を造ったのか疑問であった。その後の発掘調査で首塚のすぐ南にかなり有力な豪族の屋敷跡が明らかになった。屋敷地の確定で、波多野氏か三浦の一族乃至家来の武氏、又は同家来の大津氏の屋敷であったであろうから、大倉幕府の北側に頼朝墓があるように、屋敷の北側に実朝の首を奉ったものであろう。同地は東西南側が一段低く空堀であったようなので、屋敷地として相応しい地形であると思う。なお「金剛寺」には「大津性」の墓が多く、同東田原の円通寺には「武性」の墓が多かった。

現代語建保七年(1219)正月二十八日乙未。今朝、加藤判官次郎景廉が使節として京都へ向かいました。これは將軍家が薨去した事を朝廷へ申し上げるためです。行程は五ケ日で行くようにと決めましたとの事です。辰尅(午前八時頃)御台所(坊門姫)は髪を落とされました。荘厳房律師行勇(退耕行勇・栄西の弟子)が戒師をしました。又、武蔵守源親広、左衛門大夫長井時広、前駿河守中原季時、秋田城介景盛、隱岐守二階堂行村、大夫尉加藤景廉以下の御家人達百人以上が堪らず将軍実朝様の亡くなった心の傷のため出家をしました。戌尅(午後八時頃)將軍家は勝長壽院の傍に葬られました。昨夜、首が見つからず五体がそろっていないと困った事なので(仏教上成仏出来ない)、昨日宮内公氏に与えられた髪の毛を頭の変わりに入棺しましたとの事です。

建保七年(1219)正月大廿九日丙申。候于鶴岡別當坊之悪僧等被糺彈之。宿老供僧弁法橋定豪。安樂坊法橋重慶。頓覺坊良喜。花光坊尊念。南禪房良智等。御祈祷無退轉之由。被聞食之間。不及子細歟。

読下し                     つるがおかべっとうぼうにこう    のあくそうら これ きゅうだんされ
建保七年(1219)正月大廿九日丙申。鶴岡別當坊于候ずる之悪僧等之を糺彈被る。

すくろう  ぐそう べんぽうほっきょうていごう あんらくぼうほっきょうちょうけい  とんかくぼうりょうき  かこうぼうそんねん  なんぜんぼうりょうち ら
宿老の供僧 弁法橋定豪、 安樂坊法橋重慶、 頓覺坊良喜、花光坊尊念、 南禪房良智等、

むたいてん  ごきとう の よし  き     め され  のあいだ  しさい  およばざるか
無退轉に御祈祷之由、聞こし食被る之間、子細に不及歟。

現代語建保七年(1219)正月大二十九日丙申。鶴岡八幡宮長官に味方している坊主どもを調べました。年配の坊さんの弁法橋定豪・安楽坊法橋重慶・頓覚坊良喜・花光坊専念・南禅坊良智などは、席を離れず祈祷をしていると聞いたので、問題にしませんでした。

建保七年(1219)正月大卅日丁酉。鶴岳供僧和泉阿闍梨重賀被管之由。雖有其聞。不奉与別當悪行之由。依聞食披。可安堵本坊之旨。右京兆被下御書云々。被召勝圓阿闍梨。被尋問犯否之處。勝圓申云。別當供僧爲各別。所致御祈祷也。別當罪科不可混之。但禪師師範三位僧都貞(定)曉入滅之後。無受法御師之間。依二位家御定。眞言少々雖奉授。踈學而無御傳受。然間。就修學道。猶以不奉親近。况以如此陰謀。可被仰合乎。可足賢察云々。陳謝非無其謂之間。令安堵本職云々。又禪師後見備中阿闍梨之雪下屋地并武州所領等。被収公之云々。

読下し                   つるがおかぐそう いずみあじゃりちょうが ひかんのよし  そ   きこ  あ    いへど
建保七年(1219)正月大卅日丁酉。鶴岳供僧和泉阿闍梨重賀被管之由、其の聞へ有ると雖も、

べっとう  あくぎょう  よ たてまつらずのよし  き     め され    よっ    ほんぼう  あんどすべ  のむね  うけいちょうおんしょ  くだされ    うんぬん
別當の悪行に与せ奉不之由、聞こし食披るに依て、本坊を安堵可し之旨、右京兆御書を下被ると云々。

しょうえんあじゃり   めされ   はんぴ  たず  とはれ  のところ  しょうえんもう    い
勝圓阿闍梨を召被、犯否を尋ね問被る之處、勝圓申して云はく。

べっとう  ぐそう おのおの べつ  な    ごきとう いた ところなり  べっとう  ざいか これ  まじ  べからず
別當、供僧 各 別と爲し、御祈祷致す所也。別當の罪科之に混る不可。

ただ  ぜんじ  しはん  さんみそうづていぎょう にゅうめつののち  ずほう  おんし な  のあいだ
但し禪師が師範の三位僧都定曉 入滅之後、受法の御師無き之間、

 にいけ   おんさだ    よっ    しんごん しょうしょう  さず たてまつ いへど   がくうと  て ごでんじゅ な
二位家の御定めに依て、眞言を少々 授け奉ると雖も、學踈く而御傳受無し。

しか あいだ  がくどう  おさ      つ     なおもっ  しんきんたてまつらず いはんや かく  ごと  いんぼう  もっ    おお  あわ  られ  べ  をや
然る間、學道を修むるに就き、猶以て 親近 奉不。 况や 此の如き陰謀を以て、仰せ合せ被る可き乎。

けんさつ  た   べ    うんぬん
賢察に足る可きと云々。

ちんしゃ そ  いわ  な    あらざ のあいだ  ほんしき  あんどせし    うんぬん
陳謝其の謂れ無きに非る之間、本職を安堵令むと云々。

また  ぜんじ  こうけん びちゅうあじゃりの ゆきのした  やち なら    ぶしゅう しょりょうら   これ しゅうこうされ    うんぬん
又、禪師の後見備中阿闍梨之雪下の屋地并びに武州の所領等、之を収公被ると云々。

現代語建保七年(1219)正月大三十日丁酉。鶴岡八幡宮の坊さんの和泉阿闍梨重賀は、公暁の子分だとの噂があるものの、長官の悪だくみには入っていなかったと聞いたので、今まで通り彼の居室に居て良いと、義時さんは文書を上げましたとさ。勝円阿闍梨を呼んで、犯行に加担しなかったかどうか聞いたところ、勝円が云うには「長官も供の坊主もそれぞれ別々に祈祷していました。長官の犯罪に加担はしていません。但し、公暁の先生の三位僧都貞暁が死んでからは、仏法を教える先生が居ないので、二位家政子様に命じられ、真言を多少教えていましたが、勉強が出来なくて教えても無駄でした。そういうわけで、勉強を教える以外は近づいていません。ましてや、そんな陰謀に加担するわけがありません。どうか推し測ってみて下さい。」との事でした。弁解の内容通りその懸念はないので、元通りの職を認めましたとさ。又、公暁の後見の備中阿闍梨の雪ノ下の屋敷(公暁が飯を食っていった)と武州(大江)源親広の領地を没収しましたとさ。

二月へ

吾妻鏡入門第廿四巻

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