吾妻鏡入門第廿四巻

承久元年己卯(1219)十二月小

承久元年(1219)十二月小十七日己夘。二品禪尼不例之間。今日戌刻。修泰山府君祭。

読下し                       にほんぜんに ふれいのあいだ  きょういののこく  たいざんふくんさい  しゅう
承久元年(1219)十二月小十七日己夘。二品禪尼不例之間、今日戌刻、泰山府君祭を修す。

現代語承久元年(1219)十二月小十七日己卯。二位家政子様が病気なので、今日の午後八時頃に病平癒を願う泰山府君祭を祈りました。

説明泰山府君祭は、安倍晴明が創始した祭事で月ごと季節ごとに行う定期のものと、命に関わる出産、病気の安癒を願う臨時のものがあるという。「泰山府君」とは、中国の名山である五岳のひとつ東嶽泰山から名前をとった道教の神である。陰陽道では、冥府の神、人間の生死を司る神として崇拝されていた。延命長寿や消災、死んだ人間を生き帰らすこともできたという。

承久元年(1219)十二月小廿四日丙戌。霽。子尅。故右府將軍亭〔當時二品居所〕燒亡。失火云云。仍二品俄渡若公亭同宿云云。

読下し                       はれ  ねのこう   こうふしょうぐんてい  〔とうじ にほん  きょしょ〕  しょうぼう    しっか  うんぬん
承久元年(1219)十二月小廿四日丙戌。霽。子尅。故右府將軍亭〔當時二品の居所〕燒亡す。失火と云云。

よっ  にほんにはか  わかぎみ てい  wた  どうしゅく   うんぬん
仍て二品俄に若公の亭へ渡り同宿すと云云。

現代語承久元年(1219)十二月小二十四日丙戌。晴れました。真夜中の十二時頃に、旧実朝邸〔現在は政子様の居所〕が燃えました。失火だそうな。それで、二位家政子様はすぐに三寅若君の邸へ一緒に泊まりましたとさ。

承久元年(1219)十二月小廿七日己丑。リ。爲二品所願。爲故右府追福。於勝長壽院之傍。草創一伽藍。安置五大尊〔佛師運慶法印〕。号之五佛堂。今日迎彼忌日。有供養之儀。明禪法印爲導師云云。

読下し                       はれ  にほん  しょがん  な      こうふ ついぶく  ため  しょうちょうじゅいんのかたわら  をい
承久元年(1219)十二月小廿七日己丑。リ。二品の所願と爲し、故右府追福の爲、勝長壽院之傍に於て、

いちがらん  そうそう    ごだいそん  〔ぶっしうんけいほういん〕   あんち    これごぶつどう  ごう
一伽藍を草創し、五大尊〔佛師運慶法印〕を安置す。之五佛堂と号す。

きょう か   きじつ  むか    くようの ぎ あ     みょうぜんほういんどうし  な     うんぬん
今日彼の忌日を迎へ、供養之儀有り。明禪法印導師を爲すと云云。

現代語承久元年(1219)十二月小二十七日己丑。晴れです。二位家政子様の願いで、故右大臣実朝様のために、勝長寿院に一つのお堂を建てて、五大明王〔仏師運慶作〕を祀りました。これを五仏堂と云います。今日は、月違いの命日を迎えたので、追善供養の法要をしました。明禅法印が指導僧をしましたとさ。

承久元年(1219)十二月小廿九日辛夘。陰陽頭資光朝臣勘文〔光季取進〕到着。其状云。
 去廿日酉剋。彗星見西方。有騰蛇中云云。仍下件状於司天之輩。被尋問之處。於關東。一切不見及由。八人同心申之云云。

読下し                       おんみょうのかみすけみつあそん かんもん 〔みつすえ と  すす  〕 とうちゃく   そ  じょう い
承久元年(1219)十二月小廿九日辛夘。 陰陽頭資光朝臣、 勘文〔光季取り進む〕到着す。其の状に云はく。

さんぬ はつかとりのこく  すいせいせいほう  み    とうだ ちゅう  あ     うんぬん
去る廿日 酉剋、彗星西方に見ゆ。騰蛇@中に有りと云云。

よっ  くだん じょうを してんのやから  くだ    じんもんされ のところ  かんとう  をい     いっさい みおよ  ざるよし  はちにんどうしん  これ  もう    うんぬん
仍て件の状於 司天之輩に下し、尋問被る之處、關東に於ては、一切見及ば不由。八人同心し之を申すと云云。

参考@騰蛇は、とうしゃとも云い、十二天将の一人、南東を守り炎に包まれた蛇の姿。

現代語承久元年(1219)十二月小二十九日辛卯。陰陽頭安陪資光さんの上申書〔伊賀光季が取り次ぎ〕が到着しました。その手紙に「先日二十日午後六時頃、彗星が西の空に見えました。蛇神星の中にあります。」との事です。それなので、その手紙を天文の連中に見せて、質問した処、関東では全然見えませんでした。と八人声を揃えて(結託して)云いましたとさ。

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