吾妻鏡入門第廿五巻

承久三年辛巳(1221)五月大

承久三年(1221)五月大十八日辛丑。霽。寅剋。太白星陵犯熒惑星〔二尺所云云〕。

読下し                      はれ とらのこく たいはくせい  けいこくせい りょうはん    〔にしゃく ところ うんぬん〕
承久三年(1221)五月大十八日辛丑。霽。寅剋。太白星、熒惑星を陵犯す。〔二尺の所と云云〕

現代語承久三年(1221)五月大十八日辛丑。晴れました。午前四時頃に太白星金星が熒惑星火星の軌道を犯しました〔二尺(60cm)のところだそうな〕。

承久三年(1221)五月大十九日壬寅。大夫尉光季去十五日飛脚下着關東。申云。此間。院中被召聚官軍。仍前民部少輔親廣入道昨日應勅喚。光季依聞右幕下〔公經〕告。申障之間。有可蒙勅勘之形勢云々。未刻。右大將家司主税頭長衡去十五日京都飛脚下着。申云。昨日〔十四〕幕下并黄門〔實氏〕仰二位法印尊長。被召籠弓塲殿。十五日午刻。遣官軍被誅伊賀廷尉。則勅按察使光親卿。被下右京兆追討宣旨於五畿七道之由云々。關東分宣旨御使。今日同到着云々。仍相尋之處。自葛西谷山里殿邊召出之。稱押松丸〔秀康所從云々〕。取所持宣旨并大監物光行副状。同東士交名註進状等。於二品亭〔号御堂御所〕披閲。亦同時廷尉胤義〔義村弟〕。私書状到着于駿河前司義村之許。是應勅定可誅右京兆。於勳功賞者可依請之由。被仰下之趣載之。義村不能返報。追返彼使者。持件書状。行向右京兆之許云。義村不同心弟之叛逆。於御方可抽無二忠之由云々。其後招陰陽道親職。泰貞。宣賢。リ吉等。以午刻〔初飛脚到來時也〕有卜筮。關東可屬太平之由。一同占之。相州。武州。前大官令禪門。前武州以下群集。二品招家人等於簾下。以秋田城介景盛。示含曰。皆一心而可奉。是最期詞也。故右大將軍征罸朝敵。草創關東以降。云官位。云俸祿。其恩既高於山岳。深於溟渤。報謝之志淺乎。而今依逆臣之讒。被下非義綸旨。惜名之族。早討取秀康。胤義等。可全三代將軍遺跡。但欲參院中者。只今可申切者。群參之士悉應命。且溺涙申返報不委。只輕命思酬恩。寔是忠臣見國危。此謂歟。武家背天氣之起。依舞女龜菊申状。可停止攝津國長江。倉橋兩庄地頭職之由。二箇度被下 宣旨之處。右京兆不諾申。是幕下將軍時募勳功賞定補之輩。無指雜怠而難改由申之。仍逆鱗甚故也云々。晩鐘之程。於右京兆舘。相州。武州。前大膳大夫入道。駿河前司。城介入道等凝評議。意見區分。所詮固關足柄。筥根兩方道路可相待之由云々。大官令覺阿云。群議之趣。一旦可然。但東士不一揆者。守關渉日之條。還可爲敗北之因歟。任運於天道。早可被發遣軍兵於京都者。右京兆以兩議。申二品之處。二品云。不上洛者。更難敗官軍歟。相待安保刑部丞實光以下武藏國勢。速可參洛者。就之。爲令上洛。今日遠江。駿河。伊豆。甲斐。相摸。武藏。安房。上総。下総。常陸。信濃。上野。下野。陸奥。出羽等國々。飛脚京兆奉書。可相具一族等之由。所仰家々長也。其状書樣。
 自京都可襲坂東之由。有其聞之間。相摸權守。武藏守相具御勢。所打立也。以式部丞差向北國。此趣早相觸一家人々。可向者也。

読下し                      たいふのじょうみつすえ さんぬ じうごにち  ひきゃくかんとう げちゃく    もう    い
承久三年(1221)五月大十九日壬寅。大夫尉光季が、去る十五日の飛脚關東へ下着し、申して云はく。

かく あいだ いんちう  かんぐん  めしあつ  られ   よっ  さきのみんぶしょうゆうちかひろにゅうどう  さくじつちょっかん おう
此の間、院中に官軍を召聚め被る。仍て 前民部少輔親廣入道、 昨日勅喚に應ず。

みつすえ  うばっか  〔きんつね〕   つ     き     よっ    さわり もう  のあいだ  ちょっかん こうむ べ   のけいせいあ     うんぬん
光季は右幕下〔公經〕の告げを聞くに依て、障を申す之間、勅勘を蒙る可き之形勢有りと云々。

ひつじのこく うだいしょう  かし ちからのかみながひら さんぬ じうごにち  きょうと  ひきゃくげちゃく    もう    い
 未刻、右大將が家司主税頭長衡が去る十五日の京都の飛脚下着し、申して云はく。

さくじつ 〔じうよっか〕  ばっかなら    こうもん 〔さねうじ〕  にいのほういんそんちょう おお      ゆばどの   めしこめられ
昨日〔十四日〕幕下并びに黄門〔實氏〕二位法印尊長に仰せて、弓塲殿に召籠被る。

じうごにちうまのこく  かんぐん  つか      いがのていい  ちうされ
十五日午刻、官軍を遣はされ伊賀廷尉を誅被る。

すなは ちょく あぜち みつちかきょう  うけいちょう ついとう  せんじ を  ごきしちどう   くだされ  のよし  うんぬん
則ち勅の按察使光親卿、右京兆 追討の宣旨於五畿七道に下被る之由と云々。

かんとう  ぶん  せんじ  おんし  きょう おな    とうちゃく   うんぬん
關東の分の宣旨の御使、今日同じく到着すと云々。

よっ  あいたず   のところ  かさいがやつ やまざとどの あた  よ   これ  めいいだ   おしまつまる しょう   〔ひでやす  しょじゅう うんぬん〕
仍て相尋ぬる之處、 葛西谷 山里殿 邊り自り之を召出す。押松丸と稱す〔秀康が所從と云々〕

も   ところ  せんじなら    だいかんもつみつゆ  そうじょう と
持つ所の宣旨并びに大監物光行の副状を取る。

おな    とうし  けみょうちうしんじょうら  にほんてい 〔みどうごしょ  ごう  〕  をい  ひら  み
同じく東士の交名註進状等、二品亭〔御堂御所と号す〕に於て披き閲る。

また  おな  とき  ていいたねよし 〔よしむら おとうと〕   し   しょじょう するがのぜんじよしむら のもとに とうちゃく
亦、同じ時に廷尉胤義〔義村が弟〕、私の書状を駿河前司義村 之許于到着す。

これ ちょくじょう おう  うけいちょう  ちう  べ
是、勅定に應じ右京兆を誅す可し。

くんこう  しょう  をい  は   こ    よるべ   のよし  おお  くだされ のおもむき これ  の
勳功の賞に於て者、請いに依可し之由、仰せ下被る之趣、之を載せる。

よしむら へんぽう およばず  か   ししゃ  おいかへ   くだん しょじょう も     うけいちょうの もと  ゆきむか  い
義村 返報に不能。彼の使者を追返し、件の書状を持ち、右京兆之許に行向い云はく。

よしむら おとうとのほんぎゃく どうしんせず  みかた  をい   むに   ちう  ぬき    べ   のよし  うんぬん
義村、弟 之 叛逆に同心不。御方に於て無二の忠を抽んず可し之由と云々。

 そ   ご  おんみょうどう ちかもと  やすさだ のぶかた はるよしら  まね    うまのこく 〔はじ   ひきゃく とうらい   ときなり 〕    もっ  ぼくぜいあ
其の後、陰陽道 親職、泰貞、宣賢、リ吉等を招き、午刻〔初めて飛脚到來の時也〕を以て卜筮有り。

かんとう  たいへい ぞく  べ   のよし  いちどうこれ  うらな
關東、太平に屬す可し之由、一同之を占う。

そうしゅう  ぶしゅう  さきのだいかんれいぜんもん  さきのぶしゅう いげ ぐんしゅう
相州、武州、 前大官令禪門、 前武州 以下群集す。

にほん   けにんらを  れんけ  まね   あいだのじょうすけかげもり  もっ    しめ  ふく    いは
二品、家人等於簾下に招き、秋田城介景盛 を以って示し含めて曰く、

みなこころ いつ  て  たてまつ べ    これ  さいごの  ことばなり
皆心を一にし而、奉る可し。是、最期の詞也。

こうだいしょうぐん  ちょうてき  せいばつ   かんとう  そうそう        このかた  かんい  い     ほうろく  い     そ   おんすで  さんがくよりたか   めいぼつよりふか
故右大將軍が朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ、俸禄と云ひ、其の恩既に山岳於高く、溟渤於深し。

ほうしゃのこころざしあさ     や   しか    いまぎゃくしんのざん  よっ    ひぎ   りんじ   くだされ
報謝之 志 淺からん乎。而るに今逆臣之讒に依て、非義の綸旨を下被る。

な   おし  のやから   はや  ひでやす たねよしら  う    と    さんだいしょうぐん ゆいせき まっと すべ
名を惜む之族は、早く秀康、胤義等を討ち取り、三代將軍の遺跡を全う可し。

ただ    いんちう  まい      ほっ    もの    ただいまもうしき  べ  てへ
但し、院中に參らんと欲する者は、只今申切る可し者り。

ぐんさんのし ことごと めい  おう    ただ なみだ おぼ  もう  へんぽう つまびら ならず  ただ いのち かろ    おん  むく      おも
群參之士 悉く命に應ず。且し涙に溺れ申す返報 委か 不。 只、命を輕んじ恩に酬はんと思う。

まさ  これ  ちうしんくに  あやう   あらは       これ  いは  か
寔に是、忠臣國の危きに見るとは、此を謂ん歟。

 ぶけ てんき  そむ  の おこ      まいじょかめぎく  もう   じょう よっ   せっつのくにながえ  くらはし  りょうしょう  ぢとうしき   ちょうじすべ   のよし
武家天氣に背く之起りは、舞女龜菊の申し状に依て、攝津國長江、倉橋の兩庄の地頭職を停止可き之由、

 にかど せんじ   くだされ  のところ  うけいちょうだく  もうさず
二箇度宣旨を下被る之處、右京兆諾し申不。

これ  ばっかしょうぐん  とき  くんこう  しょう  つの  じょうぶのやから  さ      ぞうたいな   て あらた がた  よし  これ  もう
是、幕下將軍の時、勳功の賞に募り定補之輩、指したる雜怠無く而改め難き由、之を申す。

よっ  げきりんはなは    ゆえなり  うんぬん
仍て逆鱗甚だしき故也と云々。

ばんしょうのほど うけいちょう やかた をい   そうしゅう  ぶしゅう さきのだいぜんだいぶにゅうどう  するがのぜんじ じょうのすけにゅうどうら ひょうぎ  こ
晩鐘之程、右京兆の舘に於て、相州、武州、 前大膳大夫入道、 駿河前司、 城介入道等 評議を凝らす。

いけん くぶん
意見區分す。

しょせん  あしがら  はこね  りょうほう  どうろ   せきがた  あいまつべ   のよし   うんぬん
所詮、足柄、筥根の兩方の道路を關固め相待可き之由と云々。 

だいかんれいかくあ い       ぐんぎのおもむき いったん しか  べ
大官令覺阿 云はく。群議之趣、一旦は然る可し。

ただ  とうし いっきせんず  ば   せき  まも     ひ   わた のじょう  かえっ はいぼくのもとい な   べ   か
但し東士一揆不ん者、關を守るは日を渉る之條、還て敗北之因と爲す可き歟。

うんを てんどう  まか    はや ぐんぴょうをきょうと  はっけんされ べ   てへ
運於天道に任せ、早く軍兵於京都へ發遣被る可き者り。

うけいちょう りょうぎ  もっ     にほんのところ  もう    にほん い
右京兆兩議を以て、二品之處へ申す。二品云はく。

じょうらくせず  ば  さら  かんぐん  やぶ  がた  か   あぼのぎょうのじょうさねみつ いげ  むさしのくに せい  あいま     すみや  さんらくすべ  てへ
上洛不ん者、更に官軍を敗り難き歟。 安保刑部丞實光 以下の武藏國の勢を相待ち、速かに參洛可し者り。

これ  つ     じょうらくせし   ため  きょう とおとうみ するが   いず    かい   さがみ   むさし   あわ   かずさ   しもうさ  ひたち   しなの
之に就き、上洛令めん爲、今日遠江、駿河、伊豆、甲斐、相摸、武藏、安房、上総、下総、常陸、信濃、

 こうづけ   しもつけ むつ   でわ ら   くにぐに    けいちょう ほうしょ  ひきゃく
上野、下野、陸奥、出羽等の國々へ、京兆の奉書を飛脚す。

いちぞくら  あいぐ  べ   のよし  いえいえ  おさ  おお  ところなり  そ  じょう  かきよう
一族等を相具す可し之由、家々の長に仰せる所也。其の状の書樣は、

  きょうと よ   ばんどう  おそ  べ   のよし  そ   きこ   あ  のあいだ  さがみごんのかみ むさしのかみ おんぜい  あいぐ    う   た  ところなり
 京都自り坂東を襲う可き之由、其の聞へ有る之間、 相摸權守、 武藏守 御勢を相具し、打ち立つ所也。

  しきぶのじょう もっ  ほっこく  さ   むか    こ おもむき  はや  いっか ひとびと  あいふ   むか  べ   ものなり
 式部丞を以て北國へ差し向う。此の趣、早く一家の人々に相觸れ、向う可き者也。

現代語承久三年(1221)五月大十九日壬寅。大夫尉伊賀光季の先日の十五日に発出した伝令が関東へ着いて報告しました。「最近、院の御所に軍隊をお集めになっています。それで、前民部少輔源大江親広は、呼び出しに従いました。光季は右大将西園寺公経のお言葉を聞いていたから、具合が悪いと云ったので、後鳥羽院のお叱りを受けそうなんだ。」そうな。

午後二時頃に、右大将西園寺公経の執事の主税頭三善長衡の先日十五日に発出した伝令が到着して報告しました。「昨日〔十四日〕幕下西園寺公経と中納言西園寺実氏は、二位法印尊長に院の命で、弓場殿に閉じ込められました。十五日の昼頃に、政府軍を派遣して伊賀光季が攻め殺されました。すぐに、按察使葉室光親さんに命令じて、義時さんを滅ぼせとの院の命令を畿内五か国や七街道(全国に向け)に行かせました。」だとさ。

関東分の院の命令書が今日同様に到着したそうな。そこで、持って来た人を捜したところ、葛西谷(東勝寺橋奥)の山里殿あたりからこいつを見つけて連れてきました。押松丸と云う名です〔淡路守藤性足利秀康の下働きです〕。持っている院の命令書と大監物源光行の添えた手紙を取り上げました。同じように関東武士が上皇へ部下として参上した名簿などを、二位家政子様の屋敷〔勝長寿院内の御所と云います〕で開いて見ました。

又、同じ時に三浦九郎廷尉胤義〔三浦平六義村の弟〕の個人的な手紙が駿河前司三浦義村のもとへ到着しました。この内容も「朝廷の命令に従って義時を征伐するように。褒美は望みに任せる」と仰せられていると書かれていました。義村は返事を出さずにその使いを追い返して、その手紙を持って義時の所へ来て云いました。「私義村は、弟の反逆には味方しません。義時さんに二心のない忠節を誓います。」だそうな。

その後、陰陽師の安陪親職・泰貞・清原宣賢・安陪晴吉などを呼んで、今日の昼の時刻〔初めて伝令が来た時間です〕を占わせました。「関東は無事ですよ。」とそろって同じ答えでした。

相州時房・武州泰時・大官令入道大江広元・前武州足利義氏を始め、皆集まってきました。二位家政子様は、御家人達を御簾の前に呼んで、秋田城介景盛を通して、皆に云って聞かせました。

「皆、心を一つにして良くお聞きなさい。これが今度の最後の命令です。頼朝様が平家などの天下の敵を征伐して、関東に幕府を造って以来、朝廷の位にしても、褒美に与えられた領地にしても、その恩は山より高く、海より深いものでしょう。感謝の気持ちは浅いものではありませんね。それなのに、今反逆の家来のでっち上げの訴えのために、道理の通らない朝廷の命令が出ました。勇敢なる侍としての名誉を守ろうと思う者は、藤性足利秀康や三浦胤義を討ち取って、源氏三代將軍の残した鎌倉を守りなさい。但し、京都朝廷側に付きたいと思う者は、宣言しなさい。」と云いました。

集まった侍たちは、全員命令に答えました。但し、有難さに涙が流れ、言葉にならない者もおりました。ただひたすらに、命をなげうち恩に答えようと思いました。まさにこれこそ、「忠義な者は国が危うい時にこそ出てくる」とはこれを云うのですね。

そもそも、武士が朝廷に反抗する原因は、後鳥羽上皇が可愛がっている舞姫の菊女(伊賀局)の申し出で、菊女が上級荘園主の領家をしている摂津国長江庄(大阪市福島区鷺洲に長江大明神カ?)・倉橋庄(大阪府豊中市庄内あたり庄本町に椋橋總社)の地頭(義時)を廃止するように、二度も云って来ましたが、義時さんは承知しませんでした。それは「頼朝様が手柄として与えられた領地は、特別な不納がない限り変更はしないとお決めになっている。」と申し出たので、上皇のお怒りはすさまじいものとなったのです。

夕暮れの鐘が鳴るころになって、義時さんの屋敷に相州時房・武州泰時・大江広元・駿河前司三浦義村・城介入道安達景盛等が会議を開きました。意見はまちまちです。やっぱり、足柄峠と箱根山の道に関を構築して待つべきなんだろうなとの事です。大江広元が「皆さんの審議では、それも一つの方法でしょう。しかし、関東武士が一致団結していても、関を守るのは長い期間となるので、やがてだれて負ける元になってしまいますよ。ここは運を天に任せ、早く軍隊を京都へ向けて発進しましょう。」と云いました。

義時さんは、この二案を持って二位家政子様のところに行きました。二位家政子様が云うには、「京都へ行かなくちゃ、朝廷軍を破れないじゃないですか。安保刑部丞実光を始めとする武蔵国の軍勢を待って、速やかに京都へ出発しなさい。」と申されました。

その命令によって、京都へ上るために、今日、遠江・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽などの国々へ義時さんの命令書を持って行かせました。一族を連れて来るよう、家長に命じました。その書状の内容は

 京都から関東を襲ってくると聞いたので、相模権守北条時房と武蔵守北条泰時が、軍勢を引き連れて出発するところです。
式部丞北条朝時を大将に北陸周りで行きます。この内容を早く一族の人々に伝えて、一緒に向いなさい。

承久三年(1221)五月大廿日癸夘。可抽世上無爲懇祈之旨。示付莊嚴房律師。并鶴岳別當法印定豪等。亦行三萬六千神祭。民部大夫康俊。左衛門尉C定奉行之云々。

読下し                    せじょう むい   こんき   ぬき    べ   のむね しょうごんぼうりっしなら   つるがおかべっとう ほういんていごうら  しめ  つ
承久三年(1221)五月大廿日癸夘。世上無爲の懇祈を抽んず可し之旨、莊嚴房律師并びに鶴岳別當 法印定豪等に示し付く。

また  さんまんろくせんじんさい おこな   みんぶのたいふやすとし さえもんのじょうきよさだ  これ  ぶぎょう    うんぬん
亦、 三萬六千神祭を行う。 民部大夫康俊、 左衛門尉C定、之を奉行すと云々。

現代語承久三年(1221)五月大二十日癸卯。関東が無事なように、気を入れて祈祷をするように、荘厳房退耕行勇と鶴岡八幡宮筆頭の法印定豪にきつく申し渡しました。また、陰陽師には三万六千神祭を行わせます。民部大夫町野三善康俊と清原左衛門尉清定が指揮担当です。

承久三年(1221)五月大廿一日甲辰。午刻。一條大夫頼氏自京都下着〔去十六日出京云々〕。到二品亭。宰相中將〔信能〕以下一族。多以雖候院中。獨不忘舊好。馳參云々。二品乍感悦。尋京都形勢。頼氏述委曲。自去月洛中不靜。人成恐怖之處。十四日晩景。召親廣入道。又被召籠右幕下父子。十五日朝。官軍競起。警衛高陽院殿門々。凡一千七百餘騎云々。内藏頭C範着到之。次範茂卿爲御使。被奉迎新院。則御幸〔御布衣〕。與彼卿同車也。次土御門院。〔御烏帽子直垂。與彼卿二品御同車〕六條。冷泉等宮。各密々入御高陽院殿。同日。大夫尉惟信。山城守廣綱。廷尉胤義。高重等。奉 勅定。引率八百餘騎官軍。襲光季高辻京極家合戰。縡火急而。光季并息男壽王冠者光綱自害。放火宿廬。南風烈吹。餘烟延至數十町〔姉小路東洞院〕。申尅。行幸于高陽院殿。歩儀。攝政供奉。近衛將一兩人。公卿少々參。賢所同奉渡。同時。火起六角西洞院。欲及閑院皇居之間。所令避御也〔御讓位以後初度〕。又於高陽院殿。被行御修法。仁和寺宮道助并良快僧正以下奉仕之。以寢殿御所爲壇所云々。」今日。天下重事等重評議。離住所。向官軍。無左右上洛。如何可有思惟歟之由。有異議之故也。前大膳大夫入道云。上洛定後。依隔日。已又異議出來。令待武藏國軍勢之條。猶僻案也。於累日時者。雖武藏國衆漸廻案。定可有變心也。只今夜中。武州雖一身。被揚鞭者。東士悉可如雲之從竜者。京兆殊甘心。但大夫属入道善信爲宿老。此程老病危急之間籠居。二品招之示合。善信云。關東安否。此時至極訖。擬廻群議者。凡慮之所覃。而發遣軍兵於京都事。尤遮幾之處。經日數之條。頗可謂懈緩。大將軍一人者先可被進發歟者。京兆云。兩議一揆。何非冥助乎。早可進發之由。示付武州。仍武州今夜門出。宿于藤澤左衛門尉C親稻瀬河宅云々。

読下し                     うまのこく  いちじょうたいふよりうじ きょうと よ  げちゃく    〔さんぬ じうろくにちしゅっきょう うんぬん〕  にほんてい  いた
承久三年(1221)五月大廿一日甲辰。午刻、一條大夫頼氏京都自り下着し〔去る十六日出京すと云々〕二品亭へ到る。

さいしょうちうじょう〔のぶよし〕 いげ   いちぞく  おお  もっ  いんちう  そうら   いへど   ひと  きゅうこう わすれず  は   さん    うんぬん
宰相中將〔信能〕以下の一族、多く以て院中に候うと雖も、獨り舊好を不忘、馳せ參ずと云々。

にほん かんえつ なが    きょうと  けいせい  たず   よりうじいきょく  の       さんぬ つきよ  らくちうしず  なら
二品感悦し乍ら、京都の形勢を尋ぬ。頼氏委曲を述べる。去る月自り洛中靜か不ず。

ひときょうふ  な   のところ  じうよっか  ばんけい ちかひろにゅうどう め     また   うばっか ふし   めしこめられ
人恐怖を成す之處、十四日の晩景、親廣入道を召す。又、右幕下父子を召籠被る。

じうごにち  あさ  かんぐんきそ  おこ    かやいんでん  かどかど  けいえい    およ  いっせんしちひゃっき  うんぬん
十五日の朝、官軍競い起り、高陽院殿の門々を警衛す。凡そ一千七百餘騎と云々。

くらのかみきよのりこれ ちゃくとう    つい  のりもちきょうおんし  な     しんいん むか たてまつられ  すなは ぎょうこう  〔おんほい〕     か  きょうとどうしゃなり
内藏頭C範之に着到す。次で範茂卿御使と爲し、新院を迎へ奉被る。 則ち御幸す〔御布衣〕。彼の卿與同車也。

つい  つちみかどいん 〔おんえぼし ひたたれ   かのきょうにほん と ごどうしゃ〕   ろくじょう   れいぜいら  みや おのおの みつみつ かやいんでん  い   たま
次で土御門院〔御烏帽子直垂。彼卿二品與御同車〕、六條、冷泉等の宮、 各  密々に高陽院殿に入り御う。

おな  ひ   たいふのじょうこれのぶ  やましろのかみひろつな  ていいたねよし  たかしげら ちょくじょう たてまつ  はっぴゃっき  かんぐん  いんそつ
同じ日、 大夫尉惟信、  山城守廣綱、 廷尉胤義、高重等、勅定を奉り、 八百餘騎の官軍を引率し、

みつすえ こうのつじきょうごく いえ おそ かっせん
光季の高辻京極の家を襲い合戰す。

こと  かきゅう    て   みつすえなら  そんくなん じゅおうかじゃみつつな じがい   すくろ  ひ   はな
縡、火急にし而、光季并びに息男 壽王冠者光綱 自害し、宿廬に火を放つ。

みなみかぜはげ  ふ     よえんすうじっちょう の   いた   〔あねこうじひがしのとういん〕
南風烈しく吹き、餘烟數十町に延び至る〔姉小路東洞院〕

さるのこく かやいんでん に ぎょうこう  ほぎ   せっしょう ぐぶ    このえ しょういちりょうにん  くぎょうしょうしょうさん  かしこどろおな   わた たてまつ
申尅。高陽院殿@于行幸。歩儀。攝政供奉す。近衛の將一兩人。公卿少々參ず。賢所 同じく渡し奉る。

おな  とき  ひ ろっかくにしのとういん おき   かんいんこうきょ  およ      ほっ  のあいだ  さ   せし  たま ところなり    〔ごじょうい  いご しょど〕
同じ時、火六角西洞院に起る。閑院皇居に及ばんと欲す之間、避け令め御う所也。〔御讓位以後初度〕

また   かやいんでん  をい    みしゅほ  おこな  られ   にんなじのみやどうじょなら   りょうかいそうじょう いげ これ  ほうし
又、高陽院殿に於て、御修法を行は被る。仁和寺宮道助并びに良快僧正以下之を奉仕す。

しんでん  もっ  ごしょ    だんじょ  な     うんぬん
寢殿を以て御所の壇所と爲すと云々。」

参考@高陽院殿は、桓武天皇の皇子賀陽(かや)親王の邸宅。平安京左京中御門の南、大炊(おおい)御門の北、西洞院(にしのとういん)の西、堀川の東にあった。後冷泉・後三条天皇の内裏ともなる。のち藤原摂関家の邸宅。GOO電子辞書から。現在の上京区京都府庁あたりのようである。

参考後鳥羽82┬土御門83─後嵯峨88
      └順 徳84─仲 恭85

現代語承久三年(1221)五月大二十一日甲辰。昼頃に、一条大夫頼氏が京都から着いて〔先日の十六日に京都を出ました〕二位家政子様の屋敷へ行きました。「宰相中将一条信能を始めとする一条家一族の殆どの人が後鳥羽院の元へ行きましたが、私一人は関東との古いつながりを忘れないで鎌倉へ走ってまいりました。」とさ。二位家政子様は、喜び感激しながらも、京都の情勢をお尋ねです。一条頼氏は、詳しい話をしました。

「先月から京都の街中は不穏だったのです。人々は何事かと恐れおののいていたところ、十四日の晩になって源大江親広入道をお呼びになりました。又、右幕下西園寺公経と中納言西園寺実氏親子を閉じ込めました。十五日の朝に、朝廷軍が集まって来て、高陽院殿の門を警備しました。凡そ、千七百騎程だそうな。内蔵頭清範が、これに入りました。ついで源範茂さんが使者となって、新院順徳を迎えに行かせました。すぐにお渡りです〔普段着〕。範茂さんの牛車に同乗して来ました。ついで土御門院〔烏帽子に直垂、この方は宮達と同乗〕・六条宮・冷泉宮、それぞれ密かに高陽院殿へ入られました。

同じ日、大夫尉大内惟信。山城守佐々木広綱・廷尉三浦胤義・佐々木高重等が、後鳥羽上皇の命令に従って、八百余騎の朝廷軍を引き連れて、伊賀光季の高辻京極の屋敷を襲って戦になりました。突然の襲撃に差し迫って、光季とその息子寿王冠者光綱は自殺をして宿舎に火を付けました。南風が激しく吹いて、その火が数キロにも広がりました〔姉小路東洞院まで〕。午後四時頃に仲恭天皇が高陽院殿へお渡りです。歩きで摂政九条道家がお供をしました。皇宮警察の近衛府の将軍が一・二人。公卿が少し来ました。八咫の鏡を一緒に移動しました。同じ時に、火事が六角西洞院から起きて、天皇のおられる里内裏へ及びそうだったので、これを避けるためなのです。〔天皇になって初めての事です〕

又、高陽院殿で、祈祷を行わせました。仁和寺宮道助と良快僧正を始めとする坊さん達が勤めました。高陽院殿の寝殿を護摩壇にしました。」

きょう   てんか ちょうじら かさ    ひょうぎ
今日。天下重事等重ねて評議す。

 す  ところ  はな    かんぐん  むか    そう な   じょうらく   いかん  しゆい あ  べ   か のよし   いぎ あ   のゆえなり
住む所を離れ、官軍に向い、左右無く上洛す。如何に思惟有る可き歟之由、異議有る之故也。

さきのだいぜんだいぶにゅうどう い     じょうらく  さだ   のち  ひ   へだ    よっ    すで  また   いぎ しゅつらい
 前大膳大夫入道 云はく。上洛を定める後、日を隔つに依て、已に又、異議出來す。

むさしのくに  ぐんぜい ま   せし  のじょう  なおへきあんなり
武藏國の軍勢を待た令む之條、猶 僻案也。

にちじ  かさ      をい  は   むさしのくに  しゅう ようや あん  めぐ     いへど    さだ    へんしん あ  べ  なり
日時を累ねるに於て者、武藏國の衆に漸く案を廻らすと雖も、定めし變心有る可き也。

ただ  こんやちゅう   ぶしゅういっしん いへど   むち  あ   られ  ば   とうしことごと くものりゅう  したが べ    ごと  てへ
只、今夜中に、武州一身と雖も、鞭を揚げ被れ者、東士悉く雲之竜に從う可きが如く者り。

けいちょうこと かんしん
京兆殊に甘心す。

ただ  たいふさかんにゅうどうぜんしんすくろう  な     こ   ほど  ろうびょうききゅうのかんろうきょ   にほん これ  まね  しめ  あ
但し 大夫属入道善信 宿老を爲す。此の程、老病危急之間籠居す。二品之を招き示し合はす。

ぜんしんい      かんとう  あんぴ   こ   とき  いた  きまは をはんぬ ぐんぎ  めぐ        ぎ   は   ぼんりょのおよ ところ
善信云はく。關東の安否。此の時に至り極り訖。 群議を廻らさんと擬す者、凡慮之覃ぶ所。

しか    ぐんぴょうをきょうと  はっけん  こと  もっと しょきのところ  にっすう  へ  のじょう  すこぶ けかん  い    べ
而るに軍兵於京都へ發遣の事、尤も遮幾之處。日數を經る之條。頗る懈緩と謂ひつ可し。

だいしょうぐんひとりは ま   しんぱつされ べ   か てへ
大將軍一人者先ず進發被る可き歟者り。

けいちょうい      りょうぎ  いっき  なん  めいじょ  あらざ や   はや  しんぱつすべ  のよし  ぶしゅう  しめ  つ
京兆云はく。兩議の一揆。何ぞ冥助に非る乎。早く進發可き之由、武州に示し付ける。

よっ  ぶしゅう こんや かどで   ふじさわさえもんのじょうきよちか いなせがわ  たくにしゅく    うんぬん
仍て武州今夜門出し、藤澤左衛門尉C親の稻瀬河の宅于宿すと云々。

今日、天下の重大問題について、尚も評議が続きます。故郷を離れて、朝廷軍に刃向って、何も考えず京都へ向かって行きました。何か良い案があるんじゃないかと、異議を唱える者がいるからです。

前大膳大夫入道大江広元さんが云うには、「京都へ攻めのぼると決めてから、日にちが経過したので、色々異論が出てくる。武蔵国の軍隊を待っていると云うのは、もっと良くない案だ。日時が重なれば、武蔵国の皆さんに案を回覧していれば、その間に気が変わるかもしれない。ただ一つ今夜中に武州泰時さん一人であっても走り出せば、関東の勇士は皆、雲が龍に従うようになるでしょう。」義時さんは感心しました。

但し、大夫属入道三善善信は、古い物知りです。このところ老いて病気がひどいので休んでいます。二位家政子様は彼を呼び寄せて話しました。三善善信が云うのには、「関東の安否は、この時に追い詰められております。意見を協議することは、当たり前の事ですね。しかし、軍隊を京都へ出発させることが、一番願う所ですね。日数を置くとたるんでくると云えるでしょう。大將軍一人でも、まず出発するべきですよ。」との事です。京兆義時さんは「両者の意見が一致した。これは神のおぼしめしに違いない。早く出発しなさい。」と武州泰時に申しつけました。

それで今夜、武州泰時さんは門を出て、藤沢左衛門尉清親の稲瀬川の屋敷に宿泊しましたとさ。

承久三年(1221)五月大廿二日乙巳。陰。小雨常灑。夘尅。武州進發京都。從軍十八騎也。所謂子息武藏太郎時氏。弟陸奥六郎有時。又北條五郎。尾藤左近將監〔平出弥三郎。綿貫次郎三郎相從〕。關判官代。平三郎兵衛尉。南條七郎。安東藤内左衛門尉。伊具太郎。岳村次郎兵衛尉。佐久滿太郎。葛山小次郎。勅使河原小三郎。横溝五郎。安藤左近將監。塩河中務丞。内嶋三郎等也。京兆招此輩。皆與兵具。其後。相州。前武州。駿河前司。同次郎以下進發訖。式部丞爲北陸大將軍。首途云々。

読下し                      くも    こさめつね  そそ    うのこく  ぶしゅうきょうと  しんぱつ   じゅうぐんじうはっきなり
承久三年(1221)五月大廿二日乙巳。陰り、小雨常に灑ぐ。夘尅。武州京都へ進發す。從軍十八騎也。

いはゆる  しそく むさしのたろうときうじ おとうとむつのろくろうありとき  また  ほうじょうごろう  びとうのさこんしょうげん 〔ひらいでいやさぶろう  わたぬきじろうさぶろう  あいしたが  〕
所謂、子息武藏太郎時氏、弟陸奥六郎有時。又、北條五郎、尾藤左近將監〔平出弥三郎、綿貫次郎三郎を相從う〕

せきのほうがんだい たいらのさぶろうひょうえのじょう なんじょうのしちろう あんどうとうないさえもんのじょう  いぐのたろう  たけむらじろうひょうえのじょう  さくのみつたろう
 關判官代、 平三郎兵衛尉、  南條七郎、 安東藤内左衛門尉、 伊具太郎、 岳村次郎兵衛尉、佐久滿太郎、

かずらやまのこじろう  てしがわらのこさぶろう   よこみぞのごろう  あんどうさこんしょうげん  しおかわなかつかさのじょう  うちじまさぶろうらなり
葛山小次郎@、勅使河原小三郎、横溝五郎、安藤左近將監、  塩河中務丞、  内嶋三郎等也。

けいちょう こ  やから まね    みな  ひょうぐ  あた
京兆 此の輩を招き、皆に兵具を與う。

そ   ご   そうしゅう  さきのぶしゅう するがのぜんじ  どうじろう いげ しんぱつ をはんぬ
其の後、相州、 前武州、駿河前司、同次郎以下進發し訖。

しきぶのじょう ほくろくだいしょうぐん  な     かどで   うんぬん
式部丞は 北陸大將軍と爲し、首途すと云々。

参考@葛山は、静岡県裾野市葛山。

現代語承久三年(1221)五月大二十二日乙巳。曇りで、小雨が降り続けています。朝の六時頃、泰時さんは京都へ出発しました。従っている兵隊は18騎です。それは、息子の武蔵太郎時氏・弟の陸奥六郎有時。それに北条五郎実義・尾藤左近将監景綱〔平山弥三郎・綿貫次郎三郎を従えてる〕・関判官代実忠・平三郎兵衛尉盛綱・南条七郎時員・安東藤内左衛門尉・伊具太郎盛重・武村次郎兵衛尉・佐久間太郎家盛・葛山小次郎・勅使河原小三郎則直・横溝五郎資重・安藤左近将監・横川中務丞・内島三郎などです。義時さんはこの人たちを呼んで、皆に武具を与えました。

その後、相州時房・武州泰時・前武州足利義氏・駿河前司三浦義村、同三浦次郎泰村以下が出発しました。
式部丞北条朝時は、北陸道の大將軍として出発しましたとさ。

参考横溝五郎資重は、近江国横溝で滋賀県東近江市横溝町。得宗被官。

承久三年(1221)五月大廿三日丙午。右京兆。前大膳大夫入道覺阿。駿河入道行阿。大夫屬入道善信。隱岐入道行西。壹岐入道。筑後入道。民部大夫行盛。加藤大夫判官入道覺蓮。小山左衛門尉朝政。宇都宮入道蓮生。隱岐左衛門尉入道行阿。善隼人入道善C。大井入道。中條右衛門尉家長以下宿老不及上洛。各留鎌倉。且廻祈祷。且催遣勢云々。

読下し                      うけいちょう さきのだいぜんだいぶにゅうどうかくあ するがにゅうどうぎょうあ たいふさかんにゅうどうぜんしん おきにゅうどうぎょうさい
承久三年(1221)五月大廿三日丙午。右京兆、前大膳大夫入道覺阿、 駿河入道行阿、 大夫屬入道善信、 隱岐入道行西、

いきにゅうどう  ちくごにゅうどう  みんぶたいふゆきもり  かとうたいふほうがんにゅうどうかくれん  おやまのさえもんのじょうともまさ  うつのみやにゅうどうれしょう
壹岐入道、筑後入道、民部大夫行盛、加藤大夫判官入道覺蓮、 小山左衛門尉朝政、 宇都宮入道蓮生、

おきのさえもんのじょうにゅうどうぎょうあ  ぜんはやとにゅうどうぜんせい  おおいにゅうどう  ちうじょううえもんのじょういえなが いげ  すくろうじょうらく およばず
隱岐左衛門尉入道行阿、 善隼人入道善C、 大井入道、 中條右衛門尉家長 以下の宿老上洛に不及。

おのおのかまくら  とど    かつう きとう  めぐ     かつう けんせい  もよお   うんぬん
 各 鎌倉に留む。且は祈祷を廻らし、且は遣勢を催すと云々。

現代語承久三年(1221)五月大二十三日丙午。右京兆義時さん・前大膳大夫入道覺阿大江広元さん・駿河入道行阿中原季時・大夫属入道三善善信・隠岐入道行西二階堂行村・壱岐入道定蓮葛西清重・筑後入道八田知家・民部大夫二階堂行盛・加藤大夫判官入道覚蓮景廉・小山左衛門尉朝政・宇都宮入道蓮生頼綱・隠岐左衛門尉入道行阿二階堂基行・善隼人入道善清三善康C・大井入道実春・中条右衛門尉家長を始めとする長老は京都へ行く必要はありません。それぞれ、鎌倉に居残りました。祈祷をさせたり、派遣員を出したりしています。

承久三年(1221)五月大廿五日戊申。自去廿二日。至今曉。於可然東士者。悉以上洛。於京兆所記置其交名也。各東海東山北陸分三道可上洛之由。定下之。軍士惣十九萬騎也。
 東海道大將軍〔從軍十万余騎云々〕
相州 武州 同太郎 武藏前司義氏 駿河前司義村 千葉介胤綱
 東山道大將軍〔從軍五万余騎云々〕
武田五郎信光 小笠原次郎長C 小山新左衛門尉朝長 結城左衛門尉朝光
 北陸道大將軍〔從軍四万余騎云々〕
式部丞朝時 結城七郎朝廣 佐々木太郎信實
今日及黄昏。武州至駿河國。爰安東兵衛尉忠家。此間有背右京兆之命事。籠居當國。聞武州上洛。廻駕來加。武州云。客者勘發人也。同道不可然歟云々。忠家云。存義者無爲時事也。爲棄命於軍旅。進發上者。雖不被申鎌倉。有何事乎者。遂以扈從云々。

読下し                      さんぬ にじうににちよ    こんぎょう いた   しか  べ   とうし  をい  は  ことごと もっ  じょうらく
承久三年(1221)五月大廿五日戊申。去る廿二日自り、今曉に至り、然る可き東士に於て者、悉く以て上洛す。

いちょう をい    そ  けみょう  き   お  ところなり  おのおの とうかい  とうさん  ほくろく  さんどう  わ  じょうらくすべ  のよし  これ  さだ  くだ
京兆に於ては其の交名を記し置く所也。 各 東海、東山、北陸の三道に分け上洛可き之由、之を定め下す。

ぐんし そう    じうくまんきなり
軍士惣じて十九萬騎也。

  とうかいどうだいしょうぐん 〔じゅうぐんじうまんよき  うんぬん〕
 東海道大將軍〔從軍十万余騎と云々〕

そうしゅう ぶしゅう  どうたろう    むさしぜんじよしうじ   するがぜんじよしむら  ちばのすけたねつな
相州 武州 同太郎 武藏前司義氏 駿河前司義村 千葉介胤綱

  とうさんどうだいしょうぐん 〔じゅうぐんごまんよき  うんぬん〕
 東山道大將軍〔從軍五万余騎と云々〕

たけだのごるのぶみつ おがさわらのじろうながとき おやまのしんさえもんのじょうともなが  ゆうきのさえもんのじょうともみつ
武田五郎信光 小笠原次郎長C 小山新左衛門尉朝長  結城左衛門尉朝光

  ほくろくどうだいしょうぐん 〔じゅうぐんよんまんよき  うんぬん〕
 北陸道大將軍〔從軍四万余騎と云々〕

しきぶのじょうともとき  ゆうきのしちろうともひろ  ささきのたろうのぶざね
 式部丞朝時 結城七郎朝廣  佐々木太郎信實

きょう たそがれ  およ   ぶしゅうするがのくに  いた
今日黄昏に及び、武州駿河國に至る。

ここ  あんどうひょうえのじょうただいえ  こ  あいだ  うけいちょうの めい  そむ  ことあ       とうごく  ろうきょ
爰に 安東兵衛尉忠家、 此の間、右京兆之命に背く事有りて、當國に籠居す。

ぶしゅう  じょうらく  き     が   めぐ    きた  くは      ぶしゅうい       きゃくはかんぱつ ひとなり  どうどうしか  べからずか  うんぬん
武州の上洛を聞き、駕を廻らせ來り加はる。武州云はく。客者勘發の人也。同道然る不可歟と云々。

ただいえ い
忠家云はく。

ぎ   ぞん    は  むい    じじ なり  いのちをぐんりょ  す    ため  しんぱつ  うえは   かまくら  もうされざる いへど    なにごと  あ     や てへ
義を存ずれ者無爲の時事也。命於軍旅に棄てん爲、進發の上者、鎌倉に申被不と雖も、何事や有らん乎者り。

つい  もっ  こしょう    うんぬん
遂に以て扈從すと云々。

現代語承久三年(1221)五月大二十五日戊申。先日の22日から今朝まで、名のある関東武士はほとんど京都へ行きました。義時さんは、その名簿を書き留めておいてます。それぞれ、東海道・東山道・北陸道の三つに分けて、京都へ上るようにお決めになりました。軍勢は全体で19万騎です。
東海道の大将軍〔従う所は十万騎だそうな〕は、相州時房・武州泰時・同太郎時氏・武蔵前司足利義氏・駿河前司三浦義村・千葉介胤綱
東山道の大将軍〔従う所は五万騎だそうな〕は、武田五郎信光・小笠原次郎長清・小山新左衛門尉朝長・結城左衛門尉朝光
北陸道の大将軍〔従う所は四万騎だそうな〕は、式部丞北条朝時・結城七郎朝広・佐々木太郎信実
今日の、夕方になって泰時は駿河国に着きました。安東兵衛尉忠家は、このところ義時さんに反してこの国に謹慎していました。しかし、泰時の上洛を知って、馬を蹴立ててやってきました。泰時は、「あんたはお怒りを食ってる人だから、一緒に行くわけにはいきませんよ。」安東忠家は、「規則に従うべきは平和時の事ですよ。命を捨てる為に出発するのなら、何も鎌倉へ云はなくても、何と言う事もないでしょう。」と、とうとう着いてきてしまいましたとさ。

承久三年(1221)五月大廿六日己酉。始行世上無爲祈祷。於鶴岳。有仁王百講〔關東始例〕。講師安樂坊法橋重慶。讀師民部卿律師隆修。請僧百口。當宮并勝長壽院。永福寺。大慈寺等供僧也。又若宮属星祭。右京兆祈。始行百日天曹地府祭。康俊。C定等奉行之。」武州者。着于手越驛。春日刑部三郎貞幸信濃國來會于此所。可相具武田。小笠原之旨。雖有其命。稱有契約。属武州云々。今日晩景。秀澄自美濃國〔去十九日遣官軍。所被固關方々也〕進飛脚於京都。申云。關東士爲敗官軍。已欲上洛。其勢如雲霞。非佛神之冥助者。難攘天災歟云々。依之。院中徐周章。三院及御立願五社可有御幸之由云々。

読下し                      せじょう むい   きとう   しぎょう   つるがおか おい   におうひゃっこうあ    〔かんとう  はじ       れい 〕
承久三年(1221)五月大廿六日己酉。世上無爲の祈祷を始行す。鶴岳に於て、仁王百講有り〔關東で始めての例〕

こうじ  あんらくぼうほっきょうちょうけい  どくし みんぶのきょうりっしりゅうしゅう  しょうそうひゃっく  とうぐうなら    しょうちょうじゅいん  ようふくじ   だいじじ など   ぐそうなり
講師は安樂坊法橋重慶。 讀師は民部卿律師隆修。 請僧百口。 當宮并びに勝長壽院、 永福寺、大慈寺等の供僧也。

また  わかみやぞくしょうさい うけいちょう  いの   ひゃくにち てんそうちふさい  しぎょう    やすとし  きよさだら これ  ぶぎょう
又、 若宮 属星祭。右京兆の祈り。百日の天曹地府祭を始行す。康俊、C定等之を奉行す。」

ぶしゅうは てごしのうまやに つ    かすがぎょうぶさぶろうさだゆき  しなののくに    こ  ところに きた  あ
武州者、手越驛于着く。春日刑部三郎貞幸、信濃國から此の所于來り會う。

たけだ  おがさわら  あいぐ   べ   のむね  そ   めいあ    いへど   けいやくあ    しょう    ぶしゅう  ぞく    うんぬん
武田、小笠原に相具す可き之旨、其の命有ると雖も、契約有りと稱し、武州に属すと云々。

きょう   ばんけい ひでずみ みののくに  〔さんぬ じうくにち かんぐん   つか       ほうぼう   こぜきされ   ところなり  〕  よ   ひきゃくを きょうと  すす    もう    い
今日の晩景、秀澄、美濃國〔去る十九日官軍を遣はし、方々を固關被る所也。〕自り飛脚於京都へ進め、申して云はく。

かんとうし かんぐん やぶ   ため  すで じょうらく  ほっ    そ  せい うんか  ごと    ぶっしんのめいじょ あらざ ば   てんさい  のが  がた  か   うんぬん
關東士官軍を敗らん爲、已に上洛を欲す。其の勢雲霞の如し。佛神之冥助 非れ者、天災を攘れ難き歟と云々。

これ  よっ   いんちうしゅしょう  のぞ       さんいんごしゃ  ごりゅうがん  およ  ぎょうこうあ   べ   のよし  うんぬん
之に依て、院中周章を徐かんと、三院五社へ御立願に及び御幸有る可き之由と云々。

現代語承久三年(1221)五月大二十六日己酉。関東が無事なように、祈祷を始めました。鶴岡八幡宮では、仁王経を百回唱えます〔関東では初めてです〕。指導僧は、安楽坊法橋重慶。お経読みのリーダーは民部卿律師隆修。お供の坊さんは百人です。八幡宮寺と勝長寿院・永福寺・大慈寺の坊さん達です。又、下の宮での属星祭。義時さんの分のお祈りとして、百日の天曹地府祭を始めます。三善康俊・清原清定が指揮担当です。
一方泰時は、手越しの宿に着きました。春日刑部三郎貞幸が、信濃からここへ来て合いました。武田・小笠原に属すように、命じられていましたが、約束があると云って泰時軍に従いましたとさ。
(一方京都では)今日の晩方になって、藤原秀澄が、美濃国〔先日の19日に朝廷軍を派遣して、方々に陣地を構えています〕から伝令をよこして報告しました。「関東の武士たちが朝廷軍をやっつけるために、既に京都へ向けて出発をしました。その軍勢は、雲か霞の如く沢山です。神仏のご加護が無ければ、天から降っってくる災いを避ける事はできませんよ。」との事でした。これを聞いて院の中では、心配を取り除かなけりゃと、三人の院の名で、五つの神社へお願いに行くべきだと云ってるそうな。

承久三年(1221)五月大廿七日庚戌。返進勅使押松丸。進士判官代隆邦書 宣旨請文。則付押松訖。」今日重有祈請。如意寺法印圓意。弁法印定豪。大藏卿法橋良信。信濃法橋道禪等奉仕之。各遣供料云々。

読下し                      ちょくしおしまつまる  かえ  すす   しんじほうがんだいたかくに  せんじ  うけぶみ  か     すなは おしまつ ふ をはんぬ
承久三年(1221)五月大廿七日庚戌。勅使押松丸を返し進む。進士判官代隆邦、宣旨の請文を書く。則ち押松に付し訖。」

きょう かさ    きしょうあ      にょうじほういんえんい  べんのほういんていごう おおくらきょうほっきょうりょうしん  しなのほっきょうどうぜんら これ  ほうし
今日重ねて祈請有り。如意寺法印圓意、弁法印定豪、 大藏卿法橋良信、 信濃法橋道禪等之を奉仕す。

おのおの  くりょう   つか     うんぬん
 各 供料を遣はすと云々。

現代語承久三年(1221)五月大二十七日庚戌。朝廷からの使いの押松丸を京都へ返させました。進士判官代橘隆邦が、朝廷の命令への返事を書きました。すぐに押松丸に持たせました。
今日、なおもお祈りをさせました。如意寺法印円意・弁法印定豪・大蔵卿法橋良信。信濃法橋道禅などがこれを勤めました。それぞれに祈祷料を渡しましたとさ。

承久三年(1221)五月大廿八日辛亥。雨降。武州到于遠江國天龍河。連日洪水之間。可有舟船煩之處。此河頗無水。皆從歩渉畢。

読下し                      あめふ    ぶしゅう とおとうみにくに てんりゅうがわ に いた
承久三年(1221)五月大廿八日辛亥。雨降る。武州、遠江國 天龍河 于到る。

れんじつ こうずいのあいだ  しゅうせん わずら あ   べ   のところ  こ  かわすこぶ みずな    みな かち  わた をはんぬ
連日 洪水之間、 舟船の煩い有る可き之處、此の河頗る水無し。皆從歩で渉り畢。

現代語承久三年(1221)五月大二十八日辛亥。武州泰時さんは、遠江国の天竜川に着きました。連日の雨で洪水のため船が渡れるだろうかと心配していましたが、この川には全然水がないので、皆歩いて渡り終えました。

承久三年(1221)五月大廿九日壬子。雨降。佐々木兵衛尉太郎信實〔兵衛尉盛綱法師子〕相從北陸道大將軍〔朝時〕令上洛。爰阿波宰相中將〔信成卿。亂逆之張本云々〕家人酒匂八郎家賢〔腰瀧口季賢後胤〕引率伴類六十餘人。籠于越後國加地庄願文山之間。信實追討之訖。關東士敗官軍之最初也。」相州。武州等卒大軍上洛事。今日達叡聞云々。院中上下消魂云々。

読下し                      あめふ    ささきのひょうえのじょうたろうのぶざね 〔ひょうえのじょうもりつなほっし  こ 〕 ほくろくどうだいしょうぐん 〔ともとき〕  あいしたが じょうらくせし
承久三年(1221)五月大廿九日壬子。雨降る。佐々木兵衛尉太郎信實〔兵衛尉盛綱法師の子〕北陸道大將軍〔朝時〕に相從い上洛令む。

ここ  あわさいしょうちうじょう  〔のぶなりきょう ぎゃくらんおちょうほん うんぬん〕  けにん さかわのはいろういえかた 〔こし  たきぐちすえかた  こういん〕 ばんるい ろくじうよにん  いんそつ
爰に阿波宰相中將〔信成卿、亂逆之張本と云々〕が家人酒匂八郎家賢〔腰の瀧口季賢の後胤〕伴類 六十餘人を引率し、

えちごのくに かぢのしょう がんもんざんに こも のあいだ  のぶざねこれ ついとう をはんぬ かんとうし かんぐん  やぶ  のさいしょなり
越後國 加地庄@ 願文山A于籠る之間、信實之を追討し訖。 關東士官軍を敗る之最初也。」

そうしゅう  ぶしゅうら たいぐん ひき  じょうらく  こと  きょう えいもん  たっ   うんぬん  いんちう  じょうげこ たましい け    うんぬん
相州、武州等大軍を卒い上洛の事、今日叡聞に達すと云々。院中の上下 魂を 消すと云々。

参考@加治庄は、旧新潟県北蒲原郡加治町で現在は新発田市加治。佐々木盛綱領。
参考A
願文山は、新潟県新発田市貝屋の標高248m。

現代語承久三年(1221)五月大二十九日壬子。雨降りです。佐々木兵衛尉太郎信実〔兵衛尉三郎盛綱入道の息子〕は、北陸道大将軍〔北条朝時〕に従って京都へ上ります。そこで、阿波宰相中将〔信成さん、この反乱の首謀者です〕の家来の酒匂八郎家賢〔腰の瀧口季賢の子孫〕は、仲間や家来六十人を連れて、越後国加治庄願文山にたてこっていたので、信実はこれを攻め滅ぼしました。関東武士軍が朝廷軍を破った最初です。」

相州時房・武州泰時は、大軍を引き連れて京都へ上る事が、後鳥羽上皇のお耳に入りました。院の中では上も下も皆、意気消沈してしまいました。

承久三年(1221)五月大晦日癸丑。相州着遠江國橋本驛。入夜勇士十余輩潜相交于相州大軍。進出先陣。恠之令内田四郎尋問之處。候于仙洞之下総前司盛綱近親筑井太郎高重令上洛云々。仍誅伏之云々。

読下し                   そうしゅう  とおとうみのくに はしもとのうまや つ
承久三年(1221)五月大晦日癸丑。相州、 遠江國 橋本驛@に着く。

よ   い   ゆうしじゅよやから ひそか そうしゅう  たいぐんに あいまじ   せんじん しんしゅつ
夜に入り勇士十余輩 潜に 相州の大軍于相交り、先陣に進出す。

これ  あやし うちだのしろう じんもんせし  のところ  せんとうに そうら  しもふさぜんじもりつなの きんしん つくいのたろうたかしげ  じょうらくせし   うんぬん
之を恠み 内田四郎尋問令む之處、 仙洞于候う下総前司盛綱 之近親 筑井太郎高重、上洛令むと云々。

よっ  これ  ちうぶく   うんぬん
仍て之を誅伏すと云々。

参考@橋本駅は、浜名湖の新居関で、現静岡県湖西市新居町浜名に橋本バス停あり。

現代語承久三年(1221)五月大三十日癸丑。相州時房は、遠江国橋本(浜名湖)に着きました。夜になって勇士十数人が密かに相州時房の大軍に紛れ込み先頭へ行きました。これは怪しいと、内田四郎が問いただしたところ、院の側につこうとして、下総前司小野盛綱の親類の筑井太郎高重が京都へ向かう所でした。そこでこれを殺してしまいましたとさ。

六月へ

吾妻鏡入門第廿五巻

inserted by FC2 system