吾妻鏡入門第廿五巻

承久三年辛巳(1221)七月小

承久三年(1221)七月小一日癸未。合戰張本衆公卿以下人々。可断罪之由宣下間。武州早相具之。可下向于關東之旨。下知面々預人等云々。

読下し                   かっせんちょうほん しゅう くぎょう いげ  ひとびと  だんざいすべ  のよし せんげ あいだ
承久三年(1221)七月小一日癸未。合戰張本の衆、 公卿以下の人々、断罪可き之由宣下の間、

ぶしゅう  はや  これ  あいぐ    かんとうに げこうすべ  のむね  めんめん あずかりにんら げち     うんぬん
武州、早く之を相具し、關東于下向可き之旨、面々の預人等に下知すと云々。

現代語承久三年(1221)七月小一日癸未。合戦の首謀者の公卿を始めとする面々に、判決を下すように朝廷から命令が出たので、泰時さんは、こいつらを早く連行して鎌倉へ行くように、それぞれの囚人預かり人に命じましたとさ。

承久三年(1221)七月小二日甲申。西面衆四人被召渡梟首。霜刑之法。朝議不拘云々。謂四人者。後藤檢非違使從五位上行左衛門少尉藤原朝臣基C〔子息左衛門尉基綱斬之。依命也〕。五條筑後守從五位下行平朝臣有範。佐々木山城守從五位下源朝臣廣綱。江檢非違使從五位下行左衛門少尉大江朝臣能範等也。此輩皆關東被官士也。蒙右大將家恩。賜預數箇之庄園。依右府將軍擧。達昇五品之位階。縱雖重勅定。盍耻精靈之所照哉。忽變彼芳躅。欲拂遺塵。頗非弓馬道歟之由。人嫌之云々。

読下し                   さいめん しゅうよにんめしわた  きょうしゅされ   そうけいのほう  ちょうぎ  かかわ ず  うんぬん
承久三年(1221)七月小二日甲申。西面の衆四人召渡し@梟首被る。霜刑A之法、朝議に拘ら不Bと云々。

いは    よにんは   ごとう   けびいし じゅごいのじょうぎょう さえもんのしょうじょう ふじわらのあそんもときよ 〔 しそく さえもんのじょう もとつな   これ  き     めい  よっ  なり  〕
謂ゆる四人者、後藤 檢非違使 從五位上行 左衛門少尉 藤原朝臣基C 〔子息左衛門尉基綱 之を斬る。命に依て也。〕

ごじょう ちくごのかみ じゅごいのげぎょう たいらのあそんありのり    ささきの やましろのかみ じゅごいのげ みなもとのあそんひろつな
五條 筑後守 從五位下行 平朝臣有範。   佐々木 山城守 從五位下 源朝臣廣綱。

えの  けびいし じゅごいのげぎょう さえもんのしょうじょう おおえのあそんよしのりら なり
江 檢非違使 從五位下行 左衛門少尉 大江朝臣能範等也。

こ  やからみな かんとう  かんじされ  なり  うだいしょうけ   おん  こうむ   すうかしょのしょうえん たま    あず
此の輩皆、關東に官士被る也。右大將家の恩を蒙り、數箇之庄園を賜はり預かる。

 うふしょうぐん  きょ  よっ    ごほんの いかい  たっ  のぼ    たと  かさ     ちょくじょう いへど   なん  はじ  しょうれいのて    ところや
右府將軍の擧に依て、五品之位階に達し昇る。縱い重ねての勅定と雖も、盍ぞ耻を精靈之照らす所哉。

たちま か   ほうしょく へん    いじん  はら      ほっ   すこぶ きゅうば  みち あらざ  かのよし  ひとこれ きら    うんぬん
忽ち彼の芳躅を變じ、遺塵を拂はんと欲す。頗る弓馬の道に非る歟之由、人之を嫌うと云々。

参考@召渡しは、引き回しの刑。
参考A
霜刑は、死刑。秋の冷たい霜に例え刑罰の厳しさを云っている。
参考B
朝議に拘ら不は、朝廷の意見は受け付けない。

現代語承久三年(1221)七月小二日甲申。後鳥羽上皇の西の警備員(西面の武士)四人は引き回しの上斬首されました。武士の掟として裏切り者に対する死刑執行は朝廷の意見は受け入れないそうな。その四人とは、検非違使で従五位上行左衛門少尉藤原後藤基清〔せがれの左衛門尉基綱が命令によってこれを切りました〕。筑後守従五位下行平五条有範。山城守従五位下源佐々木広綱。検非違使従五位下行左衛門少尉大江能範達です。この連中は皆、関東の御家人でもあります。頼朝様から恩を受けて数か所の荘園の地頭職を預かっています。又、将軍実朝様の推薦で五位の位に上る事が出来たのです。たとえ、何度も上皇から命令があっても、なんで恥を将軍の精霊に見せなきゃならんのでしょうか。たちまちその恩を裏切って、恩の遺産を払い退けようとしたのでしょうか。とても馬上弓の道を歩む武士道ではないじゃないかと世間の人々は嫌いましたとさ。

承久三年(1221)七月小五日丁亥。小雨降。一條宰相中將信能相具于遠山左衛門尉景朝。下着美濃國。即於當國遠山庄刎首云々。凡今度張本至卿相以上。皆於洛中可處斬罪之趣。雖有關東命。今城外儀可宜之由。武州計云々。

読下し                    こさめふ     いちじょうさいしょうちうじょうのぶよし とおやまさえもんのじょうかげともに あいぐ    みののくに  げちゃく
承久三年(1221)七月小五日丁亥。小雨降る。 一條宰相中將信能、 遠山左衛門尉景朝@于相具し、美濃國へ下着す。

すなは とうごく とおやまのしょう  くび  は       うんぬん
即ち當國 遠山庄Aにて首を刎ねると云々。

およ  このたび ちょうほん けいしょういじょう  いた       みならくちう  をい  ざんざい  しょ  べ  のおもむき  かんとう  めいあ    いへど
凡そ今度の張本、卿相以上に至りては、皆洛中に於て斬罪に處す可き之趣、 關東の命有ると雖も、

いまじょうがい ぎ よろ      べ   のよし  ぶしゅう  はか    うんぬん
今城外の儀宜しかる可き之由、武州の計りと云々。

参考@遠山左衛門尉景朝は、加藤次景廉の子。
参考A遠山庄は、現在の岐阜県恵那市岩村町付近。

現代語承久三年(1221)七月小五日丁亥。小雨が降っています。一条宰相中将信能は、遠山左衛門尉景朝に連れられて、美濃国へ下り着きました。すぐに美濃国遠山庄で首を刎ねられましたとさ。だいたい今度の首謀者の公卿たちは、全て京都街中に置いて首を斬るように、鎌倉から命令がありましたが、そういうことは市街での方が良いと、泰時さんのお計らいだそうな。

承久三年(1221)七月小六日戊子。上皇自四辻仙洞。遷幸鳥羽殿被。大宮中納言〔實氏〕。左宰相中將〔信成〕。左衛門少尉〔能茂〕以上三人。各騎馬供奉御車之後。洛中蓬戸。失主閇扉。離宮芝砌。以兵爲墻。君臣共後悔断腸者歟。

読下し                   じょうこう よつつじ  せんとうよ     とばでん  せんこうさる
承久三年(1221)七月小六日戊子。上皇@四辻の仙洞自り、鳥羽殿へ遷幸被る。

おおみやちゅうなごん〔さねうじ〕   ささいしょうちうじょう 〔のぶなり〕  さえもんのじょうじょう 〔よししげ〕 いじょう  さんにん おのおの きば  おくるまのうしろ   ぐぶ
大宮中納言〔實氏〕、左宰相中將〔信成〕、左衛門少尉〔能茂〕以上の三人、 各 騎馬で御車之後に供奉す。

らくちう  ほうこ   ぬし  うしな とびら と       りきゅうしば みぎり つはもの もっ  かき  な     くんしんとも  こうかい はらわた  た   ものか
洛中の蓬戸、主を失い扉を閇ざす。離宮芝の砌、 兵を以て墻と爲す。君臣共に後悔  腸 を断つ者歟。

参考@上皇は、後鳥羽上皇。

現代語承久三年(1221)七月小六日戊子。後鳥羽上皇は、四つ辻の院御所から鳥羽殿へ移されました。大宮中納言西園寺実氏・左宰相中将信成・左衛門少尉能茂の三人が、乗馬で牛車の後ろにお供をしました。京都内の粗末な屋敷でさえ、主人を失えば扉を閉めています。離宮の芝垣の先には軍隊が垣根をなして見張っています。君にも臣下にも後悔は断腸の思いでしょう。

承久三年(1221)七月小八日庚寅。持明院入道親王〔守貞〕可有御治世云々。又止攝政〔道家〕。前關白〔家實〕被蒙攝政詔云々。今日。上皇御落飾。御戒師御室〔道助〕。先之。召信實朝臣。被摸御影。七條院誘警固勇士御幸。雖有御面謁兮。只抑悲涙還御云々。

読下し                   じみょういんにゅうどうしんのう〔もりさだ〕  ごちせい あ  べ     うんぬん
承久三年(1221)七月小八日庚寅。持明院入道親王〔守貞〕@御治世有る可きAと云々。

また  せっしょう〔みちいえ〕   と     さきのかんぱく〔いえざね〕せっしょう みことの  こう  られ   うんぬん
又、攝政〔道家〕を止め、前關白〔家實〕攝政の詔りを蒙む被ると云々。

きょう   じょうこうごらくしょく  ごかいし   おむろ 〔どうじょ〕    これ  さき     のぶざねあそん  め     みえい  も され
今日、上皇御落飾。御戒師は御室〔道助〕。之に先んじ、信實朝臣を召し、御影を摸被る。

しちじょういんけいご   ゆうし  こしら   ぎょうこう   ごめんえつ あ   いへど     ただひるい  おさ    かへ  たま    うんぬん
七條院警固の勇士を誘へて御幸す。御面謁有ると雖も兮、只悲涙を抑へて還り御うと云々。

参考@持明院入道親王〔守貞〕は、後高倉。
参考A
御治世有る可きは、鎌倉幕府が決めた。

現代語承久三年(1221)七月小八日庚寅。持明院入道親王守貞さんが天皇になるようにとの事です。又摂政九条道家を止めさせて、前関白近衛家実が摂政の命を受けたそうな。今日、後鳥羽上皇は出家しました。指導僧は御室道助です。この前に信実さんを呼んで、似顔絵を描かせました。上皇の母の七条院殖子さんは、警備の者達がつきそって参りました。お会いになりましたが、ただただ涙をおさえて帰られましたとさ。

参考高 倉┬安 徳81
     ├後高倉──後堀川86─四 条87
     └後鳥羽82┬土御門83─後嵯峨88
          └順 徳84─仲 恭85

承久三年(1221)七月小九日辛夘。今日踐祚也。先帝於高陽院皇居遜位。密々行幸九條院。戌尅。新帝〔持明院二宮。春秋十歳〕自持明院殿。被還御閑院〔御輦車〕。其間自持明院。迄至于禁裏。軍兵警衛路次云々。

読下し                   きょう せんそ なり  さきのみかど かやいんこうきょ  をい  くらい ゆず  みつみつ  くじょういん  ぎょうこう
承久三年(1221)七月小九日辛夘。今日踐祚@也。先帝A 高陽院皇居に於て位を遜り、密々に九條院へ行幸す。

いぬのこく しんてい 〔じみょういん にのみや  しゅんじゅうじっさい〕 じみょういんよ     ごかんいん 〔おんてぐるま〕   かえられ
戌尅、新帝B〔持明院の二宮。春秋十歳〕持明院殿自り、御閑院〔御輦車〕へ還被る。

そ あいだ じみょういんよ     きんりに いた  まで ぐんぴょう ろじ  けいえい   うんぬん
其の間持明院自り、禁裏于至る迄、軍兵路次を警衛すと云々。

参考@踐祚は、位を譲る。
参考A
先帝は、仲恭天皇85代。
参考B
新帝は、後堀川天皇86代。

現代語承久三年(1221)七月小九日辛卯。今日、新天皇への譲位です。先帝仲恭天皇は、高陽院御所で位をお譲りになり、密かに九条院へ移られました。午後八時頃、新しい天皇(後堀川86代)〔持明院の二宮で今年十歳〕持明院殿から閑院へ人の引く車で移られました。その間、持明院殿から閑院まで軍隊が道を警備しましたとさ。

承久三年(1221)七月小十日壬辰。中御門入道前中納言宗行相伴小山新左衛門尉朝長下向。今日。宿于遠江國菊河驛。終夜不能眠。獨向閑窓。讀誦法花經。又有書付旅店之柱事。
 昔南陽縣菊水。汲下流而延齡。  今東海道菊河。宿西岸而失命。

読下し                   なかみかどにゅうどう さきのちうなごん むねゆき おやまのしんさえもんのじょうともなが   あいともな  げこう
承久三年(1221)七月小十日壬辰。中御門入道 前中納言 宗行、小山 新左衛門尉 朝長に 相伴い 下向す。

きょう  とおとうみのくに きくかわのうまやに やど  よもすがらねむ   あたはず  ひと  かんそう  むか   ほけきょう   どくしょう
今日、遠江國 菊河驛@于 宿す。終夜眠るに不能。獨り閑窓に向ひ、法花經を讀誦す。

また  りょてんのはしら  か   つ    ことあ
又、旅店之柱に書き付ける事有り。

  むかし なんよう きくすい  か     かりゅう  て えんれい く        いま  とうかいどう  きくかわ    せいがん  やど  て いのち うしな
 昔、南陽で菊水を縣け、下流に而延齡を汲む。  今、東海道の菊河で、西岸に宿し而命を失う。

参考@菊河驛は、静岡県島田市菊川。小夜の中山の東麓。

現代語承久三年(1221)七月小十日壬辰。中御門入道前中納言宗行は、小山新左衛門尉朝長に連れられて東海道を下りました。今日、遠江国菊川の宿に泊まりました。一晩中眠れずに、一人で窓に向って法華経を唱えていました。又、宿の柱に書き残したことがあります。

 昔、南陽の菊水をかければ、不老長寿の霊水なので下流で延命を得ました。今、東海道の菊川では、西国浄土の西岸に泊まったので命を失うことになりました。同じ菊のつく地名でも、えらい違いだ。

承久三年(1221)七月小十一日癸巳。相州以下被行勸賞。是參院中。順逆徳輩所領也。今日。山城守廣綱子息小童〔号勢多伽丸〕自仁和寺。召出六波羅。是御室〔道助〕御寵童也。仍被副芝築地上座。眞昭被申武州云。於廣綱重科者。雖不能左右。此童爲門弟。久相馴之間。殊以不便。十余才單孤無頼者。可有何悪行哉。可預置歟之由云々。其母又周章之余。行向六波羅。武州相逢御使云。依奉優嚴命。暫所宥也。又云。顏色之花麗。與悲母愁緒。共以堪憐愍云々。仍皈參之處。勢多伽叔父佐々木四郎右衛門尉信綱依令鬱訴之。更召返。賜信綱之間梟首云々。

読下し                     そうしゅう いげ けんじょう おこ   られ    これいんちう  まい   ぎゃくとく したが やから しょりょうなり
承久三年(1221)七月小十一日癸巳。相州以下勸賞を行は被る。是院中に參り、逆徳に順う輩の所領也。

きょう  やましろのかみひろつな しそくしょうどう 〔せいたかまる   ごう  〕   にんなじ よ      ろくはら    め   いだ    これ  おむろ 〔どうじょ〕    ごちょうどうなり
今日、山城守廣綱が子息小童〔勢多伽丸と号す〕仁和寺自り、六波羅へ召し出す。是、御室〔道助〕が御寵童也。

よっ  しばついぢ  かみざ  そ   られ   しんしょう ぶしゅう  もうされ  い
仍て芝築地の上座に副へ被る。眞昭 武州に申被て云はく。

ひろつな  をい   じゅうか  もの   そう   あたはず いへど  こ  わらべもんてい  な    ひさ    あいなじ  のあいだ  こと  もっ  ふびん
廣綱に於ては重科の者、左右に不能と雖も、此の童門弟と爲し、久しく相馴む之間、殊に以て不便。

じゅうよさい  たんこ  たよ  ものな     なん あくぎょうあ   べ   や   あずか お   べ   か のよし  うんぬん
十余才の單孤で頼る者無し。何の悪行有る可き哉。預り置く可き歟之由と云々。

そ   ははまた しゅうしょうのあま    ろくはら  ゆ   むか
其の母又、周章之余り、六波羅へ行き向う。

ぶしゅうおんし  あいあ   い       げんめい  ゆう たてまつ   よっ    しばら なだ   ところなり
武州御使に相逢い云はく。嚴命@を優じ奉るに依て、暫く宥める所也。

またい       がんしょくのかれい  かなし  はは しゅうしょ  あた    とも  もっ  れんみん  た       うんぬん
又云はく。顏色之花麗。悲みを母の愁緒に與う。共に以て憐愍に堪えずと云々。

よっ  かえ  まい  のところ  せいたか   おじ ささきのしろううえもんのじょうのぶつな これ  うっそせし    よっ
仍て皈り參るA之處、勢多伽が叔父佐々木四郎右衛門尉信綱之を鬱訴令むBに依て、

さら  め   かえ    のぶつな  たま   のあいだきょうしゅ   うんぬん
更に召し返し、信綱に賜はる之間梟首すと云々。

参考@嚴命は、法親王道助の厳命。
参考A皈り參るは、帰されたのだが。
参考B信綱之を鬱訴令むのは、没収地は同族に返付する為、兄広綱一家の断絶を望んだ。

現代語承久三年(1221)七月小十一日癸巳。相州時房さんを始めとする面々への表彰を行いました。これは、後鳥羽院について、幕府に反した連中の領地です。
今日、山城守佐々木広綱の息子でまだ子供〔勢多伽丸と云います
〕が仁和寺から六波羅へ連れて来させました。この子は、御室〔道助〕法親王が可愛がっている少年です。そこで芝の張った築地(お白洲の様なものか?)の上座に座らせました。
真昭
(時房三男資時)が泰時さんに云うのには「佐々木広綱は、罪が重いのでどうにもなりませんが、この子は御室の門弟となって長らく可愛がられているので、特に可愛そうです。十歳そこらで一人になるすがる相手もおりませんし、何が悪い事が出来ましょうか。御室に預けておくのがよろしいと思いますよ。」との事です。
その母も悲しみのあまり六波羅へ出かけました。武州泰時さんは、御室の使いに合って、「御室からの命令を優先してしばらく猶予します。」それから又云うのには「その容貌を綺麗な事と、母親の悲しみと、どちらも気の毒で放って置けません。
それで御室へ返されたのですが、勢多伽丸の叔父にあたる佐々木四郎右衛門尉信綱が、同族のお家騒動を心配して異議を訴えるので、もう一度呼び戻して、信綱に引き渡したところ、殺してしまいましたとさ。

承久三年(1221)七月小十二日甲午。按察卿〔光親。去月出家。法名西親〕者。爲武田五郎信光之預下向。而鎌倉使相逢于駿河國車返邊。依觸可誅之由。於加古坂梟首訖。時年四十六云々。此卿爲無雙寵臣。又家門貫首。宏才優長也。今度次第。殊成競々戰々思。頻奉匡君於正慮之處。諌議之趣。頗背叡慮之間。雖進退惟谷。書下追討宣旨。忠臣法。諌而随之謂歟。其諷諌申状數十通。殘留仙洞。後日披露之時。武州後悔惱丹府云々。

読下し                     あぜきょう  〔みつちか  さるつきしゅっけ    ほうみょう  さいしん〕  は  たけだのごろうのぶみつのあずか  な   げこう
承久三年(1221)七月小十二日甲午。按察卿〔光親。去月出家す。法名は西親〕者、武田五郎信光之預りと爲し下向す。

しか    かまくら  つか  するがのくに くるまがえしに あいあ     ちう  べ   のよし ふ       よっ     かこざか   をい  きょうしゅ をはんぬ
而るに鎌倉の使い駿河國 車返@邊于相逢い、誅す可き之由觸れるに依て、加古坂に於て梟首し訖。

とき  とししじうろく  うんぬん
時に年四十六と云々。

こ  きょう むそう  ちょうしん  な    また かもん  かんじゅ  こうさいゆうちょうなり  このたび  しだい  こと きょうきょうせんせん  おも    な
此の卿無雙の寵臣と爲し。又家門の貫首、宏才優長也。 今度の次第、殊に競々戰々の思いを成す。

しきり きみを ただ たてまつ せいりょのところ  かんぎのおもむき すこぶ えいりょ  そむ  のあいだ  しんたい こ  きは      いへど   ついとう  せんじ  か   くだ
頻に君於匡し奉り 正慮之處、 諌議之趣、 頗る叡慮に背く之間、 進退 惟れ谷まれりと雖も、追討の宣旨を書き下す。

ちうしん  ほう  かん  てしたが のいわ  か   そ  ふうかん もうしじょうすうじっつう せんとう  ざんりゅう
忠臣の法、諌じ而随う之謂れ歟。其の諷諌の申状數十通、仙洞に殘留す。

ごじつ ひろう の とき  ぶしゅう  こうかいたんぷ  なやま   うんぬん
後日披露之時、武州の後悔丹府を惱すと云々。

参考@車返は、静岡県沼津市三枚橋。

現代語承久三年(1221)七月小十二日甲午。按察卿〔葉室光親。先月出家して法名は西親〕は、武田五郎信光の預かりめしうどとして京都から下り出ました。しかし、幕府の使いが駿河国車返しで逢って、死刑にするように命令が出てると伝えたので、籠坂峠で殺しました。年は四十六歳でした。この公卿は、比べる者のない程に忠義者で、又葉室家の筆頭で才能の広く優れております。今回のいきさつにも特に心配をしておりました。さかんに主上に対し正しい道をお勧めし、正しい行いとして諫めましたが、それがえらく上皇を怒らせてしまいましたので、とうとうどうしようもなくなってしまいましたが、職務なので義時追悼の朝廷の命令書を書いてしまいました。本当に主君に尽くそうと思えば、諫言しかないと云うことでしょうかね。その諫めの手紙が数十通も上皇の御所に残っていました。後日、これを知らされて、泰時さんは死刑にしたことの後悔に、頭を痛めましたとさ。

承久三年(1221)七月小十三日乙未。上皇自鳥羽行宮遷御隱岐國。甲冑勇士圍御輿前後。御共。女房兩三輩。内藏頭C範入道也。但彼入道。自路次俄被召返之間。施藥院使長成入道。左衛門尉能茂入道等。追令參上云々。」今日。入道中納言宗行過駿河國浮嶋原。荷負疋夫一人。泣相逢于途中。黄門問之。按察卿僮僕也。昨日梟首之間。拾主君遺骨。皈洛之由答。浮生之悲非他上。弥消魂。不可遁死罪事者。兼以雖挿存中。若出於虎口。有龜毛命乎之由。猶殆恃之處。同過人已定訖之間。只如亡。察其意。尤可憐事也。休息黄瀬河宿之程。依有筆硯之次註付傍。
 今日スクル身ヲ浮嶋ノ原ニテモツ井ノ道ヲハ聞サタメツル
於菊河驛書佳句。留万代之口遊。至黄瀬河詠和歌。慰一旦之愁緒云々。

読下し                     じょうこう とばあんぐうよ   おきのくに  せん  たま    かっちゅう ゆうし おんこし  ぜんご  かこ
承久三年(1221)七月小十三日乙未。上皇鳥羽行宮自り隱岐國へ遷じ御う。甲冑の勇士御輿の前後を圍む。

おんとも   にょぼうりょうさんやから くらのかみきよのりにゅうどうなり
御共は、女房兩三輩、 内藏頭C範入道也。

ただ  か  にゅうどう   ろじ よ   にはか めしかえされ のあいだ  せやくいんじながなりにゅうどう  さえもんのじょうよしもちにゅうどうら  おっ さんじょうせし   うんぬん
但し彼の入道、路次自り俄に召返被る之間、 施藥院使長成入道、 左衛門尉能茂入道等、追て參上令むと云々。」

きょう   にゅうどうちうなごんむねゆき するがのくにうきしまはら す     かふ   ひっぷ ひとり   な     とちゅうに あいあ     こうもんこれ  と
今日、入道中納言宗行、駿河國浮嶋原を過ぎ、荷負の疋夫一人、泣いて途中于相逢い、黄門之を問う。

あぜきょう  どうぼくなり  さくじつきょうしゅのあいだ しゅくん ゆいこつ ひろ   きらく の  よしこた
按察卿が僮僕也。昨日梟首之間、主君の遺骨を拾い。皈洛之由答う。

ふしょうの かなし た  うえ あらず  いよいよ  たましい け
浮生之悲み他の上に非。 弥、 魂を消す。

しざい   のが    べからず ことは   かね  もっ  ぞんちう さしはさ いへど    も   ここう を い      きもう  いのちあ  や  のよし
死罪を遁れる不可の事者、兼て以て存中を挿むと雖も、若し虎口於出で、龜毛の命有る乎之由、

なおほと   たの  のところ  おな   とがにんすで  さだ をはんぬのあいだ ただほろ  ごと    そ   い   さっ    もっと あわれ べ   ことなり
猶殆んど恃む之處、同じく過人已に定め 訖 之間、 只亡ぶ如き。其の意を察し、尤も憐む可き事也。

きせがわしゅく  きゅうそくのほど  ふですずりあ  よっ  のついで かたわら ちう  つ
黄瀬河宿に休息之程、筆硯有るに依て之次に 傍に 註し付く。

  きょう  すぐる   みを   うきしまのはらにても    ついのみちをば   きかさだめつる
 今日スクル身ヲ浮嶋ノ原ニテモツ井ノ道ヲハ聞サタメツル

きくかわのうまや をい けいく  か     ばんだいのこうゆう  とど    きせがわ  いた   わか   うた    いったんのしゅうしょ  なぐさ   うんぬん
菊河驛に於て佳句を書き、万代之口遊に留む。黄瀬河に至り和歌を詠う。一旦之愁緒を慰むと云々。

現代語承久三年(1221)七月小十三日乙未。後鳥羽上皇は、鳥羽殿から隠岐国へお移りになられました。武装兵が前後を囲んでおります。お供は、女官が二三人、内蔵頭清範入道です。但し、C範入道は、途中から急に戻されたので、施薬院使長成入道と左衛門尉一条能茂入道が追い駆けてやってきたそうな。

今日、入道中納言宗行は、駿河国浮島原(静岡県沼津市原)を過ぎて、ぼっかの人足一人が泣いているのに出会ったので、質問をした処、按察卿葉室光親の下働きです。「昨日首を斬られた主人の骨を拾って京都へ帰る途中です」と答えました。はかない人生の悲しみはこの上ないと、いよいよもって生きた心地がしません。死罪から逃れられないことは、既に覚悟していたけど、もしもこの危機から逃げられて、亀のように長生きが出来るならと、尚も心では願っていても、同罪に決定されているんだから、ただ死を待つのみである。その心中を察してやれば、気の毒な事であります。黄瀬川宿(沼津市大岡字木瀬川)での休憩に筆と硯があったので、そばに書き残しました。
 今日、この様な身体を浮島原において行き着く先を決められました。
菊川宿(静岡県島田市菊川)で良い言葉を書いて、後の世にまで口ずさまれるでしょう。木瀬川まで来て和歌を歌いました。一時でも悲しみを慰められましたとさ。

承久三年(1221)七月小十四日丙申。於藍澤原。黄門宗行遂以不遁白刄之所侵云々。年四十七。至最期之刻。念誦讀經更不怠云々。

読下し                     あいざわはら  をい   こうもんむねゆき つい もっ  はくじんの おか  ところ のが  ざる  うんぬん
承久三年(1221)七月小十四日丙申。藍澤原に於て、黄門宗行 遂に以て白刄之侵す所を遁れ不と云々。

 とししじうしち   さいごの とき  いた    ねんじゅ どっきょう さら おこたらず うんぬん
年四十七。最期之刻に至り、念誦 讀經 更に不怠と云々。

現代語承久三年(1221)七月小十四日丙申。藍沢原(御殿場市新橋鮎沢)で、中納言宗行は、とうとう刀の難を逃れられませんでした。年は47歳。最期の時は念仏読経を止めずにいましたとさ。

承久三年(1221)七月小十八日庚子。甲斐宰相中將範茂。爲式部丞朝時之預。於足柄山之麓。沈于早河底。是五體不具者。可爲最後生障碍。可入水由依所望也。

読下し                     かいのさいしょうちうじょうのりもち  しきぶのじょうともときの あずか たり  あしがらやまのふもと  をい   はやかわ そこに しず
承久三年(1221)七月小十八日庚子。甲斐宰相中將範茂。 式部丞朝時 之 預り爲。足柄山之麓に於て、早河の底于沈む。

これ  ごたい ふぐ は   さいご  せいしょうげたるべ    みず  い  べ     よし  しょもう  よっ  なり
是、五體不具者、最後の生障碍爲可く。水に入る可きの由、所望に依て也。

現代語承久三年(1221)七月小十八日庚子。甲斐宰相中将源範茂は、北条朝時の預かりめしうどです。足柄山の麓で、早川に沈められました。五体満足でない者は、成仏出来ないので、水に入って死ぬべきだと希望したからです。

承久三年(1221)七月小廿日壬寅。陰。新院遷御佐渡國。花山院少將能氏朝臣。左兵衛佐範經。上北面左衛門大夫康光等供奉。女房二人同參。國母修明門院。中宮一品宮。前帝以下。別離御悲歎。不遑甄録。羽林依病自路次皈京。武衛又受重病。留越後國寺泊浦。凡兩院諸臣存没之別。彼是共莫不傷嗟。哀慟甚爲之如何。

読下し                   くも    しんいん さどのくに  せん  たま
承久三年(1221)七月小廿日壬寅。陰り。新院佐渡國へ遷し御う。

かざんいんしょうしょうよしうじあそん  さひょうえのすけのりつね  じょうほくめんさえもんたいふやすみつら  ぐぶ    にょぼうふたりおな    さん
 花山院少將能氏朝臣、 左兵衛佐範經、 上北面左衛門大夫康光等 供奉す。女房二人同じく參ず。

こくぼ しゅうめいもんいん  ちうぐういっぽんみや  さきてい いげ   べつり   ごひかん  けんろく  いと あらず   うりん やまい よっ   ろじ  よ   ききょう
國母 修明門院・ 中宮一品宮・ 前帝以下、 別離の御悲歎、甄録に遑ま不。 羽林病に依て路次自り皈京す。

ぶえいまたじゅうびょう う    えちごのくに てらどまりうら とど    およ りょういん しょしん そんぼつの べつ  かれこれとも しょうさせざる な     あいどうはな たるの いかん
武衛又重病を受け、越後國 寺泊浦に留む。凡そ兩院 諸臣 存没之別、彼是共に傷嗟不は莫し。哀慟甚だ爲之如何。

現代語承久三年(1221)七月小二十日壬寅。曇り。新院(土御門)は佐渡へお移りになりました。花山院少将一条能氏さんと左兵衛佐範経・後鳥羽上皇の北側の護衛兵左衛門大夫源康光がお供をしました。女官二人も同様です。上皇の母修明門院や中宮一品宮立子・仲恭天皇を始めお別れの悲しみを嘆き合うばかりでした。少将能氏さんは病気のため途中から京都へ帰りました。左兵衛佐範経は同様に重病となり越後国の寺泊に留まりました。後鳥羽院も土御門院もその家来たちも生きるか死ぬか、どちらにしても深く悲しまない事はありません。その嘆きは激しいことでしょう。

承久三年(1221)七月小廿四日丁未。六條宮遷坐但馬國給。法橋昌明可奉守護之由。相州。武州加下知云々。

読下し                     ろくじょうのみや たじまのくに せんざ  たま
承久三年(1221)七月小廿四日丁未。 六條宮、但馬國へ遷坐し給う。

ほっきょうしょうめい しゅごたてまつ べ  のよし  そうしゅう ぶしゅう げち   くは   うんぬん
 法橋昌明 守護 奉る可き之由、相州、武州下知を加うと云々。

現代語承久三年(1221)七月小二十四日丁未。六条宮は、但馬国へお移りになりました。法橋常陸房昌明が、保護するように時房・泰時が命令をしましたとさ。

承久三年(1221)七月小廿五日戊申。冷泉宮令遷于備前國豊岡庄兒嶋。佐々木太郎信實法師受武州命。令子息等奉守護之云々。」阿波宰相中將〔信成〕。右大弁光俊朝臣等赴配所云々。

読下し                     れいぜいのみや  びぜんのくに とよおかのしょう こじまに せんせし
承久三年(1221)七月小廿五日戊申。 冷泉宮、   備前國 豊岡庄 兒嶋于遷令む。

ささきのたろうのぶざねほっし  ぶしゅう  めい  う      しそく ら   し   これ  しゅご たてまつ  うんぬん
佐々木太郎信實法師武州の命を受け、子息等を令て之を守護し奉ると云々。」

あわのさいしょうちうじょう 〔のぶなり〕  うだいべんみつとしあそんら はいしょ  おもむ  うんぬん
阿波宰相中將〔信成〕、右大弁光俊朝臣等配所へ赴くと云々。

現代語承久三年(1221)七月小二十五日戊申。冷泉宮は、備前国豊岡庄児島(岡山県倉敷市児島)へお移りになりました。佐々木太郎信実法師が、泰時の命令を受けて。息子達に保護させるそうな。」阿波宰相中将信成・右大弁光俊さんは流罪先へ出かけましたとさ。

承久三年(1221)七月小廿六日己酉。於關東。勳功賞。并畿内西國守護職事有沙汰云々。

読下し                     かんとう  をい    くんこう しょうなら    きない さいごく  しゅごしき  こと さた あ     うんぬん
承久三年(1221)七月小廿六日己酉。關東に於て、勳功の賞并びに畿内西國の守護職の事沙汰有りと云々。

現代語承久三年(1221)七月小二十六日己酉。鎌倉幕府で、手柄を立てた者への表彰と関西や九州の守護の人事がありましたとさ。

承久三年(1221)七月小廿七日庚戌。上皇着御于出雲國大濱湊。於此所遷坐御船。御共勇士等給暇。大略以皈洛。付彼便風。被献御歌於七條院并修明門院等云々。
 タラチメノ消ヤラテマツ露ノ身ヲ風ヨリサキニイカテトハマシ
 シルラメヤ憂メヲミヲノ浦千鳥嶋々シホル袖ノケシキヲ

読下し                     じょうこう いずものくに おおはまみなとに つ   たま    こ   ところ  をい  おんふね  せんざ
承久三年(1221)七月小廿七日庚戌。上皇、出雲國 大濱湊 于着き御う。此の所に於て御船に遷坐す。

おんとも  ゆうsら いとま  たま      たいりゃくもっ  きらく    か   びんぷう  つ    おんうたを  しちじょういん なら   しゅうめいもんいんら  けん  られ    うんぬん
御共の勇士等暇を給はり、大略以て皈洛す。彼の便風に付け、御歌於 七條院 并びに修明門院等に献じ被ると云々。

    たらちめの  けしやらて まつ   つゆのみを   かぜより  さきに   いかでとはまし
 タラチメノ消ヤラテマツ露ノ身ヲ風ヨリサキニイカテトハマシ

     しるらめや   うれめを  みよの  うらちどり しまじま しほる そでの  けしきを
 シルラメヤ憂メヲミヲノ浦千鳥嶋々シホル袖ノケシキヲ

現代語承久三年(1221)七月小二十七日庚戌。後鳥羽上皇は、出雲国の大浜港(島根県益田市木部町大浜)にお着きになられました。この港から船に乗られました。護送してきた武士たちの多くはここでお別れして、殆ど京都へ戻りました。沖ノ島へ渡る風待ちの間に和歌を七条院殖子と修明門院にお送りになられました。

お母さん、消えるのを待っている朝露の様な身の上ですが、風が消す前にどうにかなってしまうのでしょうかね
知っているだろうか、悲しみの浦の小鳥たちよ、島で袖を絞って暮らす景色を

承久三年(1221)七月小廿九日壬子。入道二位兵衛督〔有雅。去月出家。年四十六〕爲小笠原次郎長C之預。下着甲斐國。而依有聊因縁。可被救露命之由。申二品禪尼間。暫抑死罪。可相待彼左右之由。雖令懇望。長C不及許容。於當國稻積庄小瀬村令誅畢。須臾可宥刑罰之旨。二品書状到來云々。楚忽之爲體。定有亡魂之恨者歟。

読下し                     にゅうどうにいひょうえのかみ 〔 ありまさ  さるつきしゅっけ      とししじうろく  〕 おがわさわらのじろうながきよ の あずか  な
承久三年(1221)七月小廿九日壬子。 入道二位兵衛督 〔有雅。去月出家す。年四十六〕小笠原次郎長C 之 預りと爲し、

かいのくに  げちゃく
甲斐國に下着す。

しか   いささ いんねんあ    よっ    ろめい   たす  られ  べ   のよし  にほんぜんに   もう   あいだ  しばら しざい  おさ
而るに聊か因縁有るに依て、露命を救け被る可き之由、二品禪尼に申すの間、暫く死罪を抑へ、

か    とこう   あいま   べ   のよし  こんもうせし   いへど  ながきよきょよう  およばず  とうごく いなづみのしょう こせむら   をい  ちうせし をはんぬ
彼の左右を相待つ可き之由、懇望令むと雖も、長C許容に及不當國 稻積庄 小瀬村に於て誅令め畢。

しゅゆ けいばつ ゆる  べ  のむね   にほん しょじょうとうらい    うんぬん  そこつの ていたらく さだ    ぼうこんのうらみあ   ものか
須臾@刑罰を宥す可き之旨、二品の書状到來すと云々。楚忽之體爲、定めて亡魂之恨有る者歟。

参考@須臾は、少しの間。しばし。

現代語承久三年(1221)七月小二十九日壬子。入道二位兵衛督源有雅〔先月出家しました年は46歳〕は、小笠原次郎長清の預かりめしうどとして、甲斐国へ着きました。しかし、「多少縁故があるので、命を助けるように二位家政子様に云うので、しばらく死刑を猶予してどうするかの判断を待って欲しい。」と切に願いましたけど、長Cは聞き入れずに、甲斐国稲積庄小瀬村(山梨県甲府市小瀬町)で殺してしまいました。ほんの少しの間に死刑を免除するように二位家政子様の手紙が届いたそうな。慌て者の行いは、定めし死者の恨みが残る物であろう。

八月へ

吾妻鏡入門第廿五巻

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