吾妻鏡入門第廿五巻

承久三年辛巳(1221)八月大

承久三年(1221)八月大一日壬子。坊門大納言〔忠信〕自遠江國舞澤皈京。是依爲今度合戰大將軍。千葉介胤綱預之下向。而妹西八條禪尼者。右府將軍後室也。就彼舊好申二品禪尼之間。所宥也云々。

読下し                   ぼうもんだいなごん 〔ただのぶ〕 とおとうみのくに まいざわよ  ききょう
承久三年(1221)八月大一日壬子。坊門大納言〔忠信〕 遠江國 舞澤自り皈京す。

これ  このたび かっせん だいしょうぐんたる よっ   ちばのすけたねつな これ あずか げこう    しか  いもうと にしはちじょうぜんには   うふしょうぐん  こうしつなり
是、今度の合戰の大將軍爲に依て、千葉介胤綱 之を預り下向す。而るに妹 西八條禪尼者、右府將軍が後室也。

か  きゅうこう  つ   にほんぜんにもう  のあいだ  ゆる    ところなり  うんぬん
彼の舊好に就き二品禪尼申す之間、宥される所也と云々。

現代語承久三年(1221)八月大一日壬子。坊門大納言忠信は、遠江国舞沢(静岡県浜松市西区舞坂町舞阪)から京都へ帰りました。この人は今度の合戦の朝廷軍の大将軍なので、千葉介胤綱が預かって下ってきました。しかし、妹の西八条禅尼は、将軍実朝様の奥さんです。その縁から二位家政子様の申し出で許されたんだそうな。

承久三年(1221)八月大二日癸丑。大監物光行者。C久五郎行盛相具之下向。今日已剋。着金洗澤。先以子息太郎。通案内於右京兆。早於其所。可誅戮旨。有其命。是乍浴關東數箇所恩澤。參 院中。注進東士交名。書宣旨副文。罪科異他之故也。于時光行嫡男源民部大夫親行。本自在關東積功也。漏聞此事。可被宥死罪之由。泣雖愁申。無許容。重属申伊豫中將。羽林傳達之。仍不可誅之旨。與書状。親行帶之馳向金洗澤。救父命訖。自C久之手。召渡小山左衛門尉方。光行往年依報慈父〔豊前守光秀與平家。右幕下咎之。光行令下向愁訴。仍免許〕之恩徳。今日逢孝子之扶持也。」及黄昏。陸奥六郎有時以下上洛人々多以下着云々。

読下し                   だいかんもつみつゆきは きよひさのごろうゆきもり これ  あいぐ   げこう    きょう みのこく  かねあらいざわ つ
承久三年(1221)八月大二日癸丑。大監物光行者、C久五郎行盛 之を相具し下向す。今日已剋、金洗澤に着く。

 ま   もっ   しそくたろう   あないを うけいちょう  つう    はや  そ   ところ をい   ちうりくすべ   むね   そ   めいあ
先ず以て子息太郎、案内於右京兆に通ず。早く其の所に於て、誅戮可きの旨、其の命有り。

これ  かんとう  すうかしょ  おんたく  よく  なが    いんちう  まい    とうし  きょうみょう  ちうしん    せんじ  そえぶみ  か
是、關東の數箇所を恩澤に浴し乍ら、院中に參り、東士の交名を注進し、宣旨の副文を書く。

ざいか た   こと    のゆえなり
罪科他に異なる之故也。

ときに みつゆき ちゃくなん げんみんぶたいふちかゆき  もとよ  かんとう  せきこうあ  なり
時于光行が 嫡男 源民部大夫親行、本自り關東に積功在る也。

こ   こと   も   き      しざい  ゆるされ  べ   のよし  ない  うれ  もう   いへど    きょような     かせ   いよのちうじょう  ぞく  もう
此の事を漏れ聞き、死罪を宥被る可き之由、泣て愁い申すと雖も、許容無し。重ねて伊豫中將に属し申す。

うりん これ  つた  たっ    よっ  ちう  べからずのむね  しょじょう あた   ちかゆきこれ  お  かねざらいざわ は  むか   ちち いのち すく をはんぬ
羽林之を傳へ達す。仍て誅す不可之旨、書状を與へ、親行之を帶び金洗澤へ馳せ向い、父の命を救い訖。

きよひさの てよ    おやまのさえもんのじょうかた  めしわた
C久之手自り、小山左衛門尉方へ召渡す。

みつゆき おうねん  じふ  〔ぶぜんのかみみつひでへいけ  よ      うばっか これ   とが     みつゆき げこう    しゅうそ せし     よっ   めんきょ    〕   のおんとく  むく    よっ
光行 往年の慈父〔豊前守光秀平家に與し、右幕下之を咎む。光行下向して愁訴令め、仍て免許す。〕之恩徳に報うに依て、

きょう こうしの  ふち    あ   なり
今日孝子之扶持に逢う也。」

たそがれ およ    むつのろくろうありとき いげ じょうらく ひとびと  おお  もっ  げちゃく   うんぬん
黄昏に及び、陸奥六郎有時以下 上洛の人々、多く以て下着すと云々。

現代語承久三年(1221)八月大二日癸丑。大監物源光行は、清久五郎行盛がこれを連れて下りました。今日、金洗沢(七里ヶ浜)に着きました。そこでまず、息子の太郎が処分を義時に求めました。早くその場所で殺してしまえと命令がありました。この人は、幕府から数か所の領地を貰っているのに、院へ参内して、関東の武士の名前を書き出して、義時追悼の命令書に添え書きを付けました。その罪は他に比べようもなく重いのです。そこで、光行の跡取り息子の源民部大夫親行は、元々鎌倉幕府に対して功績のある人です。この父の処分の話を聞き、死罪を許してほしいと泣いて頼みましたが、許可されません。重ねて伊予中将一条実雅さんに泣き付きました。実雅さんは義時さんに頼みました。それで殺すなとの文章を与えたので、親行は金洗沢へ駆けつけ父の命を助けました。清久から小山左衛門尉朝政に引き渡されました。光行は、父〔豊前守光秀で平家に属し頼朝さんは怒った。光行は鎌倉へ下って頼朝様に嘆き訴えたので許された〕から受けた恩に報いたので、今日親孝行な息子の助けに出会えたのだ。」
夕方になって、陸奥六郎北条有時を始めとする京都へ行っていた軍隊の多くが帰ってきましたとさ。

承久三年(1221)八月大三日甲寅。寅尅。檢非違使從五位下行左衛門少尉藤原朝臣景廉法師〔法名覺蓮房妙法〕卒。

読下し                   とらのこく  けびいし じゅごうげぎょう さえもんのじょうしょうじょう ふじわらのあそんかげかどほっし 〔ほうみょうかくれんぞうみょうほう〕 そつ
承久三年(1221)八月大三日甲寅。寅尅。檢非違使 從五位下行 左衛門少尉 藤原朝臣景廉法師 〔法名覺蓮房妙法〕卒。

現代語承久三年(1221)八月大三日庚寅。午前四時頃に、検非違使で従五位下行左衛門少尉藤原加藤次景廉〔出家名は覚蓮房妙法〕死す。

承久三年(1221)八月大五日丙辰。上皇遂着御于隱岐國阿摩郡苅田郷。仙宮者改翠帳紅閨於柴扉桑門。所者亦雲海沈々而不辨南北者。無得鴈書鳥之便。烟波漫々而迷東西之故也。不知銀兎赤鳥之行度。只離宮之悲。城外之恨。増惱叡念御許也云々。

読下し                   じょうこうつい  おきのくに あまぐん かったごうに つ   たま
承久三年(1221)八月大五日丙辰。上皇遂に隱岐國阿摩郡苅田郷于着き御う。

せんぐうは すいちょう こうけいを さいひ そうもん  あらた   ところはまた うんかいちんちん   て なんぼく べんぜざれば がんしょ せいちょうのびん  え    な
仙宮者 翠帳紅閨@於柴扉A桑門Bに改む。所者亦、雲海沈々にし而南北を辨不者、鴈書CD之便を得るは無し。

えんぱ まんまん    て とうざい  まよ  のゆえなり  ぎんとせきちょうのぎょうど  しらず
烟波E漫々にし而東西を迷う之故也。銀兎F赤鳥之行度を知不。

ただ  りきゅうのかなし   じょうがいのうら    ぞうのうえいねん おんばか  なり  うんぬん
只、離宮之悲み、城外之恨み、増惱叡念 御許り也と云々。

参考@翠帳紅閨は、緑のとばりとくれないの寝室。
参考A柴扉は、柴 (しば) で作った粗末なとびら。粗末なわびしいすまい。わびずまい。
参考B
桑門は、僧。出家。沙門。
参考C雁書は、手紙。
参考D
青鳥は、前漢の東方朔が青鳥の飛来を見て西王母の使いだといった「漢武故事」に見える故事から〕使者。使い。また、書簡。
参考E
烟波は、遠くまで水面が波立ってけむったように見えるさま。煙浪。
参考F銀兎は、将棋の駒の一つ。本将棋にはなく、泰将棋・大局将棋に存在する。

現代語承久三年(1221)八月大五日丙辰。後鳥羽上皇は、ついに隠岐の島の阿摩郡苅田郷(島根県隠岐郡海士町中里)にお着きになりました。行宮は緑の帳の寝室を柴で作った粗末な扉の庵に直しました。その所は、雲がたなびき、南北すら分からず、手紙も使いを頼むことも出来ない。遠くまで波が煙って東西にも行きようがない。将棋の銀兎も赤鳥も行き方を知りません。ただただ、遠い所に居る悲しみ、京都から追い出された恨み、思い悩む心と存念ばかりだそうな。

承久三年(1221)八月大六日丁巳。大夫属入道善信老病危急。露命不知旦暮。仍辞退問註所執事之間。以男民部大夫康俊補其替云々。

読下し                   たいふさかんにゅうどうぜんしん ろうびょう ききゅう  ろめいたんぼ  しらず
承久三年(1221)八月大六日丁巳。 大夫属入道善信 が老病 危急。露命旦暮を知不。

よっ   もんちゅうじょしつじ  じたいのあいだ  だんみんぶたいふやすとし もっ  そ   かえ  ぶ    うんぬん
仍って問註所執事を辞退之間、男民部大夫康俊を以て其の替に補すと云々。

現代語承久三年(1221)八月大六日丁巳。大夫属入道三善善信の老いの病が差し迫り、何時までもつか分かりません。それで裁判所筆頭職を辞退したので、息子の民部大夫康俊をその代わりに任命しましたとさ。

承久三年(1221)八月大七日戊午。世上属無爲。是符合二品禪尼夢想。仍奉寄所於二所太神宮。所謂内宮御料。後院領伊勢國案樂村。井後村。外宮御分。同國領葉若西園兩村也。付祭主神祗大副隆宗朝臣。藤原朝臣朝定帶彼寄附状等。重爲報賽使節云々。此外。諸社同有奉寄。鶴岳八幡宮御分。武藏國矢古宇郷司職〔五十余町〕。諏方宮御料。越前國宇津目保云々。叛逆卿相雲客并勇士所領等事。武州尋註分。凡三千餘箇所也。二品禪尼以件没収地。随勇敢勳功之淺深。面々省充之。右京兆雖執行。於自分者。無立針管領納。世以爲美談云々。

読下し                   せじょう むい   ぞく    これ  にほんぜんに   むそう   ふごう     よっ  ところを にしょだいじんぐう  よ  たてまつ
承久三年(1221)八月大七日戊午。世上無爲に属す。是、二品禪尼の夢想に符合す。仍て所於二所太神宮に寄せ奉る。

いはゆる  ないくうごりょう    ごいんりょういせのくにあんらくむら  いじりむら   げくうごぶん     おな   こくりょう はわか にしぞの りょうそんなり
所謂、内宮御料は、後院領伊勢國案樂村@、井後村A。外宮御分は、同じく國領 葉若B西園C兩村也。

さいしゅ じんぎだいさかん たかむねあそん ふ    ふじわらのあそんともさだ か  きふじょうら  お     かさ    ほうさい  しせつたり  うんぬん
祭主 神祗大副 隆宗朝臣に付し、藤原朝臣朝定彼の寄附状等を帶び、重ねて報賽の使節爲と云々。

こ   ほか  しょしゃ  おな    よ  たてまつ あ
此の外、諸社に同じく寄せ奉り有り。

つるがおかはちまんぐう ごぶん    むさしのこく やこう ごうししき   〔ごじうよちょう〕    すわぐう ごりょう    えちぜんのくにうづめのほう  うんぬん
鶴岳八幡宮の御分は、武藏國矢古宇D郷司職〔五十余町〕。諏方宮御料は、越前國宇津目保Eと云々。

ほんぎゃく けいしょう うんきゃくなら   ゆうし   しょりょうら  こと  ぶしゅうたず  ちうぶん   およ  さんぜんよかしょなり
 叛逆の卿相 雲客并びに勇士の所領等の事、武州尋ね註分す。凡そ三千餘箇所也。

にほんぜんに くだん  ぼっしゅうち  もっ    ゆうかんくんこうのせんしん  したが  めんめん これ  はぶ  あ
二品禪尼、件の没収地を以て、勇敢勳功之淺深に随い、面々に之を省き充てる。

うけいちょうしぎょう    いへど   じぶん  をい  は   はり  た  かんりょう  おさ   な      よ もっ  びだん   な     うんぬん
右京兆執行すと雖も、自分に於て者、針を立つ管領も納むは無し。世以て美談と爲すと云々。

参考@案樂村は、三重県松坂市安楽町らしい。
参考A
井後村は、三重県三重郡朝日町柿2567井後神社。
参考B
葉若は、三重県亀山市羽若町らしい。
参考C西園は、三重県亀山市羽若町西野かもしれない。
参考D矢古宇は、神奈川県横浜市鶴見区矢向。
参考E
宇津目保は、福井県丹生郡越前町宇須尾らしい。

現代語承久三年(1221)八月大七日戊午。(戦の勝利によって)世間が落ち着きました。これも、二位家政子様の夢のお告げにあっています。そこで領地を内宮外宮の伊勢神宮両社に寄付しました。それは、内宮の分が土御門院の領地の伊勢国安楽村(松坂市安楽町)と井後村(三重郡朝日町柿)。外宮の分は同じ国の葉若(亀山市羽若町)と西園の両村です。神主の神祇大副大中臣隆宗さんに預けるため、藤原朝定さんがその寄進状を持って、双方に拝む使いなのです。この他にもあちこちの神社に同様に寄付をしました。鶴岡八幡宮の分は、武蔵国矢向(横浜市鶴見区矢向)の郷を管理する職〔五十余ha〕。諏訪神社の領地には、越前国宇津目保(福井県弐宇丹生郡越前町宇須尾)だそうな。反逆者の公卿や殿上人それに御家人の領地について、泰時さんが調べさせて書き出させました。およそ三千数か所にもなります。二位家政子様は、その没収した領地を、勇敢な手柄の大きさによって、それぞれに分け与えました。義時さんが実施しましたけど自分の分は針を立てるほどの余地も取らなかったので、世間での美談になりましたとさ。

承久三年(1221)八月大九日庚申。丑刻。散位從五位下三善朝臣康信法師〔法名善信〕卒〔年八十二〕。

読下し                   うしのこく  さんにじゅごいのげ みよしのあそんやすのぶほっし 〔ほうみょうぜんしん〕 そつ 〔としはちじうに〕
承久三年(1221)八月大九日庚申。丑刻。散位從五位下三善朝臣康信法師〔法名善信〕〔年八十二〕

現代語承久三年(1221)八月大九日庚申。午前二時頃に、官職はないけど五位を貰っている散位従五位三善康信法師〔法名善信〕が亡くなりました。〔年は82才です〕

承久三年(1221)八月大十日辛酉。法橋昌明者。幕下將軍之時有功者也。今度逆亂。雖有勅喚。其意如巖。曾不棄關東。此事既達二品禪尼之聽之間。昌明雖未申子細。但馬國守護職并庄園等成下文。去月遣訖。于時昌明不辨之以前。同月廿三日状。註申勳功事。其状今日到來鎌倉。二品禪尼披覽之。殊所令感歎也。是去五月十五日。洛中合戰以後。及召聚勇士帶可參洛由 院宣之召使五人。來于昌明但馬國住所。昌明斬彼等首之間。欲參院中之國内軍兵。襲攻。昌明。一旦令防戰之。引籠深山。聞武州上洛之由。馳加云々。右京兆云。華夷鬪亂之間。受將命令上洛。或中矢或入水。毎人所爲也。世上是非未治定之時。梟首 院使事。令重關東條。顯露異于他勳功也云々。

読下し                   ほっきょうしょうめいは  ばっかしょうぐんの ときこうあ  ものなり
承久三年(1221)八月大十日辛酉。法橋昌明者。幕下將軍之時功有る者也。

このたび ぎゃくらん ちょっかんあ   いへど   そ  い いわお ごと    あえ  かんとう すてず
今度の逆亂、勅喚有りと雖も、其の意巖の如し。曾て關東を棄不。

こ   ことすで  にほんぜんにの きこえ たっ   のあいだ  しょうめいいま  しさい  もう     いへど
此の事既に二品禪尼之聽に達する之間、昌明未だ子細を申さずと雖も、

たじまのくにしゅごしきなら    しょうえんら くだしぶみ な     さんぬ つきつか をはんぬ
但馬國守護職并びに庄園等の下文を成し、去る月遣はし訖。

ときに しょうめいべんぜずのいぜん  どうげつ にじうさんにち じょう     くんこう  こと  ちう  もう     そ   じょうきょう かまくら  とうらい
時于 昌明辨不之以前、同月 廿三日の状にて、勳功の事を註し申す。其の状今日鎌倉へ到來す。

にほんぜんに これ  ひらきみ   こと  かんたんせし ところなり
二品禪尼之を披覽て、殊に感歎令む所也。

これ さんぬ ごがつじうごにち   らくちう  かっせん いご   ゆうし   めしあつ      およ   さんらくすべ  よし  いんぜん  お   のめしつか  ごにん
是、去る五月十五日、洛中の合戰以後、勇士を召聚めるに及び、參洛可き由の院宣を帶びる之召使い五人、

しょうめい たじまのくに すま ところに きた
昌明の但馬國の住い所于來る。

しょうめいかれら  くび  き  のあいだ  いんちう  まい      ほっ    のこくない  ぐんぴょう  おそ  せ
昌明彼等の首を斬る之間、院中へ參らんと欲する之國内の軍兵、襲い攻める。

しょうめい いったん これ  ぼうせんせし   しんざん  ひきこも    ぶしゅう  じょうらくのよし  き     は   くは     うんぬん
昌明、一旦は之を防戰令め、深山へ引籠り、武州の上洛之由を聞き、馳せ加はると云々。

うけいちょうい       かひ とうらんのあいだ  しょうめい う  じょうらくせし    ある    や   あた  ある    みず  い       ひとごと  しわざなり
右京兆云はく。華夷鬪亂之間。將命を受け上洛令め、或ひは矢に中り或ひは水に入るは、毎人の所爲也。

せじょう   ぜひ   いま  ちじょう    のとき  いんし  きょうしゅ    こと  かんとう  おも  せし     じょう  けんろ た  くんこうに こと    なり  うんぬん
世上の是非、未だ治定せず之時、院使を梟首する事、關東を重く令むるの條、顯露他の勳功于異なる也と云々。

現代語承久三年(1221)八月大十日辛酉。法橋昌明は、頼朝様の時代に功績があった者です。今度の反乱で、後鳥羽上皇のお呼びがあったのに龕とした意識を持って鎌倉幕府から離れる事はありませんでした。この事は既に二位家政子様のお耳に入っていたので、昌明が望みを云わなくても、但馬国の守護職と荘園などの幕府命令書を拵えて、先月送らせました。行き違いに、昌明が礼を云う前に先月23日の手紙で活躍した内容を書き出して進上して来ましたが、その手紙が今日、鎌倉へ到着しました。二位家政子様はこれを読んで、なおさらに感激されました。その内容は、先達ての5月15日京都市内の合戦以後、兵士を集めるために京都へ来るようにとの院の命令書を持った下使いが5人昌明の但馬国の屋敷へ来ました。昌明は、その下使いの首を切ったので、朝廷側へ行こうとしている国内の連中が攻めてきました。昌明は一旦これを防ぎ戦ってから深山に隠れて、泰時の京都への進軍を聞いて走って来て加わりましたとさ。義時さんが言うのには、「朝廷軍と鎌倉軍との戦いの時、将軍の命令を受けて京都へ攻めのぼり、人によっては矢に当たったり、水におぼれたりしたのは、普通のやる事である。世の中が未だ雌雄も決まらない時期に、朝廷からの使者を切り殺すとは、鎌倉幕府を重く見ている証拠なので、明らかな手柄は、他とは比べ物にならない。」となんだそうな。

承久三年(1221)八月大十五日丙寅。鶴岳放生會延引。依天下大穢也。

読下し                    つるがおか ほうじょうええんいん   てんか   だいえ  よっ  なり
承久三年(1221)八月大十五日丙寅。鶴岳の放生會延引す。天下の大穢に依て也。

現代語承久三年(1221)八月大十五日丙寅。鶴岡八幡宮の生き物を放して贖罪する放生会を延期しました。それは、戦で大勢が死に、世間は穢れているからです。

承久三年(1221)八月大廿一日壬申。依行祈祷等賞。僧徒并陰陽道輩。多以浴恩澤云々。

読下し                       きとうら   しょう おこな   よっ    そうとおなら  おんみょうどう やから おお  もっ  おんたく  よく   うんぬん
承久三年(1221)八月大廿一日壬申。祈祷等の賞を行うに依て、僧徒并びに陰陽道の輩、多く以て恩澤に浴すと云々。

現代語承久三年(1221)八月大二十一日壬申。幕府の勝利を祈った御祈祷の表彰を行ったので、坊さん達や陰陽師の連中は、多くの者が褒美に預りましたとさ。

承久三年(1221)八月大廿三日甲戌。中將實雅朝臣。去月廿八日兼國之間。今日有讃岐國廳宣始。任例以先使雜色。書下國務五箇條。民部大夫行盛奉行之。

読下し                     ちうじょうさねまさあそん  さんぬ つき にじうはちにちけんこくのあいだ きょうさぬきこくちょう  せんし あ
承久三年(1221)八月大廿三日甲戌。中將實雅朝臣、 去る月 廿八日 兼國之間、今日讃岐國廳の宣始有り。

れい  まか  ま   もっ  ぞうしき  つか     かきくだ  こくむ   ごかじょう  みんぶたいふゆきもりこれ  ぶぎょう
例に任せ先ず以て雜色を使はす。書下す國務の五箇條、民部大夫行盛之を奉行す。

現代語承久三年(1221)八月大二十三日甲戌。伊予中将一条実雅さんは、先月28日国務の兼務したので、今日、讃岐国司の朝廷からの命令書がありました。慣例通りにまず雑用を現地に行かせました。書かれた国司の任務は五箇条で、民部大夫二階堂行盛がこれを作成しました。

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吾妻鏡入門第廿五巻

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