吾妻鏡入門第廿四巻

建保七年己卯(1219)閏二月小

建保七年(1219)閏二月小十二日戊寅。信濃前司行光使者參着。彼宮御下向事。今月一日達天聽。於仙洞有其沙汰。兩所中一所。必可令下向給。但非當時事之由。同四日被仰下。此上可歸參歟之由申之云々。

読み下し                     しなののぜんじみつゆき  ししゃさんちゃく
建保七年(1219)閏二月小十二日戊寅。信濃前司行光が使者參着す。

か   みや ごげこう   こと  こんげつついたち てんちょう たっ    せんとう  をい  そ   さた あ    りょうしょちう  いっしょ かなら  げこうせし  たま  べ
彼の宮御下向の事、今月 一日 天聽に達し、仙洞に於て其の沙汰有り。兩所中の一所、必ず下向令め給ふ可き。

ただ  とうじ   こと  あらざ  のよし  おな    よっかおお くだされ    かく     うえ  きさんすべ  か のよし  これ  もう    うんぬん
但し當時の事に非る之由、同じき四日仰せ下被る。此なる上は歸參可き歟之由、之を申すと云々。

参考信濃前司行光は、二階堂行光で「皇子将軍要求」に2月13日に上洛している。

現代語建保七年(1219)閏二月小十二日戊寅。信濃前司二階堂行光の使いが到着して、「新しく将軍として頼んでいる宮が鎌倉へ来てほしい事は、後鳥羽上皇のお耳に入り、院の庁で決定しました。お二方のうち一人は、必ず鎌倉へ下ること。但し、今すぐではないと、四日に仰せになられました。そう云うことなので、鎌倉へ帰りましょうか?」と伝えました。

建保七年(1219)閏二月小十四日庚辰。行光使者皈洛。彼御下向事。猶以可爲近々之由。可伺奏聞之趣被仰遣云々。

読み下し                     ゆきみつ  ししゃ きらく
建保七年(1219)閏二月小十四日庚辰。行光が使者皈洛す。

 か   ごげこう   こと   なおもっ  ちかぢかたるべ   のよし  そうもん  うかが べ のおもむき  おお  つか  され    うんぬん
彼の御下向の事、猶以て近々爲可き之由、奏聞を伺う可き之趣、仰せ遣は被ると云々。

現代語建保七年(1219)閏二月小十四日庚辰。二階堂行光の使いは京都へ帰りました。親王の鎌倉へ下ることについては、なるべく早くしてくれと、上皇に上申するように、仰せを伝えさせましたとさ。

建保七年(1219)閏二月小廿八日甲午。光季飛脚參着。去廿日戌尅。頭中將侍与大番武士等。起鬪乱。同廿二日入夜。彼勇士等擬襲夕郎亭之由。風聞之間。光季馳向。依加禁制靜謐。而自使廳被召張本之由申之。

読み下し                     みつすえ ひきゃくさんちゃく
建保七年(1219)閏二月小廿八日甲午。光季が飛脚參着す。

さんぬ はつか いぬのこく とうのちうじょう あおざむらい と おおばん ぶし ら   とうらん  おこ
去る廿日 戌尅、 頭中將@が侍 与 大番の武士等、鬪乱を起す。

おな   にじうににち よ  い     か   ゆうしら せきろう  てい  おそ      ぎ   のよし  ふうぶんのあいだ  みつすえは  むか    きんぜい  くは      よっ  せいひつ
同じき廿二日夜に入り、彼の勇士等夕郎Aの亭を襲はんと擬す之由、風聞之間、光季馳せ向い、禁制を加へるに依て靜謐す。

しか    しちょうよ  ちょうほん  めされるのよし  これ  もう
而して使廳自り張本を召被之由、之を申す。

参考@頭中將は、一条信能で一条能保の男。頭は蔵人頭。現在鎌倉に来ている。
参考A
夕郎は、蔵人の唐名で信能。

現代語建保七年(1219)閏二月小二十八日甲午。伊賀光季の伝令が着きました。「先日の20日午後8時頃一条信能の家来の侍と京都警護の大番役に行っている武士とが、喧嘩乱闘を起こしました。そして22日の夜になって、喧嘩の武士たちが一条信能の屋敷を襲撃しようと噂があったので、伊賀光季が走って行って、止めたので静まりました。しかし、検非違使の庁に喧嘩の張本人は呼ばれました。」と報告しました。

建保七年(1219)閏二月小廿九日乙未。一條中納言信能朝臣參二品御亭。申云。依不忘右府御旧好。于今祗候之處。叡慮頗不快。剩去十九日可解官之由。及御沙汰云々。然者可參洛歟云々。無左右不可被皈洛之由。有二品御返答云々。

読み下し                     いちじょうちうなごんのぶよしあそん  にほん おんてい  まい    もう    い
建保七年(1219)閏二月小廿九日乙未。一條中納言信能朝臣、二品の御亭へ參り、申して云はく。

 うふ   ごきゅうこう  わす  られず よっ   いまに しこうのところ  えいりょすこぶ ふかい
右府の御旧好を忘れ不に依て、今于祗候之處、叡慮頗る不快。

あまつさ さんぬ じうくにち げかんすべ  のよし   ごさた   およ   うんぬん  しからずんば さんらくすべ  か  うんぬん
 剩へ 去る十九日解官可き之由、御沙汰に及ぶと云々。然者、 參洛可き歟と云々。

 そう な   きらくされ  べからざるのよし  にほん  ごへんとうあ   うんぬん
左右無く皈洛被る不可之由、二品の御返答有りと云々。

現代語建保七年(1219)閏二月小二十九日乙未。一条中納言信能さんが、二位家政子様の屋敷へ来て云うのには「右大臣実朝様との古い好を忘れられず、今未だ鎌倉に居るので、上皇は怒っています。その上、先日の19日には官職を解くとお決めになられたそうです。そういう訳なので京都へ戻るべきでしょうか?」との事です。「安易に京都へ帰ってはなりません。」と、二位家政子様の返事がありましたとさ。

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