吾妻鏡入門第廿五巻

承久三年辛巳(1221)六月小

承久三年(1221)六月小一日甲寅。押松皈洛。參高陽院殿。被尋問食關東子細。押松自下着之日。至上洛路次令痛心神。爲傾官軍參洛之東士不知幾千万之由申之。院中諸人仰天之外無他云々。

読下し                    おしまつきらく     かやいんでん  まい    かんとう  しさい  たず  と   めされ
承久三年(1221)六月小一日甲寅。押松皈洛し、高陽院殿@に參る。關東の子細を尋ね問い食被る。

おしまつげちゃくのひ よ     じょうらく  ろじ   いた  しんしん  いた  せし    かんぐん  かたぶ  ため  さんらくの とうし   いくせんまん  しらずの よし
押松下着之日自り、上洛の路次に至り心神を痛ま令む。官軍を傾けん爲の參洛之東士、幾千万を知不之由、

これ  もう    いんちう  しょにん  ぎょうてんのほか たな    うんぬん
之を申す。院中の諸人、仰天之外他無しと云々。

現代語承久三年(1221)六月小一日甲寅。院の命令書を持って来た足利秀康の召使の押松丸は、京都へ戻り高陽院殿へ行きました。後鳥羽院は関東の詳しい事情をお尋ねになられました。「押松は、鎌倉へ着いてから、京都への帰り道はとても心の痛む道中でした。朝廷軍をやっつけようと京都へ向かってくる関東武士は、数えきれない状況です。」と報告しました。院へ集まっていた人々はびっくりする以外方法がありませんでした。

説明@高陽院殿は、桓武天皇の皇子賀陽(かや)親王の邸宅。平安京左京中御門の南、大炊(おおい)御門の北、西洞院(にしのとういん)の西、堀川の東にあった。後冷泉・後三条天皇の内裏ともなる。のち藤原摂関家の邸宅。Goo電子辞書から。現在の上京区京都府庁あたりのようである。

承久三年(1221)六月小三日丙辰。關東大將軍著于遠江國府之由。飛脚昨日入洛之間。有公卿僉儀。爲防戰。被遣官軍於方々。仍今曉各進發。所謂。北陸道。宮崎左衛門尉定範。糟谷左衛門尉有久。仁科次郎盛朝。東山道。大井戸渡。大夫判官惟信。筑後左衛門尉有長。糟谷四郎左衛門尉久季。鵜沼渡。美濃目代帶刀左衛門尉。神地藏人入道。池瀬。朝日判官代。關左衛門尉。土岐判官代。關田太郎。摩免戸。能登守秀康。山城守廣綱。下総前司盛綱。平判官胤義。佐々木判官高重。鏡右衛門尉久綱。安藝宗内左衛門尉。食渡。山田左衛門尉。臼井太郎入道。洲俣。河内判官秀澄。山田次郎重忠。市脇伊勢守光員等也。

読下し                   かんとうだいしょうぐん とおとうみこくふに つ   のよし  ひきゃく さくじつ じゅらくの あいだ くぎょうせんぎあ
承久三年(1221)六月小三日丙辰。關東大將軍、遠江國府于著く之由、飛脚 昨日 入洛之間、公卿僉儀有り。

ぼうせん  ため  かんぐんをほうぼう  つか  され    よっ  こんぎょう おのおの しんぱつ
防戰の爲、官軍於方々へ遣は被る。仍て今曉  各 進發す。

いはゆる  ほくろくどう    みやざきさえもんのじょうさだのり  かすやのさえもんのじょうありひさ  にしなのじろうもりとも
所謂、北陸道に、宮崎左衛門尉定範、 糟谷左衛門尉有久、 仁科次郎盛朝。

とうさんどう  おおいどのわたし   たいふほうがんこれのぶ  ちくごのさえもんのじょうありなが  かすやのしろうさえもんのじょうひさすえ
東山道の大井戸渡は、大夫判官惟信、 筑後左衛門尉有長、 糟谷四郎左衛門尉久季。

うぬまのわたし   みののもくだいたてわきさえもんのじょう  かみちのくらんどにゅうどう
鵜沼渡@は、 美濃目代帶刀左衛門尉、 神地藏人入道。

いけせ    あさひほうがんだい  せきのさえもんのじょう  ときのほうがんだい  せきたのたろう
池瀬Aに、朝日判官代、 關左衛門尉、 土岐判官代、 關田太郎。

 まめど      のとのかみひでやす  やましろのかみひろつな しもふさぜんじもりつな たいらのほうがんたねよし ささきのほうがんたかしげ
摩免戸Bは、 能登守秀康、 山城守廣綱、 下総前司盛綱、 平判官胤義、 佐々木判官高重、

かがみのうえもんのじょうひさつな あきのそうないさえもんのじょう
鏡右衛門尉久綱、 安藝宗内左衛門尉。

じきのわたし  やまだのさえもんのじょう  うすいのたろうにゅうどう  
食渡Cに、 山田左衛門尉、臼井太郎入道。

すのまた   かわちのほうがんひでずみ  やまだのじろうしげただ
洲俣Dは、 河内判官秀澄、 山田次郎重忠。

いちわき  いせのかみみつかずら なり
市脇に 伊勢守光員等也。

参考@鵜沼渡は、岐阜県各務原市鵜沼南町。
参考A
池瀬は、愛知県丹羽郡扶桑町山那屋敷地。
参考B摩免戸は、岐阜県各務原市前渡東町あたり。
参考C食渡は、岐阜県羽島郡岐南町下印食らしい。
参考
D洲俣は、岐阜県大垣市墨俣町墨俣。

現代語承久三年(1221)六月小三日丙辰。関東の大将軍が遠江の国府(磐田市見付らしい)へ着いたとの伝令が、昨日京都へ着いたので、公卿の会議を開きました。敵軍を防ぐためあちこちへ軍隊を派遣しました。それで、今朝の夜明けに皆出発しました。それは、

北陸道には、宮崎左衛門尉定範・糟谷左衛門尉有久・仁科次郎盛朝
東山道の大井戸渡しは、大夫判官大内惟信・筑後左衛門尉有長・糟谷四郎左衛門尉久季
    鵜沼渡しには、美濃目代帯刀左衛門尉・神地蔵人入道頼経

    池瀬  には、朝日判官代・関左衛門尉政綱・土岐判官代・関田太郎
    摩免戸 には、能登守藤性足利秀康・山城守佐々木広綱・下総前司小野盛綱
           ・平判官三浦胤義・佐々木判官高重・鏡右衛門尉久綱・安芸宗内左衛門尉

    印食渡しには、山田左衛門尉・臼井太郎入道常忠
    墨俣  には、河内判官藤原秀澄・山田次郎重忠
    市脇  には、伊勢守加藤太光員です。

承久三年(1221)六月小五日戊午。辰刻。關東兩將着于尾張國一宮邊。合戰間事有評議。自此所。相分方々道。鵜沼渡。毛利藏人大夫入道西阿。池瀬。武藏前司義氏。板橋。狩野介入道。摩免戸。武州。駿河前司義村以下數輩〔候侍輩也〕。洲俣。相州。城介入道。豊嶋。足立。江戸。河越輩也。及晩。山道討手武田五郎。同小五郎。小笠原次郎〔父子八人〕。小山新左衛門尉等渡大井戸。與官軍挑戰。大將軍惟信已下逃亡云々。有長。久季被疵。秀康。廣綱。胤義以下皆弃警固地。皈洛云々。

読下し                   たつのこく かんとう りょうしょう  おはりのくに いちのみやに つ     かっせん あいだ こと  ひょうぎあ
承久三年(1221)六月小五日戊午。辰刻。關東の兩將、 尾張國 一宮邊于着き、合戰の間の事、評議有り。

こ  ところよ     ほうぼう  みち  あいわか
此の所自り、方々の道に相分つ。

うぬまのわたし     もうりくらんどたいふにゅうどうせいあ   いけせ    むさしのぜんじよしうじ  いたばし  かのうのすけにゅうどう
鵜沼渡しは、毛利藏人大夫入道西阿。 池瀬は、武藏前司義氏。 板橋は、狩野介入道。

 まめど      ぶしゅう  するがのぜんじよしむら いげ  すうやから 〔さぶら   そうろ やからなり〕
摩免戸は、武州、駿河前司義村以下の數輩〔侍いに候う輩也〕

すのまた   そうしゅう  じょうのすけにゅうどう てしま  あだち   えど  かわごえ やからなり
洲俣は、相州、 城介入道、 豊嶋、足立、江戸、河越の輩也。

ばん  およ    さんどう  うって   たけだのごろう   どうこごろう   おがさわらのじろう 〔おやこはちにん〕    おやまのしんさえもんのじょうら  おおいど  わた
晩に及び、山道の討手、武田五郎、同小五郎、小笠原次郎〔父子八人〕、小山新左衛門尉等は大井戸を渡り、

かんぐんとちょうせん    だいしょうぐんこれのぶいげとうぼう   うんぬん
官軍與挑戰す。大將軍惟信已下逃亡すと云々。

ありなが  ひさすえ きずされ   ひでやす ひろつな たねよし いげ みなけいご  ち  す     きらく    うんぬん
有長、久季は疵被る。秀康、廣綱、胤義以下皆警固の地を弃て、皈洛すと云々。

現代語承久三年(1221)六月小五日戊午。関東の両将軍時房と泰時は、尾張国一宮大神神社へ着いて、合戦について軍議がありました。ここから軍隊を方々に分けました。
鵜沼の渡しには、毛利蔵人大夫入道西阿毛利季光。池瀬には、武蔵前司足利義氏。板橋には、狩野介入道宗茂。摩免戸には、武州泰時・駿河前司三浦義村ほか数名〔泰時について来た人〕。洲俣は、相州時房・城介入道安達景盛。豊島・足立・江戸・河越の連中です。
夜になって、東山道の軍隊、武田五郎信光・同小五郎信政・小笠原次郎長清〔親子八人〕・小山新左衛門尉朝長などは、大井戸の渡しを渡って、朝廷軍と戦いました。大将軍大内惟信以下が逃げましたとさ。筑後有長・糟谷久季は、傷を受けました。
藤性足利秀康・佐々木広綱・三浦胤義を始めとする連中は、守っていた陣地を投げ出して逃げましたとさ。

承久三年(1221)六月小六日己未。今曉。武藏太郎時氏。陸奥六郎有時。相具少輔判官代佐房。阿曾沼次郎朝綱。小鹿嶋橘左衛門尉公成。波多野中務次郎經朝。善左衛門尉太郎康知。安保刑部丞實光等渡摩免戸。官軍不及發矢敗走。山田次郎重忠獨殘留。與伊佐三郎行政相戰。是又逐電。鏡右衛門尉久綱留于此所。註姓名於旗面。立置高岸。與少輔判官代合戰。久綱云。依相副臆病秀康。如所存不遂合戰。後悔千万云々。遂自殺。見旗銘拭悲涙云々。武藏太郎到于筵田。官軍卅許輩相搆合戰。負楯。精兵射東士及數返。武藏太郎令善右衛門太郎中山次郎等射返之。波多野五郎義重進先登之處。矢石中右目。心神雖違亂。則射答矢云云。官軍逃亡。凡株河。洲俣。市脇等要害悉以敗畢。

読下し                   こんぎょう  むさしのたろうときうじ  むつのろくろうありとき  しょうゆうほうがんだいすけふさ  あそぬまのじろうともつな
承久三年(1221)六月小六日己未。今曉、武藏太郎時氏、陸奥六郎有時。 少輔判官代佐房、 曾沼次郎朝綱、

おがしまのたちばなさえもんのじょうきんなり  はたののなかつさじろうつねとも  ぜんのさえもんのじょうたろうやすとも  あぼのぎょうぶのじょうさねみつら  あいぐ
 小鹿嶋橘左衛門尉公成、 波多野中務次郎經朝、 善左衛門尉太郎康知、 安保刑部丞實光 等を相具し

  まめど   わた
摩免戸を渡る。

かんぐん や  はっ     およばずはいそう   やまだのじろうしげただ ひと  ざんりゅう   いさのさぶろうゆきまさ と  あいたたか   これまたちくてん
官軍矢を發するに及不敗走す。山田次郎重忠獨り殘留し、伊佐三郎行政 與相戰い、是又逐電す。

かがみうえもんのじょうひさつな こ  ところにとど    せいめいを はた  つら  ちう    たかぎし  た   お    しょうゆうほうがんだい と  かっせん
 鏡右衛門尉久綱 此の所于留まり、姓名於旗の面に註し、高岸に立て置き、少輔判官代 與合戰す。

ひさつな い      おくびょうひでやす あいそ     よっ    しょぞん  ごと  かっせん  とげず  こうかいせんばん  うんぬん  つい  じさつ
久綱云はく。臆病秀康を相副えるに依て、所存の如く合戰を遂不。後悔千万と云々。遂に自殺す。

はためい  み   ひるい   ぬぐ    うんぬん
旗銘を見て悲涙を拭うと云々。

むさしのたろう むしろだ に いた   かんぐんさんじうばか やから あいかま かっせん   たて  お  せいへいとうし   い       すうへん  およ
武藏太郎 筵田于到る。官軍卅許りの輩、相搆へ合戰す。楯を負う精兵東士を射ること數返に及ぶ。

むさしのたろう   ぜんのうえもんたろう   なかやまじろう ら   し   これ  いかえ
武藏太郎、善右衛門太郎、中山次郎等を令て之を射返す。

はたののごろうよししげ   せんと  すす  のところ  やせき みぎめ  あた    しんしんいらん   いへど  すなは や   いこたえ   うんぬん
波多野五郎義重、先登に進む之處、矢石右目に中り、心神違亂すと雖も、則ち矢を射答ると云云。

かんぐんとうぼう    およ  かぶがわ  すのまた  いちわきら  ようがい ことごと もっ  やぶ をはんぬ
官軍逃亡す。凡そ株河、洲俣、市脇等の要害、悉く以て敗れ畢。

現代語承久三年(1221)六月小六日己未。今朝の夜明けに、武蔵太郎北条時氏と陸奥六郎北条有時は、少輔判官代大江佐房(大江広元孫)、浅沼次郎朝綱、小鹿島橘次左衛門尉公成、波多野中務次郎経朝、三善右衛門太郎康知、安保刑部丞実光等を引き連れて、摩免戸を渡りました。朝廷軍は、恐れて矢も飛ばさずに逃げました。山田次郎重忠一人が残って、伊佐三郎行政と戦いましたが、これもまた逃げてしまいました。鏡右衛門尉久綱は、この場所に留まって、姓名を旗の表に書いたのを立てておいて、少輔判官代大江佐房と戦いました。鏡久綱が云うには、「臆病の足利秀康と組まされたので、思うように叩くことが出来ず、非常に残念で後悔している。」と云いながら自殺しました。旗の名前を見ながら悲しみの涙を流していましたとさ。

武蔵太郎時氏は、筵田まで進みました。朝廷軍は、三十人ほどが身構えて戦いました。楯をしょった優秀な兵隊が幕府軍を何度も射ました。武蔵太郎時氏・三善右衛門太郎康知・中山次郎重継たちはこれに対して矢を射返しました。波多野五郎義重は一番乗りをしましたが矢が右目に当たって、くらくらしましたが、すぐに相手に射返しましたとさ。朝廷軍は逃げ始めました。これで、株川・墨俣・市脇などの陣地が全て破られてしまいました。

承久三年(1221)六月小七日庚申。相州。武州以下東山東海道軍士陣于野上垂井兩宿。有合戰僉議。義村計申云。北陸道大將軍上洛以前。可被遣軍兵於東路歟。然者勢多。相州。手上。城介入道。武田五郎等。宇治。武州。芋洗。毛利入道。淀渡。結城左衛門尉。并義村可向之由云々。武州承諾。各不及異儀。駿河次郎泰村從父義村。雖可向淀手。爲相具武州。加彼陣云々。

読下し                   そうしゅう  ぶしゅう いげ とうさん  とうかいどう  ぐんし のがみ  たるい りょうしゅくに じん    かっせん  せんぎあ
承久三年(1221)六月小七日庚申。相州、武州以下東山、東海道の軍士野上、垂井@の兩宿于陣す。合戰の僉議有り。

よしむらはか  もう    い       ほくろくどう だいしょう   じょうらくいぜん   ぐんぴょうを とうろ   つか  され  べ   か
義村計り申して云はく。北陸道大將軍の上洛以前に、軍兵於東路へ遣は被る可き歟。

しからば   せた    そうしゅう  てがみ  じょうのすけにゅうどう たけだのごろうら    うじ     ぶしゅう  いもあらい   もうりにゅうどう
然者、勢多は、相州。手上は、城介入道、武田五郎等。宇治は、武州。芋洗Aは、毛利入道。

よど  わたし   ゆうきのさえもんんじょうなら   よしむらむか  べ   のよし  うんぬん
淀の渡は、結城左衛門尉并びに義村向う可き之由と云々。

ぶしゅうしょうだく   おのおの  いぎ  およばず
武州承諾す。 各、異儀に及不。

するがのじろうやすむら ちちよしむら  したが      よど  て   むか  べ    いへど
駿河次郎泰村、父義村に從い、淀の手に向う可きと雖も、

ぶしゅう  あいぐ    ため  か  じん  くは      うんぬん
武州に相具さん爲、彼の陣に加はると云々。

参考@垂井は、岐阜県不破郡垂井町。
参考A
芋洗は、京都府久世郡久御山町東一口西一口(いもあらい)。
宇治川からの巨椋池入口あたり。

現代語承久三年(1221)六月小七日庚申。相州時房・武州泰時を始めとする東山道・東海道の軍隊が野上・垂井の宿に陣営を置きました。作戦会議をしました。三浦義村が考えて云いました。「北陸道の大將軍が京都へ来る前に軍隊を京都の東方面へ進軍するのがよいのではないでしょうか。そこで、勢多へは、相州時房さん。手上へは城介入道安達景盛と武田五郎信光。宇治へは武州泰時さん。芋洗は、毛利入道季光。淀の渡しへは結城左衛門尉朝光と三浦義村が向かいましょう。」との事です。武州泰時は了解しました。皆も異議は申しませんでした。駿河次郎泰村は、父の義村に従って淀の渡しへ行くべきかもしれませんが、泰時と同行したいのでそちらに加わりました。

承久三年(1221)六月小八日辛酉。寅刻。秀康。有長。乍被疵令歸洛。去六日。於摩免戸合戰。官軍敗北之由奏聞。諸人變顏色。凡御所中騒動。女房并上下北面醫陰輩等。奔迷東西。忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等云々。次有御幸于叡山。女御又出御。女房等悉以乘車。上皇〔御直衣御腹巻。令差日照笠御〕。土御門院〔御布衣〕。新院〔同〕。六條親王。冷泉親王〔已上御直垂〕。皆御騎馬也。先入御尊長法印押小路河原之宅〔号之泉房〕。於此所。諸方防戰事有評定云々。及黄昏。幸于山上。内府。定輔。親兼。信成。隆親。尊長〔各甲冑〕等候御共。主上又密々行幸〔被用女房輿〕。職事資頼朝臣。具實朝臣〔已上直垂〕。劔璽在御輿。中納言局〔大相國女〕奉相副云々。主上。上皇 入御于西坂本梶井御所。兩親王令宿十禪師御云々。右幕下〔公經〕父子如囚人被召具之云々。」今日。式部丞朝時。結城七郎朝廣。佐々木太郎信實等相催越後國小國源兵衛三郎頼継。金津藏人資義。小野藏人時信以下輩。上洛之處。於越中國般若野庄。 宣旨状到來。佐々木次郎實秀〔不著冑〕立軍陣讀之。士卒應 勅旨。可誅右京兆之由也。其後相逢于官軍。宮崎左衛門尉。糟谷乙石左衛門尉。仁科次郎。友野右馬允等。各相具林石黒以下在國之類合戰。結城七郎殊有武功。乙石左衛門尉被討取訖。官軍雌伏。加賀國住人林次郎。石黒三郎爲降人。來向于李部并朝廣等陣。又武州逗留野上。」同日戌刻。鎌倉雷落于右京兆舘之釜殿。疋夫一人爲之被侵畢。亭主頗怖畏。招大官令禪門示合云。武州等上洛者。爲奉傾朝庭也。而今有此怪。若是運命之可縮端歟者。禪門云。君臣運命。皆天地之所掌也。倩案今度次第。其是非宜仰天道之决断。全非怖畏之限。就中此事。於關東爲佳例歟。文治五年。故幕下將軍征藤泰衡之時。於奥州軍陣雷落訖。先規雖明故可有卜筮者。親職。泰貞。宣賢等。最吉之由同心占之云々。

読下し                   とらのこく ひでやす ありなが  きずされなが  きらくせし
承久三年(1221)六月小八日辛酉。寅刻。秀康、有長、疵被乍ら歸洛令む。

さんぬ むいか   まめど  をい   かっせん    かんぐんはいぼくのよしそうもん
去る六日、摩免戸に於て合戰し、官軍敗北之由奏聞す。

しょにんかおいろ  か       およ  ごしょちうそうどう    にょぼうなら    じょうげほくめんいいん やからら  とうざい  はし  まよ
諸人顏色を變える。凡そ御所中騒動す。女房并びに上下北面醫陰の輩等、東西に奔り迷う。

ただのぶ さだみち  ありまさ  のりしげ いげ   くぎょう じしん うじ   せた   たわらら  むか  べ    うんぬん
忠信、定通、有雅、範茂以下の公卿侍臣宇治、勢多、田原等へ向う可しと云々。

つい  えいざんにぎょうこうあ    にょごまたいでたま    にょぼうら ことご  もっ  じょうしゃ
次で叡山于御幸有り。女御又出御う。女房等 悉く以て乘車す。

じょうこう 〔 ごのうし   おんはらまき   ひでりがわ   ささせし   たま  〕    つちみかどいん 〔 ごのうし 〕   しんいん 〔おなじ〕  ろくじょうしんのう れいぜいしんのう 〔いじょうひたたれ〕 
上皇〔御直衣に御腹巻。日照笠を差令め御う〕。土御門院〔御布衣〕。新院〔同〕。六條親王。冷泉親王〔已上御直垂〕

みなおんきばなり
皆御騎馬也。

ま  そんちょうほういん  おしこうじがわらの たく  い   たま   〔これ  せんぼう  ごう  〕    こ   ところ  をい    しょほうぼうせん  こと ひょうじょうあ    うんぬん
先ず尊長法印が押小路河原之宅に入り御う〔之を泉房と号す〕。此の所に於て、諸方防戰の事、評定有りと云々。

たそがれ  およ    さんじょうにこう    ないふ  さだすけ  ちかかね  のぶなり たかちか そんちょう 〔おのおの かっちゅう〕 ら おとも そうら
黄昏に及び、山上于幸ず。内府、定輔、親兼、信成、隆親、尊長〔 各 甲冑〕等御共に候う。

しゅじょうまた みつみつ ぎょうこう  〔にょぼうごし  もち   られ  〕    しきじすけよりあそん   ともざねあそん 〔いじょうひたたれ〕  つるぎじ おんこし  あ
主上又、密々に行幸す〔女房輿を用い被る〕。職事資頼朝臣、具實朝臣〔已上直垂〕。劔璽御輿に在り。

ちうなごんのつぼね〔だいそうこく  め 〕 あいそえたてまつ うんぬん
 中納言局〔大相國が女〕相副奉ると云々。

しゅじょう じょうこう  にしさkもとかじい  ごしょに い   たま    りょうしんのうじうぜんじ しゅくせし  たま    うんぬん
主上、上皇、西坂本梶井の御所于入り御う。兩親王十禪師に宿令め御うと云々。

 うばっか  〔きんつね〕  ふし めしうど  ごと  これ  めしぐされ   うんぬん
右幕下〔公經〕父子囚人の如く之を召具被ると云々。」

きょう  しきぶのじょうともとき  ゆきのしちろうともひろ  ささきのたろうのぶざねら えちごのくにおぐに  げんひょうえおさぶろうよりつぐ  かなづのくらんどすけよし
今日、式部丞朝時。結城七郎朝廣、佐々木太郎信實等越後國小國の源兵衛三郎頼継、 金津藏人資義、

おのくらんどときのぶ いげ  やから あいもよお  じょうらくのところ  えちゅうのくに はんにゃのしょう をい   せんじじょうとうらい
小野藏人時信以下の輩を相催し、上洛之處、越中國 般若野庄に於て、宣旨状到來す。

 ささきのじろうさねひで  〔よろい  つ  ず 〕 ぐんじん  た   これ  よ     しそつちょくし  おい    うけいちょう ちう  べ   のよしなり
佐々木次郎實秀〔冑を著け不〕軍陣を立て之を讀む。士卒勅旨に應じ、右京兆を誅す可し之由也。

そ   ご   かんぐんに あいあ    みやざきさえもんのじょう  かすやのおといしうえもんのじょう  にしなのじろう  ともののうまのじょうら
其の後、官軍于相逢い、宮崎左衛門尉、 糟谷乙石左衛門尉、 仁科次郎、友野右馬允等、

おのおの はやし いしぐろ いげ  ざいこくのたぐり あいぐ  かっせん
 各 林、石黒以下の在國之類を相具し合戰す。

ゆうきのしちろうこと  ぶこうあ     おといしうえもんのじょう  う  とられをはんぬ  かんぐんしふく
結城七郎殊に武功有り。乙石左衛門尉は討ち取被訖。 官軍雌伏す。

かがのくにじゅうにん はやしのじろう いしぐろさぶろう こうじんたり  りぶ なら    ともひろら  じんに きた  むか    また ぶしゅうのがみ  とうりゅう
加賀國住人 林次郎、石黒三郎 降人爲。李部并びに朝廣等の陣于來り向う。又、武州野上に逗留す。」

おな  ひ いぬのこく かまくら  うけいちょう やかたのかまどのにらくらい   ひっぷひとり こ  ため おかされ をはんぬ
同じ日戌刻、鎌倉の右京兆の舘之釜殿于雷落す。疋夫一人之の爲 侵被 畢。

てい ぬしすこぶ  ふい   だいかんれいぜんもん しめ  まね  あ   い
亭の主頗る怖畏し、大官令禪門を示し招き合い云はく。

ぶしゅうら  じょうらくは  ちょうてい かたぶ たてまつ ためなり  しか   いま こ   かい あ     も   これ  うんめいのしゅくたん すべ かてへ
武州等の上洛者、朝庭を傾け奉らん爲也。而るに今此の怪有り。若し是、運命之縮端 可き歟者り。

ぜんもんい      くんしん  うんめい  みなてんちのしょしょうなり  つらつ あん     このたび  しだい
禪門云はく。君臣の運命、皆天地之所掌也。倩ら案ずるに今度の次第、

そ   ぜひ   よろ    てんどう  あお  のけつだん  まった ふい のかぎ  あらず
其の是非は宜しく天道を仰ぐ之决断、全く怖畏之限りに非。

なかんづく  かく  こと  かんとう  をい  かれいたるか
就中に、此の事、關東に於て佳例爲歟。

 ぶんじごねん  こばっかしょうぐん  とうのやすひらせい   のとき  おうしゅう ぐんじん  をい かみなりお をはんぬ
文治五年、故幕下將軍、藤泰衡征する之時、奥州の軍陣に於て雷落ち訖。

せんき   あきら  いへど ことさら ぼくぜいあ  べ  てへ    ちかもと やすさだ  のぶかたら  さいきちのよしどうしん  これ  うらな   うんぬん
先規、明かと雖も故に卜筮有る可き者り。親職、泰貞、宣賢等、最吉之由同心に之を占うと云々。

現代語承久三年(1221)六月小八日辛酉。午前四時頃、足利秀康、筑後有長が傷を受けながら京都へ戻りました。先日の六日に摩免戸で戦って、朝廷軍は負けたと院に報告しました。これを聞いた院中の皆は顔色を変えて、御所中が大騒ぎになりました。女官や北面の警備兵・医者や陰陽師の連中が東西に逃げ惑っています。坊門忠信・大納言土御門定通・兵衛督源有雅・範茂を始めとする公卿や侍は宇治・勢多・田原などへ行くようにとの事でした。

ついで、仲恭天皇85は比叡山へ避難することになりました。お妃も同じなので、官女たちもみんな牛車に乗りました。
後鳥羽上皇
82〔普段着に簡易鎧の腹巻を着け、日照り笠を差させております〕・土御門院83〔普段着〕・新院順徳84〔同じ〕・六条親王・冷泉親王〔三人は直垂〕皆乗馬です。

参考後鳥羽82┬土御門83─後嵯峨88
      └順 徳84─仲 恭85

まず、尊長法印の押小路河原の家へ入りました〔これを泉房を云います〕。この場所であちこちの防戦について、会議がありましたそうな。夕方になって比叡山へ上りました。内大臣久我通光・藤原定輔(後鳥羽・順徳の琵琶の師)・親兼・信成・四条隆親・尊長〔それぞれ鎧兜姿です〕達がお供をしました。仲恭天皇もまた、内緒で出かけました〔女性用の輿にしました〕。蔵人頭資頼さん・具実さん〔二人は直垂〕。三種の神器の剣と勾玉は輿に乗せています。中納言局〔大相国三条公房の娘〕が一緒に行きましたとさ。仲恭天皇と後鳥羽上皇は、西坂本梶井の建物に入りました。六条冷泉の両親王は十禅師に宿泊されましたとさ。右大将〔西園寺公経〕親子は囚人の様に引き連れて行ったんだそうな。

今日、式部丞北条朝時・結城七郎朝広・佐々木太郎信実達は、越後国小国の源兵衛三郎頼継・金津蔵人資義・小野蔵人時信以下の連中を引き連れて、京都へ向かっていたところ、越中国般若野庄(富山県高岡市南部と砺波市北部あたり。大徳寺領)で後鳥羽上皇の命令書が届きました。佐々木次郎実秀〔兜をかぶらずに〕陣幕を引いて指揮所をこさえて、これを読み上げました。武士や従者は命令書を受けて、右京兆義時を殺すようにとの事です。その後、朝廷軍に出会い、宮崎左衛門尉定範・糟谷乙石左衛門尉有久・仁科次郎盛朝・友野右馬允遠久などは、それぞれ林・石黒を始めとする地元に住んでいる連中を連れて戦いました。結城七郎朝広は手柄を立てました。糟谷乙石左衛門尉有久は、殺されてしまいました。朝廷軍は降伏しました。加賀国の地元の豪族の林次郎・石黒三郎は捕虜になりました。式部丞朝時と結城七郎朝広の陣にやって来ました。又、武州泰時は野上(岐阜県不破郡)に留まっています。

(一方鎌倉では)同じ日の戌の刻(午後八時頃)鎌倉の義時さんの館の台所棟に雷が落ちました。下働きが一人感電死しました。主人の義時さんはとても怖がって、大江広元さんをお招きになって語りました。「泰時の京都へ出撃は、朝廷を一掃するためです。それなのに今このような不吉な出来事がありました。もしかしたらこれは、運命が縮まってしまう前兆ではないでしょうか?」大江広元が云うには、「君主や家来の運命は、全て天地の神様の手中にあります。今度の出来事を良く考えてみると、事の是非は、運を天に任せての決断で、恐れるには及びませんよ。ましてやこれは関東にとって良い出来事の例と同じですよ。文治五年(1189)頼朝様が、藤原泰衡を征伐の時、奥州の陣幕で雷が落ちましたよ。前の例に明らかではありますが、やっぱり占いをさせましょうかね。」とのことです。親職・泰貞・宣賢達が、最高に吉だだと口をそろえて云いましたとさ。

承久三年(1221)六月小九日壬戌。上皇御坐坂本。偏被恃思食山門之由被仰。以衆徒之微力。難防東士強威之旨奏聞。仍可有還御否。有其沙汰之處。右京兆可被誅之由有浮説。人々一旦成喜悦之思云々。又右幕下父子欲被斬罪。然而有儀。被止其事云々。

読下し                   じょうこうさかもと   おは    ひとへ さんもん  たの  おぼ  め され  のよしおお  られ
承久三年(1221)六月小九日壬戌。上皇坂本に御坐す。偏に山門を恃み思し食被る之由仰せ被る。

しゅうとの びりき   もっ    とうし   きょうい  ふさ  がた  のむねそうもん
衆徒之微力を以て、東士の強威を防ぎ難き之旨奏聞す。

よっ  かんご あるべ    いな    そ    さた あ   のところ  うけいちょうちうさる  べ   のよし ふせつあ    ひとびといったんきえつのおもい な    うんぬん
仍て還御有可きや否や、其の沙汰有る之處、右京兆誅被る可き之由浮説有り。人々一旦喜悦之思を成すと云々。

また  うばっか ふし ざんざいされ    ほっ   しかしながら ぎ あ       そ   こと  と   られ   うんぬん
又、右幕下父子斬罪被んと欲す。然而、 儀有りて、其の事を止め被ると云々。

現代語承久三年(1221)六月小九日壬戌。後鳥羽上皇は坂本におられます。比叡山の僧兵達を頼みにしていると仰せになれました。比叡山は僧兵達の力を持って幕府軍の脅威を防ぎましょうと申しあげました。それなので、お戻りになるかどうか、検討していると、右京兆義時が殺されたとの未確認情報が流れました。上皇の周りの人々は一旦はほっと胸をなでおろしたそうな。又、右大将西園寺公経親子を切り捨てようとしましたが、異議が出たので取り止めましたとさ。

承久三年(1221)六月小十日癸亥。主上三院自梶井御所。還御于高陽院殿。於白河邊各御乘車。土御門院与冷泉宮御同車。新院与六條宮御同車云々。右幕下父子被免勅勘云々。

読下し                   しゅじょう  さんいん  かじい   ごしょ よ     かやいんでんに かんご     しらかわへん をい  おのおの ごじょうしゃ
承久三年(1221)六月小十日癸亥。主上、三院、梶井の御所自り、高陽院殿于還御す。白河邊に於て 各 御乘車す。

つちみかどいんと れいぜいのみや ごどうしゃ     しんいんと ろくじょうのみや ごどうしゃ    うんぬん  うばっか  ふし ちょっかん めん  られ   うんぬん
土御門院与 冷泉宮 御同車す。新院与 六條宮 御同車すと云々。右幕下父子勅勘を免ぜ被ると云々。

現代語承久三年(1221)六月小十日癸亥。仲恭天皇と後鳥羽・土御門・順徳の三院は、梶井から高陽院殿にお帰りです。白河のあたりでそれぞれ牛車に乗りました。土御門院と冷泉宮は同車。順徳院と六条宮が同車したそうな。右大将西園寺公経親子は、後鳥羽上皇のお怒りを許されましたとさ。

承久三年(1221)六月小十一日甲子。諏訪大祝盛重去八日状。今日到來鎌倉。廻世上無爲懇祈之由献巻數。又子息太郎信重。相具小笠原上洛云々。

読下し                     すわのおおはふりもりしげ  さんぬ ようか  じょう  きょう  かまくら  とうらい
承久三年(1221)六月小十一日甲子。 諏訪大祝盛重 が去る八日の状、今日鎌倉に到來す。

せじょう ぶい   こんき  めぐ    のよしかんすう  けん    また   しそくたろうのぶしげ  おがさわら  あいぐ  じょうらく   うんぬん
世上無爲の懇祈を廻らす之由巻數を献ず。又、子息太郎信重、小笠原に相具し上洛すと云々。

現代語承久三年(1221)六月小十一日甲子。諏訪神社の神主大祝の諏訪盛重の先日八日の手紙が、今日鎌倉に着きました。関東が無事であるように祈ったお経の数を書いてきました。又、息子の太郎信重は、小笠原長清に従って京都へ行ったそうです。

承久三年(1221)六月小十二日乙丑。陰。重被遣官軍於諸方。所謂。三穂崎。美濃堅者觀嚴。一千騎。勢多。山田次郎。伊藤左衛門尉。并山僧引卒三千余騎。食渡。前民部少輔入道。能登守。下総前司。平判官。二千余騎。鵜飼瀬。長瀬判官代。河内判官。一千余騎。宇治。二位兵衛督。甲斐宰相中將。右衛門權佐。伊勢前司〔C定〕。山城守。佐々木判官。小松法印。二萬余騎。眞木嶋。足立源三左衛門尉。芋洗。一條宰相中將。二位法印。淀渡。坊門大納言等也。」今日。相州。武州休息野路邊。幸嶋四郎行時〔或号下河邊〕相具小山新左衛門尉朝長以下親類上洛之處。運志於武州年尚。於所々令傷死之條。稱日者本懷。離一門衆。先立自杜山。馳付野路驛。加武州之陣。于時酒宴砌也。武州見行時。感悦之餘閣盃。先請座上。次與彼盃於行時。令太郎時氏引乘馬〔黒〕。剩至于所具之郎從及小舎人童。召幕際。與餉等云々。芳情之儀。觀者弥成勇云々。

読下し                      くも     かさ   かんぐんを しょほう  つか  され
承久三年(1221)六月小十二日乙丑。陰り。重ねて官軍於諸方に遣は被る。

いはゆる  みほざき   みののりっしゃかんげん  いっせんき
所謂、三穂崎は、美濃堅者觀嚴、一千騎。参考三穂崎は、滋賀県大津市浜大津の三保ケ崎カ?

参考堅者(りっしゃ)は、仏教議論の場で質問に答える役目の僧。

 せた     やまだのじろう  いとうのさえもんのじょうなら    やまそうさんぜんよき  いんそつ
勢多は、山田次郎、伊藤左衛門尉并びに山僧三千余騎を引卒す。

じきのわたし  さきのみんぶしょうゆうにゅうどう  のとのかみ  しもふさぜんじ  へいほうがん  にせんよき
食渡は、 前民部少輔入道、 能登守、下総前司、平判官、二千余騎。参考食渡は、岐阜県羽島郡岐南町下印食らしい。

うかいのせ     ながせのほうがんだい  かわちほうがん  いっせんよき
鵜飼瀬は、 長瀬判官代、 河内判官、一千余騎。

 うじ      にいのひょうえのかみ  かいのさいしょうちうじょう  うえもんのごんのすけ  いせのぜんじ 〔きよさだ〕   やましろのかみ  ささきのほうがん
宇治は、 二位兵衛督、 甲斐宰相中將、 右衛門權佐、 伊勢前司〔C定〕、山城守、佐々木判官、

こまつのほういん    にまんよき
小松法印、二萬余騎。

 まきしま    あだちのげんざさえもんもんのじょう  いもあらい  いちじょうさいしょうちうじょう  にいのほういん よど  わたし   ぼうもんだいなごんなり
眞木嶋は、足立源三左衛門尉。 芋洗は、 一條宰相中將、 二位法印。淀の渡は、坊門大納言等也。」

きょう   そうしゅう  ぶしゅう のじへん  きゅうそく
今日、相州、武州野路邊に休息す。

こうじまのしろうゆきとき 〔 ある    しもこうべ   ごう  〕    おやまのしんさえもんのじょうともなが いげ  しんるい  あいぐ  じょうらく   のところ
幸嶋四郎行時〔或いは下河邊と号す〕、小山新左衛門尉朝長 以下の親類を相具し上洛する之處、

こころざしをぶしゅう はこ    としひさ    しょしょ  をい  しょうしせし  のじょう  ひごろ  ほんかい  しょう   いちもん  しゅう  はな
 志於 武州に運びて年尚し。所々に於て傷死令む之條、日者の本懷と稱し、一門の衆を離れ、

ま   もりやまよ   た     のじのうまや  は   つ     ぶしゅうのじん  くは
先ず杜山自り立ち、野路驛に馳せ付け、武州之陣に加はる。

ときに しゅえん みぎりなり  ぶしゅう ゆきとき  み     かんえつのあま さかづき さしお   ま   ざ  かみ  う     つぎ  か さかづきを ゆきとき  あた
時于酒宴の砌也。 武州 行時を見て、感悦之餘り 盃を閣き、先ず座の上に請け、次に彼の盃於 行時に與う。

たろうときうじ    し   じょうば 〔くろ〕    ひ   あまつさ ぐ  ところのろうじゅうおよ  ことねり わらわに いた   まくぎわ  め    かれいら  あた    うんぬん
太郎時氏を令て乘馬〔黒〕を引く。剩へ具す所之郎從及び小舎人童于 至り、幕際に召し、餉等を與うと云々。

ほうじょうの ぎ  みるものいよい ゆう  な     うんぬん
芳情之儀、觀者弥よ勇を成すと云々。

現代語承久三年(1221)六月小十二日乙丑。曇りです。尚も朝廷軍をあちこちに派遣しました。
それは、三穂崎は、美濃賢者観厳が一千騎。
勢多は、山田次郎重忠・伊藤左衛門尉祐時と比叡山の僧兵三千数騎を率いてます。
印食渡しには、前民部少輔入道源親広・能登守足利秀康・下総前司小野盛綱・平判官三浦胤義の二千数騎。
鵜飼瀬には、長瀬判官代・河内判官藤原秀澄の一千騎。
宇治には、二位兵衛督源有雅・甲斐宰相中将源範茂・右衛門権佐藤原朝俊・伊勢前司清定・山城守佐々木広綱・佐々木判官高重・小松熊野法印の二万数騎。
真木島には、足立源三左衛門尉親長。 芋洗には、一条宰相中将信能・二位法印尊長。 淀の渡しには、坊門大納言忠信さん達です。

今日、相州時房・武州泰時は、野路(滋賀県草津市野路)のあたりで休んでいます。幸島四郎行時〔別称を下河辺とも云います(行平の子)〕は、小山新左衛門尉朝長(朝政の子)等の親戚や一族と一緒に京都へ向かいましたが、泰時さんを尊敬しての付き合いが長いのです。「あちこちで戦って死ぬのが武士の本望なのだ。」と云って、一族から離れて、一人守山から分かれて野路の宿へ走って、泰時さんの陣営に加わりました。
その時、宴会の最中でしたが、泰時さんは行時を見つけて、大喜びをして盃を置いて、上座に座らせて盃を与えました。それに長子の太郎時氏に馬を引き出物にしました。そればかりか、連れていた子分の侍や小間使いにまで、陣幕内の脇まで呼んで飯を与えましたとさ。部下思いの行動に、見ている人々はいよいよ勇敢心をかきたてられましたとさ。

承久三年(1221)六月小十三日丙寅。雨降。相州以下自野路相分于方々之道。相州先向勢多之處。曳橋之中二箇間。並楯調鏃。官軍并叡岳悪僧列立招東士。仍挑戰爭威云々。酉刻。毛利入道。駿河前司向淀。手上等。武州陣于栗子山。武藏前司義氏。駿河次郎泰村不相觸武州。向宇治橋邊始合戰。官軍發矢石如雨脚。東士多以中之。籠平等院。及夜半。前武州。以室伏六郎保信。示送于武州陣云。相待曉天。可遂合戰由存之處。壯士等進先登之余。已始矢合戰。被殺戮者太多者。武州乍驚。凌甚雨。向宇治訖。此間又合戰。東士廿四人忽被疵。官軍頻乘勝。武州以尾藤左近將監景綱。可止橋上戰之由。加制之間。各退去。武州休息平等院云々。

読下し                      あめふ    そうしゅういげ  のじよ    ほうぼうにみちに あいわか
承久三年(1221)六月小十三日丙寅。雨降る。相州以下野路自り方々之道于相分つ。

そうしゅう ま    せた  むか  のところ  はしのなか にかけん  ひ    たて  なら やじり ととの   かんぐんなら    えいがく  あくそうなら  た   とうし  まね
相州、先ず勢多に向う之處、橋之中二箇間を曳き、楯を並べ鏃を調へた官軍并びに叡岳の悪僧列び立ち東士を招く。

よっ  ちょうせん い  あらそ   うんぬん  とりのこく  もうりにゅうどう  するがぜんじ  よど   てがみら   むか   ぶしゅう くりこやまに じん
仍て挑戰し威を爭うと云々。酉刻、毛利入道、駿河前司、淀、手上等へ向う。武州栗子山于陣す。

むさしのぜんじよしうじ するがのじろうやすむら  ぶしゅう あいふれず   うじばしへん   むか  かっせん はじ   かんぐん やせき  はっ  あまあし  ごと
武藏前司義氏、駿河次郎泰村、武州に相觸不、宇治橋邊に向い合戰を始む。官軍矢石を發し雨脚の如し。

とうし おお  もっ  これ  あた   びょうどういん  こも
東士多く以て之に中り、平等院に籠る。

やはん  およ   さきのぶしゅう むろふしろくろうやすのぶ もっ   ぶしゅう  じんに しめ  おく    い
夜半に及び、前武州。室伏六郎保信を以て、武州の陣于示し送りて云はく。

ぎょうてん あいま    かっせん  と   べ   よしぞん   のところ  そうし ら  せんと  すす  のあま    すで  やがっせん  はじ
曉天を相待ち、合戰を遂ぐ可し由存ずる之處、壯士等先登に進む之余り、已に矢合戰を始む。

さつりくされ  ものはなは おお  てへ
殺戮被る者太だ多し者り。

ぶしゅう おどろ なが    じんう   しの    うじ  むか をはんぬ
武州、驚き乍ら、甚雨を凌ぎ、宇治へ向い訖。

こ   かんまたかっせん  とうしにじうよにんたちま きずされ    かんぐん しき    か    じょう
此の間又合戰す。東士廿四人忽ち疵被る。官軍頻りに勝ちに乘ず。

ぶしゅう  びとうさこんしょうげんかげつな もっ   きょうじょう たたか   や     べ   のよし  せい  くは   のあいだ おのおの たいきょ
武州、尾藤左近將監景綱を以て、橋上の戰いを止める可き之由、制を加へる之間、 各 退去す。

ぶしゅう びょうどういん きゅうそく   うんぬん
武州、平等院に休息すと云々。

現代語承久三年(1221)六月小十三日丙寅。雨降りです。相州時房以下は、野路からあちこちの道に分けました。時房さんはまず、勢多の大橋へ向かったところ、橋の真ん中の二間分の敷板をひきはずして、その向こうに楯を並べ弓矢を構えた朝廷軍と比叡山の僧兵達が並んで東軍を挑発しています。それで戦いを仕掛け優劣を競いましたとさ。

午後六時頃に、毛利入道季光・駿河前司三浦義村は、淀・手上に向いました。泰時は栗小山に陣営を張りました。武蔵前司足利義氏と駿河次郎三浦泰村は、泰時に知らせずに、宇治橋へ行って戦い始めました。朝廷軍が放つ矢や石はまるで雨の様に降り注ぎ、幕府軍の兵士の多くがこれに当たったので、平等院に隠れました。

夜中になって、足利義氏は、室伏六郎保信を使って泰時の陣営へ送って告げました、「明け方を待って、戦い始めようと思っていましたが、勇敢の兵士が先陣争いをして既に矢を射合い始めました。殺されるものがとても多く出ました。」と云いました。これを聞いて泰時は驚きながらも、土砂降りの中を宇治へ向いました。この間も、合戦は続き、幕府軍の兵士24人がたちまち怪我をさせられました。朝廷軍は、勝ち戦で調子に乗ってます。泰時は、尾藤左近将監景綱を使いにして、不利な橋の上での戦いを止めるように制止しましたので、それぞれ引き退きました。泰時は、平等院で休憩を取りましたとさ。

承久三年(1221)六月小十四日丁夘。霽。雷鳴數聲。武州。越河不相戰者。難敗官軍由相計。召芝田橘六兼義。示可尋究河淺瀬之旨。兼義伴南條七郎。馳下眞木嶋。依昨日雨。緑水流濁。白浪漲落。雖難窺淵底。爲水練遂知其淺深。頃之馳皈。令渡之條。不可有相違之由申畢。及夘三刻。兼義。春日刑部三郎貞幸等受命爲渡宇治河伏見津瀬馳行。佐々木四郎右衛門尉信綱。中山次郎重継。安東兵衛尉忠家等。從于兼義之後。副河俣下行。信綱。貞幸云。爰歟瀬々々々者。兼義遂不能返答。經數町之後揚鞭。信綱。重継。貞幸。忠家同渡。官軍見之。同時發矢。兼義。貞幸乘馬。於河中各中矢漂水。貞幸沈水底。已欲終命。心中祈念諏方明神。取腰刀切甲之上帶小具足。良久而僅浮出淺瀬。爲水練郎從等被救訖。武州見之。手自加數箇所灸之間。住正念。所相從之子息郎從等。以上十七人没水。其後。軍兵多水面並轡之處。流急未戰。十之二三死。所謂。關左衛門入道。幸嶋四郎。伊佐大進太郎。善右衛門太郎。長江四郎。安保刑部丞以下九十六人。從軍八百餘騎也。信綱獨在中嶋古柳之陰。依後進勇士入水。欲渡失思慮。遣子息太郎重綱於武州陣云。賜勢可令着向岸者。武州示可加勇士之由。與餉於重綱。賜之訖。又歸于父之所。夘刻。雖着此中嶋。相待勢之程。重綱〔不着甲冑。不騎馬。裸而纏帷許於頭〕往還之間。依移剋。及日出之期也。武州招太郎時氏云。吾衆擬敗北。於今者。大將軍可死之時也。汝速渡河入軍陣。可捨命者。時氏相具佐久滿太郎。南條七郎以下六騎進渡。武州不發言語。只見前後之間。駿河次郎泰村〔主從五騎〕以下數輩又渡。爰官軍見東士入水。有乘勝氣色。武州進駕擬越河。貞幸雖取騎之轡。更無所于拘留。貞幸謀云。着甲冑渡之者。大略莫不没死。早可令解御甲給者。下立田畝。解甲之處。引隱其乘馬之間。不意留訖。信綱者。雖有先登之号。於中嶋經時刻之間。令着岸事者。與武藏太郎同時也。排大綱者。信綱取太刀切棄之。兼義乘馬雖中矢斃。依爲水練。無爲着岸。時氏揚旗發矢石。東士官軍挑戰爭勝負。東士已九十八人被疵云々。武州。武藏前司等乘筏渡河。尾藤左近將監令平出弥三郎壞取民屋造筏云々。武州着岸之後。武藏相摸之輩殊攻戰。大將軍二位兵衛督有雅卿。宰相中將範成(茂)卿。安達源三左衛門尉親長等失防戰之術遁去。筑後六郎左衛門尉知尚。佐々木太郎右衛門尉。野次郎左衛門尉成時等。以右衛門佐朝俊爲大將軍。殘留于宇治河邊相戰。皆悉亡命。此外官兵忘弓箭敗走。武藏太郎進彼後。令征伐之。剩放火於宇治河北邊民屋之間。自逃籠之族。咽煙失度云々。武州相具壯士十六騎。潜陣于深草河原。右幕下使〔長衡〕來此所云。迄何所有渡乎可奉見由。有幕下命云々。武州云。明旦可入洛候。最前可啓案内者。問使者名。長衡名謁訖。則以南條七郎付長衡。遣幕下之許。可警固其亭之旨。示付云々。毛利入道。駿河前司破淀。芋洗等要害。宿高畠邊。武州依立使者。兩人到深草云々。相州於勢多橋與官兵合戰。及夜陰。親廣。秀康。盛綱。胤義。棄軍陣皈洛。宿于三條河原。親廣者於關寺邊零落云々。官軍佐々木弥太郎判官高重以下。被誅于處云々。

読下し                     はれ  らいめいすうこえ ぶしゅう  かわ  こ   あいたたか ざれば  かんぐん やぶ  がた  よしあいはか
承久三年(1221)六月小十四日丁夘。霽。雷鳴數聲。武州、河を越へ相戰は不者、官軍を敗り難き由相計り、

しばたのきつろくかねよし め     かわ  あさせ  たず  きは  べ   のむね  しめ    かねよし なんじょうしちろう ともな    まきしま   は   くだ
芝田橘六兼義を召し、河の淺瀬を尋ね究む可き之旨を示す。兼義、南條七郎を伴い、眞木嶋へ馳せ下る。

さくじつ  あめ  よっ   みどり すいりゅう にご    しらなみちょうらく  えんてい うかが がた   いへど   すいれんたり  つい  そ   せんしん  し
昨日の雨に依て、緑の水流 濁る。白浪漲落し、淵底を窺い難しと雖も、水練爲。遂に其の淺深を知る。

しばらくあって は  かえ    わた  せし  のじょう  そうい あ  べからずの よしもう をはんぬ
 之の頃 馳せ皈り。渡り令む之條。相違有る不可之由申し畢。

うのさんこく  およ    かねよし  かすがのぎょうのさぶろうさだゆき ら めい  う    うじがわ   わた    ためふしみのつ  せ   は   ゆ
卯三刻に及び、兼義、 春日刑部三郎貞幸 等命を受け宇治河を渡らん爲伏見津の瀬へ馳せ行き、

 ささきのしろううえもんのじょうのぶつな   なかやまのじろうしげつぐ  あんどうのひょうえのじょうただいえ ら  かねよしのうしろにしたが   かわまた  した  そ    ゆ
佐々木四郎右衛門尉信綱、 中山次郎重継、  安東兵衛尉忠家  等、兼義之後于從い、河俣の下に副って行く。

のぶつな しげつぐい      ここかせ  ここかせ てへ     かねよしへんとう  と    あたはず  すうちょう へ   ののちむち  あ
信綱、貞幸云はく。爰歟瀬々々々者れば、兼義返答を遂ぐに不能、數町を經る之後鞭を揚ぐ。

のぶつな しげつぐ  さだゆき ただいえおな   わた    かんぐんこれ  み     どうじ   や   はっ
信綱、重継、貞幸、忠家同じく渡る。官軍之を見て、同時に矢を發す。

かねよし  さだゆき じょうば  かわなか をい おのおの や  あた  みず  ただよ   さだゆきすいて  しず   すで いのち おえ    ほっ
兼義、貞幸の乘馬、河中に於て 各 矢に中り水に漂い、貞幸水底に沈み、已に命を終んと欲す。

しんちゅう  すはみょうじん  きねん   こしがたな と  よろいのうわおび  こぐそく  き     ややひさ    て わずか あさせ  うか  いで
心中に諏方明神を祈念し、腰刀を取り甲之上帶、小具足を切り、良久くし而僅に淺瀬へ浮び出る。

すいれんたるろうじゅうら すくわれをはんぬ
水練爲郎從等に救被訖。

ぶしゅうこれ  み    てみずか すうかしょ  きゅう  くは    のあいだ  しょうねんすま   あいしたが ところのしそくろうじゅうら  いじょうじうしちにん みず  ぼっ
武州之を見て、手自ら數箇所の灸を加うる之間に、正念住う。相從う所之子息郎從等、以上十七人 水に没す。

そ   ご   ぐんぴょうおお みなも くつわ なら    のところ ながれきゅう    いま  たたか        とおの    にさん   し
其の後、軍兵多く水面に轡を並べる之處。流急にして未だ戰はずに、十之うち二三は死す。

いはゆる せきさえもんにゅうどう  こうしまのしろう   いさのだいしんたろう   ぜんのうえもんたろう   ながえのしろう  あぼのぎょうぶのじょう いげ くじうろくにん  じゅうぐんはっぴゃくよきなり
所謂、關左衛門入道、幸嶋四郎、伊佐大進太郎、善右衛門太郎、長江四郎、 安保刑部丞 以下九十六人、從軍八百餘騎也。

のぶつな ひと なかのしま ふるやなぎもかげ あ       こうしん  ゆうし  じゅすい   よっ     わた      ほっ        しりょ  うしな
信綱 獨り中嶋の古柳 之陰に在りて、後進の勇士の入水に依て、渡らんと欲するも思慮を失う。

しそくたろうしげつなを ぶしゅう  じん  つか     い      せい  たま   むこうぎし  つ   せし  べ   てへ
子息太郎重綱於武州の陣に遣はして云はく。勢を賜はり向岸に着か令む可し者り。

ぶしゅう  ゆうし くは    べ   のよし   しめ   かれいをしげつな あた    これ  たま  をは  また  ちちのところにかえ
武州勇士を加へる可し之由を示し、餉於重綱に與う。之を賜はり訖り又、父之所于歸る。

うのこく  こ  なかのしま  つ    いへど  せい  あいまつ  のほど  しげつな 〔かっちゅう  つ  ず    きばせず   はだか  てかたびらばか をあたま まと  〕  おうかんのあいだ
夘刻、此の中嶋へ着くと雖も、勢を相待つ之程、重綱〔甲冑を着け不。騎馬不。裸に而帷許り於頭に纏う〕往還之間、

とき  うつ     よっ     ひのでの ご  およ  なり
剋を移すに依て、日出之期に及ぶ也。

ぶしゅう  たろうときうじ  まね    い
武州、太郎時氏を招いて云はく。

わがしゅうはいぼく  ぎ     いま  をい  は  だいしょうぐん  し   べ   のときなり  なんじ すみや  かわ  わた  ぐんじん  い    いのち す    べ
吾衆 敗北を擬す。今に於て者、大將軍の死す可き之時也。汝、速かに河を渡り軍陣に入り、命を捨てる可し

てへ      ときうじ    さくまのたろう   なんじょうのしちろういげ   ろっき   あいぐ   すす  わた
者れば、時氏、佐久滿太郎・南條七郎以下の六騎を相具し進み渡る。

ぶしゅう  ことば  はっせず  ただぜんご  み   のあいだ  するがのじろうやすむら 〔しゅじゅう ごき 〕 いげ すうやから またわた
武州、言語を發不、只前後を見る之間、駿河次郎泰村〔主從五騎〕以下數輩、又渡る。

ここ  かんぐん とうし  みず  い     み     かち  じょう   けしき あ
爰に官軍東士の水に入るを見て、勝に乘じる氣色有り。

ぶしゅう が  すす  かわ  こ       ぎ     さだゆき  うまのくつわ  と     いへど   さら  こうりゅうにところな   さだゆきたばか   い
武州駕を進め河を越さんと擬す。貞幸、騎之轡を取ると雖も、更に拘留于所無し。貞幸謀りて云はく。

かっちゅう き   わた  のもの  たいりゃくぼっしせざ   な     はや  おんよろい と   せし  たま  べ   てへ
甲冑を着て渡る之者、大略没死不るは莫し。早く御甲を解か令め給ふ可し者り。

た   あぜ  お   た    よろい と   のところ  そ   じょうば  ひ   かく  のあいだ  いならず とどま をはんぬ
田の畝に下り立ち、甲を解く之處、其の乘馬を引き隱す之間、意不に留り訖。

のぶつなは  せんとの ごうあ     いへど  なかのしま  をい  じこく   へ   のあいだ  ちゃくがんせし  ことは  むさしのたろうと どうじなり
信綱者、先登之号有ると雖も、中嶋に於て時刻を經る之間、着岸 令む事者、武藏太郎與同時也。

おおあみ はい は   のぶつな たち  と   これ  き   す
大綱を排す者、信綱太刀を取り之を切り棄てる。

かねよし じょうば や   あた  たお   いへど   すいれんたる よっ     むい   きし   つ
兼義が乘馬矢に中り斃ると雖も、水練爲に依て、無爲に岸へ着く。

ときうじはた  あ   やせき  はっ    とうし  かんぐん  ちょうせんしょうぶ あらそ   とうし すで  くじうはちにんきずされ   うんぬん
時氏旗を揚げ矢石を發す。東士、官軍の挑戰勝負を爭う。東士已に九十八人疵被ると云々。

ぶしゅう  むさしのぜんじら いかだ の   かわ  わた    びとうさこんしょうげん  ひらいでいやさぶろう し  みんや  こわ  と  いかだ  つく    うんぬん
武州、武藏前司等筏に乘り河を渡る。尾藤左近將監、平出弥三郎を令て民屋を壞し取り筏を造ると云々。

ぶしゅう ちゃくがんののち  むさし  さがみのやからこと  せ  たたか
武州、着岸之後、武藏、相摸之輩殊に攻め戰う。

だいしょうぐんにいのひょうえのかみありまさきょう  さいしょうちうじょうのりもちきょう あだちのげんざさえもんのじょうちかなが ら  ぼうせんのすべ  うしな のが  さ
 大將軍 二位兵衛督有雅卿、 宰相中將範茂卿、 安達源三左衛門尉親長 等、防戰之術を失い遁れ去る。

ちくごのろくろうさえもんのじょうともひさ  ささきのたろううえもんのじょう   のじろうさえもんのじょうじょうなりときら  うえもんのすけともとし  もっ  だいしょうぐん  な
筑後六郎左衛門尉知尚、佐々木太郎右衛門尉、野次郎左衛門尉成時等、右衛門佐朝俊を以て大將軍と爲し、

うじがわへんに のこ  とど    あいたたか   みなことごと いのち うしな   こ   ほか  かんぺいゆみや  わす  はいそう
宇治河邊于殘り留まり相戰い、皆 悉く 命を亡う。此の外の官兵弓箭を忘れ敗走す。

むさしのたろう か  うしろ  すす   これ  せいばつせし
武藏太郎彼の後へ進み、之を征伐令む。

あまつさ うじがわほくへん みんや  ひを はな  のあいだ  おのず  に  こも  のやから けむり むせ ど  うしな   うんぬん
剩へ宇治河北邊の民屋に火於放つ之間、自から逃げ籠る之族、煙に咽び度を失うと云々。

ぶしゅう そうしじうろっき  あいぐ     ひそか ふかくさがわらに じん    うばっか   つか   〔ながひら〕  こ  ところ  きた   い
武州壯士十六騎を相具し、潜に深草河原于陣す。右幕下@の使い〔長衡〕此の所に來て云はく。

 どこ までわた  あ   や みたてまつ べ  よし  ばっか  めいあ    うんぬん
何所迄渡り有る乎見奉る可し由、幕下の命有りと云々。

ぶしゅう い     みょうたんじゅらくすべ そうろう  さいぜん  あない  けいすべ  てへ      ししゃ  な   と    ながひらなのり をはんぬ
武州云はく。明旦入洛可く候。 最前に案内を啓可し者れば、使者の名を問う。長衡名謁り訖。

すなは なんじょうしちろう もっ  ながひら  つ     ばっかの もと  つか      そ   てい  けいごすべ  のむね  しめ  つ    うんぬん
則ち、南條七郎を以て長衡に付け、幕下之許へ遣はし、其の亭@を警固可し之旨、示し付けると云々。

もうりのにゅうどう するがのぜんじよど  わた   いもあらいら  ようがい  たかばたへん しゅく   ぶしゅう ししゃ  た      よっ   りょうにんふかくさ  いた   うんぬん
毛利入道、駿河前司淀を破り、芋洗等の要害、高畠A邊へ宿す。武州使者を立てるに依て、兩人深草に到ると云々。

そうしゅう  せたばし  をい  かんぺいと かっせん   やいん  およ   ちかひろ  ひでやす  もりつな  たねよし  ぐんじん  す   きらく   さんじょうがわらに しゅく
相州、勢多橋に於て官兵與合戰す。夜陰に及び、親廣、秀康、盛綱、胤義、軍陣を棄て皈洛し、三條河原于宿す。

ちかひろは せきでらへん をい  れいらく    うんぬん  かんぐん ささきのいやたろうほうがんたかしげ いげ  ところに ちうされ   うんぬん
親廣者、關寺邊に於て零落すと云々。官軍 佐々木弥太郎判官高重 以下、處于誅被ると云々。

参考@右幕下は、西園寺公経。其の亭は、後の金閣寺の場所。
参考A
高畠は、京都市伏見区醍醐高畑町。

現代語承久三年(1221)六月小十四日丁卯。晴れました。雷が数度鳴りました。泰時さんは、川を越えて戦わない事には、朝廷軍をやっつけられないと考えて、芝田橘六兼義を呼んで、川の浅いところを見つけるように言いつけました。兼義は南条七郎時員を連れて真木島へ走り下りました。昨日の雨で水量が増え緑の水は濁って白波を立てているので、底の位置を分かり難いのですが、水泳の達者なので、とうとうその浅い深い位置を知ることが出来ました。暫くして走って戻り、「渡れることは間違いございません。」と報告しました。
午前五時半頃になって、芝田兼義・春日刑部三郎貞幸などが、命令されて宇治川を渡るために、伏見港の浅瀬へ走って行き、佐々木四郎右衛門尉信綱・中山次郎重継・安東兵衛尉忠家達は、兼義の後ろについて川俣の下に沿って行きました。佐々木信綱と春日貞幸が「ここが浅瀬か?ここが浅瀬か?」と聞きましたが、兼義はすぐに答えられずに、数百メートルを歩いた後で、馬に鞭をくれました。佐々木信綱・中山重継・春日貞幸・安東忠家も同じように川を渡り始めました。朝廷軍はこれを見て弓矢を放ってきます。芝田兼義と春日貞幸の馬は、川の中でそれぞれが矢に当たって流され、春日貞幸は水底に沈み、死んでしまいそうです。心で諏訪明神を祈りながら、腰の刀を取って鎧の上に結わえた帯やすね当てなどを切って、しばらくしてやっとの思いで浅瀬にたどり着きました。水泳の名人だから助かったのです。
泰時は、これを見て自ら数か所にお灸をすえてやったので、やっとこさ正気に戻りました。しかし、貞幸についていた息子達や家来ども十七人は水に流されました。

その後、軍隊の多くが馬を並べて川へ入りましたが、流れが急なので戦う前に流されて、十人ちゅう二三人は死んでしまいました。それは、関左衛門入道政綱・幸島四郎行時・伊佐大進太郎・三善右衛門太郎康知・長江四郎明義・安保刑部丞実光以下九十六人、彼らに従っていた兵隊八百騎です。佐々木信綱一人は、中の島の古い柳の根方にいました。後から続く連中が川に呑み込まれたのを見て、渡るすべがなくなりました。息子の太郎重綱を泰時の陣へ行かせて「応援を出してくれれば向こう岸へ着くことが出来るでしょう。」と云わせました。泰時は、応援を送る事を指示して、ご飯を重綱に与えました。これを戴いて又父の所へ引き返しました。

午前六時に佐々木信綱は、この中の島へ着いていましたが、応援を待って重綱〔鎧を着けず、馬に乗らず、裸に帷子だけを頭に巻いていた〕が往復する間に時は流れて、日の出の時間になってしましました。
泰時は、倅の太郎時氏を呼んで云いました。「このままでは、わが軍は負けてしまいそうだ。今こそ大將軍が命を懸けて戦う時である。お前はすぐに川を渡って先頭に加わり命を捨ててこい。」と云ったので、時氏は佐久間太郎・南条七郎以下の六騎を連れて川を渡って行きました。それから泰時は何も言わずにただ前後の武士を見ていると、駿河次郎泰村〔主従五騎〕以下数騎の連中が又渡って行きました。
これを見ていた朝廷軍は、川を渡っている無防備な幕府軍を見て、この機に乗じて攻める様子を見せました。そこで泰時は馬を進めて川を渡ろうとしましたが、春日貞幸は、泰時の乗馬のくつわを掴みましたが、結わえる場所もありません。そこで貞幸はだまして言いました。「鎧兜を着たまま川を渡れば、ほとんど沈んでしまいますよ。早く鎧を外してください。」と云いました。泰時が田んぼのあぜ道に下りて鎧を外している間に、その乗馬を引いて隠してしまったので、やむを得ず留まりました。
佐々木信綱は、先頭に進んだと云えるが、中の島で時間を費やしていたので、向こう岸に着いたのは、武蔵太郎時氏を同時でした。川岸には、大きな網が仕掛けられていましたが、信綱が刀で切って捨てました。芝田兼義は、乗馬に矢が当たって流されましたが、水泳が達者なので無事に向こう岸に着きました。
太郎時氏は、岸に上がって背中に旗を立て弓矢を射ました。幕府軍と朝廷軍とが勝負を決して戦いました。幕府軍では、九十八人も怪我をさせられたそうな。
武州泰時・武蔵前司足利義氏達は、筏に乗って川を渡りました。尾藤左近将監・平出弥三郎に命じて、民家を取り壊し筏を造らせたそうな。泰時が向こう岸へ着いた後、武蔵と相模の連中が張り切って攻めました。
朝廷軍の大將軍二位兵衛督源有雅さん・宰相中将源範茂さん・安達源三左衛門尉親長などは、防ぐ手立てを失って逃げてしまいました。筑後六郎左衛門尉知尚・佐々木太郎右衛門尉高重・小野次郎左衛門尉成時等は、葉室右衛門佐朝俊を大將軍として宇治川のあたりに留まって戦い、皆全て命を失いました。その他の朝廷軍は、戦わずに負けて逃げてしまいました。
武蔵太郎時氏は、それらの後ろから追って、やっつけてしまいました。そればかりか、宇治川の北側の民家に火をつけたので、そこいらに逃げ込んでいた連中が煙にむせて慌てていましたとさ。
泰時は、強い兵士十六騎を連れて、密かに深草河原に居ました。右大将西園寺公経の使い〔長衡〕が、この場所に来て云いました。「どこまでお出でになっているか見て来るように公経さんの命令でした。」だとさ。泰時は云いました。「明日には京都へ入れると思うので、まず案内をして貰いたい。」と云いながら使いの名を聞きました。長衡と名乗りました。すぐに南条七郎を長衡につけて、右大将公経の所へ派遣し、その屋敷を警備するように言いつけましたとさ。

毛利入道季光・駿河前司三浦義村は、淀の敵を破り、芋洗の陣地や高畠のあたりに泊まっていたので、泰時が使いを出したので、両人とも深草へ来ました。相州時房は、勢多橋で朝廷軍と戦いました。夜になって、前民部少輔入道源親広・能登守足利秀康・下総前司小野盛綱・平判官三浦胤義は、兵隊を置き去りにして京都へ帰り、三条河原に泊まりました。前民部少輔入道親広は、関寺のあたりで行方不明になったそうな。朝廷軍の佐々木佐太郎判官高重以下は、その場で首を刎ねられました。

承久三年(1221)六月小十五日戊辰。陰。寅剋。秀康。胤義等參四辻殿。於宇治勢多兩所合戰。官軍敗北。塞道路之上。已欲入洛。縱雖有萬々事。更難免一死之由。同音奏聞。仍以大夫史國宗宿祢爲勅使。被遣武州之陣。兩院〔土御門。新院〕。兩親王令遁于賀茂貴舟等片土御云々。辰刻。國宗捧院宣。於樋口河原。相逢武州。述子細。武州稱可拝院宣。下馬訖。共勇士有五千餘輩。此中可讀院宣之者候歟之由。以岡村次郎兵衛尉。相尋之處。勅使河原小三郎云。武藏國住人藤田三郎。文博士者也。召出之。藤田讀院宣。其趣。今度合戰。不起於叡慮。謀臣等所申行也。於今者。任申請。可被宣下。於洛中不可及狼唳之由。可下知東士者。其後又以御随心頼武。於院中被停武士參入畢之旨。重被仰下云々。盛綱。秀康逃亡。胤義引籠于東寺門内之處。東士次第入洛。胤義與三浦佐原輩。合戰數反。兩方郎從多以戰死云々。巳刻。相州。武州之勢着于六波羅。申刻。胤義父子於西山木嶋自殺。廷尉郎從取其首。持向太秦宅。義村尋取之。送武州舘云々。秉燭之程。官兵宿廬各放火。數箇所燒亡。運命限今夜之由。都人皆迷惑。非存非亡。各馳走東西。不異秦項之災。東士充滿畿内畿外。求出所遁戰塲之歩兵。斬首拭白刄不有暇。人馬之死傷塞衢。行歩不安。郷里無全室。耕所無殘苗。好武勇西面北面忽亡。立邊巧近臣重臣。悉被虜。可悲。當于八十五代澆季。皇家欲絶。」今日。關東祈祷等結願也。屬星祭々文。民部大夫行盛相兼草C書。及此期。官兵令敗績。可仰佛力神力之未落地矣。

読下し                     くも    とらのこく  ひでやす  たねよしら よつつじどの まい    うじ せた りょうしょ かっせん  をい    かんぐんはいぼく
承久三年(1221)六月小十五日戊辰。陰り。寅剋。秀康。胤義等四辻殿に參り、宇治勢多兩所の合戰に於て、官軍敗北す。

どうろ   ふさ  のうえ  すで  じゅらく  ほっ    たと  まんまん  ことあ    いへど    さら  いっし   まぬ    がた   のよし  どうおん  そうもん
道路を塞ぐ之上、已に入洛を欲す。縱い萬々の事有りと雖も、更に一死を免かれ難き之由、同音に奏聞す。

よっ  たいふさかんくにむねすくね もっ  ちょくし  な     ぶしゅうのじん  つか  され
仍て大夫史國宗宿祢を以て勅使と爲し、武州之陣に遣は被る。

りょういん 〔つちみかど  しんいん〕  りょうしんのう  かも  きぶねら  へんどに のが  せし  たま   うんぬん
兩院〔土御門。新院〕、兩親王賀茂貴舟等の片土于遁れ令め御うと云々。

たつのこく くにむねいんぜん ささ   ひぐちがわら  をい    ぶしゅう  あいあ     しさい  の       ぶしゅういんぜん はい  べ    しょう     げば  をはんぬ
辰刻、國宗院宣を捧げ、樋口河原に於て、武州に相逢い、子細を述べる。武州院宣を拝す可しと稱し、下馬し訖。

とも  ゆうし ごせんよやからあ
共の勇士五千餘輩有り。

こ   なか   いんぜん  よ   べ   のものそうらうかのよし  おかむらのじろうひょうえのじょう  もっ     あいたず   のところ  てしがわらのこさぶろう い
此の中に、院宣を讀む可き之者候歟之由、 岡村次郎兵衛尉@ を以て、相尋ねる之處、勅使河原小三郎云はく。

むさしのくにじうにん ふじたのさぶろう   もんはくじ  ものなり  これ  めしいだ   ふじたいんぜん  よ
武藏國住人 藤田三郎は、文博士の者也。之を召出す。藤田院宣を讀む。

そ おもむき このたび  かっせん  えいりょ  をい  おきず  かんしんら  もう おこな とことなり  いま  をい  は   もう  う     まか   せんげされ  べ
其の趣、今度の合戰、叡慮に於て起不。謀臣等の申し行う所也。今に於て者、申し請けに任せ、宣下被る可し。

らくちゅう をい  ろうるい  およ  べからずのよし  とうし    げち すべ  てへ
洛中に於て狼唳に及ぶ不可之由、東士に下知可き者り。

そ   ご また  ごずいしんよりたけ  もっ    いんちゅう をい   ぶし  さんにゅう と  られをはんぬのむね  かさ    おお  くだされ   うんぬん
其の後又、御随心頼武を以て、院中に於て武士の參入を停め被 畢 之旨、重ねて仰せ下被ると云々。

もりつな  ひでやすとうぼう   
盛綱、秀康逃亡す。

 たねよし とうじ  もんないに ひきこも  のところ  とうし しだい  じゅらく    たねよしと みうら  さわら  やから  かっせんすうたん
胤義東寺の門内于引籠る之處、東士次第に入洛し、胤義與三浦、佐原の輩、合戰數反。

りょうほう ろうじゅうおお  もっ  せんし    うんぬん
兩方の郎從多く以て戰死すと云々。

みのこく  そうしゅう ぶしゅうのせい ろくはらに つ     さるのこく たねよしおやこ にしやま このしま   をい   じさつ
巳刻、相州、武州之勢六波羅于着く。申刻、胤義父子 西山の木嶋Aに於て自殺す。

ていい  ろうじゅう そ  くび  と     うづまさ  たく  もちむか   よしむらこれ  たず  と     ぶしゅう  やかた おく    うんぬん
廷尉の郎從其の首を取り。太秦の宅へ持向う。義村之を尋ね取り、武州の舘へ送ると云々。

へいしょくのほど  かんぺい  すくろ おのおの ほうか   すうかしょしょうぼう
秉燭之程、官兵が宿廬、各に放火し、數箇所燒亡す。

うんめい こんや  かぎ  のよし みやこびとみなまよ  まど   そん あらずぼう あらず  おのおの とうざい  は   はし   しんこうのわざわい こと   ず
運命今夜に限る之由、都人皆迷い惑う。存に非亡に非。 各 東西に馳せ走る。秦項之災に異なら不。

とうし きない きがい   じゅうまん   せんじょう  のが   ところのかちだち もと  いだ    くび  き   はくじん ぬぐ   いとまあ  ず
東士畿内畿外に充滿し、戰塲を遁れる所之歩兵を求め出し、首を斬り白刄を拭うに暇有ら不。

じんばの ししょうまち  ふさ    ぎょうほやすら    ざる  ごうさと  まった しつな    たがや   ところな  なえのこ    ぶゆう  この  さいめんほくめんたちま ほろ
人馬之死傷衢を塞ぎ、行歩安かなら不。郷里に全く室無し。耕すに所無く苗殘る。武勇を好む西面北面 忽ち亡ぶ。

あたり た  たく  きんしんじゅうしん ことごと とりこ され   かなし べ    はちじうごだい  ぎょうきに あた     こうけ た       ほっ
邊に立ち巧む近臣重臣、悉く虜に被る。悲む可し。八十五代の澆季于當り、皇家絶へんと欲す。」

きょう   かんとう  きとうら   けちがんなり  ぞくしょうさいさいぶん  みんぶのたいふゆきもり あいかね  せいしょ そう
今日、關東の祈祷等の結願也。屬星祭々文、 民部大夫行盛 相兼てC書を草す。

こ   ご   およ   かんぺい はいせき せし    あお  べ   ぶつりきしんりきの いま  ち   お       や
此の期に及び、官兵 敗績 令む。仰ぐ可し佛力神力之未だ地に落ちざる矣。

参考@岡村次郎兵衛尉は、諏訪市岡村。諏訪神党。
参考A木嶋は、京都市右京区太秦森ケ東町の木嶋神社のあたりか?

現代語承久三年(1221)六月小十五日戊辰。曇りです。午前四時頃、足利秀康・三浦胤義達は、一条万里小路の御所四辻殿へ行って、「宇治と勢多の両方の場所で朝廷軍は負けました。道路を塞いだうえで既に京の町へ入ろうとしています。たとえ万が一のことがあっても、死を逃れる事は出来ないでしょう。」と同時に申しあげました。それなので、大夫史小槻国宗さんを天皇からの使いとして泰時の陣営へ派遣しました。両院〔土御門・順徳〕六条宮・冷泉宮の両親王は、賀茂や貴船の田舎に逃げましたとさ。

午前八時頃、小槻国宗は、後鳥羽上皇の命令書を捧げ持って、樋口河原で泰時に合い、事情を話しました。泰時は院からの命令書を拝見しましょうと云って、馬から降りました。お供の軍隊は五千騎もおります。「この中で、院宣を読める者はおらぬか。」と岡村次郎兵衛尉に聞いて回らせたところ、勅使河原小三郎則直が云うには「武蔵国の侍で藤田三郎能国は、学者家の者だ。」これを呼び出してたので、藤田能国は院宣を読みました。その内容は、今度の合戦は後鳥羽上皇の考えで起こったのではなく、狡い近臣達が勝手に云いだしてしたのです。ですから今では、希望通りの命令書を出しますよ。それと京都市内で、乱暴狼藉をさせないよう、幕府軍に命令してください。とありました。その後また、ガードマンの頼武を使って、院では朝廷軍の武士たちの入場を禁止した事をわざわざ伝えてきたんだそうな。

下総前司小野盛綱・足利秀康は逃げました。三浦胤義は東寺の門の中で構えていましたが、幕府軍がどんどん京都市中に入ってきたので、三浦胤義と三浦・佐原の連中と何度も戦い、双方の家来が大勢戦死したそうな。

午前十時頃、時房・泰時の軍勢は、六波羅に到着しました。午後四時頃三浦胤義親子は、西山の木嶋で自殺しました。

三浦胤義の家来は、その首を切離し太秦の自宅へ持って向かいましたが、三浦義村はこれを探し当てて横取りし、泰時の屋敷へ送りましたとさ。火をともす頃になって、朝廷軍の宿舎のそれぞれに放火したので、数か所で火事が起こりました。都の運命も今夜で尽きるのかと都の住人は皆、途方に暮れています。生きるか死ぬか、訳もわからずただ走り回ってます。秦の始皇帝が六国と戦った災難と同じようだ。幕府軍が、京都やその近辺に満ち溢れ、戦場から脱出した敗残兵を探し出しては首を刎ね、刀の血糊をぬぐう暇もないほどです。人馬の死体が街中に横たわり歩く邪魔をしております。故郷には帰る家もなく、耕そうにも畑もありません。武勇を自慢にしていた上皇の私兵として御所の西側に勤めていた西面も北側に居た北面も、あっという間に滅びてしまいました。あたりに住んでいる院の近臣も重臣も全て捕虜にされました。なんと悲しい事でしょう。八十五代も続いてきた天皇家も終わりになってしまうのでしょうか。

今日、鎌倉での戦勝祈願の祈りの仕上がりの日です。属星祭の神へ捧げる文章は、民部大夫行盛が前もって清書しておきました。そのおかげで、朝廷軍は破れました。尊びましょう、神様仏様の力は地に落ちてはいません。

承久三年(1221)六月小十六日己巳。相州。武州兩刺史移住六波羅舘。如右京兆爪牙耳目。廻治國之要計。求武家之安全。凡今度合戰之間。雖多殘黨。疑刑可從輕之由。經和談。四面網解三面。是世之所讃也。佐々木中務入道經蓮者。候院中。廻合戰計。官兵敗走之後。在鷲尾之由。風聞之間。聞之武州遣使者云。相搆不可捨命。申關東可厚免者。經蓮云。是勸自殺使也。盍耻之哉者。取刀破身肉手足。未終命間。扶乘于輿。向六波羅。武州見其體。違示送之趣自殺。背本意由稱之。于時經蓮聊見開兩眼。快咲不發詞。遂以卒去云々。又謀叛衆於所々生虜之中。C水寺住侶敬月法師。雖非指勇士。從于範茂卿。向宇治之間難宥。献一首詠歌於武州。仍感懷之余。減死罪。可處遠流之由。下知長沼五郎宗政云々。
 勅ナレハ身ヲハ捨テキ武士ノヤソ宇治河ノ瀬ニタゝ子ト
今日。武州遣飛脚於關東。依申合戰屬無爲之由也。

読下し                     そうしゅう  ぶしゅう  りょう しし  ろくはら  やかた うつ  す
承久三年(1221)六月小十六日己巳。相州、武州の兩刺史@六波羅の舘へ移り住む。

うけいちょう  そうが じもく   ごと    ちこくのかなめ  はか    めぐ      ぶけの あんぜん  もと
右京兆の爪牙耳目の如く、治國之要の計りを廻らし、武家之安全を求む。

およ  このたび  かっせんのあいだ  ざんとうおお  いへど   うたがは  けい  かろ    したが べ   のよし  わだん  へ   しめん  あみ  さんめん  と
凡そ今度の合戰之間、殘黨多しと雖も、疑しき刑は輕きに從う可し之由、和談を經、四面の網、三面を解く。

これ よの たた   ところなり
是世之讃へる所也。

ささきのなかつかさにゅうどうきょうれん は いんちゅう そうら   かっせん はか    めぐ     かんぺいはいそうの のち  わしお  あ   のよし  ふうぶんのあいだ
佐々木中務入道經蓮A者、院中に候い、合戰の計りを廻らし、官兵敗走之後、鷲尾に在る之由、風聞之間、

これ  き   ぶしゅうししゃ  つか      い       あいかま   いのち  す    べからず  かんとう  もう    こうめんすべ  てへ     きょうれんい
之を聞き武州使者を遣はして云はく。相搆へて命を捨てる不可。關東へ申して厚免可し者れば、經蓮云はく。

これ  じさつ  すす    つか  なり  なん  これ  はじ  や てへ     かたな と   しんにくてあし   やぶ
是、自殺を勸める使い也。盍ぞ之を耻ん哉者れば、刀を取り身肉手足を破る。

いま いのちおわ     あいだ    こしに たす  の     ろくはら  むか
未だ命終らずの間に、輿于扶け乘せ、六波羅へ向う。

ぶしゅう そ  てい  み     しめ  おく のおもむき たが  じさつ     ほい   そむ  よしこれ  しょう
武州其の體を見て、示し送る之趣に違え自殺す。本意に背く由之を稱す。

ときんきょうれん いささ りょうまなこ みひら    かいしょう ことば はっせず つい  もっ  そっきょ    うんぬん
時于經蓮 聊か 兩眼を見開き、快咲し詞を發不、遂に以て卒去すと云々。

また  むほん しょうを しょしょ  せいりょの うち  きよみずでらじゅうりょけいげつほっし    さ     ゆうし  あらず いへど
又、謀叛の衆於所々で生虜之中、 C水寺住侶敬月法師 は、指せる勇士に非と雖も、

のりもちきょうにしたが    うじ  むか  のあいだ  ゆる  がた
範茂卿于從い、宇治へ向う之間、宥し難し。

いっしゅ  えいかを ぶしゅう  けん    よっ  かんかいの あま    しざい   げん    おんる   しょ  べ   のよし  ながぬまごろうむねまさ   げち     うんぬん
一首の詠歌於武州に献ず。仍て感懷之余り、死罪を減じ、遠流に處す可き之由、長沼五郎宗政に下知すと云々。

   ちょくなれば  みをば  すててき もののふの やそ うじがわの  せとに  たたねど
 勅ナレハ身ヲハ捨テキ武士ノヤソ宇治河ノ瀬ニタゝ子ト

きょう   ぶしゅうひきゃくを かんとう  つか     いくさ むい   ぞく   のよし もう  あは    よっ  なり
今日、武州飛脚於關東へ遣はす。戰無爲に屬す之由申し合すに依て也。

参考@刺史は、国司の唐名。
参考A
佐々木中務入道經蓮は、頼朝旗揚げ時の佐々木四兄弟の次男佐々木次郎経高。

現代語承久三年(1221)六月小十六日己巳。相州時房・武州泰時の両国司は六波羅の館へ移りました。義時さんの武器とも見聞役ともなって、国を治める考慮をして、武士の安泰を求めました。だいたい今度の戦争の残党は多いと云うけれど、疑わしい罪は軽くして、平和にするために四方を取り巻く網の三方を外してあげました。この行為を世間は褒め称えました。

佐々木仲務丞経蓮(次郎経高)は、院の中に居て合戦の参謀をしていましたが、朝廷軍が負けたので鷲尾(東山区鷲尾町)にいるらしいと噂がありました。これを聞いて泰時は、使いを行かせて「良く考えて安易に死ぬべきではありません。鎌倉へ相談して許されるようにしましょう。」と伝えると経蓮(経高)は「これは自殺を進めている使いだ。この扱いは恥ずかしい限りだう。」と刀で自分の体や手足を切り裂いてしまいました。まだ息があるので、輿に乗せて六波羅へ向かいました。泰時はその体を見て「折角知らせたのに、なんで云うことを聞かず自殺をするんですか。」と云うと、経蓮はやっとのこと目を開いて嬉しそうに笑うと息を引き取りましたとさ。

また、敵対した人達をあちこちで捕えた捕虜の中に、清水寺の住職で敬月法師は、たいした武士ではないけれども、範茂さんにくっ付いて宇治へ出て行ったので許せません。そしたら、一首の和歌を泰時に差し出しました。それを呼んで感心したので、死罪から罪一等を減らして流罪にするように、長沼五郎宗政に命じましたとさ。

「天皇からの命令なので、わが身を捨てて戦うべきでしょうね武士ならば。宇治までは行きましたけど川での戦いには出られませんでした」

今日、泰時は伝令を鎌倉へ行かせました。戦いは無事に終了しましたと伝えるためなのです。

承久三年(1221)六月小十七日庚子。於六波羅。勇士等勳功事。糺明其淺深。而渡河之先登事。信綱与兼義相論之。於兩國司前及對决。信綱申云。謂先登詮者入敵陣之時事。打入馬於河之時。芝田雖聊先立。乘馬中矢。着岸之尅。不見來云々。兼義云。佐々木越河事。偏依兼義引導也。景(原文辶于景)迹爲不知案内。爭進先登乎者。難决之間。尋春日刑部三郎貞幸。々々以起請述事由。其状云。
 去十四日宇治河被越間事
 自岸落時者。芝田先立トイヘトモ。佐々木スゝム。仍芝田。佐々木カ馬ノ弓手ノ方ニアリ。貞幸同妻手ノ方ニ 引エタリ。佐々木カ馬ハ。兩人カ馬ノ頭ヨリモ。鞭タケハカリ先ツ。中山次郎重繼又馬ヲ貞幸カ馬ニナラフ。 但是ハ中嶋ヨリアナタノ事也。貞幸水底ニ入テ後事。不存知候。以下略之。
武州一見此状之後。猶問傍人之處。所報又以符合之間。招兼義誘云。諍論不可然。只以貞幸等口状之融。欲註進關東。然者。於賞者定可爲如所存歟者。兼義云。雖不預縱万賞。至此論者。不可承伏云々。

読下し                       ろくはら   をい     ゆうしら   くんこう  こと  そ   せんしん きゅうめい
承久三年(1221)六月小十七日庚子。六波羅に於て、勇士等の勳功の事、其の淺深を糺明す。

しか     とか の せんと  こと  のぶつなと かねよしこれ そうろん   りょうくこくし  まえ  をい  たいけつ およ   
而るに渡河之先登の事、信綱与兼義之を相論す。兩國司の前に於て對决に及ぶ。

のぶつなもう   い
信綱申して云はく。

せんと   い   は   せん てきじん  い   のとき  こと  うまを かわ  うちい    のとき
先登と謂う者、詮@は敵陣に入る之時の事、馬於河に打入る之時、

しばたいささ  さき  た    いへど   じょうば や  あた    ちゃくがんのとき  みきた  ず  うんぬん
芝田聊か先に立つと雖も、乘馬矢に中り、着岸之尅、見來ら不と云々。

かねよしい
兼義云はく。

  ささき   かわ  こ     こと  ひとへ かねよし いんどう  よっ  なり きょうじゃく     あない   し   ざるため  いかで せんと  すす  や てへ
佐々木が河を越える事、偏に兼義が引導に依て也。景迹Aするに案内を知ら不爲、爭か先登に進む乎者れば、

けっ  がた のあいだ  かすがのぎょうのさぶろうさだゆき  たず   さだゆききしょう  もっ  こと  よし  の        そ   じょう  い
决し難き之間、 春日刑部三郎貞幸 に尋ぬ。々々起請を以て事の由を述べる。其の状に云はく。

  さんぬ じうよっか   うじがわ   こえられ あいだ こと
 去る十四日の宇治河を越被る間の事

  きしよ   お     ときは   しばた さきだつと  いえども     ささき  すすむ    よっ  しばた   ささきが   うまの  ゆんでの ほうにあり
 岸自り落ちる時者、芝田先立トイヘトモ、佐々木スゝム。仍て芝田、佐々木カ馬ノ弓手ノ方ニアリ。

  さだゆきおな     めて   ほうに   ひきえたり    ささきが うまは   りょうにんが うまのあたま よりも    むちたけ  ばかり  さきんづ
 貞幸同じく妻手ノ方ニ 引エタリ。佐々木カ馬ハ、兩人カ馬ノ頭ヨリモ、鞭タケハカリ先ツ。

  なかやまのじろうしげつぐ またうまを さだゆきが うまに ならぶ
 中山次郎重繼 又馬ヲ貞幸カ馬ニナラフ。

  ただ  これは なかのしまより あなたの ことなり  さだゆきすいていに いりてのち こと    ぞんじ  ずそうろう  いげ これ りゃく
 但し是ハ中嶋ヨリアナタノ事也。貞幸水底ニ入テ後の事は、存知せ不候。以下之を略す。

ぶしゅう かく  じょう  いっけんののち  なお かたわら ひと と   のところ  ほう   ところまたもっ  ふごうのあいだ  かねよし  まね  さそ    い
武州、此の状を一見之後、猶 傍 の人に問う之處、報ずる所又以て符合之間、兼義を招き誘いて云はく。

じょうろんしか べからず  ただ さだゆきら  こうじょうのとおり  もっ    かんとう  ちうしん     ほっ
諍論然る不可。 只 貞幸等の口状之融を以て、關東へ註進せんと欲す。

しからば しょう  をい  は さだ    しょぞん  ごと  たるべ   か てへ      かねよしい
然者、賞に於て者定めし所存の如き爲可き歟者れば、兼義云はく。

たと  まんしょう あずか ざる  いへど  かく  ろん  いた    は  しょうふく べからず  うんぬん
縱い万賞に預ら不と雖も、此の論に至りて者、承伏す不可と云々。

参考@は、ポイント。要は。
参考A景迹(きょうじゃく)は、推察。

現代語承久三年(1221)六月小十七日庚子。六波羅で、戦士たちの手柄について、その大小を調べました。しかし、宇治川の先陣争いについては、佐々木信綱と芝田兼義とが言い争いとなりましたので、時房・泰時両国司の前で対決することになりました。
佐々木信綱が云うのには、「一番乗りと云うのは、実は敵陣に入るの時の事で、乗馬が川へ入ったのは、芝田の方が多少先だったけれど、乗馬に矢が当たり、私が向こう岸に着いた時には見当たりませんでしたね」だそうだ。
兼義が云うには「佐々木が川を越えられたのは、もっぱら私の先導によります。推察していると、浅瀬が分からなければどうして先頭に勧めましょうか。」というので、どちらとも決めにくいので、春日刑部三郎貞幸に聞いてみました。貞幸は天命に誓いの紙の裏に、その事を書き出しました。その内容は、

 先日の14日の宇治川を越えたことについて 岸から川へ落ちる時は、芝田兼義が先でしたが、佐々木信綱も進みました。ですから芝田兼義は佐々木信綱の馬の左側におりました。春日貞幸も同様に佐々木信綱の右側にいました。佐々木の馬は、芝田・春日両人の馬よりも、鞭の長さ分だけ先に出ていました。中山次郎重實もまた、馬を春日貞幸の馬と並んでいました。但し、これは中の島までの間の事です。春日貞幸は水に飲まれてその後の事は分かりません。以下は略します。

泰時は、この文章を読んで、なおそばに居る人に聞いてみても、返事は皆同じでしたので、芝田兼義を呼んで云い聞かせました。「言い争いをしてはいけない。春日貞幸の述べたとおり鎌倉へ報告しましょう。ですから、褒美については、さぞかし望みどおりに与えられるでしょうから、譲りなさい。」と云いましたが、芝田兼義は、「たとえ沢山褒美を貰ったとしても、この論争については、降りるつもりはありません。」なんだとさ。

承久三年(1221)六月小十八日辛未。武藏太郎秘藏馬一兩疋。於宇治中矢。其鏃入身中。于今不出之。憖雖不斃。太辛苦。雖訪諸人。稱無所于治術之由。生虜西面中有友野右馬允遠久者。飼馬之藝可謂古伯樂。聞此事。可治之由云々。武州頻入興。則引送彼馬之處。抜鏃療養。忽得愈也。珍事由。世以謳謌云々。」今日。遣使者於關東。是今度合戰之間。討官兵。又被疵。爲官兵被討取者。彼是有數多。關判官代。後藤左衛門尉。金持兵衛尉等尋究之。注其交名送武州。仍爲被行勳功賞所遣也。中太弥三郎爲飛脚云々。
  六月十四日宇治合戰討敵人々
 秩父平次五郎〔一人不知名〕        小笠原四郎〔一人付絃袋〕
 佐々木又太郎右衛門尉〔同〕        奈良五郎 〔一人〕
 横溝五郎〔一人〕             佐竹六郎〔二人内一人手討〕
 押垂三郎兵衛尉〔一人郎等討之〕      冨田小太郎〔一人〕
 戸村三郎〔三人内生虜一人勅使左衛門尉入道〕浦太郎〔三人〕
 嶋津三郎兵衛尉〔七人内僧一人生虜二人〕  若狹兵衛入道手〔三人〕
 宮木小四郎〔一人野次郎左衛門尉〕     大井左衛門三郎〔一人〕
 品河小三郎〔二人〕            品河四郎太郎〔一人〕
 於呂左衛門四郎〔二人内生虜一人〕     同五郎〔四人内一人生虜〕
 葛山太郎〔一人弦袋〕           駿河次郎〔四人内奴加澤左近將監一人小河兵衛尉一人討也〕
 伊具六郎〔二人内深草六郎一人染屋刑部七郎一人討之云々〕 並木弥次郎兵衛尉〔一人法師〕
 天野右馬太郎〔五人内一人手討〕      黒田三郎入道〔一人郎等討之〕
 佐竹別當手〔二人〕            梶原平左衛門太郎手〔一人〕
 四宮右馬允〔二人〕            香河小五郎〔二人太刀長輻輪〕
 豊嶋九郎小太郎〔二人郎等信濃討之〕    高野弥太郎〔一人〕
 塩尻弥三郎〔出雲國小三郎云々〕       庄四郎〔一人生取〕
 同五郎〔一人生取〕            潮田四郎太郎〔一人〕
 蒼海平太〔二人但首者梟宇治云々〕      大貫三郎〔一人〕
 大和太郎左衛門尉〔一人手討二人郎等討之〕 大和藤内〔一人〕
 山田八郎〔二人手討〕           同次郎〔二人手討〕
 河越三郎〔一人手討〕           小野寺左衛門入道〔五人内一人手討〕
 澁谷三郎〔二人手討一人荻野三郎〕     澁谷權守太郎〔二人内一人手討一人生取〕
 澁谷又太郎〔一人手討出雲國神西庄司太郎〕 縣左近將監〔二人〕
 神保与三〔一人〕             多胡宗内〔一人〕
 椎名弥次郎                小手左近將監〔二人内一人生捕〕
 善右衛門四郎〔三人手討〕         澁谷六郎〔一人郎等討之〕
   已上九十八人〔此内衛府五人生取七人〕判官代日記定云々。
 長布施四郎〔三人内一人荻野太郎等一人佐々木判官親者一人生取〕 猪俣左衛門尉〔一人〕
 佐貫右衛門十郎〔四人〕          金子大倉太郎〔二人〕
 同右近將監〔二人〕            同三郎〔一人〕
 須久留兵衛次郎〔一人〕          岩田七郎〔一人〕
 豊田四郎〔一人〕             同五郎〔四人〕
 佐貫七郎〔一人〕             小代右馬次郎〔二人〕
 河村四郎〔一人〕             於呂小五郎〔一人西面衆〕
 松田小次郎〔二人内一人甲斐中將侍刑部丞云々〕 同九郎〔二人内西面平内一人熊野法印親者〕
 小越四郎〔一人〕             秩父次郎太郎〔一人上臈云々〕
 瓶尻小次郎〔一人〕            藤田兵衛尉〔一人手討佐々木判官手者云々〕
 内嶋三郎〔二人〕             小越四郎太郎〔二人〕
 大井太郎〔一人〕             小越右馬太郎〔二人〕
 中村四郎〔二人〕             河原田四郎太郎〔一人〕
 人見八郎〔一人〕             木内次郎〔一人〕
 風早四郎〔一人〕             山城右衛門尉〔十六人〕
 兒玉刑部四郎〔一人〕           河村太郎〔三人郎等討之〕
 同三郎〔一人手討〕            同五郎四郎〔一人手討西面〕
 勅使河原五郎兵衛尉〔一人郎等討之〕    勅使河原四郎〔一人手討〕
 大田五郎〔一人手討〕           香河三郎〔一人手討〕
 甘糟小次郎〔一人〕            河匂小太郎〔一人手討〕
 波多野弥藤次〔一人手討梟宇治云々〕    小澤太郎入道〔二人梟宇治云々〕
 沼田小太郎〔一人手討熊野法印子〕     佐田太郎〔一人手討〕
 糟谷三郎〔一人手討〕           同四郎〔一人手討〕
 小代与田次郎〔一人〕
   已上八十四人 金持兵衛尉日記云々。
 佐加良三郎〔一人渡部弥三郎兵衛尉北面云々。直垂綾〕 長布施三郎〔一人〕
 二宮三郎〔二人不知名〕          曾我八郎〔一人宰相中將格勤者〕
 同八郎三郎〔一人同格勤者〕        泉八郎〔二人〕
 同次郎〔三人〕              安東兵衛尉手 伊豫玉井四郎〔一人〕
 肥前房〔一人山口兵衛尉小舎人童生取〕   權守三郎〔一人甲斐中將中間云々〕
 二藤太三郎〔一人佐々木判官親者〕     藤巻藤太〔一人三郎法師生取〕
 C久左衛門尉〔二人〕           曾我太郎〔一人〕
 成田五郎〔一人〕             同藤次〔一人〕
 奈良兵衛尉〔一人山法師〕         別府次郎太郎〔一人〕
 荏原六郎太郎〔一人下総前司郎等〕     荏原七郎〔一人郎等討之〕
 岩原源八〔一人〕             弓削平次五郎〔一人〕
 河平次郎手〔四人熊野法師一人弦袋〕    土屋三郎兵衛尉〔一人〕
 宇津幾十郎〔一人〕            佐貫右衛門尉十郎〔一人弦袋〕
 宿屋太郎手〔五人〕            興津左衛門三郎〔二人手討〕
   十五日已後於京都記之
 植野次郎〔一人〕             角田太郎〔一人手討九郎判官郎等美六美八〕
 波多野中務次郎〔一人熊野法印長輻輪太刀〕 内藤左近將監〔一人熊野法師郎等〕
 内記左近將監〔二人熊野法師郎等〕     荻窪六郎〔二人内一人肥前國佐山十郎〕
 西條四郎〔一人郎等手討〕         古郡四郎〔一人瑠璃王左衛門尉西面生取〕
 天野平内次郎〔一人〕           山田藏人〔三人生取下総前司郎等〕
 仁田次郎太郎〔五人内一人生取宮分刑部丞〕 金持兵衛尉〔五人二位法印家人〕
 豊嶋十郎〔一人付金云々〕         中村小五郎兵衛尉〔一人生取中七左近〕
 荻原小太郎〔一人〕            佐々木四郎右衛門尉〔一人手討佐々木太郎右衛門尉〕
   已上七十三人
  并二百五十五人
 六月十三日十四日宇治橋合戰手負人々
  十三日
 冨部五郎兵衛尉              同町野兵衛尉
 松田小次郎                同三郎
 同五郎                  同平三郎
 同右衛門太郎               波多野中務次郎
 同五郎                  牧右近太郎
 同中次                  小澤太郎入道
 同藤次太郎                椎名小次郎
 横田右馬允                阿曾沼六郎太郎
 香河小五郎                豊田平太
 同五郎                  保土原三郎
 今泉弥三郎兵衛尉             同五郎
 同須河次郎                同五郎
 同堤五郎                 世山三郎
 河田七郎                 甘糟小太郎
 藤田新兵衛尉               須賀弥太郎
 安保右馬允                目黒小太郎
 井田四郎太郎               沼田小太郎
 沼田佐藤太
   已上三十五人
  十四日
 小代小次郎                行田兵衛尉
 古庄太郎                 曾我太郎
 源内八郎                 女景太郎
 宇津幾平太                同十郎
 山口兵衛太郎               須黒兵衛太郎
 加世左近將監               同弥次郎〔死了〕
 仙波太郎                 同左衛門尉
 國分八郎〔相摸〕             興津左衛門三郎
 同四郎                  同六郎
 同紀太                  興津八郎太郎
 同十郎                  河村藤四郎
 岩原源八                 吉香左衛門次郎
 大内十郎                 同弥次郎
 源七刑部次郎               同三郎太郎
 小嶋三郎                 同六郎
 同七郎                  矢部源次郎
 内記四郎                 屋代兵衛尉
 葛山小次郎                波賀小太郎
 古谷八郎                 同飯積三郎
 同十郎                  岡村次郎兵衛尉
 岩平小四郎                同五郎
 同余一                  河原次郎
 皆河太郎                 大江兵衛尉
 同四郎                  井田四郎
 岩田八郎五郎               大倉小次郎
 高井小太郎                高井小次郎
 長澤又太郎                佐加江四郎〔大事〕
 同九郎〔大事〕              矢田八郎
 妻良五郎                 西郷三郎
 新開弥次郎                布施左衛門三郎〔渡河被疵〕
 奈良左近將監〔同上〕           宇治次郎〔同上 又号波多野〕
 佐貫右衛門六郎〔同上〕          肥前房〔同上 安東手〕
 松野左近將監               志水右近將監〔同上〕
 平河刑部太郎               同又太郎
 蛭河刑部三郎               同三郎太郎
 佐野七郎入道               澁谷平太三郎
 同權守六郎                同七郎
 品河四郎                 阿曾沼次郎
 高橋九郎                 塩谷左衛門尉
 同太郎                  同六郎
 塩谷弥四郎                同奥太
 塩谷小三郎                同五郎
 冨田太郎                 同五郎
 玉井小四郎                俣野小太郎
 河平三郎                 寺尾又太郎
 鴛四郎太郎                天野平内太郎
 安東藤内                 庵原仲次
 奥沼二藤三郎               熊井小太郎
 鎌田平三〔甲斐〕
   已上九十八人
  并百三十二人
 神保太郎                 高井五郎
 江田兵衛尉                江田五郎太郎
 高井弥太郎                同室三郎
 屋嶋次郎                 小串五郎
 根三郎
  六月十四日宇治橋合戰越河懸時尾方人々死日記
 布施右衛門次郎              縣佐藤四郎
 高野小太郎                女影四郎〔武藏〕
 内嶋七郎                 荏原六郎
 同弥三郎                 太田六郎
 今泉七郎                 片穂刑部四郎
 飯田左近將監               志村弥三郎
 同又太郎                 善右衛門太郎
 安保刑部丞                同四郎
 同左衛門次郎               同八郎
 塩屋民部大夫               關左衛門入道
 金子大倉六郎               春日刑部二郎太郎
 同小三郎                 澁谷四郎
 同權守五郎                潮田六郎
 志水六郎                 於呂七郎
 若狹次郎右衛門入道            綱嶋左衛門次郎
 大舎人助                 飯沼三郎
 同子息一人                大河戸小四郎
 幸嶋四郎〔又号下河邊〕          梶原平左衛門次郎
 成田兵衛尉                同五郎太郎
 玉井兵衛太郎               佐貫右衛門五郎
 同八郎                  同兵衛太郎
 長江余一〔被討〕             長江小四郎〔同上〕
 相馬三郎                 同大郎〔被討〕
 同次郎                  小田切奥太
 小野寺中務丞               石河三郎〔被討〕
 古庄次郎〔同上〕             麻續六郎
 中村九郎左近將監             同三郎
 鮫嶋小四郎                新開兵衛尉〔於橋被討〕
 大山弥藤次                山内弥五郎
 千竃四郎                 同新太郎
 金子小太郎                藤次〔横溝五郎親類〕
 寺尾左衛門尉〔於橋上被討〕        庄三郎〔爲敵被討取云々〕
 大河戸六郎〔同上〕            佐貫太郎次郎〔被疵於河死〕
 同次郎太郎                佐貫八郎
 品河次郎                 同四郎三郎
 同六郎太郎                大塩次郎〔信濃〕
 浦四郎                  江戸四郎三郎
 安東平次兵衛尉              安東藤内左衛門尉
 町野次郎〔十三日於橋上死〕        仙波弥次郎〔被疵三箇日已後死〕
 新太郎                  櫻井次郎〔浦太郎手者〕
 平次太郎〔寺尾四郎兵衛尉手者〕      高井三郎
 嶋名刑部三郎               屋嶋六郎
 神保與一                 道智三郎太郎
 麻祢屋四郎                同次郎
  武藏守殿御手
 平六                   少輔房
 五郎殿                  石河平五
 佐伯左近將監               片穂刑部四郎
 飯田左近將監               足洗藤内
 中三入道                 後平四郎

読下し                     むさしのたろう  ひぞう  うまいちりょうひき   うじ   をい  や   あた    そ  やじり からだ なか い     いまにこれいでざる
承久三年(1221)六月小十八日辛未。武藏太郎が秘藏の馬一兩疋、宇治に於て矢に中る。其の鏃 身の中に入り、今于之出不。

なまじい たお  ず  いへど  はなは しんく  しょにん  おと   いへど   ちじゅにところな   のよし  しょう
 憖に斃れ不と雖も、太だ辛苦。諸人を訪うと雖も、治術于所無し之由を稱す。

いけど    さいめんちゅう とものうまのじょうとおひさ      ものあ     かいうまのげいいにし   はくらく  い     べ
生虜りの西面中に友野右馬允遠久という者有り。飼馬之藝古への伯樂と謂ひつ可し。

こ   こと  き     なお  べ   のよし  うんぬん
此の事を聞き、治す可し之由と云々。

ぶしゅうしkり きょう い     すなは か   うま  ひきおく  のところ  やじり ぬ  りょうよう   たちま いえる え   なり
武州頻に興に入り、則ち彼の馬を引送る之處、鏃を抜き療養し、忽ち愈を得る也。

ちんじ  よし   よ もっ  おうか    うんぬん
珍事の由、世以て謳謌すと云々。」

きょう   ししゃを かんとう  つか       これ  このたび かっせんのあいだ かんぺい  う    またきずされ  かんぺい ため  うちとられ  もの  かれこれ すうたあ
今日、使者於關東に遣はす。是、今度の合戰之間、官兵を討ち、又疵被、官兵の爲に討取被る者、彼是數多有り。

せきのほうがんだい ごとうのさもんのじょう  かねもちひょうえおのじょう ら これ  たず  きは    そ   けみょう  ちう  ぶしゅう  おく
 關判官代、後藤左衛門尉、 金持兵衛尉 等 之を尋ね究め、其の交名を注し武州に送る。

よっ  くんこう  しょう おこな れんため つか  ところなり  ちうたいやさぶろうひきゃく  な    うんぬん
仍て勳功の賞を行は被爲 遣はす所也。中太弥三郎飛脚を爲すと云々。

    ろくがつじうよっか  うじがっせん  てき  う   ひとびと
  六月十四日宇治合戰で敵を討つ人々

  ちちぶのへいじごろう  〔ひとり  な   しらず 〕                 おがさわらのしろう 〔ひとり つるぶくろ つ    〕
 秩父平次五郎〔一人名を知不〕        小笠原四郎〔一人絃袋に付ける〕

  ささきのまたたろううえもんのじょう  〔 おなじ 〕                 ならのごろう  〔 ひとり 〕
 佐々木又太郎右衛門尉〔同〕         奈良五郎 〔一人〕

  よこみぞのごろう 〔ひとり 〕                             さたけのろくろう 〔ふたり  うち ひとり てう     
 横溝五郎〔一人〕               佐竹六郎〔二人、内一人手討ち〕

参考横溝五郎資重は、近江国横溝で滋賀県東近江市横溝町。得宗被官。

  おしだれのさぶろうひょうえのじょう  〔ひとり ろうとう これ  う   〕        とんだのこたろう   〔 ひとり 〕
 押垂三郎兵衛尉  〔一人郎等之を討つ〕   冨田小太郎〔一人〕

  とむらのさぶろう 〔さんにん  うちいけどりひとり ちょくしさえもんのじょうにゅうどう〕  うらのたろう 〔さんにん 〕
 戸村三郎〔三人、内生虜一人勅使左衛門尉入道〕浦太郎〔三人〕

  しまづのさぶろうひょうえのじょう〔しちにん うちそうひとり いけどりふたり〕      わかさのひょうえにゅうどう て 〔さんにん 〕
 嶋津三郎兵衛尉〔七人、内僧一人生虜二人〕  若狹兵衛入道の手〔三人〕

  みやきのこしろう  〔ひとり のじろうさえもんのじょう  〕                おおいのさえもんさぶろう 〔 ひとり 〕
 宮木小四郎〔一人野次郎左衛門尉〕      大井左衛門三郎〔一人〕

  しながわのこさぶろう 〔ふたり 〕                          しながわのしろうたろう 〔ひとり 〕
 品河小三郎〔二人〕             品河四郎太郎〔一人〕

  おろのさえもんしろう       〔ふたり  うちいけどりひとり 〕           おなじきごろう 〔よにん  うちひとりいけどり〕
 於呂左衛門四郎〔二人、内生虜一人〕     同五郎〔四人、内一人生虜〕

参考於呂は、静岡県浜松市浜北区に「於呂」の地名あり。

  かずらやまのたろう 〔ひとりつるぶくろ 〕                        するがのじろう 〔よにん  うちやっこかざわのさこんしょうげんひとり おがわのひょうえのじょうひとりうちなり〕
 葛山太郎〔一人弦袋〕            駿河次郎〔四人、内奴加澤左近將監一人小河兵衛尉一人討也〕

  いぐのろくろう  〔 ふたり  うち ふかくさのろくろうひとり   そめやのぎょうぶしちろう ひとり これ   う      うんぬん〕    なみきのいやじろうひょうえのじょう 〔ひとり ほっし〕
 伊具六郎〔二人、内深草六郎一人、染屋刑部七郎一人之を討つと云々〕 並木弥次郎兵衛尉〔一人法師〕

  あまののうまたろう   〔 ごにん   うち ひとり てうち 〕            くろだのさぶろうにゅうどう 〔ひとりろうとうこれ   う   〕
 天野右馬太郎〔五人、内一人手討〕     黒田三郎入道〔一人。郎等之を討つ〕

  さたけのべっとう て  〔ふたり 〕                       かじわらのへいざえもんたろう  て  〔ひとり 〕
 佐竹別當が手〔二人〕          梶原平左衛門太郎が手〔一人〕

  しのみやうまのじょう 〔ふたり 〕                         こうかわのこたろう 〔ふたり たち  ながふくりん 〕
 四宮右馬允〔二人〕           香河小五郎〔二人太刀長輻輪〕

  てしまのくろうこたろう 〔ふたり  ろうとうらしなのこれ  う  〕            たかののいやたろう 〔ひとり 〕
 豊嶋九郎小太郎〔二人、郎等信濃之を討つ〕  高野弥太郎〔一人〕

  しおじりのいやさぶろう 〔いずものくにこさぶろう  うんぬん〕           しょうのしろう 〔ひとり 〕
 塩尻弥三郎〔出雲國小三郎と云々〕     庄四郎〔一人生取〕

  おなじきごろう 〔ひとりいけどり〕                         うしおだのしろうたろう 〔ひとり 〕
 同五郎〔一人生取〕           潮田四郎太郎〔一人〕

  そうかいのへいた〔ふたりただ くびは うじ  きょう  うんぬん 〕        おおぬきのさぶろう 〔ひとり 〕
 蒼海平太〔二人但し首者宇治に梟すと云々〕 大貫三郎〔一人〕

参考大貫は、旧神奈川県津久井郡津久井町中野(現相模原市緑区中野)の古名らしい。

  やまとのたろさえもんのじょう  〔 ひとりてうち ふたりろうとうらこれ  う  〕      やまとのとうない 〔 ひとり 〕
 大和太郎左衛門尉〔一人手討二人郎等之を討つ〕 大和藤内〔一人〕

  やまだのはちろう 〔ふたり てうち 〕                        おなじきじろう 〔ふたり てうち 〕
 山田八郎〔二人手討〕           同次郎〔二人手討〕

  かわごえのさぶろう 〔ひとり てうち 〕                        おのでらのさえもんにゅうどう  〔ごにん  うち ひとり てうち 〕
 河越三郎〔一人手討〕           小野寺左衛門入道〔五人、内一人手討〕

  しぶやのさぶろう 〔ふたり てうち ひとり おぎののさぶろう 〕             しぶやごんのかみたろう 〔ふたり  うちひとりてうち ひとりいけどり 〕
 澁谷三郎〔二人手討一人荻野三郎〕       澁谷權守太郎〔二人、内一人手討一人生取〕

  しぶやのあたたろう 〔ひとり てうち いずものくにじんざいしょうじたろう〕      あがたさこんしょうげん 〔ふたり 〕
 澁谷又太郎〔一人手討出雲國神西庄司太郎〕  縣左近將監〔二人〕

参考神西は、島根県出雲市神西沖町・神西新町。

  じんぼのよざ   〔ひとり 〕                             たこのそうない  〔ひとり 〕
 神保与三〔一人〕             多胡宗内〔一人〕

  しいなのいやじろう                                 こてのさこんしょうげん   〔ふたり   うち ひとりいけどり 〕
 椎名弥次郎                小手左近將監〔二人内一人生捕〕

  ぜんのうえもんしろう  〔さんにん てうち 〕                      しぶやのろくろう  〔ひとりろうとうら これ  う  〕
 善右衛門四郎〔三人手討〕          澁谷六郎〔一人郎等之を討つ〕

       いじょう くじうはちにん 〔 こ  うち えふ ごにんいけどりしちにん〕 ほうがんだい  にき  じょう うんぬん
   已上九十八人〔此の内衛府五人生取七人〕判官代が日記の定と云々。

  ながふせのしろう  〔さんにん  うち ひとり  おぎののたろうら ひとり  ささきのほうがん   した    もの ひとりいけどり 〕   いのまたのさえもんのじょう 〔ひとり〕
 長布施四郎〔三人、内一人荻野太郎等一人佐々木判官の親しき者一人生取〕 猪俣左衛門尉〔一人〕

  さぬきのうえもんじうろう  〔よにん 〕                        かねこのおおくらたろう  〔ふたり  〕
 佐貫右衛門十郎〔四人〕          金子大倉太郎〔二人〕

  おなじきうこんしょうげん 〔ふたり〕                         おなじきさぶろう  〔ひとり 〕
 同右近將監〔二人〕            同三郎〔一人〕

  すぐろのひょうえじろう  〔ひとり〕                          いわたのしちろう  〔ひとり 〕
 須久留兵衛次郎〔一人〕          岩田七郎〔一人〕

  とよたのしろう  〔ひとり〕                               おなじきごろう 〔よにん 〕
 豊田四郎〔一人〕             同五郎〔四人〕

  さぬきのしちろう  〔ひとり〕                             しょうだいうまたろう   〔ふたり 〕
 佐貫七郎〔一人〕             小代右馬次郎〔二人〕

  かわむらのしろう  〔ひとり〕                             おろのこごろう   〔ひとりさいめんしゅう 〕
 河村四郎〔一人〕             於呂小五郎〔一人西面衆〕

  まつだのこじろう  〔ふたり  うち ひとり  かいのちうじょう さむらいぎょうぶのじょう うんぬん〕   おなじきくろう 〔ふたり  うち さいめんへいないひとりくまのほういん  ちか  もの〕
 松田小次郎〔二人、内一人甲斐中將が侍 刑部丞と云々〕 同九郎〔二人、内西面平内一人熊野法印が親しい者〕

  おこしのしろう  〔ひとり〕                               ちちぶのじろたろう 〔ひとりじょうろう  うんぬん〕
 小越四郎〔一人〕             秩父次郎太郎〔一人上臈と云々〕

  みかじりのこじろう  〔ひとり〕                            ふじたのひょうえのじょう 〔ひとりてうち ささきのほうがん   て   もの  うんぬん 〕
 瓶尻小次郎〔一人〕            藤田兵衛尉〔一人手討佐々木判官が手の者と云々〕

  うちじまのさぶろう  〔ふたり〕                             おこしのしろうたろう 〔ふたり 〕
 内嶋三郎〔二人〕             小越四郎太郎〔二人〕

  おおいのたろう  〔ひとり〕                              おこしのうまたろう 〔ふたり 〕
 大井太郎〔一人〕             小越右馬太郎〔二人〕

  なかむらのしろう  〔ふたり〕                             かわらだのしろたろう 〔ひとり〕
 中村四郎〔二人〕             河原田四郎太郎〔一人〕

  ひとみのはちろう  〔ひとり〕                             きうちのじろう 〔ひとり 〕
 人見八郎〔一人〕             木内次郎〔一人〕

  かざはやのしろう 〔ひとり〕                              やましろうえもんのじょう 〔じうろくにん〕
 風早四郎〔一人〕             山城右衛門尉〔十六人〕

  こだまのぎょうぶしろう  〔ひとり〕                          かわむらのたろう 〔さんにんろうとうこれ  う  〕
 兒玉刑部四郎〔一人〕           河村太郎〔三人郎等之を討つ〕

  おなじきさぶろう 〔ひとりてうち〕                           おなじきごろしろうう 〔ひとりてうちさいめん 〕
 同三郎〔一人手討〕            同五郎四郎〔一人手討西面〕

  てしがわらのごろうひょうえのじょう 〔ひとりろうとう これ   う   〕       てしがわらのしろう    〔ひとり てうち 〕
 勅使河原五郎兵衛尉〔一人郎等之を討つ〕   勅使河原四郎〔一人手討〕

  おおたのごろう  〔ひとり てうち〕                          きっかわのさぶろう 〔ひとり てうち〕
 大田五郎〔一人手討〕           香河三郎〔一人手討〕

  あまかすのこじろう  〔ひとり〕                            かわわのこたろう  〔ひとり てうち 〕
 甘糟小次郎〔一人〕            河匂小太郎〔一人手討〕

  はたののいやとうじ   〔ひとり  てうち  うじ   きょう    うんぬん〕       おざわのたろうにゅうどう 〔ふたり うじ  きょう    うんぬん〕
 波多野弥藤次〔一人手討宇治に梟すと云々〕  小澤太郎入道〔二人宇治に梟すと云々〕

  ぬまたのこたろう  〔ひとり  てうち くまのほういん   こ 〕             さたのじろう   〔ひとり てうち 〕
 沼田小太郎〔一人手討熊野法印が子〕     佐田太郎〔一人手討〕

  かすやのさぶろう 〔ひとり てうち〕                          おなじきしろう 〔ひとり てうち〕
 糟谷三郎〔一人手討〕            同四郎〔一人手討〕

  しょうだいよだじろう  〔ひとり〕
 小代与田次郎〔一人〕

      いじょうはちじうよにん  かねもちひょうえのじょう   にき  うんぬん
   已上八十四人  金持兵衛尉 の日記と云々。

  さからのさぶろう  〔ひとり わたべいやさぶろうひょうえのじょうほくめん うんぬん ひたたれあや〕   さがふせのさぶろう 〔ひとり〕
 佐加良三郎〔一人渡部弥三郎兵衛尉北面と云々。直垂綾〕 長布施三郎〔一人〕

  にのみやのさぶろう 〔ふたりな  しらず〕                    そがのはちろう 〔ひとり さいしょうちうじょう かくごしゃ〕
 二宮三郎〔二人名を知不〕         曾我八郎〔一人宰相中將の格勤者〕

  おなじきはちろうさぶろう〔ひとり おな  かくごしゃ〕            いずみのはちろう 〔ふたり〕
 同八郎三郎〔一人同じく格勤者〕      泉八郎〔二人〕

  おなじきさぶろう 〔さんにん〕                           あんどうひょうえのじょう て いよのたまいのしろう  〔ひとり 〕
 同次郎〔三人〕              安東兵衛尉が手 伊豫玉井四郎〔一人〕

  ひぜんぼう  〔ひとりやまぐちひょうえのじょう  ことねりわらわいけどり〕         ごんのかみさぶろう 〔ひとり  かいのちうじょう  ちうげん  うんぬん〕
 肥前房〔一人山口兵衛尉が小舎人童生取〕   權守三郎 〔一人甲斐中將が中間と云々〕

  にとうたさぶろう   〔ひとり  ささきのほうがん   ちか  もの〕          ふじまきとうた  〔 ひとり さぶろうほっし いけどり〕
 二藤太三郎〔一人佐々木判官の親しい者〕   藤巻藤太〔一人三郎法師生取〕

  きよひささえもんのじょう 〔ふたり〕                        そがのたろう 〔ひとり 〕
 C久左衛門尉〔二人〕           曾我太郎〔一人〕

  なりたのごろう  〔ひとり〕                             おなじきとうじ 〔ひとり 〕
 成田五郎〔一人〕             同藤次〔一人〕

  ならのひょうえのじょう 〔ひとりやまぼうし〕                    べっぷのじろたろう 〔ひとり 〕
 奈良兵衛尉〔一人山法師〕         別府次郎太郎〔一人〕

  えばらのろくろうたろう  〔ひとり しもふさぜんじ  ろうとう〕            えばらのしちろう 〔ひとりろうとうこれ   う  〕
 荏原六郎太郎〔一人下総前司が郎等〕    荏原七郎〔一人郎等之を討つ〕

  いわはらのげんぱち 〔ひとり〕                          ゆげのへいじごろう 〔ひとり 〕
 岩原源八〔一人〕            弓削平次五郎〔一人〕

  かわひらのじろう て 〔よにん くまのほっし ひとり つるぶくろ〕           つちやのさぶろうひょうえのじょう 〔ひとり 〕
 河平次郎の手〔四人熊野法師一人弦袋〕    土屋三郎兵衛尉〔一人〕

  うつのきじうろう  〔ひとり〕                            さぬきのうえもんのじょうじうろう 〔ひとりつるぶくろ 〕
 宇津幾十郎〔一人〕            佐貫右衛門尉十郎〔一人弦袋〕

  やだやのたろう て 〔ごにん 〕                         おきつのさえもんさぶろう 〔ふたり てうち 〕
 宿屋太郎が手〔五人〕           興津左衛門三郎〔二人手討〕

        じうごにち いご きょうと  をい  これ  き
   十五日已後京都に於て之を記す

  うえののじろう  〔ひとり 〕                              つのだのじろう   〔ひとり てうち くろうほうがん  ろうとう  びろく びはち 〕
 植野次郎〔一人〕             角田太郎〔一人手討九郎判官が郎等の美六美八〕

  はたののなかつかじろう  〔ひとり  くまのほういんちょうふくりん たち 〕  ないとうさこんしょうげん 〔ひとり くまのほっし  ろうとう 〕
 波多野中務次郎〔一人熊野法印長輻輪の太刀〕 内藤左近將監〔一人熊野法師が郎等〕

参考長輻輪は、長覆輪とも書き、銀や錫で縁取りし飾りや補強としたもの。

  ないきのさこんしょうげん 〔ふたり くまのほっし  ろうとう 〕             おぎくぼのろくろう 〔ふたり  うち ひとり ひぜんのくにさやまじうろう 〕
 内記左近將監〔二人熊野法師が郎等〕     荻窪六郎〔二人、内一人肥前國佐山十郎〕

  さいじょうのしろう 〔ひとり ろうとう てうち 〕                     ふるごおりのしろう 〔ひとり るりおう さえもんのじょうさいめんいけどり 〕
 西條四郎〔一人郎等手討〕         古郡四郎〔一人瑠璃王左衛門尉西面生取〕

  あまののへいないじろう  〔ひとり 〕                       やまだのくろうど 〔さんにんいけどりしもふさぜんじ  ろうとう 〕
 天野平内次郎〔一人〕           山田藏人〔三人生取下総前司が郎等〕

  にたんのじろたろう  〔ごにん うちひとり いけどり みやわけぎょうぶのじょう〕    かねもちひょうえのじょう 〔ごにん にいのほういん  けにん 〕
 仁田次郎太郎〔五人内一人生取宮分刑部丞〕  金持兵衛尉〔五人二位法印が家人〕

  てしまのじうろう  〔ひとり かねつけ うんぬん 〕                   なかむらのこごろうひょうえのじょう 〔ひとりいけどりちうしちさこん 〕
 豊嶋十郎〔一人付金と云々〕         中村小五郎兵衛尉〔一人生取中七左近〕

  はぎわらのこたろう  〔ひとり 〕                           ささきのしろううえもんのじょう   〔ひとり てうち ささきのたろううえもんのじょう 〕
 荻原小太郎〔一人〕            佐々木四郎右衛門尉〔一人手討佐々木太郎右衛門尉〕

       いじょうしちじうさんにん
   已上七十三人

    なら    にひゃくごじうごにん
  并びに二百五十五人

  ろくがつじうさんにちじうよっか うじばし  かっせん  ておい  ひとびと
 六月十三日十四日宇治橋の合戰で手負の人々

     じうさんにち
  十三日

  とみべのごろうひょうえのじょう                       おなじきまちのひょうえのじょう
 冨部五郎兵衛尉            同町野兵衛尉

  まつだのこじろう                               おなじきさぶろう
 松田小次郎              同三郎

  おなじきご                                  おなじきへいさぶろう
 同五郎                同平三郎

  おなじきうえもんたろう                            はたののなかつかさじろう
 同右衛門太郎             波多野中務次郎

  おなじきごろう                                 まきのうこんたろう
 同五郎                牧右近太郎

  おなじきちうじ                                 おざわのたろうにゅうどう
 同中次                小澤太郎入道

  おなじきとうじたろう                              しいなのこじろう
 同藤次太郎              椎名小次郎

  よこたのうまのじょう                              あそぬまのろくろうたろう
 横田右馬允              阿曾沼六郎太郎

  かがわのこごろう                                とよたのへいた
 香河小五郎              豊田平太

  おなじきごろう                                 ほどはらのさぶろう
 同五郎                保土原三郎

  いまいずみのいやさぶろうひょうえのじょう                おなじきごろう
 今泉弥三郎兵衛尉           同五郎

  おなじきすがにじろう                            おなじきごろう
 同須河次郎              同五郎

  おなじきつつみのごろう                           せやまのさぶろう
 同堤五郎               世山三郎

  かわだのしちろう                               あまかすのこたろう
 河田七郎               甘糟小太郎

  ふじたのしんひょうえのじょう                        すがのいやたろう
 藤田新兵衛尉             須賀弥太郎

  あぼのうまのじょう                               めぐろのこたろう
 安保右馬允              目黒小太郎

  いだのしろうたろう                              ぬまたのこたろう
 井田四郎太郎             沼田小太郎

  ぬまたのさとうた
 沼田佐藤太

       いじょうさんじうごにん
   已上三十五人

    じうよっか
  十四日

  しょうだいのこじろう                             ぎょうだのひょうえのじょう
 小代小次郎              行田兵衛尉

  ふるしょうのたろう                              そがのたろう
 古庄太郎               曾我太郎

  げんないはちろう                              おなかげのたろう
 源内八郎               女景太郎

  うつきのへいた                               おなじきじうろう
 宇津幾平太              同十郎

  やまぐちひょうえたろう                           すぐろのひょうえたろう
 山口兵衛太郎             須黒兵衛太郎

  かせのさこんしょうげん                           おなじきいやじろう 〔しにをはんぬ〕
 加世左近將監             同弥次郎〔死了〕

  せんばおたろう                                おなじきさえもんのじょう
 仙波太郎               同左衛門尉

  こくぶのはちろう 〔さがみ〕                          おきつのさえもんさぶろう
 國分八郎〔相摸〕            興津左衛門三郎

  おなじきしろう                                 おなじきろくろう
 同四郎                同六郎

  おなじききた                                 おきつのはちろうたろう
 同紀太                興津八郎太郎

  おなじきじうろう                                かわむらのとうしろう
 同十郎                河村藤四郎

  いわはらのげんぱち                             きっかわのさえもんじろう
 岩原源八               吉香左衛門次郎

  おおうちのじうろう                               おなじきいやじろう
 大内十郎               同弥次郎

  げんしちぎょうぶじろう                             おなじきさぶろうたろう
 源七刑部次郎             同三郎太郎

  こじまのさぶろう                                おなじきろくろう
 小嶋三郎               同六郎

  おなじきしちろう                               やべのげんじろう
 同七郎                矢部源次郎

  ないきのしろう                                やしろのひょうえのじょう
 内記四郎               屋代兵衛尉

  かずらやまのこじろう                             はがのこたろう
 葛山小次郎              波賀小太郎

  ふるやのはちろう                              おなじきいいづみのさぶろう
 古谷八郎               同飯積三郎

  おなじきじうろう                               おかむらのじろうひょうえのじょう
 同十郎                岡村次郎兵衛尉

  いわひらこしろう                               おなじきごろう
 岩平小四郎              同五郎

  おなじきよいち                                かわはらのじろう
 同余一                河原次郎

  みながわのたろう                               おおえのひょうえのじょう
 皆河太郎               大江兵衛尉

  おなじきしろう                                 いだのしろう
 同四郎                井田四郎

  いわたのはちろうごろう                            おおくらのこじろう
 岩田八郎五郎             大倉小次郎

  たかいのこたろう                                たかいのこじろう
 高井小太郎              高井小次郎

  ながさわのまたたろう                            さがえのしろう   〔おおごと〕
 長澤又太郎              佐加江四郎〔大事〕

  おなじきくろう 〔おおごと〕                          やだのはちろう
 同九郎〔大事〕             矢田八郎

  めらのごろう                                  さいごうのさぶろう
 妻良五郎                西郷三郎

  しんかいのいやじろう                            ふせのさえもんさぶろう 〔 とか    きずされ〕
 新開弥次郎               布施左衛門三郎〔渡河に疵被る〕

  ならのさこんしょうげん  〔どうじょう〕                     うじのじろう   〔どうじょう   また    はたの    ごう  〕
 奈良左近將監〔同上〕          宇治次郎〔同上 又は波多野と号す〕

  さぬきのうえもんろくろう  〔どうじょう〕                    ひぜんぼう 〔どうじょう   あんどう  て 〕
 佐貫右衛門六郎〔同上〕         肥前房〔同上 安東の手〕

  まつののさこんしょうげん                          しみずのうこんしょうげん 〔どうじょう〕
 松野左近將監             志水右近將監〔同上〕

  ひらかわぎょうぶたろう                           おなじきまたたろう
 平河刑部太郎             同又太郎

  ひるかわぎょうぶさぶろう                          おなじきさぶろうたろう
 蛭河刑部三郎             同三郎太郎

  さののしちろうにゅうどう                           しぶやのへいたさぶろう
 佐野七郎入道             澁谷平太三郎

  おなじきごんおかみろくろう                        おなじきしちろう
 同權守六郎              同七郎

  しながわのしろう                               あそぬまのじろう
 品河四郎               阿曾沼次郎

  たかはしのくろう                               えんやのさえもんのじょう
 高橋九郎               塩谷左衛門尉

  おなじきたろう                                おなじきろくろう
 同太郎                同六郎

  えんやのいやしろう                             おなじきおくた
 塩谷弥四郎              同奥太  
参考塩谷(強谷)註釈:国会図書館のデジタルコレクションの吾妻鏡には、「強谷弥四郎 同奥太」の記述がある。推測するに元は「強谷」であったものを書写を繰り返すうちに次に書かれている「塩谷」と文字を移し間違えた可能性が考えられる。

  しおやのこさぶろう                              おなじきごろう
 塩谷小三郎              同五郎

  とみだのたろう                                 おなじきごろう
 冨田太郎               同五郎

  たまいのこしろう                                またののこたろう
 玉井小四郎              俣野小太郎

  かわひらのさぶろう                              てらおのまたたろう
 河平三郎               寺尾又太郎

  おしどりのしろうたろう                             あまののへいないたろう
 鴛四郎太郎              天野平内太郎

  あんどうとうない                                 いはらのちゅうじ
 安東藤内               庵原仲次

  おくぬまのにとうさぶろう                           くまいのこたろう
 奥沼二藤三郎             熊井小太郎

  かまたのへいざ  〔 かい 〕
 鎌田平三〔甲斐〕

       いじょうくじうはちにん
   已上九十八人

     なら    ひゃくさんじうににん
  并びに百三十二人

  じんぼのたろう                                 たかいのごろう
 神保太郎               高井五郎

  えだのひょうえのじょう                            えだのごろたろう
 江田兵衛尉              江田五郎太郎

  たかいのいやたろう                              おなじきむろのさぶろう
 高井弥太郎              同室三郎

  やしまのじろう                                  おぐしのごろう
 屋嶋次郎               小串五郎

  あおねのさぶろう
 根三郎

     ろくがつじうよっか うじばしがっせん  かわ  こ   かけ  とき  みかた  ひとびと し  にき
  六月十四日宇治橋合戰で河を越え懸る時、尾方の人々死ぬ日記

  ふせのうえもんじろう                             あがたのさとうしろう
 布施右衛門次郎            縣佐藤四郎

  たかののこたろう                                おなかげのしろう 〔 むさし 〕
 高野小太郎              女影四郎〔武藏〕

  うちじまのしちろう                                えばらのろくろう
 内嶋七郎               荏原六郎

  おなじきいやさぶろう                             おおたのろくろう
 同弥三郎               太田六郎

  いまいずみのしちろう                             かたほのぎょうぶしろう
 今泉七郎               片穂刑部四郎

  いいだのさこんしょうげん                           しむらのいやさぶろう
 飯田左近將監             志村弥三郎

  おなじきまたたろう                               ぜんのうえもんたろう
 同又太郎               善右衛門太郎

  あぼのぎょうぶのじょう                             おなじくしろう
 安保刑部丞              同四郎

  おなじきさえもんじろう                             おなじくはちろう
 同左衛門次郎             同八郎

  しおやのみんぶたいふ                            せきのさえもんにゅうどう
 塩屋民部大夫             關左衛門入道

  かねこのおおくらろくろう                           かすがのぎょうぶにろうたろう
 金子大倉六郎             春日刑部二郎太郎

  おなじきこさぶろう                               しぶやのしろう
 同小三郎               澁谷四郎

  おなじきごんのかみごろう                           うしおだのろくろう
 同權守五郎              潮田六郎

  しみずのろくろう                                おろのしろう
 志水六郎               於呂七郎 参考於呂は、静岡県浜松市浜北区に「於呂」の地名あり。

  わかさのじろううえもんにゅうどう                        つなしまのさえもんじろう
 若狹次郎右衛門入道          綱嶋左衛門次郎

  おおとねりのすけ                                いいぬまのさぶろう
 大舎人助               飯沼三郎

  おなじきしそくひとり                              おおかわどのこしろう
 同子息一人              大河戸小四郎

  こうじまのしろう  〔 また  しもこうべ  ごう  〕               かじわらのへいざえもんじろう
 幸嶋四郎〔又は下河邊と号す〕      梶原平左衛門次郎

  なりたのひょうえのじょう                            おなじきごろたろう
 成田兵衛尉              同五郎太郎

  たまいのひょうえたろう                            さぬきのうえもんごろう
 玉井兵衛太郎             佐貫右衛門五郎

  おなじきはちろう                                おなじきひょうえたろう
 同八郎                同兵衛太郎

  ながえのよいち 〔 う  れる 〕                       ながえのこしろう  〔どうじょう〕
 長江余一〔討た被〕           長江小四郎〔同上〕

  そうまのさぶろう                                 おなじきたろう 〔 う  れる 〕
 相馬三郎               同大郎〔討た被〕

  おなじきじろう                                  おだぎりおくた
 同次郎                小田切奥太

  おのでらなかつかさのじょう                          いしかわのさぶろう〔う  れる 〕
 小野寺中務丞             石河三郎〔討た被〕

  ふるしょうのじろう 〔どうじょう〕                        おみのろくろう
 古庄次郎〔同上〕            麻續六郎

  なかむらのくろうさこんしょうげん                        おなじきさぶろう
 中村九郎左近將監           同三郎

  さめじまのこしろう                               しんかいひょうえのじょう 〔 はし  をい  う  れる 〕
 鮫嶋小四郎              新開兵衛尉  〔橋に於て討た被〕

  おおやまのいやとうじ                              やまのうちのいやごろう
 大山弥藤次              山内弥五郎

  ちがまのしろう                                  おなじきしんたろう
 千竃四郎               同新太郎

  かねこのこたろう                                とうじ  〔 よこみぞごろう  しんるい 〕
 金子小太郎              藤次〔横溝五郎が親類〕


  てらおのさえもんのじょう 
〔 はしうえ  をい  う   れる 〕        しょうのさぶろう 〔 てき  ため  う   とられる  うんぬん〕
 寺尾左衛門尉〔橋上に於て討た被〕    庄三郎〔敵の爲に討ち取被と云々〕

  おおかわどのろくろう 〔 どうじょう 〕                        さぬきのたろじろう  〔 きずされくぁ  をい  し  〕
 大河戸六郎〔同上〕           佐貫太郎次郎〔疵被河に於て死ぬ〕

  おなじきじろたろう                              さぬきのはちろう
 同次郎太郎              佐貫八郎

  しながわのじろう                                おなじきしろさぶろう
 品河次郎               同四郎三郎

  おなじきろくろうたろう                             おおしおのじろう 〔しなの〕
 同六郎太郎              大塩次郎〔信濃〕

  うらのしろう                                   えどのしろさぶろう
 浦四郎                江戸四郎三郎

  あんどうのへいじひょうえのじょう                       あんどうのとうないさえもんのじょう
 安東平次兵衛尉            安東藤内左衛門尉

  まちののじろう  〔 じうさんにちはしうえ  をい  し  〕           せんばのいやじろう 〔 きずされみっかび いご   し  〕
 町野次郎〔十三日橋上に於て死ぬ〕    仙波弥次郎〔疵被三箇日已後に死ぬ〕

  しんたろう                                    さきらいのじろう 〔うらのたろう  て   もの〕
 新太郎                櫻井次郎〔浦太郎の手の者〕

  へいじたろう  〔てらおのしろうひょうえのじょう  て  もの〕          たかいのさぶろう
 平次太郎〔寺尾四郎兵衛尉の手の者〕    高井三郎

  しまなのぎょうぶさぶろう                          やしまのろくろう
 嶋名刑部三郎             屋嶋六郎

  じんぼうよいち                                 どちのさぶろうたろう
 神保與一               道智三郎太郎

  おねやにしろう                                おなじきじろう
 麻祢屋四郎              同次郎

    むさしのかみどの  おんて
  武藏守殿が御手

  へいろく                                    しょうゆうぼう
 平六                 少輔房

  ごろうどの                                   いしかわのへいご
 五郎殿                石河平五

  さえきのさこんしょうげん                           かたほのぎょうぶしろう
 佐伯左近將監             片穂刑部四郎

  いいだのさこんしょうげん                          せんぞくのとうない
 飯田左近將監             足洗藤内

  ちうざにゅうどう                                ごのへいしろう
 中三入道               後平四郎

現代語承久三年(1221)六月小十八日辛未。武蔵太郎時氏の大事にしている馬の一二頭が宇治合戦で矢に当たり、その矢尻が体の中に入ったまま未だに抜けません。中途半端に倒れもしないので、相当に苦しそうです。皆さんに聞きましたが、治療の仕様もないと言ってます。捕虜の西面の武士の中に友野右馬允遠久と云う者がおります。馬の飼育については、昔の中国の馬の見分け方の名人伯楽並だと謂われます。この事を聞いて治しましょうと云ってます。泰時はとてもこの話が気に入って、早速その馬を引いて連れて行かせたところ、矢尻を抜いて治療をし、たちまち治してしまいました。珍しい事だと世間に伝わりましたとさ。

今日、使いを鎌倉へ派遣しました。それは、今度の戦争で朝廷軍を打倒し、又傷つけられたり、朝廷軍に殺された者達が沢山おります。関判官代実忠・後藤左衛門尉基綱・金持兵衛尉が調べ尽くして、その名を書き出して泰時に送りました。それで手柄を表彰されるために派遣したのです。中太弥三郎が送達したんだとさ。

6月14日宇治川の合戦で敵をやっつけた人々

 秩父平次五郎〔一人、名は分からず〕        小笠原四郎長清〔一人弓の弦袋に結わえた〕
 佐々木又太郎右衛門尉〔同じ〕           奈良五郎高家〔一人〕
 横溝五郎資重〔一人〕               佐竹六郎義茂〔二人、内一人は刀で討った〕
 押垂三郎兵衛尉時基〔一人、家来がこれを討った〕  冨田小太郎〔一人〕
 
戸村三郎〔三人、内生捕一人は勅使左衛門尉入道〕  浦太郎〔三人〕
 島津三郎兵衛尉忠義〔七人、内坊さん一人、生捕二人〕若狭兵衛入道の手の者〔三人〕
 宮木小四郎〔一人で小野次郎左衛門尉〕       大井左衛門三郎〔一人〕
 品川小三郎〔二人〕                品川四郎太郎〔一人〕
 於呂左衛門四郎〔二人、内生捕一人〕        同五郎〔四人、内生捕一人〕
 葛山太郎〔一人弦袋に結わえた〕          駿河次郎泰村〔四人、内奴の加沢左近将監一人。小川兵衛尉一人を討ちました〕
 伊具六郎〔二人。その内深草六郎が一人。染谷刑部七郎が一人、討ち取りました〕 並木弥次郎兵衛尉〔一人。法師です〕
 天野右馬太郎〔五人、内一人は刀で切った〕     黒田三郎入道〔一人、家来が討ち取りました〕
 佐竹別当義季の部下〔二人〕            梶原平左衛門太郎の手先〔一人〕
 四宮右馬允〔二人〕                香川小五郎〔二人、長覆輪の刀で〕
 豊島九郎小太郎〔二人、家来の信濃が討ち取りました〕高野弥太郎〔一人〕
 塩尻弥三郎〔出雲国小三郎だそうな〕        庄四郎四方田弘季〔一人、生捕です〕
 同五郎〔一人、生捕です〕             潮田四郎太郎〔一人〕
 蒼海平太〔二人、但し首は宇治にさらしてきました〕 大貫三郎〔一人〕
 大和太郎左衛門尉〔一人は刀で、二人は家来が討ち取りました〕 大和藤内〔一人〕
 山田八郎〔二人刀で〕               同次郎〔二人刀で〕
 河越三郎重員〔一人刀で〕             小野寺左衛門入道〔五人、内一人は刀で〕
 渋谷三郎〔二人、刀で一人荻野三郎〕        渋谷権守太郎〔二人、内一人は刀で、一人は捕虜に〕
 渋谷又太郎〔一人刀で、出雲国の神西庄司太郎〕   県左近将監〔二人〕
 神保与三〔一人〕                 多胡宗内〔一人〕
 椎名弥次郎                    小手左近将監〔二人、内一人は捕虜に〕
 三善右衛門四郎〔三人刀で〕            渋谷六郎〔一人、家来がやった〕
   以上98人〔このうち近衛府の侍五人、捕虜七人〕関判官代実忠の日々の記録に基づくものだそうな。

 長布施四郎〔三人、内一人は荻野太郎等佐々木判官高重と親しい者一人捕虜に〕 猪俣左衛門尉範政〔一人〕
 佐貫右衛門十郎〔四人〕              金子大倉太郎〔二人〕
 同じ金子右近将監〔二人〕             同じ金子三郎〔一人〕
 須久留兵衛次郎〔一人〕              岩田七郎政広〔一人〕
 豊田四郎〔一人〕                 同じ豊田五郎景春〔四人〕
 佐貫七郎広胤〔一人〕               小代右馬次郎〔二人〕
 河村四郎〔一人〕                 於呂小五郎〔一人、上皇の西の警備兵〕
 松田小次郎〔二人、内一人は甲斐宰相中将源範茂の侍で刑部丞だそうな〕 同じ松田九郎〔二人内上皇の西の警備兵平性の内の舎人一人で小松熊野法印と親しい者〕
 小越四郎〔一人〕                 秩父次郎太郎〔一人近衛府の官人だそうな〕
 瓶尻(三ヶ尻)小次郎〔一人〕            藤田兵衛尉〔一人刀で、佐々木判官高重の家来だそうな〕
 内島三郎〔二人〕                 小越四郎太郎〔二人〕
 大井太郎光長〔一人〕               小越右馬太郎〔二人〕
 中村四郎〔二人〕                 川原田四郎太郎〔一人〕
 人見八郎〔一人〕                 木内次郎胤家〔一人〕
 風早四郎胤康〔一人〕               山城右衛門尉〔十六人〕
 児玉刑部四郎〔一人〕               河村太郎〔三人、家来が討った〕
 同じ河村三郎義秀〔一人刀で〕           同じ河村五郎四郎〔一人刀で上皇の西の警備兵〕
 勅使河原五郎兵衛尉〔一人家来が討った〕      勅使河原四郎〔一人刀で〕
 大田五郎〔一人刀で〕               香川三郎〔一人刀で〕
 甘糟小次郎〔一人〕                河勾小太郎〔一人刀で〕
 波多野弥藤次〔一人刀で宇治で首を切ったそうな〕  小沢太郎入道〔二人、宇治で首を切ったそうな〕
 沼田小太郎〔一人刀で熊野法印の子〕        佐田太郎〔一人刀で〕
 糟谷三郎〔一人刀で〕               同じ糟谷四郎〔一人刀で〕
 小代与田次郎〔一人〕
   以上84人は金持兵衛尉の日々の記録に基づくそうな

 相良三郎〔一人、渡部弥三郎兵衛尉上皇の北の警備員だそうな、綾織の直垂〕 長布施三郎〔一人〕
 二宮三郎〔二人、名は分からず〕          曽我八郎〔一人、宰相中将源範茂のそばに仕える者〕
 同じ曾我八郎三郎〔一人同様にそばに仕える者〕   泉八郎〔二人〕
 同じ泉次郎秀綱〔三人〕              安東兵衛尉の家来で伊予玉井四郎資重〔一人〕
 肥前坊〔一人山口兵衛尉の小間使いで捕虜に〕    権守三郎〔一人甲斐宰相中将源範茂の下男だそうな〕
 二藤太三郎〔一人佐々木高重と親しい者〕      藤巻藤太〔一人、三郎法師で捕虜に〕
 清久左衛門尉〔二人〕               曾我太郎〔一人〕
 成田五郎〔一人〕                 同じ成田藤次〔一人〕
 奈良兵衛尉〔一人、比叡山の僧兵〕         別府次郎太郎〔一人〕
 荏原六郎太郎〔一人下総前司小野盛綱の家来〕    荏原七郎〔一人家来が討つ〕
 岩原源八〔一人〕                 弓削平次五郎〔一人〕
 川平次郎の家来〔四人、熊野の僧兵一人、弓の弦袋に結びつけた〕 土屋三郎兵衛尉宗遠〔一人〕
 宇津木十郎〔一人〕                佐貫右衛門尉十郎〔一人、弓の弦袋に結びつけた〕
 宿屋太郎の家来〔五人〕              興津左衛門三郎〔二人、刀で〕
   十五日以後に京都でこれを書きました

 植野次郎〔一人〕                 角田太郎〔一人刀で、義経の家来で美六美八〕
 波多野中務次郎経朝〔一人、熊野法印、長覆輪の刀で〕内藤左近将監〔一人、熊野の僧兵の家来〕
 内記左近将監〔二人、熊野の僧兵の家来〕      荻窪六郎〔二人、内一人は肥前国の佐山十郎〕
 西条四郎〔一人、家来が刀で〕           古郡四郎〔一人、瑠璃王左衛門尉で上皇の西の警備員 捕虜〕
 天野平内次郎〔一人〕               山田蔵人〔三人捕虜に、下総前司小野盛綱の家来〕
 仁田次郎太郎〔五人、内一人は捕虜に、宮分刑部丞〕 金持兵衛尉〔五人、二位法印尊長の家来〕
 豊島十郎〔一人、付金とさ〕            中村小五郎右衛門尉〔一人捕虜に中七左近〕
 荻原小太郎〔一人〕                佐々木四郎右衛門尉信綱〔一人刀で佐々木太郎右衛門尉〕
   以上73人
  それと255人

6月13日14日宇治橋の戦いで怪我をした人々
 13日
 冨部五郎兵衛尉  同冨部町野兵衛尉
 松田小次郎    同松田三郎
 同松田五郎    同松田平三郎
 同松田右衛門太郎 波多野中務丞次郎経朝
 同波多野中務五郎 牧右近太郎
 同牧中次     小沢太郎入道
 同小沢藤次太郎  椎名小次郎
 横田右馬允    阿曾沼六郎太郎
 香川小五郎    豊田平太
 同豊田五郎    保土原三郎
 今泉弥三郎兵衛尉 同今泉五郎
 同今泉須川次郎  同今泉五郎
 同今泉堤五郎   瀬山三郎
 河田七郎     甘糟小太郎
 藤田新兵衛尉   須賀弥太郎
 安保右馬允    目黒小太郎
 井田四郎太郎   沼田小太郎
 沼田佐藤太
   以上35人
  14日
 小代小次郎    行田兵衛尉
 古庄太郎     曽我太郎
 源内八郎     女影太郎
 宇津木平太    同じ宇津木十郎
 山口兵衛太郎   須黒兵衛太郎
 加世左近将監   同加世弥次郎〔死亡〕
 仙波太郎信恒   同左衛門尉
 国分八郎〔相模〕 興津左衛門三郎
 同四郎      同六郎
 同紀太      興津八郎太郎
 同興津十郎    河村藤四郎
 岩原源八     吉川左衛門次郎
 大内十郎     同大内弥次郎
 源七刑部次郎   同源七三郎太郎
 児島三郎     同児島六郎
 同児島七郎    矢部源次郎
 内記四郎     屋代兵衛尉
 葛山小次郎    波賀小太郎
 古谷八郎     同古谷飯積三郎
 同古谷十郎    岡村次郎兵衛尉
 岩平小四郎    同岩平五郎
 同岩平余一    河原次郎
 皆川太郎     大江兵衛尉
 同大江四郎    井田四郎
 岩田八郎五郎   大倉小次郎
 高井小太郎    高井小次郎
 長沢又太郎    佐加江四郎〔重態〕
 同佐加江九郎〔重態〕矢田八郎
 妻良五郎     西郷三郎
 新開弥次郎    布施左衛門三郎〔川を渡っている最中に傷を受けた〕
 奈良左近将監〔同じ渡河中〕 宇治次郎〔同じ渡河中、又は波多野ともいう〕
 佐貫右衛門六郎〔同じ渡河中〕 肥前坊〔同じ渡河中、安東の家来〕
 松野左近将監   志水右近将監〔同じ渡河中〕
 平川刑部太郎   同平川又太郎
(太郎の太郎は又太郎で、二人は親子)
 
蛭川刑部三郎   同蛭川三郎太郎(三郎の太郎で、二人は親子)
 
佐野七郎入道   渋谷平太三郎
 同渋谷権守六郎  同渋谷権守七郎
 品川四郎     阿曽沼次郎
 高橋九郎     塩谷左衛門尉
 同塩谷太郎    同塩谷六郎
 塩谷弥四郎    同塩谷奥太
 塩谷小三郎    同塩谷五郎
 冨田太郎     同冨田五郎
 玉井小四郎    俣野小太郎
 川平三郎     寺尾又太郎
 鴛四郎太郎    天野平内太郎
 安東藤内     庵原仲次
 奥沼二藤三郎   熊井小太郎
 鎌田平三〔甲斐〕
   以上98人
  そのほかに132人

 神保太郎     高井五郎
 江田兵衛尉    江田五郎太郎
 高井弥太郎    同室三郎
 屋島次郎     小串五郎
 青根三郎

  6月14日宇治橋合戰で渡河時に味方で死んだ人々の日の記録
 布施右衛門次郎  懸佐藤四郎
 高野小太郎    女影四郎〔武蔵〕
 内島七郎     荏原六郎
 同荏原弥三郎   太田六郎
 今泉七郎     片穂刑部四郎
 飯田左近将監   志村弥三郎
 同志村又太郎   三善右衛門太郎
 安保行部丞    同安保四郎
 同安保左衛門次郎 同安保八郎
 塩谷民部大夫   関左衛門入道
 金子大倉六郎   春日刑部二郎太郎
 同春日小三郎   渋谷四郎
 同権守五郎    潮田六郎
 志水六郎     於呂七郎
 若狭次郎右衛門入道 綱島左衛門次郎
 大舎人助     飯沼三郎
 同飯沼息子一人  大川戸小四郎
 幸島四郎行時〔又は下河辺とも〕 
梶原平左衛門次郎
 成田兵衛尉    同成田五郎太郎
 玉井兵衛太郎   佐貫右衛門五郎
 同佐貫八郎    同佐貫兵衛太郎
 長江余市〔討たれた〕 長江小四郎〔討たれた〕
 相馬三郎     同相馬太郎〔討たれた〕
 同相馬次郎    小田切奥太
 小野寺中務丞   石河三郎〔討たれた〕
 古庄次郎〔討たれた〕 麻績六郎
 中村九郎左近将監 同中村三郎
 鮫島小四郎    新開兵衛尉〔橋で討たれた〕
 大山弥藤次    山内弥五郎
 千竈四郎     同千竈新太郎
 金子小太郎    藤次〔横溝五郎の親類〕
 寺尾左衛門尉〔橋の上で討たれた〕 庄三郎〔敵に討たれたそうな〕
 大川戸六郎〔敵に討たれたそうな〕 佐貫太郎次郎〔傷つけられ川で死んだ〕
 同佐貫次郎太郎  佐貫八郎
 品川次郎     同品川四郎三郎
 同品川六郎太郎  大塩次郎〔信濃〕
 浦四郎      江戸四郎三郎
 安東平次兵衛尉  安東藤内左衛門尉
 町野次郎〔13日橋の上で死ぬ〕 仙波弥次郎〔傷を受け三日後に死ぬ〕
 新太郎      桜井次郎〔浦太郎の家来〕
 平次太郎〔寺尾四郎兵衛尉の家来〕 高井三郎
 島名刑部三郎   屋島六郎
 神保與一     道智三郎太郎
 麻祢屋四郎    同麻祢屋次郎

  武蔵守北条泰時の家来
 平六     少輔房
 五郎殿    石河平五
 佐伯左近将監 片穂刑部四郎
 飯田左近将監 足洗藤内
 中三入道   後平四郎

承久三年(1221)六月小十九日壬申。於六波羅。生虜錦織判官代。是弓馬相撲達者。壯力越人勇士也。參院中之處。官兵敗北失度。雖逃亡。思難遁事。忽然出來。撰可對揚于彼之東士。所示付佐野太郎。同次郎入道。同三郎入道等也。而猶相爭。錦織輙不雌伏。佐野郎從來加獲之云々。今日。武藏太郎時氏招去十四日渡宇治河時相從者六人。勸盃及贈物云々。

読下し                      ろくはら   をい   にしきおりほうがんだい  いけどり
承久三年(1221)六月小十九日壬申。六波羅に於て、錦織判官代を生虜る。 

これ  きゅうば  すまい  たっしゃ  そうりきひと  こ     ゆうしなり
是は弓馬、相撲の達者、壯力人に越える勇士也。

さんいんちうのところ かんぺいはいぼく ど  うしな   とうぼう    いへど   のが  がた  こと  おも    こつぜん  いできた
參院中之處、官兵敗北し度を失ひ、逃亡すと雖も、遁れ難き事を思い、忽然と出來る。

か に たいようの とうし  えら  べ     さののたろう   おな    じろうにゅうどう  おな    さぶろうにゅどうら  しめ  つ    ところなり
彼于對揚之東士を撰ぶ可き。佐野太郎、同じき次郎入道、同じき三郎入道等に示し付ける所也。

しか    なおあいあらそ  にしきおり たやす しふく  ず    さの  ろうじゅうきた  くは    これ  え     うんぬん
而るに猶相爭い、 錦織 輙く雌伏せ不。佐野が郎從來り加はり之を獲ると云々。

きょう   むさしのたろうときうじ   いんぬ  じうよっか   うじがわ  わた  とき  あいしたが  ものろくにん まね  さかずき すす おくりもの およ    うんぬん
今日、武藏太郎時氏、去る十四日の宇治河を渡る時に相從う者六人を招き、盃を勸め贈物に及ぶと云々。

現代語承久三年(1221)六月小十九日壬申。六波羅で、錦織判官代義継を捕虜にしました。この人は、馬上弓と相撲の名人で、その力は常人を越える勇者です。院に来ていた所、朝廷軍は負けてしまい仕方なく逃げてしまいましたが、逃げ切れないとどうどうと出て来たのです。彼を捕えるため、幕府軍では対抗できる人を選びました。佐野太郎基綱・同じ次郎入道・同じ三郎入道を指名しました。それでも、争いましたが、錦織は簡単に抑えられず、佐野の家来も加わってやっと、取り押さえましたとさ。

今日、武蔵太郎時氏は、先日の宇治川渡河の際に一緒に従った六人を招待して、酒を進め、贈り物をしましたとさ。

承久三年(1221)六月小廿日癸酉。上皇自高陽院。御幸四辻殿被。土御門院。新院〔順徳〕。六條宮。冷泉宮。還御本所。 主上許御座于此御所云々。及晩。美濃源氏神地藏人頼經入道。同伴類十余人。於貴舟邊。本間兵衛尉生虜之。又多田藏人基綱梟首云々。

読下し                   じょうこう かやいん よ    よつつじどの  ぎょうこされ
承久三年(1221)六月小廿日癸酉。上皇高陽院自り、四辻殿へ御幸被る。

つちみかどいん  しんいん  ろくじょうのみや れいぜいのみや もと ところ  かへ  たま
土御門院、新院@、六條宮、 冷泉宮、本の所へ還り御う。

  しゅじょうばか   かく  ごしょに  おは    うんぬん
 主上許りが此の御所于御座すと云々。

ばん  およ    みのげんじ かんぢくらんどよりつねにゅうどう  おな    ばんるいじうよにん  きぶねへん  をい   ほんまのひょうえのじょう これ いけど
晩に及び、美濃源氏 神地藏人頼經入道A、 同じく伴類十余人、貴舟B邊に於て、 本間兵衛尉 之を生虜る。

また  ただのくらんどもとつな きょうしゅ   うんぬん
又、多田藏人基綱C梟首すと云々。

参考@新院は、順徳84。
参考A
神地藏人頼經は、頼光系。美濃市美濃で旧名美濃上有地(こうずち)で美濃源氏出身地。
参考B貴船は、京都市左京区下賀茂貴船町と、鞍馬貴船町とあるが、一般的観光番組では、貴船神社のある鞍馬の方が紹介される。
参考C
多田藏人基綱は、多田藏人大夫行綱の子。兵庫県川西市多田院。国指定史跡清和源氏発祥の地。源満仲、源頼光、源頼信、源頼義、源義家を祀る。

現代語承久三年(1221)六月小二十日癸酉。後鳥羽上皇は、高陽院殿から四辻殿へ移られました。土御門院83・順徳院84・六条宮・冷泉宮は元の所へ帰られました。仲恭天皇85だけがこの建物におられるそうな。夜になって、美濃の源氏の神地蔵人頼経入道とその仲間十数人を、貴船神社の近所で本間兵衛尉が捕虜にしました。又、多田源氏蔵人基綱は処刑されましたとさ。

参考後鳥羽82┬土御門83─後嵯峨88
      └順 徳84─仲 恭85

承久三年(1221)六月小廿三日丙子。去十六日。武州飛脚今夜丑刻到着鎌倉。合戰無爲。天下靜謐次第。披委細書状。公私喜悦。無物取喩。即時有卿相雲客罪名以下洛中事之定。大官令禪門勘文治元年沙汰先規相計之。整事書。進士判官代隆邦執筆註文云々。

読下し                     さんぬ じうろくにち  ぶしゅう  ひきゃく  こんやうしのこくかまくら  とうちゃく
承久三年(1221)六月小廿三日丙子。去る十六日の、武州が飛脚、今夜丑刻鎌倉へ到着す。

かっせん  むい   てんかせいひつ  しだい   いさい  しょじょう  ひら    こうし   きえつ  たと    と     ものな
合戰の無爲、天下靜謐の次第、委細の書状を披き、公私の喜悦、喩へを取るに物無し。

そくじ  けいしょううんきゃく ざいめい いげ  らくちう  ことの さだ  あ
即時に卿相雲客の罪名以下、洛中の事之定め有り。

だいかんれいぜんもん かん  ぶんじがんねん  さた     せんき  これ  あいはか    ごとがき  ととの
 大官令禪門 勘す文治元年の沙汰する先規、之を相計り、事書を整う@

しんじほうがんだいたかくに ちうもん  しっぴつ   うんぬん
進士判官代隆邦 註文を執筆すと云々。

参考@事書を整うは、箇条書きにする。

現代語承久三年(1221)六月小二十三日丙子。先日の16日の武州泰時の伝令が、今夜午前二時頃鎌倉へ着きました。合戦は無事終わり、世の中は落ち着いたと、詳しい手紙を開いて、上下共に喜び合う様子は、者のたとえようもないほどです。すぐに、公卿や殿上人の罪を始め京都市中の事を取り決めました。大官令禅門大江広元が上申した文治元年(義経事件)に決めた先例を良く調べ、決め事を書き出しました。進士判官代橘隆邦が、書き出しましたとさ。

承久三年(1221)六月小廿四日丁丑。相州。武州等任申請之旨。合戰張本公卿等被渡六波羅。按察使光親卿〔武田五郎信光預之〕。中納言宗行卿〔小山新左衛門尉朝長預之〕。入道二位兵衛督有雅卿〔小笠原次郎長C預之〕。宰相中將範茂卿〔式部丞朝時預之〕。今日寅剋。安東新左衛門尉光成帶昨日事書。出關東上洛。於京都。可有沙汰條々。右京兆直示含光成云々。

読下し                     そうしゅう ぶしゅうら   もう   う    のむね  まか   かっせんちょうほん くぎょうら  ろくはら    わたされ
承久三年(1221)六月小廿四日丁丑。相州、武州等の申し請け之旨に任せ、合戰張本の公卿等六波羅へ渡被る。

 あぜちみつちかきょう 〔 たけだのごろうにぶみつこれ  あず    〕  ちうなごんむねゆききょう 〔おやまのしんさえもんのじょうともなかこれ  あず    〕
按察使光親卿〔武田五郎信光之を預かる〕。中納言宗行卿〔小山新左衛門尉朝長之を預かる〕

にゅうどう にいのひょうえのかみ ありまさきょう 〔おがさわらのじろうながきよこれ  あず   〕   さいしょうちうじょうのりもちきょう 〔しきぶのじょうともときこれ  あず    〕
 入道 二位兵衛督 有雅卿〔小笠原次郎長C之を預かる〕。宰相中將範茂卿 〔式部丞朝時之を預かる〕

きょう とらのこく  あんどうしんさえもんのじょうみつなり  さくじつ  ことがき  お     かんとう  い  じょうらく
今日寅剋、 安東新左衛門尉光成、 昨日の事書を帶び、關東を出で上洛す。

きょうと  をい     さた  じょうじょうあ  べ     うけいちょうじき  みつなり  しめ  ふく     うんぬん
京都に於て、沙汰の條々有る可く、右京兆直に光成に示し含めると云々。

現代語承久三年(1221)六月小二十四日丁丑。相州時房・武州泰時の申請通りに、今度の戦の首謀者の公卿を六波羅へよこしてきました。按察使葉室光親さん〔武田五郎信光が預かり囚人(めしうど)〕。中納言中御門宗行〔小山新左衛門尉朝長が預かり囚人〕。入道二位兵衛督源有雅さん〔小笠原次郎長Cが預かり囚人〕。宰相中将範茂〔式部丞朝時が預かり囚人〕。今日午前四時頃、安東新左衛門尉光成、昨日の決め事の種類を持って京都へ出ました。京都での処分を箇条書きの通りにするように、右京兆義時は、光成に云って聞かせましたとさ。

承久三年(1221)六月小廿五日戊寅。合戰張本重被渡六波羅。大納言忠信卿〔千葉介胤綱預之〕。宰相中將信能〔遠山左衛門尉景朝預之〕。此外刑部僧正長賢。觀嚴〔結城左衛門尉朝光預之〕。二位法印尊長。能登守秀康等逐電云々。又熊野法印〔号小松〕。天野四郎左衛門尉等梟首云々。

読下し                     かっせん ちょうほんかさ   ろくはら  わたされ
承久三年(1221)六月小廿五日戊寅。合戰の張本重ねて六波羅へ渡被る。

だいなごんただのぶきょう 〔ちばのすけたねつなこれ  あず  〕  さいしょうちうじょうのぶよし 〔とおやまさえもんのじょうかげともこれ  あず   〕
大納言忠信卿〔千葉介胤綱之を預かる〕。宰相中將信能〔遠山左衛門尉景朝之を預かる〕

こ   ほか ぎょうぶそうじょうちょうけん かんげん 〔ゆうきのさえもんのじょうともみつこれ  あず    〕   にいのほういんそんちょう  のとのかみひでやすら  ちくてん   うんぬん
此の外 刑部僧正長賢。 觀嚴〔結城左衛門尉朝光之を預かる〕。二位法印尊長。能登守秀康等は逐電すと云々。

また  くまのほういん  〔こまつ   ごう  〕    あまののしろうさえもんのじょうら きょうしゅ   うんぬん
又、熊野法印〔小松と号す〕、天野四郎左衛門尉等梟首すと云々。

現代語承久三年(1221)六月小二十五日戊寅。今度の戦の首謀者を追加して六波羅へよこしてきました。大納言坊門信忠さん〔千葉介胤綱が預かり囚人〕。宰相中将一条能能〔遠山左衛門尉景朝が預かり囚人〕。このほかに、刑部僧正長賢・観厳〔結城左衛門尉朝光が預かり囚人〕。二位法印尊長と能登守藤性足利秀康は逃げてしまいましたとさ。また、小松熊野法印と天野四郎左衛門尉を殺しましたとさ。

承久三年(1221)六月小廿八日辛巳。伊豫國住人河野入道相從當國勇士等。合戰之間。爲一方張本。仍可討罸之由。武州下知國中不與河野之輩等云々。

読下し                     いよのくにじゅうにん こうのにゅうどう  とうごく   ゆうしら   あいしたが   かっせんのあいだ いっぽう ちょうほんたり
承久三年(1221)六月小廿八日辛巳。伊豫國住人 河野入道、當國の勇士等を相從へ、 合戰之間、 一方の張本爲。

よっ  とうばつすべ  のよし  ぶしゅうくにじゅう  こうの  くみせずのやからら  げち   うんぬん
仍て討罸可き之由、武州國中の河野に與不之輩等に下知すと云々。

現代語承久三年(1221)六月小二十八日辛巳。伊予国の豪族河野入道四郎通信は、伊予国の勇士を従えて戦に参加したので、一方の首謀者である。それなので、やっつけるように泰時は、伊予の国で河野に従わなかった連中に命令しましたとさ。

承久三年(1221)六月小廿九日壬午。子刻。安東新左衛門尉光成着于六波羅。洛中城外謀叛之輩可被断罪條々具申之。相州。武州披關東事書。如駿河前司。毛利入道。有評議云々。

読下し                     ねのこく  あんどうしんさえもんのじょうみつなり ろくはらに つ
承久三年(1221)六月小廿九日壬午。子刻、 安東新左衛門尉光成 六波羅于着く。

らくちうじょうがい むほんおやから  だんざいされ べ じょうじょうつぶ   これ  もう
洛中城外の謀叛之輩、断罪被る可き條々具さに之を申す。

そうしゅう ぶしゅうかんとう  ことがき  ひら   するがのぜんじ  もうりにゅうどう   ごと       ひょうぎあ    うんぬん
相州、武州關東の事書を披き、駿河前司、毛利入道の如きと、評議有りと云々。

現代語承久三年(1221)六月小二十九日壬午。午前零時頃、安東新左衛門尉光成が六波羅に着きました。京都市内やその周辺の反逆者を裁くべき箇条書きを詳しく話しました。時房・泰時は、鎌倉幕府からの手紙を開いて、三浦義村・毛利季光入道達と協議をしましたとさ。

七月へ

吾妻鏡入門第廿五巻

inserted by FC2 system