建保七年己卯(1219)三月大
建保七年(1219)三月大一日丙申。永福寺別當三位僧都慶幸遷補鶴岳別當職。去月依宮寺騒動并駿河國兵起等觸穢。被閣神事之間。不及官務沙汰。又圓如房阿闍梨遍曜補永福寺別當職。 |
読下し
ようふくじ べっとう
さんみそうづけいこう つるがおかべっとうしき せんぽ
建保七年(1219)三月大一日丙申。永福寺別當三位僧都慶幸、鶴岳別當職に遷補す。
さんぬ つき
ぐうじ そうどうなら するがのくに へいきら よっ しょくえ しんじ さしおか され のあいだ かんむ さた
およばず
去る月の宮寺の騒動并びに駿河國の兵起等に依て觸穢。神事を閣か被る之間、官務の沙汰に不及。
また えんじょぼうあじゃりへんよう ようふくじべっとうしき
ぶ
又、圓如房阿闍梨遍曜、永福寺別當職に補す。
現代語建保七年(1219)三月大一日丙申。永福寺筆頭の三位僧都慶幸を、鶴岡八幡宮筆頭に異動任命です。先々月の鶴岡八幡宮での事件や駿河での反乱軍の蜂起などによって穢れてしまい、神事を控えていたので、幕府からのお祈りの命令も出来ませんでした。円如房阿闍梨遍曜をその空きの永福寺筆頭に任命しました。
建保七年(1219)三月大八日癸夘。内藏頭忠綱朝臣爲上皇御使下向。 |
読下し
くらのかみただつなあそん じょうこう おんし な げこう
建保七年(1219)三月大八日癸夘。内藏頭忠綱朝臣、上皇の御使と爲し下向す。
現代語建保七年(1219)三月大八日癸卯。内蔵頭藤原忠綱さんが、後鳥羽上皇の代理として来ました。
建保七年(1219)三月大九日甲辰。仙洞御使忠綱朝臣參禪定二品御亭〔右府御舊跡〕。右府薨御事。叡慮殊御歎息之由。依被仰下也。次謁申于右京兆。是攝津國長江倉橋兩庄地頭職可被改補事已下 院宣條々也。 |
読下し
せんとう おんしただつなそん ぜんじょうにほん
おんてい 〔 うふ ごきゅうせき〕 まい
建保七年(1219)三月大九日甲辰。仙洞の御使忠綱朝臣、禪定二品の御亭〔右府の御舊跡〕に參る。
うふ
こうご こと えいりょこと ごたんそく
のよし おお くだされ よっ なり つい
うけいちょうに えっ もう
右府が薨御の事、叡慮殊に御歎息之由、仰せ下被るに依て也。次で右京兆于謁し申す。
これ
せっつのくにながえ くらはし りょうしょう ぢとうしき かいぶされ べ こと
いげ いんぜい じょうじょうなり
是、攝津國長江、倉橋の兩庄@の地頭職を改補被る可き事已下の院宣の條々也。
参考@長江、倉橋の兩庄は、上皇の寵姫・伊賀局(もと江口の白拍子亀菊)が領家で地頭の横領を嫌った。長江庄・椋橋庄とも大阪府豊中市が有力候補。
現代語建保七年(1219)三月大九日甲辰。上皇の使いの藤原忠綱さんが、二位家政子様の屋敷に来ました。右大臣実朝様の死について、上皇は特に嘆き悲しんでおりますと、お伝えになりました。次に義時さんに合って伝えました。その内容は、摂津国長江庄と倉橋庄の地頭職を止めるように(地頭撤退)など、院からの命です。
建保七年(1219)三月大十一日丙午。今曉。御使忠綱朝臣歸洛。申刻。伊賀太郎左衛門尉光季飛脚參着。去月晦日江州有謀叛輩之由。風聞之間。自今月一日至同四日。雖搜求無其實。但有疑貽。一兩輩生虜。是刑部僧正長賢一族之由申之。 |
読下し
こんぎょう おんしただつなあそん きらく さるのこく いがのたろうさえもんのじょうみつすえ ひきゃくさんちゃく
建保七年(1219)三月大十一日丙午。今曉、御使忠綱朝臣歸洛す。申刻、伊賀太郎左衛門尉光季が飛脚參着す。
さんぬ
つきついたち こうしゅう むほん やからあ のよし
ふうぶんのあいだ こんげつついたちよ おな よっか いた
去る月晦日、江州に謀叛の輩有る之由、風聞之間、
今月一日 自り同じき四日に至り、
さが もと いへど そ じつな
搜し求めると雖も其の實無し。
ただ
ぎたいあ いちりょうやからいけど これ ぎょうぶそうじょうちょうけん いちぞくのよし これ
もう
但し疑貽有りて、一兩輩生虜る。是、刑部僧正長賢の一族之由、之を申す。
現代語建保七年(1219)三月大十一日丙午。今朝、藤原忠綱さんが京都へ帰りました。午後四時頃、伊賀太郎左衛門尉光季の伝令が到着しました。「先月一日、近江の国で謀反の連中が居ると噂があったので、今月1日から4日まで探し回りましたが、その事実はありませんでした。但し、疑いがあるので、一人二人捕まえました。これは、刑部僧正長賢(後鳥羽上皇の御持僧)の一族でした。」と云いました。
建保七年(1219)三月大十二日丁未。右京兆。相州。駿州。前大膳大夫入道參會于二品御亭。以忠綱朝臣被仰下條々。追可上啓之由被申御返事畢。急速無左右者。定背天氣歟之由。有評議云云。 |
読下し
うけいちょう そうしゅう
すんしゅう さきのだいぜんだいぶにゅうどう にほん おんていにさんかい
建保七年(1219)三月大十二日丁未。右京兆、相州、駿州、
前大膳大夫入道、 二品の御亭于參會す。
ただつなあそん もっ おお
くだされ じょうじょう おっ じょうけいすべ のよし ごへんじもうされをはんぬ
忠綱朝臣を以て仰せ下被るの條々、追て上啓可し之由、御返事申被畢。
きゅうそく
とこう な ば さだ てんき そむ か のよし ひょうぎあ うんぬん
急速の左右無くん者、定めし天氣に背く歟之由、評議有りと云云。
現代語建保七年(1219)三月大十二日丁未。右京兆北条義時、相州北条時房・駿州北条泰時・前大膳大夫入道大江広元が、二位家政子様の屋敷に集まりました。忠綱さんを通じて、上皇が仰せになってきた内容について、追って報告しましょうと、仰せになられました。急いで結論を出さないと、上皇の機嫌を損ねる事になるかもと、話し合いました。
建保七年(1219)三月大十五日庚戌。相州爲二位家御使上洛。扈從侍千騎云云。是今度以忠綱朝臣被仰下條々事勅答并將軍御下向事等也。 |
読下し
そうしゅう にいけ おんし な じょうらく こしょう
さむらい せんき うんぬん
建保七年(1219)三月大十五日庚戌。相州二位家の御使と爲し上洛す。扈從の侍
千騎と云云。
これ このたび
ただつなあそん もっ おお くだされ じょうじょう こと ちょくとうなら しょうぐんごげこう ことなどなり
是、今度
忠綱朝臣を以て仰せ下被る條々の事、勅答并びに將軍御下向の事等也。
現代語建保七年(1219)三月大十五日庚戌。相州北条時房さんが二位家政子様の代理として京都へ上ります。お供の侍は千騎だそうな。これは、今度の忠綱さんを通じて仰せになってきたことへの上皇への返事と新将軍の鎌倉へ下る事についてです。
建保七年(1219)三月大十七日壬子。日無光陰。頗如薄蝕。月又同之。去十三日以後。此變爲連日事云々。 |
読下し
ひひかりな かげ すこぶ うすしょく ごと
つきまたこれ おな
建保七年(1219)三月大十七日壬子。日光無く陰る。頗る薄蝕の如し。月又之に同じ。
さんぬ じうさんにち いご こ へんれんじつ
ことたり うんぬん
去る
十三日以後、此の變連日の事爲と云々。
現代語建保七年(1219)三月大十七日壬子。日の光が無くなって陰ってきました。まるで日食見たいです。月もまた同様です。先日の13日からこの異常が連日なんだったそうな。(黄砂カ)
建保七年(1219)三月大廿六日辛酉。駿州下着彼國給。是爲富士淺間宮以下神拝也。去正月廿二日。雖任守給。國郡忩劇連續之間。于今延引云々。 |
読下し
すんしゅうか くに げちゃく たま これ ふじ せんげんぐう
いげ しんぱい ためなり
建保七年(1219)三月大廿六日辛酉。駿州彼の國へ下着し給ふ。是、富士淺間宮以下を神拝の爲也。
さんぬ しょうがつにじうににち かみ にん
たま いへど こくぐん そうげき
れんぞくのあいだ いまに えんいん うんぬん
去る
正月廿二日、 守に任じ給ふと雖も、國郡 忩劇
連續之間、今于延引すと云々。
現代語建保七年(1219)三月大二十六日辛酉。駿州北条泰時が駿河の国へ着きました。これは富士浅間神社を始めとするお参りのためです。先日の正月22日に駿河守に任命されましたが、駿河国内や鎌倉郡で慌ただしい出来事が続いたので、今まで遅れていたのです。
建保七年(1219)三月大廿七日壬戌。巳刻。甚雨降雹。雷鳴。 |
読下し
みのこく
はなは あめひょうふ らいめい
建保七年(1219)三月大廿七日壬戌。巳刻、甚だ雨雹降る。雷鳴。
現代語建保七年(1219)三月大二十七日壬戌。午前10時頃、ものすごい雨と雹が降りました。雷も鳴りました。
建保七年(1219)三月大廿八日癸亥。信乃前司行光。自京都皈參。是相州上洛之間。所下向也。依病痾兩三日逗留路次云々。 |
読下し
しなののぜんじゆきみつ きょうとよ きさん これ そうしゅじょうらくのあいだ
げこう ところなり
建保七年(1219)三月大廿八日癸亥。信乃前司行光、京都自り皈參す。是、相州上洛之間、下向する所也。
びょうあ よっ
りょうみっか ろじ とうりゅう うんぬん
病痾に依て兩三日路次に逗留すと云々。
現代語建保七年(1219)三月大二十八日癸亥。信濃前司二階堂行光が、京都から帰って来ました。これは、相州時房が上洛したので帰ってきたのです。病気によって二三日、旅の途中で休みましたとさ。
四月五月六月欠落七月へ
参考4月2日「百錬抄」午刻、近衛町辺火事。出雲路東出河原に及ぶと雖も、禅定太閤鷹司室町亭・関白土御門亭已下公卿大夫の家多く以て焼亡す。法成寺堂舎五宇(薬師堂・講堂・東堂・経蔵)東面門・東塔・惣社・南大門・左右脇門・祗陀林圓勝寺塔三基・鐘楼・西面門、金剛勝院等焼亡す。天下の火災なり。
参考4月12日「百錬抄」改元の事有り。建保を改め承久と爲す。炎旱・火災に依ってなり。
参考6月18日「承久記」右大将公経卿の外孫、摂政殿下の三男、寅歳寅日寅時に生まれ給へば、童名を三寅と申す若君を、鎌倉に下奉る。諷諫には伊予中将実雅、後見に右京権大夫義時そぞ定め下されける。爭か二歳にてはとて、三と云名を付奉りて、十八日より二十日まで、年始元三の儀式を始め御遊あり。七社詣して鎌倉に坐す。
参考6月25日「愚管抄」二歳なる若公、正月寅月の寅の歳寅時うまれて、誠にもつねをさなき人にも似ぬ子の、占にも宿曜にもめでたく叶ひたりとて、武士どもむかへに上りて下し遣されにけり。
「皇帝記抄」今暁左大臣第四息の童関東に下向す。将軍たるべきの由申請するに依ってなり。
参考6月26日「承久記(古活字本)」去程に、関東より御迎に参輩、三浦太郎兵衛尉・同平九郎左衛門尉・大河津次郎・佐原二郎左衛門尉・同三郎左衛門尉・天野左衛門尉・子息大塚太郎・筑後太郎左衛門尉・結城七郎・長沼五郎・境兵衛太郎・千葉介、以上十二人ぞ参りける。先陣三浦太郎兵衛尉友村、後陣千葉介胤綱とぞ聞し。角て都をたたせ給ひて御下向あり。相模国国村に五日御逗留。七月十九日鎌倉へ下着あり。近く御迎に参る輩、島津左衛門尉・伊藤左衛門尉・小笠原六郎、是等を始として十人の随兵也。