吾妻鏡入門第廿五巻

承久三年辛巳(1221)十一月大

承久三年(1221)十一月大三日壬子。右京兆室有産氣。而聊依有憚。可改日來居所之由。示合陰陽道之處。權助國道朝臣以下五人。一同相議云。三條局宅宜也。件所者。自當時住所東方兮。自大倉亭乾方也。當所者所讓武州也。大倉亭本所也。仍去晦日。彼所一宿訖。然者四十五日以前。自是令移産所。無其憚之由云々。伊賀四郎左衛門尉朝行奉行云々。

読下し                     うけいちょう  しつ さんけあ    しか    いささ はばか あ    よっ    ひごろ  きょしょ あらため べ   のよし
承久三年(1221)十一月大三日壬子。右京兆が室産氣有り。而るに聊か憚り有るに依て、日來の居所を改る可き之由、

おんみょうどう しめ  あ     のところ  ごんのすけくにみちあそん いげ ごにん    いちどう  あいぎ    い
陰陽道に示し合はす之處、 權助國道朝臣 以下五人が、一同に相議して云はく。

さんじょうのつぼね たくよろ   なり  くだん ところは  とうじ  じゅうしゅよ  とうほうなり  おおくらていよ  いぬい ほうなり  とうしょは ぶしゅう  ゆず ところなり
 三條局 が宅宜しき也。件の所者、當時の住所自り東方兮。大倉亭自り乾の方也。當所者武州に讓る所也。

おおくらていほんじょなり よっ  さんぬ みそか  か  ところ いっしゅく をはんぬ  しかれども  しじうごにちいぜん   これよ  さんじょ  うつ  せし
 大倉亭本所也。仍て去る晦日、彼の所に一宿し訖。 然者、四十五日以前に、是自り産所へ移り令む。

そ  はばか な   のよし  うんぬん  いがのしろうさえもんのじょうともゆきぶぎょう   うんぬん
其の憚り無し之由と云々。伊賀四郎左衛門尉朝行奉行すと云々。

現代語承久三年(1221)十一月大三日壬子。義時さんの奥さんが産気づきました。しかしお産の穢れと云う差支えがあるので、普段の居所から移った方が良いのか、陰陽師の連中に問い合わせたところ、権助安陪國道さんを始めとする五人が集まって相談の結果云うには、「三条局の家が良い。そこは今の家から東に当たり、大倉亭からは西南の方角です。現在地は泰時さんに譲った家です。大倉亭が本来の家です。そこで、先月三十日にそこへ一泊されました。それから45日以内に、ここからお産する家へ移ります。これは陰陽道での差し障りはありません。」との事です。奥さんの弟の伊賀四郎左衛門尉朝行が指揮担当したそうな。

推理當時の住所は、三条局の西に当たり、大倉亭(分かれ道の当り)の西南。現在地は若見大路北端東側の後の執権邸になり、三条局亭は同地の東側になる。なお、鎌倉での東西南北の表現は、若宮大路を南北として基準としている。

承久三年(1221)十一月大十三日壬戌。室家移産所。三條局云々。

読下し                       しつけさんじょ  うつ   さんじょうのつぼね うんぬん
承久三年(1221)十一月大十三日壬戌。室家産所へ移る。 三條局 と云々。

現代語承久三年(1221)十一月大十三日壬戌。義時さんの奥さんが、お産場所へ移りました。三条局の家です。

承久三年(1221)十一月大廿三日壬申。天霽風靜。寅剋。右京兆室女子平産云々。

読下し                       そらはれかぜし とらのこく  うけいちょう  しつ  めのこ  へいさん   うんぬん
承久三年(1221)十一月大廿三日壬申。天霽風靜。寅剋、右京兆が室、女子を平産すと云々。

現代語承久三年(1221)十一月大二十三日壬申。空は晴れて風も静かです。午前四時頃、義時さんの奥さんが女の子を安産しましたとさ。

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