吾妻鏡入門第廿五巻

承久三年辛巳(1221)閏十月小

承久三年(1221)閏十月小一日辛巳。辨法印定豪以刑部僧正長賢跡。補熊野三山檢校職。依祈祷賞。關東擧申由故也。而自去比輕服蟄居。日數馳過之後。今日謁右京兆。賀此事云々。

読下し                     べんのほういんていごう ぎょうぶそうじょうちょうけん あと  もっ    くまのさんざん  けんぎょうしき  ぶ
承久三年(1221)閏十月小一日辛巳。 辨法印定豪@、刑部僧正長賢 の跡を以て、熊野三山の檢校職に補す。

きとう   しょう  よっ    かんとう  あ   もう  よし  ゆえなり  しか   さんぬ ころよ  きょうぶく  ちっきょ
祈祷の賞に依て、關東が擧げ申す由の故也。而るに去る比自り輕服Aで蟄居す。

ひかず は  す     ののち  きょう うけいちょう  えっ    こ   こと   が     うんぬん
日數馳せ過ぎるB之後、今日右京兆に謁し、此の事を賀すと云々。

参考@定豪は、八幡宮寺六代別当。
参考A輕服は、軽い喪。
参考B
日數馳せ過ぎるは、喪があけて。

現代語承久三年(1221)閏十月小一日辛巳。弁法印定豪が、刑部僧正長賢の跡をついで、熊野三山の事務監督に任命されました。幕府軍勝利の御祈祷をしたので、関東が推薦したからです。それなのに先達てから軽い喪に服して謹慎しておりました。喪が明けたので、今日義時さんにお会いして、このお礼を述べましたとさ。

承久三年(1221)閏十月小十日庚寅。土御門院遷幸土佐國〔後阿波國〕。土御門大納言〔定通卿〕寄御車。君臣互咽悲涙。女房四人。并少將雅具。侍從俊平等候御共。此君。大化滂流萬邦。慈惠宛滿八挺御之間。不申行。遂日緒之處。縡起於叡慮。忽幸于南海云々。
天照大神者。豊秋津洲本主。 皇帝祖宗也。而至于八十五代之今。何故改百皇鎭護之誓。 三帝。兩親王。令懷配流之耻辱御哉。尤可恠之。凡去二月以來。 皇帝。并攝政以下。多天下可改之趣蒙夢想告御。新院御夢。或夜。有船中御遊之處覆其船。或夜。又老翁一人參上一院。叡慮者一六由告申。又七月十三日。可定天下事者。吉水僧正坊夢。年來熏修壇上有馬。件馬俄以奔出者。依之。僧正於向後者。不可奉仕 仙洞御祈祷之旨。潜挿意端云々。是等何非宗廟社稷之所示哉。然而君臣共不驚之御。爲長卿獨不醉之間。恐怖云々。

読下し                     つちみかどいん とさのくに  せんこう   〔のち  あわのくに〕
承久三年(1221)閏十月小十日庚寅。土御門院土佐國へ遷幸す〔後に阿波國〕

つちみかどだいなごん 〔さだみちきょう〕 おくるま  よ     くんしんたが   ひるい   むせ   にょぼうよにん なら   しょうしょうまさとも  じじゅうとしひらら おんとも そうら
土御門大納言〔定通卿@御車を寄せ、君臣互いに悲涙に咽ぶ。女房四人并びに少將雅具A、 侍從俊平等御共に候う。

こ   きみ  たいかばんぽう  ほうりゅう    じえはっちょう  あてみちたま  のあいだ  もう  おこな ざる  にっしょ  と     のところ
此の君、大化萬邦に滂流し、慈惠八挺に宛滿御う之間、申し行は不に日緒を遂ぐる之處、

ことえいりょ  をい  お    たちま なんかいに こう   うんぬん
縡叡慮に於て起き、忽ち南海于幸すと云々。

あまてらすおおみのかみは とよあきつしま  ほんじゅ  こうてい  そしゅうなり
 天照大神者、 豊秋津洲の本主、皇帝の祖宗也。

しか    はちじうごだいの いまに いた   なにゆえひゃくこうちんごの ちか  あらた   さんてい りょうしんのう  はいるの ちじょく  いだ  せし  たま  や
而るに八十五代之今于至り、何故百皇鎭護之誓いを改め、三帝C、兩親王、配流之耻辱を懷か令め御う哉。

もっと これ  あやし べ
尤も之を恠む可し。

およ  さんぬ にがつ いらい  こうていなら   せっしょういげ  てんか  あらた べ  のおもむき むそう  つげ  こうむ たま    おお
凡そ去る二月以來、皇帝并びに攝政以下、天下を改む可し之趣、夢想の告を蒙り御うは多し。

しんいん  おんゆめ   あるよ   せんちう  ごゆう あ   のところ  そ   ふね くつがえ
新院の御夢に、或夜、船中に御遊有る之處、其の船 覆る。

あるよ また  ろうおうひとり いちいん さんじょう   えいりょは いちろく  よし つ  もう
或夜又、老翁一人一院に參上し、叡慮者一六の由告げ申す。

またしちがつじうさんにち  てんか こと  さだ    べ   てへ
又七月十三日、天下の事を定めるB可し者り。

よしみずそうじょうぼう ゆめ   としごろ くんじゅう  だんじょう うまあ     くだん うまにはか もっ  はし  いだ  てへ
吉水僧正坊の夢に、年來 熏修の壇上に馬有り。件の馬俄に以て奔り出す者れば、

これ  よっ   そうじょうきょうこう をい  は   せんとう   ごきとう    ほうし    べからずのむね  ひそか いたん さしはさ  うんぬん
之に依て、僧正向後に於て者、仙洞の御祈祷を奉仕する不可之旨、潜に意端に挿むと云々。

これら いず   そうびょう しゃしょくのしめ ところ あらずや  しかれども くんしんとも  これ  おどろ たまはず  ためながきょう ひと よはざるのあいだ きょうふ   うんぬん
是等何れも宗廟 社稷之示す所に非哉。 然而、 君臣共に之を驚き御不。 爲長卿 獨り醉不之間、恐怖すと云々。

参考@定通は、土御門源通親の子。
参考A
雅具は、村上源氏。
参考B
天下の事を定めるは、後鳥羽上皇を隠岐へ配流した事。
参考C後鳥羽82┬土御門83─後嵯峨88
       └
順 徳84─仲 恭85

現代語承久三年(1221)閏十月小十日庚寅。土御門院は、土佐へお移りになりました。〔後に阿波国へ移ります〕土御門大納言〔定通さん〕は牛車を寄せて上司と部下はお互いに嘆き悲しむのでした。女官が四人と少将の源雅具・侍従の俊平などがお供をしました。この院は、全てを時の流れに任せ、穏便な日々を過ごし、これと云って口出しもせずに日を送っていたので、事は後鳥羽院から起こって、連帯責任を取らされて南の海を来ることになりました。天照大神は、日本の国土の元からの主で、天皇家の祖先です。それなのに、85代目になって何故天皇家が国を守ると云う誓いを変えてしまい、後鳥羽・土御門・順徳の三人の院と冷泉宮・六条宮の二人の親王が、流罪と云う恥辱を受ける事になってしまったのだろう。最もこれを変だと思うべきであろう。

だいたい、以前の二月から天王家や摂政などの政務官を変えるべきだと夢のお告げを受けたのは数多い事です。新院順徳院の夢の中で、ある夜の夢では舟遊びをしていたら船がひっくり返りました。又ある夜の夢では、老人が一人後鳥羽院の所へやって来て、「院のお考えはサイコロの目と同じで賭けですよ。」と云って行きました。又、「7月13日に天下は決まるでしょう。」とも云いました。吉水僧正慈円の夢の中に、何時も護摩をたく護摩壇に馬が居ました。その馬が急に走りだしたので、この事から、慈円僧正は今後は、院での祈祷は止めようと、密かに心に決めましたとさ。これらはいずれも神仏に見放されたことではないか。しかし、院やその近臣は全然気にもしませんでした。菅原為長さん一人が事におぼれず、気味悪がっていましたとさ。

承久三年(1221)閏十月小廿九日己酉。日吉祢宜祝部成茂。今度依有叛逆与同之疑。雖招下關東。蒙免許歸洛畢。付伊賀次郎左衛門尉光宗。送賀札於右京兆。其状今日到着鎌倉。且喜厚免。且可祈武家遠長之旨。載之云々。是爲筑後左衛門尉知重預之。囚人出社頭之後。起居含愁緒。朝暮凝祈念。剩向七社方。詠一首歌。
 ステハテス塵ニマシハル影ソハゝ神モ旅子ノ床ヤ露ケキ
下着于關東之翌日。入夜。右京兆室夢想。猿一來于座傍。被付鉄鎖也。取室家之髪。纏左右手。太有忿怒之氣。覺之後。心神爲惘然。猶如夢。則以女房。示合大官令禪門々々殊驚騒云。須被免成茂罪過歟。神道事。更匪人力之可競也者。京兆夫婦共。仰信日吉神。早還本社。可從神事。且今夜中。可進發之由。相觸成茂旨。下知重々之上。所遣餞物等也。

読下し                        ひえ   ねぎはふりべなりもち  このたび ほんぎゃく よどうの うたが  あ     よっ
承久三年(1221)閏十月小廿九日己酉。日吉の祢宜祝部成茂、今度の叛逆に与同之疑い有るに依て、

かんとう  まね  くだ   いへど   めんきょ  こうむ きらく をはんぬ  いがのじろうさえもんのじょうみつむね つ     がさつ を うけいちょう  おく
關東へ招き下すと雖も、免許を蒙り歸洛し畢。伊賀次郎左衛門尉光宗に付け、賀札@於右京兆に送る。

そ  じょう きょう かまくら  とうちゃく   かつう こうめん  よろこ   かつう  ぶけ  えんちょう いの  べ   のむね  これ  の       うんぬん
其の状今日鎌倉に到着す。且は厚免を喜び、且は武家の遠長を祈る可し之旨、之を載せると云々。

これ ちくごのさえもんのじょうともしげ  し   これ  あず
是、筑後左衛門尉知重を爲て之を預かる。

めしうどしゃとう  いで  ののち  ききょ  しゅうしょ  ふく    ちょうぼ   きねん   こ      あまつさ しちしゃ ほう  むか   いっしゅ  うた  よ
囚人社頭を出る之後、起居に愁緒を含み、朝暮に祈念を凝らす。剩へ七社Aの方に向い、一首の歌を詠む。

    すてばすて  ちりに  まじわる  かげそわば  かみも たびしの とこやつゆけき
 ステハテス塵ニマシハル影ソハゝ神モ旅子ノ床ヤ露ケキ

かんとうに げちゃくの よくじつ  よ   い     うけいちょう  しつ  むそう   さるひと  ざ かたわらに きた    てつ  くさり つ  られ  なり
關東于下着之翌日、夜に入り。右京兆が室の夢想に、猿一つ座の傍于來り。鉄の鎖を付け被る也。

しつけの かみ  と     さゆう   て   まと   はなは ふんぬ の け あ     さむ  ののち  しんしんぼうぜん  な    なおゆめ  ごと
室家之髪を取り、左右の手に纏い、太だ忿怒之氣有り。覺る之後、心神惘然と爲し、猶夢の如し。

すなは にょぼう  もっ   だいかんれいぜんもん しめ  あ      ぜんもんこと  おどろ さわ    い     すべから なりもち  ざいか  めん  られ      か
則ち女房を以て、大官令禪門に示し合はす。々々殊に驚き騒ぎて云はく。須く成茂の罪過を免じ被るべき歟。

しんどう  こと  さら  じんりきの きそ  べ   あらずなりてへ    けいちょうふうふとも     ひえがみ  きょうしん   はや  ほんじゃ  かえ  しんじ  したが  べ
神道の事、更に人力之競ふ可きに匪也者れば。京兆夫婦共に、日吉神を仰信す。早く本社へ還り神事に從う可し。

かつう こんやじゅう   しんぱつすべ  のよし  なりもち  あいふれ   むね  げち ちょうじょうのうえ  せんもつら  つか   ところなり
且は今夜中に、進發可き之由、成茂に相觸るの旨、下知 重々之上、餞物等を遣はす所也。

参考@賀札は、礼状。
参考A七社は、日吉大社の2つの本宮と以下の5つの摂社は日吉七社・山王七社 と呼ばれる。

現代語承久三年(1221)閏十月小二十九日己酉。日吉神社の禰宜の祝部成茂は、今回の反乱に味方したと疑いがあったので、鎌倉へ呼び出しましたが、許されて京都へ帰りました。伊賀次郎左衛門尉光宗に託して、お礼を義時さんに送りました。その手紙が今日鎌倉に届きました。許されたことを喜び、又武士の政治が長く続くようにと書いてありましたとさ。
この人は、筑後左衛門尉知重が役目で預っておりました。囚人として神社を出た後、寝起きの度に嘆き、朝夕には祈りを捧げ、そればかりか、日吉七社に向って一種の和歌を詠みました。
 捨て去られる塵に紛れるように寄り添えば神様も旅の間守ってくれるでしょう
関東へ着いた翌日の夜に、義時さんの夢の中に、日吉神社のお使いの猿が一つ隣の席に来ましたが、鉄の鎖を付けられています。そして奥さんの髪の毛を掴んで左右の手に巻いて、とても怒っているのです。目が覚めてからも、ぼーっとしてまだ夢の中にいるような感じでした。すぐに官女を使って大江広元さんに尋ねました。大江広元さんは驚いて大騒ぎしながら云いました。「日吉神社が怒っているのだからすぐに祝部成茂を許すべきですよ。神様の道については、素人の考えの及ぶことではありません」と云ったので、義時夫妻は共に日吉神社を信仰しています。「早く神社へ帰り神事を尽くしてください。今夜中に出発するように。」と祝部成茂に知らせるように強く命令して、餞別を送ったのでした。

十一月へ

吾妻鏡入門第廿五巻

inserted by FC2 system