吾妻鏡入門第廿四巻

承久元年己卯(1219)九月大

承久元年(1219)九月大六日戊戌。伊賀次郎左衛門尉光宗補政所執事。信濃前司行光依病痾危急。辞退替云云。

読下し                    いがのじろうさえもんのじょうみつむね  まんどころ  しつじ  ぶ
承久元年(1219)九月大六日戊戌。伊賀次郎左衛門尉光宗、政所の執事に補す。

しなののぜんじゆきみつ  びょうあ  ききゅう  よっ    じたい  かえ  うんぬん
信濃前司行光が病痾、危急に依て、辞退の替と云云。

現代語承久元年(1219)九月大六日戊戌。伊賀二郎左衛門尉光宗は、政務事務所の事務長に任命されました。信濃前司二階堂行光が病気で危険なので辞退したその替りです。

承久元年(1219)九月大八日庚子。霽。巳刻。前信濃守從五位下藤原朝臣行光法師〔法名〕卒〔年五十六〕。」午剋。伊豆國走湯山衆徒使到着。去六日巳尅。當山中堂講堂。如天火降。燒失云々。

読下し                   はれ  みのこく  さきのしなののかみ じゅごいげ ふじわらのあそんゆきみつほっし〔かいみょう〕 そっ     〔としごじうろく〕
承久元年(1219)九月大八日庚子。霽。巳刻、 前信濃守 從五位下 藤原朝臣行光法師〔法名〕卒す。〔年五十六〕」

うまのこく  いずのくにそうとうさんしゅうと  つか  とうちゃく   さんぬ むいか みのこく  とうさん  ちうどう  こうどう  てん  ひ   ふ     ごと    しょうしつ   うんぬん
午剋、 伊豆國走湯山衆徒の使い到着す。去る六日巳尅、當山の中堂、講堂、天の火が降るが如く、燒失すと云々。

現代語承久元年(1219)九月大八日庚子。晴れました。午前八時頃、前信濃守従五位下藤原二階堂行光が〔法名は?〕亡くなりました〔年は56歳です〕。」
昼頃に、伊豆国熱海の走湯神社の僧の使いが到着して、「先日の六日の午前十時頃に走湯山の中堂(本堂)と講堂に空から火が降ったかのように燃えてしまいました。」だとさ。

承久元年(1219)九月大廿二日壬寅。リ。自申一點。至戌四尅。鎌倉中燒亡。火起阿野四郎濱宅之北邊。南風甚利。上延永福寺惣門。下至濱庫倉前。東及名越山之際。西限若宮大路。右大將軍以來。未有此例云云。二品禪尼亭〔右府舊跡〕并若君居所纔免餘炎訖。

読下し                     はれ  さる  いってんよ     いぬ  よつとき  いた   かまくらちうしょうぼう
承久元年(1219)九月大廿二日壬寅。リ。申の一點自り、戌の四尅に至り、鎌倉中燒亡す。

ひ   あのうのしろう  はまたくのきたへん  おこ   みなみかぜはなは さと  かみ  ようふくじ そうもん  の     しも  はま   こそうまえ  いた
火は阿野四郎が濱宅之北邊に起り。南風 甚だ利し。上は永福寺惣門に延び、下は濱の庫倉前に至る。

ひがし なごえやまのきわ  およ    にし  わかみやおおじ かぎ    うだいしょうぐん いらい  いま  かく  れいあ       うんぬん
東は名越山之際に及び、西は若宮大路を限る。右大將軍以來、未だ此の例有らずと云云。

にほんぜんに  てい  〔うふ  きゅうせき〕  なら   わかぎみ  きょしょ わずか  よえん  まぬ   をはんぬ
二品禪尼が亭〔右府が舊跡〕并びに若君が居所、纔に餘炎を免かれ訖。

現代語承久元年(1219)九月大二十二日壬寅。晴れです。申の一点(15:00〜15:24)午後三時頃から戌の四刻(20:36〜21:00)午後八時半過ぎまで鎌倉で火事が燃えました。火は阿野四郎の材木座側の浜の家の北から始まり、南風がとても強くあおり、北は永福寺総門まで伸び、南は浜の倉庫前まで行きました。東は名越山の裾まで広がり、西は若宮大路まででした。頼朝様の時代からこれほどの火事は前例がなかったんだとさ。二位家政子様の屋敷〔旧右大臣実朝様の屋敷〕と若君の住居はわずかに炎を逃れました。

説明時刻の點は、2時間を5等分したのが点。申なら15時〜15:24を一点、15:24〜15:48を二点、15:48〜16:12を三点、16:12〜16:36を四点、16:36〜17:00を五点。

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