吾妻鏡入門第廿四巻

承久二年庚辰(1220)正月大

承久二年(1220)正月大十一日壬寅。有對屋以下作事定。

読下し                     たいのや いげ   さくじ   さだ  あ
承久二年(1220)正月大十一日壬寅。對屋@以下の作事の定め有り。

参考@対屋は、寝殿造りの母屋に渡り廊下でつながる相対する離れの建物。

現代語承久二年(1220)正月大十一日壬寅。離れの対屋を始めとする建設の着工を決定しました。

承久二年(1220)正月大十二日癸卯。夘刻地震。

読下し                     うのこくぢしん
承久二年(1220)正月大十二日癸卯。夘刻地震。

現代語承久二年(1220)正月大十二日癸卯。朝の六時に地震です。

承久二年(1220)正月大十四日乙巳。亥刻。相州息次郎時村。三郎資時等俄以出家。時村行念。資時眞照云云。楚忽之儀。人怪之。

読下し                     いのこく  そうしゅう   そく  じろうときむら  さぶろうすけときら  にはか もっ  しゅっけ
承久二年(1220)正月大十四日乙巳。亥刻。相州が息、次郎時村、三郎資時等、俄に以て出家す。

ときむら ぎょうねん すけとき しんしょう  うんぬん  そこつの ぎ   ひとこれ  あやし
時村は行念。資時は眞照と云云。楚忽之儀、人之を怪む。

現代語承久二年(1220)正月大十四日乙巳。夜の十時頃に、相州時房の息子の次郎時村と三郎資時が、突然出家をしました。時村は行念、資時は真照だそうな。思いもかけぬ行動に人は不思議がりました。

承久二年(1220)正月大十六日丁未。丑剋。月入太微宮中。辰刻。鶴岳別當三位僧都慶幸入滅〔年。去年八月廿一日補別當。世号之一年別當〕。

読下し                     うしのこく  つき たいびきゅう ちゅう  い
承久二年(1220)正月大十六日丁未。丑剋。月 太微宮@中に入る。

たつのこく つるがおかべっとう さんみそうづけいこう にゅうめつ     〔 とし  きょねんはちがつにじういちにちべっとう  ぶ     よ これ   いちねんべっとう   ごう    〕
辰刻。鶴岳別當 三位僧都慶幸 入滅す。〔年。去年八月廿一日別當に補す。世之を一年別當と号す。〕

参考@太微宮は、天子の宮廷に当たる星座。

現代語承久二年(1220)正月大十六日丁未。午前二時頃に、月が太微宮(天子の宮廷)の中に入りました。午前八時頃、鶴岡八幡宮長官の三位僧都慶幸が亡くなりました。〔年?去年八月二十一日長官に任命。世間ではこれを一年長官と呼んでます〕

承久二年(1220)正月大廿一日壬子。辨法印定豪〔元勝長壽院別當〕補鶴岡別當職。以内大臣僧都親慶補勝長壽院別當職云々。

読下し                    べんのほういんていごう 〔もとしょうちょうじゅいん べっとう〕 つるがおかべっとう ぶ
承久二年(1220)正月大廿一日壬子。辨法印定豪〔元勝長壽院の別當〕鶴岡別當職に補す。

ないだいじんそうづしんけい もっ しょうちょうじゅいん べっとうしき  ぶ     うんぬん
内大臣僧都親慶を以て勝長壽院 別當職に補すと云々。

現代語承久二年(1220)正月大二十一日壬子。弁法印定豪〔元は勝長寿院長官〕が、鶴岡八幡宮長官に任命されました。内大臣僧都親慶を勝長寿院長官に任命したそうな。

承久二年(1220)正月大廿九日庚申。霽。定豪法印補別當職後。始神拝于鶴岡宮。」入夜。窟堂邊燒亡。進士判官代工藤右衛門尉等家災。

読下し                     はれ  ていごうほういんべっとうしき  ぶ    のち  はじ   つるがおかぐうに しんぱい
承久二年(1220)正月大廿九日庚申。霽。定豪法印別當職に補すの後、始めて鶴岡宮于神拝す。」

 よ   い    いわやどうへんしょうぼう  しんじほうがんだいくどううえもんのじょうら   いえわざわ
夜に入り、窟堂邊燒亡す。進士判官代工藤右衛門尉等の家災いす。

現代語承久二年(1220)正月大二十九日庚申。晴れました。法印定豪が、長官に任命されて、初めて鶴岡八幡宮にお参りをしました。夜になって、巌谷不動のあたりで火事です。進士判官代工藤左衛門尉等の家が燃えました。

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